国税労働運動のあゆみ

 統一の旗をかかげて (その2)

1965年に全国税が発行した小冊子の内容をほぼそのまま載せたものです
以前は最初からずっと同一ページにいれて来ましたが、ずいぶん長くなって
きたので、分割することにしました。(その1)はここにあります。


目次 *原本に変更を加えています 目次は後ろのほうが新しい掲載部分となっていまs

 合理化攻撃の嵐の中で全国単一化達成  完全休養・業務規制闘争−職場闘争
職制抵抗など(昭和32年頃)  職場大会、昭和32年6月頃   宇都宮・千葉闘争 
超勤拒否闘争   昭和33年 単一化を目指して ついに単一か達成 
安保闘争の頃 8/8  安保闘争(つづき)8/13  三池闘争の頃当局の既得権への攻撃始まる 8/15 
第2組合発生など(分裂攻撃のはじまり) 98/08/25  弾圧荒れ狂う 10/17  
学閥署長はこの頃から横柄だった 98/12/5 


合理化攻撃の嵐の中で全国単一化達成

 アメリカの中古兵器による再軍備(M・S・A協定)から、日米軍事同盟
(新安保)体制へ。そして「合理化」があらたな段階に入り、「神武景気」も
つかの間、日本経済は、戦後三度目の恐慌(一九五七年−昭和三二年)に入り、
矛盾が激化し、労働運動は画期的な高揚を示しました。これにたいして狂暴な
弾圧が加えられ、労働者階級は「権利闇争の旗」をかかげて前進し、次第に、
安保闘争にむけて高揚していったのが、この時期の特徴でした。この時期は「
労働運動の曲り角」といわれました。
 アメリカと日本の独占資本は、一九五五年(昭和三十年)二月、日本生産性
向上運動本部を設け、「合理化」をあらたな段階にすすめました。そして、笑
いのとまらぬほど人儲けをし、「神武量気」を謳歌しました。しかし、まもな
く日本経済は、「ナベ底景気」といわれた恐慌の時期を迎えました。かれらは、
国家財政資金によって、独占資本の設備投資を行なうというやり方、すなわち、
国家独占資本主義を一段とつよめました。その一環として、昭和三十二年度に
は、それまで四年間まもってきた一兆円予算の枠をやぶり、「仁徳減税」をキ
ャチフレーズに、「一千億減税、一千億施策」という、二千億自然増収政策を
うちだしました。人事院勧告をカナメ石の一つとする賃金統制、低賃金政策も
一段とつよめられました。そうしてかれらは、経済的土台づくりとともに、「
オイコラ警察の復活」警職法から安保条約改定へとすすんでいきました。
 こうしたなかで、一九五七年の春闘では、国鉄、炭労を先頭に、賃金闘争と
ともに、最低賃金制の確立をめざしてたたかい、労働運動が大きな高まりを示
しました。国鉄の抜打ストも行なわれました。これにたいして、日米新時代と
いわれた岸体制のもとで、アメとムチの石田労政が展開され、政府は、春闘を
理由に、公労協を中心に大弾圧を加えました。この不当弾圧に抗議して、有名
な新潟国鉄闘争がたたかわれました。総評は結成以来最初の臨時大会ひらき、
「権利闘争の旗」をかかげました。一九五八年(昭和三十三年)は、日教組の
勤評闘争・王子製紙のたたかいから、警職法反対闘争へとたたかいは高揚して
いきました。
 独占資本と政府は、占領政策の是正という口実で、国家権力機関の反動的再
編成と、官公庁の「合理化」をすすめてきました。一九五五年十一月にだされ
た公務員制度調査会の「公務員制度改革に関する答申」が、その方向でした。
このときの答申の主な内容は、1公務員は労働者ではない 2忠実義務の明確
化 3、3労職の分離、4職階制の確立、5定年制の制定、6恩給制度の廃止、
7労働基本権の一層の制限(ホイツトレー委員会方式)、8中央人事局の設置、
などで、官公労は、これを「生産性向上運動の官公庁版」とよび、反対してた
たかいました。
 この答申は、一九五六年(昭和三十一年)の人事院勧告によって、さっそく
具体化されました。このときの勧告は一号アップていどの予算で、等級制、俸
給表の分割(行二をつくる)など職階職務給を一段とつよめるもので二九二〇
円ベースとともに職階給がもちこまれたとき(一九四八年)いらいの賃金制度
の大改悪でした。この改悪は翌一九五七年、強行実施に移されました。。その
のちの公務員制度の改革と、ILO八七号条約批准を口実とする公務員制度改
悪案、および、昨年九月にだされた臨時行政調査会の答申の公務員政策の部分
は、このときの答申の方向にそって、すすめられているものです。
 国税庁当局は、他省庁にさきがけて、この答申の方向にそって「生産性向上
運動」「合理化」をすすめ、二千億自然増収をはかるという政策を強引におし
すすめてきました。

完全休養・業務規制闘争−職場闘争

 一九五六年(昭和三十一年)国税庁当局は、二・二五弾圧と課長、係長にた
いする個人別業務命令によって、勤務評定を強行実施したあと、職制の増強と
ともに、徹底した管理者教育を行ない、職制支配を強化し、一切の労働慣行を
破棄し、時間中の組合活動の圧迫、会議室の使用制限など職場から労働組合を
追放し、権力と命令が一方通行の職場秩序の回復と擁立を急ぎ、マワタで首式
の労務管理によって、労働強化、そして徴税強化を押し進めてきました。

(以上98/05/17追加 本文38ページ〜40ページ2行目まで)



