国税労働運動のあゆみ

 統一の旗をかかげて (その1)


1965年に全国税が発行した小冊子の内容をほぼそのまま載せたものです
入力が進むにつれてページが長くなったので分割することにしました。
その1がここで、続きはその2へ載せています。追加はその2へ行っていきます。


目次 *原本に変更を加えています 目次は後ろのほうが新しい掲載部分となっていまs

はじめに  戦前の税務署  全財労組への弾圧 1947年頃   全財労組の結成
2.1スト  労働協約結ぶ   大衆課税反対闘争   3.15スト   マッカーサー書簡政令二〇一号
全財の分裂解散、日財労連の結成   日財労連結成から全国税職員労働組合へ
未払超勤手当よこせ  未払超勤手当よこせ  労働強化への闘い  中堅職員試験の闘い
日財労連第7回大会   青森塩釜の人権闘争  1954年夏の闘い   川ロ・浦和・米子・水沢の闘い
勤評闘争と二・二五弾圧   



たたかれても踏まれても闘いは消えない


     −「国税組合運動のあゆみ」発刊にあたって−


「全国税の歴史がほしい」ということは、久しい声でした。もちろん、「全国
税の歴史」という言葉は、「国税労働運動の歴史」ということを意味していま
す。
このことは、全国税が全財労組の第二組合として出発しながら、日財労連
から全国税へと発展し、厳しい弾圧のなかを闘いぬき、全財労組の伝統もうけ
つぎ、国税労働者のすべての利益と要求をささえてきた唯一の全国組織である
ことが明らかになってきたからです。どの組織でも、その歴史を明らかにし、
功罪や教訓、伝統を生かしたい欲求と必要性をもつものです。特に、労働運働
においては、歴史的事実のなかから運動の法則をつかみ、誤りのない方針と正
しい闘いの前進をうち立てることが重視されることは当然のことです。   
 全国税が、戦後二度目の弾圧を受け、この進路をどうとるか真剣に論議され
た一九五六年(昭和三十一年)には、「国税組合運動十年の歴史」を編集しよ0
うという声が出されていました。その後、さらに、その必要に迫られた三つの
時期があげられます。その一つは、一九五八年(昭和三十三年)激しい弾圧の
なかで、連合体組織より全国単一組織を闘いとった時です。        
 その二つは、大きな安保闘争のうねりのなかで、国税中国の全国税加入を進
め、全国統一をめざして前進した一九六一年(昭和三十六年)頃であったとい
えます。
 この二つの時期に歴史を必要とした理由は、「国税労働者すべての利益が守
られ、明るい職場と税務行政の民主化が進められる時は、労働組合の組織が進
み強化された時である」ことを明らかにすることでした。         
 その三つめの時期の要請は、一九六二年(昭和三十七年)より現在にいたる
当局のなりふりかまわぬ組織破壊攻撃に遭遇したときです。        
 全国税組織を守り抜き、国税労働運動の展望を打ち立てるバックボーンとし
て「歴史」を求められました。                     

 この「国税組合運動のあゆみ」は、                  
1、戦後二十年閥、国税労働者の利益を一貫して守り闘って来たのは誰か、ど
 のように闘ってきたか、                       
2、国税労働者の生活と権利を絶えず圧迫してきたものは誰か、その目的と政
 策はどのようなものか、                       
を明らかにすることに力点を置き、運動の転機における情勢の要約とそれぞれ
の時点における特徴的な闘いの経過と総括を年を追って配列しました。まだ、
まだ、たくさんの貴重な闘いを割あいし、集録した内容も極めて不十分なもの
となっていますが「闘いの事実を正しく伝える」ことに最大の努力を払いまし
た。                                 
 国家権力機関のなかで、その権力による幾度かの弾圧と闘うなかで鍛えられ、
労働者としての意識とたくましい根性をもってきた国税労働者は「たたかれて
も踏まれても消えることのない闘い」の歴史に誇りを持ち、。聰揚に根をおろ
した運動のなかで、闘いへの確信をつかみとっています。    
 国税労働者すべての利益を守り、あらゆる要求を進めるために、「全国税の
闘い」を一人でも多くの聰場の仲間に知らせて闘いへの参加を求め、税務の民
主化を要求するすべての地域、共闘の人びとに「国税組合運動」について一層
の理解をいただくために、この「あゆみ」が活かされることを念願してやみま
せん。「国税組合運動のあゆみ」に足跡をきざまれたすべての先撃、同志につ
きないなつかしみと敬意をこめて、全国税の闘いに、終始暖い指鄭と支擾をい
ただいている方々に深い感謝をこめて二十年の闘いの記録をおくりますこの
「あゆみ」の執筆と編集は、全国税中央本部、藤井務、吉本貫、村上暗男、
坂根茂、村上明、古山忠行の六名が当りました。編集に際して、先輩諸氏より
貴重な御助言をいただいたことについて厚くお礼を申し上げます。紙面の制約
と短期間のとり<み、力不足のため、多くの不備がある点は、お許しをこい、
この発刊を機会にみなさんより遠慮のない御指摘と一層の御指導を経て次回の
補完を期したいと思います。                      
      全国税労働組合                      
          中央執行委員長  藤井 務
はじめに