その結果、職場の話し合いもできなくなり、職場の団結が弱められ、職場は
次 第に暗くなり、一年中忙しい状態がつくりだされ、年休はとりにくく、超
過勤 務も一般化し、時ち帰り仕事も多くなってきました。
 こうしたなかで、この年、秋から年末にかけて、国税大阪を先頭に、年休完
全消化、超勤はしないという完全休養闘争がたたかわれました。このときの合
言葉は「身体第一、仕事は第二」ということでした。しかし、年を越してみる
と、年休は、平均九日もとり残していることがわかりました。年休がとれない
理由として、仕事が請負的あるいはチーム・ワーク式になっており、成績競争
にかりたてられていること、また職制の眼が光り、監視がつよめられているこ
となどがわかりました。
 そこから、完全休養闘争と仕事を減らすたたかいとを結びつける必要のある
こと、係別職場を基本とする職場のたたかいは、末端職制とのたたかいである
ことが明らかにされ、三定闘争(定量、定質、定時間労働)という合言葉もう
ちだされ、業務規制闘争としてとりくまれるように
なりました。
 一九五七年(昭和三十二年)二月十六・十七日、東京で、「労働強化反対全
国集会」がひらがれ、二百余名の職場代表参加のもとに討論がふかめられ、係
別要求と行動指標が具体的にたてられ、三月一日から、全国的に完全休養、業
務規制闘争にはいりました。
 この年の春闘では、人事院勧告絶対反対、一律二千円の賃上げのたたかいと
ともに、国税大阪の所得税係の日計表を書かないたたかい、国税東京の滞納督
促状発送期限延長のたたかいなど、完全休養、業務規制闘争がたたかわれまし
た。
 第十一回定期大会(五・二九〜六・一)は、これらのたたかいを総括し、「
労働時間を自ら規制する完全休養闘争」と「仕事のしくみを自ら変革する業務
規制闘争」を、あらゆる係別職場で組職し、「職制に文句のいえない職場を、
職制に文句をいわさない職場に変革し、職場の民主主義を確立する」という方
針とともに、つぎの統一指標を決めました。
〔完全休養〕1五時になったら帰る(少くとも五時五分前には諸帳簿はしまう)
、2土曜の半日、日曜、祭日は仕事をしない、3昼休みは完全に休む、4年次
休暇はすきなときにとり、年間消化を図る、5生理休暇その他の特別休暇は完
全にとる、6レク・タイムは、毎月完全にとる、7出勤猶余時間は完全に守る。
〔業務規制〕1成績比べ競争はしない、2ムリな仕事のおしつけは断る、3係
員は職制から、署は局から、局は庁から、仕事の文句はいわさない、4他の局
や暑の到達している労働条件まで追いつく、5持ち帰り仕事はしない、6庁、
局員の接待はしない、7私用はことわる。などで、このほか係別、課別の条件
に応じて、具体的に要求を組職し行動指標をたててたたかうという方向がうち
だされ、たたかいが組職されていきました。
 第十一回定期大会では、完全休養、業務規制は「要求であり行動である」と
考えられました。それがため、拠点職場大会を起点として、たたかいをすすめ
るなかで、行動に偏る傾向がうまれたため、のちには、完全休養、業務規制は、
不服従行動などとともに、職場闘争の戦術であると規定されました。また、職
場闘争は、職制抵抗―職場闘争とよばれ、「係別職場で要求行動を組職して職
制とたたかい要求の解決を図るとともに、職制を無力にし、権利と自由を守り、
職場の団結を固め、職場に労働組合をつくる。このことが生活と権利を守る基
本的要求の前進を意味する」という考え方にたっで、たたかいがすすめられま
した。
 二・二五弾圧以後、当局は、職制を尖兵として、職場から労働組合を追放し、
しめつけ、労働強化の攻撃をかけてきたのですからこの時期に係別、課別職場
で、仕事(労働時間、労働条件)の要求をもって、職制とたたかい権利と自由
を守り、ヒラさんの団結を基礎に、職場に強固な労働組合を築くという方針を
うちだし、たたかいをすすめたことには、積極的な意義がありました。しかし、
「職制抵抗」が目的のように考えられ、「職制を叩けばよい」とする偏向もう
まれました。これは、職制とたたかうことを明らかにしたことには積極的意義
があったのですが、「職制抵抗」を強調するあまり、「たたかいのなかで、職
制も含めて団結し、政府、当局、特権官僚とたたかう」という考え方が、充分
に明らかにされなかったところからうまれたものでした。

拠点職場大会

 一九五七年(昭和三十二年)五月九日、当局は国税大阪本部三役に停職六ヵ
月の不当処分を発令してきました。

(以上98/06/13追加 本文40ページ2行目〜42頁1行目)


「完全体養、業務規制闘争を企画立案した」「機関紙に指令を掲載した」こと
が、処分の理由だというのです。しかし、真の狙いは、完全体養、業務規制の
たたかいや職場の組合活動を抑圧しようとするものでした。
 国税大阪では、五月十八日、一斉職場大会をもって、大衆的に抗議行動を組
織しました。とくに、市都上市支部では、国税大阪組合員、京都総評支援労組
の一五〇名のピケットに守られて、午前十時四十五分まで、職場大会が決行さ
れました。
 そのあとに開かれた第十一回定期大会で、国税大阪にたいする「不当処分、
弾圧に抗議し、二・二五弾圧いらい自らつくってきた行動の限界を突破し、あ
わせて完全体養、業務規制闘争の起点とする」という考え方のものに、全国的
に拠点職場大会を実施することが決められました。六月十三日、国税大阪東支
部、十七日、国税北陸金沢支部、二十二日、国税北海道旭川支部、同日、国税
関信宇都宮支部、二十五日、国税四国高松支部、二十九日、国税南九州宮崎支
部、同ハ代支部、の順序で拠点職場大会が決行されました。このときのもよう
を、国税四国の通信は、つぎのようにつたえてきました。
 「高松支部職場大会成功す、当日は朝早くから例によって、局直税部長を陣
頭指揮として職制警戒班が高松局の周辺をハイカイして警察の私服たちと連絡
をとりながら警戒態勢をしいていた。
 午前八時、友好労組七十余名の動員支援をえて、内部動員六十四名とともに
ピケ体制をとる。官側職制は、出勤時まえから、もう〃退去〃をガナリたてる。
八時三十分頃よりゾクゾクと組合員が集合、局監視班が限を光らせながら無言
のイカクをする。
 職場大会を宣言した。局調査査察部長が、部下の係員を叱達してピケ破りの
先頭になって突撃してきた。ガイ袖一しょく、モロクも後退「ピケを退かなけ
れば警察官を要請します」(通告するや、警官八十名が計画どおり現われる。
警官の姿をみた組合員は全く憤激「これが徴税権力の実態か」「われわれの要
求や声をふみにじって、オマケに警官を呼んでコン棒をふるうとは何ごとだ」
「もう仕事はしないぞ」怒声がとぶ。納税者は「税務署は警官を呼んで税金を
とらせるのですか」と組合員に聞いている。県評や応援にかけつけた単組代表
から激励の言葉がある。全員拍手で答える。こうして「大巾。賃上げ、職階制
賃金打破、労働強化反対、不当処分撤回」等の大会決議、抗議文を採択して万
歳三唱で大会解散。時に九時四十五分。
 ピケを解いて、そのまま署長抗議に入る。総務部長が局から応援にかけつけ
る。署長の権威は全くなく、局の命令に唯々諾々と従うだけ。暑長の無能力性
が完全に露呈された。こんな署長の下で今まで黙って働いてきたことに腹が立
つ。終日署長交渉をもつためにもんだが遂に交渉に応じない。
「日頃職員のため」といっていた署長も、本当の姿がこれであった。〃交渉拒
否〃これほど組合員を侮辱した行為があるだろうか。
〃あくまで追及する〃の決意を新たにして怒りのうちに解散。直ちに職場の要
求と行動の積み上げに着手した。
 国税四国は長い沈滞を破って、職場大会をかちとった。
 こうしたなかで、七月二十一日、一局十一署による国税東海の結成と全国税
加盟をかちとったほか、組織の拡大強化がすすみ、地域組織への加盟など共闘
の拡大はいちじるしいものがありました。
 八月二十一日、国税庁当局は、拠点職場大会を理由に、首切り五名(坂根茂、
西川富雄、熊沢道夫−以上中央本部、松岡寛−関信、高田実夫−大阪)をはじ
め二百八名の大量処分をもって、大弾圧を加えてきました。
(98/06/13追加 42〜43頁)



ののち国税庁当局は、「免職者が役員であること」を理由に、中央の団体交渉
を一切拒否してきました。また、熊本国税局では、遠山間税部長(現国税庁審
議官)が中心となり、「全国税は容共」のアカ攻撃とともに、暴力的に組職破
壊攻撃を加えてきました。十一月十五日、在任わずか一年で、渡辺喜久造長官
のクビがとびました。

宇都宮・千葉闘争

 六・二二職場大会以降、宇都宮支部では、全国税本部、国税関信のオルグの
指導のもとに、完全休養、業務規制闘争にはいっていきました。係毎の話し合
いによって、係別の要求、行動を組職するとともに、女子職員に爪を切らせる
など、職員を私用に使う反動的な塚越署長の追放をめざしてたたかいました。
 宇都宮でどのようにたたかわれたか、当時宇都宮から、下館の仲間に送った
手紙には、つぎのように書かれています。
 「おどろくことは、職制が局員に抱き込まれたのか全く反組合的であること
です。七月に転勤してきたA君に課長はこういいました。〃係員が話し合いだ
といって集っているが、あんなのに巻き込まれないよう・・・&渠C任第二日
目に出張を命じ今日から四日間出張するが五時になったら出張先から自宅へ
帰ろよう〃と、話し合いの機会をもたせまいとしました。
 七月八日、某課長は局員二名と係長との四人で、係員をー人一人呼びだし〃
統一行動通告書〃へ署名押印したことを取調べ、つるしあげました。
 そんななかで、支部員はどうしたかといいますと、執行部の献身的な努力は
すごいものでした。毎日、毎日、早朝にきて機関紙をくばり、昼休みには食事
をしながら討論しあい、退庁後は拡大執行委員会とか、ガリ切りに時間を捧げ
ました。そしてみんなが頑張りました。昼休み全員が中庭で労働歌を高唱し、
ジグザグデモをやったこと、局員、課長と口をきかない統一行動、小使さんも
交換手も、みんな塚越署長追放の腕章をつけた等々一つ一つ目覚しい前進でし
た。
 団交の場では女子職員も鋭く発言し、署長を追及していますし、お茶代支給
まではと、所得係や源泉係が、白湯を呑んでガンばっています。法人は配分し
てきた旅費を六月以降課長につきかえし、旅費超勤のパーを主張し続けていま
すし、総務も徴収も間税も、これらに負けずそれぞれの仕事をより楽しく明る
くできるように話し合いが行われ、要求を提出し、職制抵抗がなされています。
この係別の要求にたいして、官のボロがでるのを恐れ、七月二十九日、交渉の
方法、内容にナンクセをつけて団交を拒否しました。
 そのご官側の態度はガラリと一変しました。
 いま、支部では単独の署長交渉も開いたし、係別の話し合いによる解決をも
とうとしています。署名、ビラマキも県労連と手をつないでやっています。関
信の多くの仲間や国税東京、大阪、遠く北海道や南九州から仲間がやってきた
り、激励文、激電が続々と寄せられ、宇都宮は、決して孤立していないんだ、
みんな宇都宮を見守り共に闘っているんだと自覚し始めました。職場の中では
〃俺たちは正しい闘いをしているんだ。俺たちのしたことは間違っていなかっ
た。処分などされる理由など考えられない〃といい切る人を見ることができま
す。
 一々比較すれば、強い係、弱い係があるでしょうし、日和見的な人もありま
す。だが職制を除いてほとんどは、ガッチリ腕を組んで今日も高らかに歌って
います。
(98/06/27追加 44〜45頁)



この頃、国税関信は、官側バッチの返上闘争を展開していました。宇都宮闘争
は、このたたかいをはげまし、またこのたたかいに支えられて、発展していき
ました。
 宇都宮支部は、八月十ニ日、たたかいの中間総括をおこない、完全休養、業
務規制を主とする総点検闘争のなかで、職制執行部に牛耳られ無活動状態だっ
た職場から、団結意識が高まり、職場大会がいつでもひらけるような活動的な
職場に変り、共闘も前進したことなどを評価し、また、計画性と組織的活動の
不充分さなどを明らかにし、秋から年末にかけて、たたかいを強化する方針を
確立しました。その直後、支部長、書記長に停職六ヵ月などの、八・二一不当
弾圧が加えられました。
 その十日後に、塚越署長は追放されました。
 千葉支部は、十月十二日、不当処分に抗議する職場大会を起点とし、係別職
場を基礎とする職場開争を組職してたたかいました。これにたいして当局は、
督戦隊を派遣し、中心的幹部二名(岡島智康−千葉地協副委員長、春日高同書
記長)を不当解雇し、署長をとりかえるなど、して、弾圧と切り崩しをはかり
ました。千葉闘争では、それ以前の闘争にくらべ、警官が常時介入し、熊沢中
央本部オルグを逮捕するなど、オルグを庁舎、構内から徹底的にしめだしたこ
と、また、傷害事件をでっちあげる(矢代順一郎君)など、職場の組合活動を
抑圧するために、官憲の弾圧が激しく加えられたことが特徴でした。
 こうしたなかで、千葉支部は、徴収、管理を先頭に、係別の話しあいを行な
い、仕事、出張、旅費、超勤などの要求を組職し、年休消化、宿日直拒否、超
勤拒否、腕章戦術などをもって、長期にねばりづよくたたかいました。日刊紙
が発行されてたたかいがすすめられ、活動家が多数うまれて活動しました。
 しかし、宇都宮、千葉のたたかいは、たたかいの高揚、労働条件の改善、職
場の団結強化、全休のたたかいへの大きな貢献、共闘の拡大などの前進にもか
かわらずやがて支部自体としては活動が停滞し、沈滞した職場に変っていきま
した。このことは、たたかいは不均等に発展するものであり、先進部分は、全
体を前進させるうえで、大きな役割をはたすものであるが、敵と味方の全体の
カ関係をはなれて、先進部分だけがどこまでも前進することはできない、とい
うことをおしえました。ここから、職場闘争だけというたたかい方は不充分で
あり、職場闘争と統一闘争が、正しく位置づけされ、むすびつけて組織されな
ければならないということが教訓として導きだされ、方針が強化されていきま
した。