  

はじめに 

                            

この「国税組合運動のあゆみ」には、。戦前の税溺署の状況や戦後はじめて組
合を結成する状況のほかは、戦後二十年間、国税労働者が政府、国税庁当局と
対決して激しく闘い抜いている、中央、地方の闘いの様相が記録されています。
現在も全国税は、当局の権力を総動員した組織破壊攻撃に対して闘い続げてい
ます。もちろん、戦後の二・一ストや国公の共済闘争、公務員共闘の賃上げ闘
争、大安保闘争に参加していますが、この闘いもまた、当局と対決を要したこ
とはいうまでもありません。多くの闘いがなぜこうなっているかを正しく理解
していただくためにまず、私たち「国税労働者」の職場、「税務署」について
ふれておきたいと思います。
 大蔵省の所管のうち、重要な一方の柱に国家歳入予算の確保があります。こ
の歳入予算の九割近くが「内国税」でまかなわれています。昭和四十年度を例
にとると、歳入予算三兆六、五八O億円余に対し、この租税収入見込は、三兆
一、九七五億円余というぼうだいなものです。              
 大蔵省の外局として一九四九年(昭和二十四年)に発足した国税庁が、この
「国税の課税と徴収を一手に引受けています。国税庁の管轄下に全国十一地方
に国税局がおかれ、その国税局の監督下に現在五〇四の税務署があります。国
税庁、国税局、税務署で調査、決定される法人税や所得税は、地方自治体の地
方税課税の基準となってその収入を左右しますから、その影響はさらに大きな
ものになります。                           
 戦時予算でも、戦後の復興予算でも税の増収が強調さ収入を左右しますから、
その影響はさらに大きなものになります。戦時予算でも、戦後の復興予算でも
税の増収が強調されてれてきましたが、現在でもその要求は変りなく、教育、
社会保障を圧迫しても軍備増強や独占資本保護の予算編成が組まれ、毎年膨張
の一途をたどり、この予算の確保のための租税収入の強化は続けられています。
 このように、第二次大戦後、好況下でも不況の時でも租税の増徴は止むこと
がありません。国税庁の資料によっても、この八カ年間に所得税納税人員は一
・七倍、譲渡所得では約七倍、税額で三倍の増加をしたのに対し、職員数は僅
かに一・二%の増員のため、あらゆる合理化と能率増加をはかっても限界にき
ています。このことは国税庁も認め、税制調査会に報告しています。    
 一方、大蔵省は予算管理省として人件費削減の手本を示し、独占資本の要請
にもこたえるため、常に率先して合理化、行政整理を行い、大蔵省職員のうち
多数をしめる「税務職員」が最初の犠牲にされています。
ここで事実として明確にしておきたいことは「税務署員」の減少が必ずしも
税金を安くすることを意味するものではないことです。人員減に見合う合理化
の強化によって、その時の政策に必要とする税金は確保しています。    
 したがって国民大多数の租税負担が反対にふえています。人手不足は、独占
企業への脱税を容認する一方、中小企業等へは、標準課税等による確定見込課
税による水増し増税となり、税制面では源泉課税の強化、間接税への移行、増
徴となって大衆課税の強化をつよめます。                
 こうした税制面や税務行政上の根本の問題点から目をそらし「鬼よりこわい
税務署」として合理化、労働強化で呻吟する第一線「国税労働者」へ非難が集
中される仕組みになっています。                    
 「少ない人員でより多く税金をとらせる」政府の一貫した政策は「国税残酷
物語」といえる成績比較による差別支配、尻たたき労働強化、一方的配置換え
などとなってあらわれ、戦後の徴税旋風に代表される納税者の非難攻撃のなか
で辛酸にみちた職場となり、病人や死亡者さえ続出することになります。  
この現象は、若干の強弱はあっても現に続いでいます。
「国税労働者の闘い」は、このような生活も権利も、精神も、生命さえもギ
リギリの局面に立たされた場合に爆発したものがいかに多いかを歴史は示して
います。こうして闘いが進み、職場が明るさをとりもどし、「税金を取る」自
分の仕事についても意見をのべ、自分の生活と権利を守ることと納税者の権利
を守ることを結合して考えるところまでくると、再び厳しい圧迫と弾圧を行な
ってきます。                             
 戦後、日本の労働者が新らしい出発をしたとき、官公労働者のなかで「国税
労働者」も初めての組合運動を経験しました、その後の運動も、日本の労働運
動の盛衰と深いつながりがあることはもとよりですが、軍隊や警察とならんで、
国家権力の中枢であり、政治と財政の変革が直ちに反映される「税務署」のな
かの組合運動のもつ困難さは一層激しい興亡となってあらわれています。  
 この「国税組合運動のあゆみ」は、                  
1、戦前の税務署はどうだったか。                   
2、敗戦直後、全財労組の結成から弾圧、分裂、解散までの闘い。     
3、日財労連の結成から全国税に発展し、ふたたび弾圧を受けるまでの闘い。
4、弾圧の嵐のなかで、全国単一化をなしとげるまでの闘い。       
5、単一化より安保闘争を経て、全国統一の旗を進め、国税中国の全国税加入
  を押し進めるまでの闘い。                     
6、国税中国の加入阻止に全職制を動員した国税庁当局が、これを契機に全機
  構をあげて組織破壊におそいかかるまでの闘いと、全国税を守り抜き、再
  び前進の転機をつかんだ現在の闘い。                
7、闘いの総括と今後の展望について。                 
と、項を追って、記録したものです。                  
 この記録を通して私たちの闘いが「闘かわなければならなかった闘い」であ
り、「起るべくして立ち上がった組合運動」であることを理解することができ
ます。                                