超勤拒否闘争


従来超勤手当は、協調的にパー(金額または時間)配分されている職場が多
かったが一九五七年(昭和三十二年)八月頃から、関信局を皮切りに(しんが
りは国税中国)超勤の実績がなければ支給しないという攻撃が加えられ、九
月十七日には「官庁綱紀粛正に関する総理大臣談話」が出され、職場秩序の
確立などとともに、超勤実績支給がうちだされ全面的に実施されました。全国
税本部は、「超勤実績支給、職制支配の強化、職場の団結破壊、超勤体制を
しくもの」とうけとめ、不当処分撤回、賃金引き上げ、労働軽減をめざして、年休
消化とともに、超勤全面拒否でたたかう方向を明らかにしました。
 この年十一月、国税東北秋田南支部で、典型ともいうべきたたかいが組織
されました。
 一九五八年(昭和三十三年)二月一、二日全国職場代表者会議がひらかれ
東京で、四百余名参加のもとに、討論を行ない、1 大衆のたたかうエネルギー
に無限の信頼
(98/6/28追加 46〜47頁)



をよせ、今後大衆の意識が低いという言葉を棄てる、まず、自分が職場闘争の
核となり、係で、課で、支部で、話しあいを起し、たたかいの先頭に立つ、出超
勤拒否と手当返上をもってたたかう、などの意思統一を行ないましたo
 こうして、三十三年春闘、税繁期は、多くの職場で超勤を拒否し、手当を返上
するというたたかいが組織されました。このなかで、栃木支部などでは、納税者
に「所得税の自主申告」をうったえる行動とむすびつけて、完全超勤拒否がたた
かわれました。
 二月十二目、国税大阪岡田禎勝執行委員が逮捕され、「所得の効率表、標
準率表を部外者にみせた」ということで、いわゆる国公法百条(秘密漏洩)事件
がデッチあげられました。同じ日に、国税中国に、さいごの超勤実績支給の通
告がなされました。国公法百条事件は、五八年春闘、税繁期のたたかいにた
いする、先制的な弾圧であったといえます。
 浪速支部などでは、組合員一人に、警官七、八人がついて仕事をやらせるな
ど、かってみない弾圧体制がしかれました。また、この年の春闘、税繁期のた
たかいにたいし、国税庁当局は、免職三名(石川和男-関信本部 中谷恒男-
灘支部、毛受典英-東海本部)をはじめ、五
十二名におよぶ弾圧不当処分を加えてきました。しかし、国税労働者は、身上
申告書記入拒否、勤評阻止闘争へと前進していきました。
 この超勤拒否闘争は、職場闘争として組織されながら団結を守り超勤体制阻
止のために編みだされた、秋田南支部の「手当返上」という職場闘争の戦術を
、条件を無視して、全支部に画一的に指示するという、中央本部の指導上の誤
りがうまれました。
 これらの経験から、「超勤」をめぐるたたかいは、1.超勤絶無の体制をつくる
(時間短縮)、2.必要最少限の超過勤務は労使協定(労基法三六条協定の考
え方)による体制をつくる(権利闘争)、3.やむをえない実績以外の予算はパ
ーで配分させる(賃金闘争の一部)、という
方向で、たたかいをすすめる方針が確立されていきました。
 この年の四月、全国税は、国税庁当局が、指導して、ピールの酒税四億円
(罰金をふくめると四〇億円)の脱税をさせていることをつきとめ、北島長官に
質問状をだすとともに、問題を国会に持ち込み、社会的にも発表しました。国
税庁は、本税だけを追徴し、長官と間税部長(泉美之松−現主税局長)は、
大蔵大臣から「訓告」という処分をうけました。八・二一不当処分いらい、一貫
して中央団交を拒否していた当局も、このときには免職者を先頭とする会見に
すすんで応じたものでした。

単一化達成

 
 全国税職員労働組合は、局毎単一組織の集った連合体でした。それが、
たたかいの発展のなかで、組織の拡大強化がすすみ、勤評闘争のときには、
.事実上、単一組織の機能と役割を果して全国統一闘争がすすめられるまでに
前進しました。こうしたなかで、一九五六年(昭和三十一年)の第十回定期大会
は「昭和三十三年の定期大会を目途に組織を単一化する」という方針を決定し
ました。
翌年の第十一回定期大会では、組織綱領委員会と単一化促進委員会の設置
を決め、具体的なとりくみをはじめました。綱領委員会で、あたらしい綱領案が
作成されました。また、三回にわたってひらかれた単一化促進委員会の討議を
於て、単一化の基本方向と具体的段取りの原案が決められました。1.単一化
は、企業内「職員組合」から階級的労働組合へと変革していくたたかいである。
たたかいのなかで単.一化をかちとっていく、2.組織形体は、
・係別職場はたたかいの基本であり、職場委員を確立する。分会は職場闘争
の実践単位にする、・支部は単位組織で中央直結とし、各支部に専従者をおく、
・局毎に支部の連合体(地連)をつくる、・局毎の企業組織を解体し、個人加盟の
単一体とする、・免職者を含めることを規約上明確にする。・この組織運営を保障
するため全国単一財政とする、・国公労働者の産業別統一組織に結集をはかる
、などを基本方向とし、各支部、地協、単組がたたかいのなかで組織強化をすす
めるとともに、単一化についての大衆討議と機関決定などを行ない諸準備をすす
めました。
 当局の単一化妨害は激烈をきわめました。とくにこの年十月西の国税大阪執
行委員長大石七郎氏に対し三年も前の汚職容疑で起訴、東では官制球技大会
反対闘争を闘った仲間二名(岡島智康-国税東京、石川和男-国税関信)に処分
と、刑事弾圧を加えてきました。また「時期尚早論」など内部にも若干の意見の
違いがありました。一九五八年、第十二回定期大会では準備不足のため、臨時
大会を開いて単一化することが決められました。
(以上98/7/15掲載 48〜49頁)


 単一化を行なう第十三、十四回臨時大会は、同年十二月二十二日から二十五
日の四日間東京で開かれました。
しかし、この大会に提案すべき、たたかいの総括について中央執行委員会で一
致した見解がえられず、中央執行委員会は総辞職するという事態がうまれました
が、代議員の熱意と議長、議運委員長の努力によって、単一化が達成されました。
このことは、単一化の条件がすでにつくりだされていたことを示していたといえます。
代議員の提案によって総括と春闘方針が決められたあと、綱領
規約、予算が決められ、議運委員長から結成宣言が提案され、全国税労働組合
が誕生したのでした。
 しかしながら、中国、南九州、北海道はこのとき単一化に結集できませんでした。
その後、分会、支部、地連組織を確立し、名実ともに単一組織としてうち固めて行く
たたかい、単一体に結集できなかった単組の全国税加盟をかちとるたたかいにひ
きつづいてとりくむことになりました。また、免職者をふくめて「国税関係労働者をも
って組織する」と規約に定め、団結権を守るたたかい
を一歩前進させ、たたかいをすすめていくことになりました。
 国税労働者は、二・二五弾圧以後の一時的停滞をうちやぶり、しめつけ、労働強
化に反対して、職場からたたかいにたちあがりました。これにたいして、たび重なる
弾圧が加えられ、役員のなかに免職者がいるという理由で、中央の団体交渉は、
そののち一切拒否されました。
 また、刑事弾圧もはげしく加えられました。しかし、国税労働者はこれにひるまず、
不当処分の撤回、労働基本権奮遠の要求をかかげ、「生産性向上運動」に対決し
戦闘性を発揮して、職場でたたかいを組織し、組織の強化をすすめ、地域共闘を拡
大し免職者を正規の組合員に加える規約を定め、団結権を守るたたかいで一歩前

進しながら、全国組織の単一化を達成しました。しかしこの
時期のたたかいには、「企業組合」から「階級的労働組合」へと脱皮していく「運動
の曲り角」でもありましたが、いろいろな不充分さ、偏向、誤りなどがうまれました。
 これらは、主として真の敵が誰であるかが明らかにならず、また、統一戦線に結集
していくという観点が、明らかになっていないところから生まれたものでした。これら
の欠陥は闘いのなかで逐次克服されて行きました。
(以上98/7/18掲載 50頁)


安保闘争を闘い国税中国の加入運動へ


 この時期は、勤評反対闘争、警職法反対闘争にひきつ
.づいて安保反対の大闘争が組織され、日本の労働運動と
政治闘争が歴史的な発展をしめした時期でした。そして
そのなかで公務員労働者は賃金闘争や祉会保障闘争、権
利闘争に新しい力をもって立ち上がり、国税労働者のた
たかいも組織を強化し、大きく前進をしめしました。
 しかしそのたたかいは、反動的大蔵官僚による国税庁
当局のきびしい弾圧と、組合否認の攻撃にたちむかいな
がら行なわれ、必然的にいくつかのはげしい激突をおこ
しました。
 当局は、一九五九年(昭和三十四年)には十三名の懲戒
免職処分を含む大量の不当処分を発令しましたが、このこ
とは以前にも以降にも例をみないものです。当時の長官は
北島武雄(現在、北海道・東北開発公庫総裁)でした。
 労働者、国民の中心的闘争であった安保改定反対闘争
は、一年半にわたって展開されました。一九五一年(昭
和二十六年)に日米軍事同盟である安保条約が結ばれまし
たが、それ以降、日本の独占資本主義の復活強化とアジア
情勢のはげしい変化、核兵器の発達によるアメリカの戦略
体制の変化などのために、日本独占資本は対米従属のもと
で、日本の再軍備を一層進め、帝国主義的復活を一層促進
する目的で、一九六〇年(昭和三五年)に米日支配層のあい
だで、日米安保条約の改訂が計画されました。
(以上98/8/8掲載 52頁3行目まで)


 この日米軍事同盟の強化に反対するために立ち上がった
この闘争は、警職法闘争が終わった瞬間から開始され、
2000万人の署名、23次にわたる大統一行動とそして3回に
わたるゼネストと連日、昼夜にわたって集会デモが展開され、
労働者をはじめ学生、大学教授、芸術家、市民、婦人、中小
商工業者、農民を結集しました。
 そして、この戦いはついにアイゼンハワー米大統領の来日
を阻止し、岸内閣を打倒しました。しかし
安保条約は批准されましたが、日本の民主主義を守る運動
と安保条約をあくまで廃棄することの自覚は高まりました。
 国税労働者はこの安保闘争に参加し地域の安保共闘を
組織化して活動し、国公労働者の統一職場大会などで統一
行動の中心として活動したところも多くありました。
 仙台においては仙台高等裁判所の玄関前で統一集会を組
織し、その指導に当たった坂根中執、手塚東北地連副委員
長ほか全司法、全農林、、学生が刑事弾圧を受けました。
 全国の各職場では早朝職場大会を税務署玄関前で行い、
8時45分の出勤時間を突破して9時ごろまで行われたのもこ
の時でした。中央官庁街には統一行動のたびに、赤旗がな
びき、5月19日に衆議院でクーデター的やり方で強行採決が
行われてから6月中旬までは連日、深夜までデモ隊のシュプ
レヒコールと歌声が国会周辺に響き、大蔵省・国税庁内にも
毎夜届きました。大蔵ビル4階の全国税本部事務所からは赤
旗を掲げてこたえたものでした。
 安保闘争で中核として指導的役割を演じたのは労働者階級
でした。また安保闘争の統一を指導し推進したのは、安保改
定阻止国民会議でした。社会党、共産党、総評、全日農、す
べての安保反対勢力が結集して組織されました。全国で
2,000以上の地域共闘会議が組織され、統一戦線の母体とな
る重要な役割を果たしました
 この時期に南朝鮮では李承晩が打倒され、トルコでもメンデ
レスの独裁政権が打倒され、安保闘争は、国際的な反帝国主
義闘争の一環として全世界の民主勢力からも高い評価を受け
ました。
(以上98年8月13日掲載 53頁)