 闘いの過程では、しばしば現象面の困難に迷い全体を見失うこともあります。
国税組合運動の分裂や後退はこうして繰り返えされましたが、もう職場では、
敵と味方をはっきりと見わけることが出来ます。この記録はこのことを一層明
らかにできると信じます。私たちは、先輩の残してくれた苦難の歴史のなかか
ら明日への教訓を引き出し、確信にみちて闘いをすすめています。 


「早出晩退が美風」戦前の税務署


「よらば大樹の影」大なり小なり、こうした気持ちで税務署へ就職した人は、昔
も今も少くないでしょう。 いま、署長室などにおさまり「古き良き時代」の懐古
談などを語る数少ない大先輩が入署し昭和の初期は、、明治時代から租税の
中核をしめていた「地租」が、酒類税や所得税にとってかわられ、「土地賃貸
価格」の調査を全署あげて行なっていた時です。
 当時の定員が、六千名余りに対し、臨時、雇をあわせて六千数百名が配置
されていたと記録されていますが、実際には、嘱託、署配布の人件費等によ
る臨時雇用をふくめると一万名を越えるアルバイトが動員されていたと考えら
れます。
 従って、中央政府の唯一の出先官庁として「一番確実な就職先」と考え、町
村長や地方有力者の紹介で就職した中農などの比較的良家の若者たちは
「大学を出てルンペンになるよりは」という親心によって入署し、人夫がわりに
重い土地測量器を背負わされ、ようやく土地台帳の写しに入って官員さんの
気分になりかけた頃、「御用済につき、出社におよばす」と八字ヒゲの署長か
ら申し渡されて、ぼう然となった人は何千人もいたでしょう。
 明治新政府の樹立以来、軍隊や警察とならんで、天皇制官僚国家の中枢
におかれた大蔵省の出先機関である税務署が、一方では徴税権力機関とし
て中央集権のかなめの役をはたしていながら、他方では、政治、財政の変動
によって常に機構の改廃、定員の増減を繰り返して、そこに働く人たちの首
切りが、いとも簡単に行なわれていたことを示しています。
 国税庁が発行した「税務署六十年のあゆみ」には、この間の轢構の改廃と、
勅任官、奏任官、判任官の定数の増減にはかなりのべ−ジをついやしてい
ますが、それ以外の雇員、臨時職員、労務職員には、ほとんどふれていない
ことを見ても、一定の身分以下の人たちを概構の人間と見ていない非情さを
現しています。
 まず、臨時雇に採用された人たちが、本雇になるためには、本人はもとより
一家をあげて課長、署長の関心を買う貢物競争の事例も少くなかったのです。