 安保闘争と並んでたたかわれた三池炭鉱の首切り反対の闘争は、
これまでの労働運動になかったような大闘争に発展しました。
 これは安保改訂とともに日本の産業を再編成し、合理化を強行し
はじめたのです。合理化政策の第一の攻撃目標に選びだされた三
池炭鉱はもっとも戦闘的な労働組合で、四〇〇人の職場活動家を
「生産阻害者」といって指名解雇するという政治的ネライをもってい
ました。
 三池労働者は全国の職場からかけつけた三七万の労働者の協
力をうけ、海外の労働者をも含めて二〇億円にのぼる闘争資金カン
パに助けられて闘いました。
 全国各地に「三池を守る会」がつくられ国税の職場にもできました。
そこから三池の現地に出かけ、ヘルメットと大きなパイプを身につ
けて帰ってきた仲間たちが職場で現地の闘いを報告、支援体制を
固めて行きました。
 しかし、支配階級は総力を結集しておそいかかり、ついに千二百
名の指名解雇をのんで闘争は終結せざるをえませんでしたが、そ
の後の職場は「去るも地獄、残こるも地獄」といわれ、組合は分裂
させられ、賃下げと労働強化をもたらし、のちに四五〇名の生命を
奪う大炭塵爆発を引き起しました。
 労働者は無抵抗でいると生命まで奪われてしまうとい。
うことを物語っています。三池の第一組合は少数派に押しこめられ
たとはいえ、きびしい差別待遇と労働強化、首切りと組合破壊の攻
撃にたいして組合をまもり、真の統一を回復するために不屈の闘志
をもやして、いまもたたかいづづけています。

組合否認にたいし団結権を守る闘い


 全国税職員労働組合から全国税労働組合へと全国組織を単一
化した全国税は組撒的にもあらたな発展の時期でした。
 単一化後速やかに人事院登録の手続きをとり、春闘に立ちむか
おうとするとき、人事院は「被解雇者を組合構成員とし役員にして
いることは国家公務員法に抵触する」として団体登録を却下して
きました。
 時を同じくして庁当局も「全国税は非合法組合」だときめつけ、
一切の団体交渉と、要求書のうけとりすら拒否し、これを皮切りに
いくたの既得権の剥奪をはじめてきました。全国八地違、四十数
支部の一〇〇名近い組合専従者にたいしても専従休暇を否認し
てきました。全国税は既得権を守り、組合否認を撤回させ、労働者
の団結権と労働基本権を守るために闘いに立ち上がりました。
 春闘の要求であった税繁期労働強化反対、年度末一時金要求
や身上申告書、勤務評定反対とともに結社の自由、労働組合の
自主権をかかげて、二月から夏頃まで統一行動を展開しました。
 事務室や職場の机の上に県支部の存在を明らかにした三角
錐や看板を立てていたとことでは当局が撤去要求を出し、組合
はこれを守るためにたたかい、攻防のすえ当局が夜中にこっそ
り持ち逃げするなどしてこれを奪っていきました。

専従者は当局の専従不許可と職場復帰命令に対しては「欠勤届」
を送付し、人事院への公開質問状を、当局への交渉再開要求を出
して専従を続けました。
 庁当局の亀徳総務課長は中央本部に異例の話し合いを申し込み
「欠勤届け出を出してことが済んだと思ってもらっては困る、基本的
な問題(規約、役員)を解決してくれ」と申し入れてきました。
 人事院は全国税の公開質問状に対して「国家公務員法は役員の
みならず、組合員のなかに非職員を含めることを禁じている」、「憲法
第21条、28条に反するものではないし、ILO87号条約が批准されても
国公法、人事院規則を改正する必要はない」と挑戦的に回答してきま
した。
 当局側は当初相当足並みが乱れ、対策に困っていましたが、大蔵官
僚はひざ元で自らが首を切った人たちを認めるわけにはいかず、また
日本の労働運動における権利拡大の突破口になることを恐れ、全国税
の破壊、分裂への弾圧方針を強行する構えを見せ、人事院に圧力をか
けて挑戦的な回答を出させたのでした。
全国税は四月に100余名のオブザーバーが注視する空前の集まりの
中で第15回中央委員会を開き、あくまで団結権を守って闘い、専従等の
行動は情勢に応じて柔軟に進めるよう意思統一し、八月の全国大会ま
でこのたたかいをつづけました。

(以上98年8月15日掲載 56頁3行まで)


そのなかで抗議行動、職場大会、休暇闘争を行い、石川、新潟、大阪等
では、はげしい職場闘争を展開しました。
 第三〇回メーデーには各地で全国税支援の決議をうけました。また単
一化による組織整備をおこない、ひきつづき東北、静岡、兵庫等で新しい
分会を組織していきました。
 単一化にあたって未加入となった北海道でも七月の臨時大会で全国
税加入を討議し、九月加入をきめました。こうしてむかえた第十五回大
会は内外注視のなかで、戦術転換を含むあらたな方針をつぎのように
うちだし、体制を再確立することになりました。
 1、「非合法」「組合否認」と非妥協的原則的にたたかいぬいてきたこ
とによって「結社の自由」「労働組合の自主性」さちに労働基本権をめ
ざすたたかいの目標が逐次うちたてられつつある。国公労働者はもと
より、労働者階級全体の権利闘争の旗を一歩すすめ、国際的にも反響
を呼んでいることも見逃せない。
2、しかし春のたたかい全体が、この問題にふりまわされ組合員の切
実な要求にもとずく諸闘争め組織が不充分となった。
3、労働者階級は権利闘争の面でも前進しているが「被解雇者を組合
員にする」ことを規約上明らかにし、当局に通告している組合は他にな
く、孤立する。組合員も権利息繊はすすんでいるが「非合法も辞せずに
たたかう」との決意に大多数がなっていない。
4、賃上げ、合理化反対、社会保障確立、権利擁護の闘争のなかで団
結を強め、権利を守り、統一と団結を一層強固にするには、どうするの
が有利か判断して戦術をとる。具体的には戦術転換し、全国税が人事
院に登録を受理され団交、専従が法的に保障される条件をつくる。その
後動力車、全逓等で解雇者を守り、IL0八七号条約批准の闘争が急速
に全体化し、発展していったが、全国税はその先駆者であったといえま
す。

第二組合の発生

 全国税の単一化により国税労働者の団結が一層強まるのを恐れた当
局はあらゆる手段をつかって弾圧を始めてきましたが、とりわけ分裂工作
を公然と始めてきました。この御用を勤めたのが、分裂主義者宮沢源治
(現在東京病院協会事務局長)、中沢保二(現在国税会議議長)、斉藤稔
(現在和歌山副署長)らで、彼らは東京国税局を拠点にして分裂組織をつ
くってきました。
 一九五八年夏頃、全国税の単一化が具体的な問題となり各支部で討議
が進むにつれて、局支部では、宮沢支部長、斉藤書記長らが中心となり、
全国税の単一化に反対して全国税の綱領、規約、方針を技判するグルー
プをあつめ「政策研究会」なるものをつくり、反組織的な活動をはじめまし
た。しかし国税東京臨時大会では圧倒的多数で単一化方針を承認し、全
国大会に結集しました。
 彼らは局支部をそのまま残し、いよいよ分裂組織化にのりだしてきました。
 一九五九年(昭和三十四年)一月十四目局支部大会を前にして全国税本
部と東京地連の再三にわたる話し合い、そして1.全国税との統一の方向
を明らかにする 2.名称を変更しない 3.組合費値下げは行わない、とい
う三項目を大会で処理するよう申入れたことも拒否し、「単一化は必要だが、
局職員を組合員としてまもって行くためには今すぐ全国税に参加することは
まずい、一時全国税と別の組織をつくる。そのため今までの局支部を東京
国税局労り組合と名称変更する」ことを大会で決めさせました。事実上、組
織的に第二組合が発生したのはこのときからです。
 その後、彼らは当局のテコ入れによって各署に第二組合をデッチあげ、分
裂主義者としてだんだんその役割りを深めていきました。五月には全国税に
たいして「経済要求に否定的だ」「組合費が高い」「非合法団体」などと誹謗を
はじめ、「第二組合は全国税に加盟しない」ことを決めました。これは、当局
が全国税の組合否認のなかで弾圧をはじめたときでした。中沢ら分裂主義
者のやり方は、各署にでかけて署長以下職制とともに、全国税からの脱退
強要、組合員を権力でおどすなど目にあまる不当労働行為を行い、法人会
館などをつかっての第二組合の結成を行い、しまいには、なんら大会も開か
ずに、第二組合の結成と役員名をピラで発表するだけでした。 当時、いわゆ
る「黄色いパンフ」が職制の手によって全国にぱらまかれました。それには、
全国税単一化と、そめ後の闘争について日本共産党本部の指令でうごいて
いるという、でたらめなアカ攻撃が羅列してあり、全国税攻撃の手本としたの
でした。
(以上98年8月25日掲載 58頁2行まで)



 そして、国税東京共闘会議をデッチ上げ、他の第二組組合、教団連(教員の
第二組合)などと一緒に公務員組合主義同盟なるものを発表しました。それは、
分裂主義者の集りであり、後に同盟会議、民社党につながっていきました。.
 しかし当局や分裂主義者が安易に第二組合を組織できたのではなかったの
です。権力を総動員し職制支配の力によってのみやりえたのです。彼らには大
きな弱点があります。
 当初、局では組合員の中に別組織をつくり、これ.をひろげていくことに多くの
批判意見が出され、一挙に東京全体の第二組合をつくるという、彼らの計画を
ざせつさせました。また歴史的な安保闘争が発展し、公務員の賃金闘争が前進
し、高揚した時期には、第二組合員は.よろこんで全国税か行う署名カンパに協
力しました。第二組合幹部、悪質職制は全国税にたいして政治闘争偏向とかア
カ攻撃もできず、第二組合は有名無実の状態、「危機」におちいったのです。
 分裂のために働いた人たちが栄転や特昇をするのをみて、職場の人たちから
そっぽをむかれたり、宮沢源治や中沢保二と斉藤稔ら、そして当局との間で意見
の対立が出はじめました。のちに宮沢は辞職して医療労働者を分裂させる仕事
に転落してしまいました。
 つまり、組合員大衆を正しく把握し、大きな統一行動と民主勢力の統一が進む
ならば、当局や分裂主義者をおいつめ、孤立させ、分裂から統一に回復すること
が必ずできることを教えています。

南・此花闘争


 組合否認、権利剥奪の攻撃にたいして、全国的に権利を守り団結権を守るたた
かいを展開しているさなか、近畿地連南分会と此花分会では、当局と激突があり
ました。組織否認反対“勤務評定反対を目標にして行動を展開し、一九五九年
(昭和三十四年)メーデーで地域の労働者にアッピールしました。
 その同集まった労働者は国税労働者の闘いを支援して反動的な職制がいる大
阪の中心署、南税務署長に抗議するため南署に結集しました。これに対して当局
は、団体交渉はおろか、抗議もうけつけず、機動隊をくり出して抗議団に挑発をか
け、職制には暴力をふるわせて、刑事件をデッチあげました。
 組合は当局の弾圧にいかりをもやし、五月十四日に、此花、茨木、住吉、生野の
各職場で、地域労働者市民の支援のもとに抗議集会、交渉をつづけました。「勤評
つけるな」「団体交渉に応じろ」「組合を認めよ」等の要求で集った労働者にたいし、
当局が答えたのは計画的な弾圧でした。玄関口に官側ピケをはったり、交渉に応
ずると見せかけて一室にカンズメにして、警官を入れて暴行をはたらき、ボタンが
とれたとか、仮病までっかってデッチあげを行い、大阪全管署長会議で十分準備を
ととのえた一カ月後に免職五名、停職七名、減給八名、戒告六名名と大量の処分
をかけ、一方では九名の仲間を暴力事件の被疑者として検挙しました。
 三日後に組合は処分反対の抗議職場大会、ひきつづいて約1000名の組合員
が局長と府警本部に抗議し、解雇者は家族とともにみんなと固く団結して活動を展
開しました。
 当局は全国の二つの拠点、東京では第二組合をデッチあげて分裂させ、大阪では
大弾圧をもってたたきつぶし、全国税の闘争を圧殺し、徴税合理化を進めるハラであ
ったのです。
 この事件は、その後法廷闘争のなかで当局の陰謀をはげしく追及し、三年後の第
一審判決では四名の無罪をかちとりました。その判決の内容は、「労働組合の代表
に誰れを選ぶか、労働組合に誰を入れるかは労働組合に加入している労働者自身
が自主的に決めることであって、当局が干渉すべき筋合いのものではない」「免職者
がいることを理由に団結権そのもの、団結体そのものの存在を否定し、一切の団交
を拒否することは違法である」と組合の主張を認め、庁当局の不当な労務政策を手
厳しく非難したものでした。勤務評定についても「団体交渉の議題になりうる」とし。
「1免職者を断交に参加させない 2団交議題の制限 3退去要求の乱発 4署長、
総務課長らの労務管理の行過ぎ、不誠意な態度」について反省を促すものでした。
  この内容の部分は画期的な意義をもつ判決でした。
(以上98年10月17日掲載 60ページ2行目まで)


中村・新居浜闘争

 全国税の単一化とともに職場では、職制執行部からヒラさんを中心にした組合に
つくりかえられていきました。
 「職制にオイとよばれてヘイと答えていたのが昔の職場だった。いまは違う。職制
がオイといえばオイと怒鳴りかえす。それどころかむしろ職制の方がへイコラとなる」
状態をつくり、悪質な反動署長と学閥署長にたいする闘いと配転闘争を職場で、地
域労働者とともに闘い、庁当局をふるピあがらせたのが、四国の中村・新居浜分会
における職場闘争でした。
 新居浜には、沢野潤という学閥署長が、この地域の住友財閥の擁護と特権コース
の道順として配置されていました。彼は、「俺は本省採用だ」と威張りちらし、五十男
の総務課長にチキンライスを取らせたり、酔って料理屋の女将を「税金でつぶしてや
るぞ」と脅迫したり、組合対策についても、例えば六月二十五日の安保阻止統一行
動「九時までの職場大会」にたいして、みずから八ミリカメラで撮影をするなどの反動
ぶりを示しました。組合は「学閥反対」でたち上がり、税繁期の労働強化の問題、身
上申告書の記人強制の問題、仕事のいやがらせなどに反対して闘いました。職場
大会などの妨害についてもその都度察団で抗議し、全員が団結していきました。
 中村分会でも所得税係の仕事の件数について要求してたたかったり、統一行動を
妨害し、処分のネタ探しをやった職制に抗議し「詫状」をかかせるなど分会の団結を
固めていきました。
 七月の定期異動で当局は、中村に、かつて愛媛支部書記局の書箱や机を実力で
撤去したり、全国にさきがけて謄写室にカギをかけたり、組合弾圧に狂奔する四国
きっての反動的な清水定市を署長として配置してきました。
 新居浜では、沢野が大蔵省銀行局にかえり、ひきかえに西野襄という、東京局総
務課で組合弾圧、分裂策動をやってきた学閥を配置してきました。
 中村では、清水のいままでの罪状を追及し、新居浜では「学閥弾圧署長反対」の
たたかいへと発展していき、.署長着任拒否の行動が職場で、地域の労働者、市民
の支援とともに展開され、玄関前でのピケ、出張拒否、あいさつボイコット、口をきか
ない統一行動が連日つづけられました。また「プラスアルファ二十時間と超勤手当の
パー配分」「レクタイムの拡大」など職場の要求を出して認めさせました。
 署長は赴任期間が過ぎても署に入れず、警察に逃げ込んだり局、庁との対策会議
をつづけましたが、半月もすぎると局から督戦隊を送り込み、警察と組んで弾圧にの
りだしてきました。
 当局のデッチあけで宮崎中村分会書記長を逮捕し、職制の入れかえをはじめ、さら
に分裂策動まではじめてきました。
 徹底的な全国税のヒボウをながし、局で植村らの分裂主義者をつかって分裂の火
の手をあげさせました。しかし、反撃にあって失敗に終ると、十月五日免職六名、停
職七名、減給七名、戒告四名という大量の処分を発令してきました。
 当局は「税金がとれなくてもよいから徹底的につぶせ」と通達したのでした。当時
読売新聞でさえこの闘争をくわしく報道、「強硬処分」だと批判的にかきました
組合は直ちに反撃行動にうつり、鉢巻、ビラ貼り、組合旗揚楊、全員交渉、九時まで
仕事しない、坐り込み等創意的な行動を組織し、四国各県の地評、国公も大小の
集会をひらいて抗議しました。
 中村、新居浜の職場闘争は「365日ドントこい」とも言われた輝かしい闘いですが、
職場闘争と統一闘争との関連結合、職制対策、全体の力関係のなかでの戦術等に
ついて不充分な指導があったことがその後の中央委員会で討議されました。
(以上98/12/5入力 62頁12行目まで)


テキスト化の記録

98/3/19現在 9/85頁まで掲載  98/3/21現在 11/85頁まで掲載  98/3/21現在 13/85頁まで掲載
98/3/26現在 15/85頁まで掲載 98/3/27現在 17/85頁まで掲載   98/4/10現在 19/85頁まで掲載
98/4/10現在 21/85頁まで掲載  98/4/10現在 23/85頁まで掲載  98/4/11現在 25/85頁まで掲載
98/4/25現在 27/85頁まで掲載  98/4/25現在 29/85頁まで掲載  98/5/3 現在 31/85頁まで掲載
98/5/4 現在 33/85頁まで掲載  98/5/5 現在 35/85頁まで掲載  98/5/16 現在 37/85頁まで掲載
−−−−−−−−−−−−−−−ここから上はその1にあります−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
98/5/17 現在 39/85頁まで掲載、98/06/13 41/85掲載、98/6/13 43/85掲載、98/6/27 45/85掲載
98/6/28 47/85掲載、 98/7/15 49頁まで掲載、98/7/18 50/85頁まで掲載、52頁3行目まで掲載、98/8/8
98/8/13 53/85掲載、98/8/15 55-1/2/85掲載、98/8/15 55/85掲載、98/8/25 57/85掲載、 
98/10/17 59/85掲載 98/12/5 61/85頁 掲載


*この小冊子は本文が85ページからなっています
  OCRを使ってテキスト化するしていく予定ですが
  いつ完了するか見通しもたちません。とりあえずはじめました。