 本雇から任官のコースも、また容易でなかったのが実情です。三年に一回
程度の「任官試験」に運よく合格しても必ず遠隔地への配転がともなっていま
した。
 一九三五年(昭和十年)前後からは、雇採用試験が行なわれ、第二次大戦
の前後といえる北支事変(一九三七年)以降は、ぼう大な軍事産業育成等に
よる人手不足と民間の賃金上昇にくらべて、低賃金の下級官吏志望者は少く
なり、臨時雇、雇の経歴十年以上という男子は、ほとんどいなくなりましたが、
人手不足の補充として採用された女子職員には、終戦直前まで任官など考え
られない苦しい職場が続いていました。
 こうした身分制度は、同時に身分制賃金制度によって支えられ、初任給から、
昇給差額の差別はもとより、旅費等級、年二回の臨時手当(戦時中は三回にな
る)の支給率まで確然たる差別をつけられていました.
 従って、下級官吏全体が「清貧」という青葉で耐乏生活を余儀なくされ、「早出
晩退」という尻たたき競争で人より一時も早く「栄進」するととによって、数少ない
 「一国一城の主」署長になることを唯一の希望に、精進する仕組みにされてい
た点は、現代とも無縁とはいえないものがあります。
 「仕事と成績」が表面上の栄進や昇給の基準であったことは、現代も変りあり
ませんか、署長内申によってすべてを左右されていた当時は、それ以上に「上司
への忠誠」が、重要な条件にされていました。 忠誠心は「絶対服従」と「公私の
別なき奉仕」によって判定され、署長の碁の相手から釣のお供まで休日を返上
していた例は日常のことでした。税繁期になると署長は昼頃出勤して深夜までね
ばり、「上司の在署中は許可なく退庁できない」部下は、早朝から深夜までの勤
務で倒れるまで働かされ、これを「早出晩退」の美風とよんでいました。
 局長や局部長の視閲には、大掃除、玄関前の送迎、直立不動の面接と訓辞な
ど「殿様」扱いでした。特に署長への反抗は「昇給三年ストップ」の覚悟はもとより、
辞表提出を強制される場合もあり、不平、不満の表明は禁句となっていたし、昇
給と臨時手当支給に対する上司宅へのお礼参り、年賀の欠礼は、次期昇給のス
トップとなってあらわれていた例も多くありました。
                          (以上98/03/15追加 本文6〜7頁)


(7〜9頁)

 戦時中は、官僚の作成した「皇国納税理念」によって相つぐ増税と新税によ
る徴税強行をもって国民に臨まされ、税金の異議申し立てに来た納税者を中庭
に集めて、「非国民」と一喝して追いかえすなどの例がある程でした。こうし
て、良心をマヒさせ「考える」ことも許されなかったのです。
 そして、物価上昇に追いつけない低賃金と労働過重の税務署員に見きりをつ
け民間へ転出した同僚や、「出征」した同僚の仕事まで負担させられる「滅私
奉公」によって私生活をかえりみる余裕すらなかったでしょう。
 敗戦直前は、大都市はもとより、税務署の所在する中都市の相当数は空襲に
よって家を焼かれ、税務署の焼失も次第に増え、ほとんどの税務署員は家族を
田舎の親元等に帰して、なお必死で徴税に従事させられていました。
 こうして「税務署員」の多数は、家財も食糧もなく、あるいは戦場で敗戦を
迎え、はじめて国民大衆と変りのない「戦争被害者」である自分をみつめる時
がきたのです。「古き良き時代」の物語は、明治時代に入署して既に当時課長、
署長になっていた先輩の「話しの受け売り」が案外多いものです。

 太政官布告などという法令規則が存在し、明治憲法をよりどころとする「官
吏服務規律」や専断と上意下達を旨とし、大過なく勤務することによって位階
勲等をいただき、「出世」することと「名誉」を得ることこそが、人生の唯一
の目的するこのような先輩からシボられてきた現在の先輩には「あの時組合が
あったなら・・・」という思い出の無い人はおそらく一人もいないでしょう。
 これが、敗戦後の悪条件と重なって、あの爆発した全財労組の闘いともなっ
ています。
 全財の闘いは、現に署長、課長のほとんどが先頭に立って闘ったものです。
このことを忘れたように、かつて自分たちが苦しんできた古い支配観念を押し
つけているようなことはないでしょうか。

 戦後二十年、私たちの職場には、電子計算機を横に置きながら、まだまだ払
拭できない封建的労務管理があることを見逃すことができません。
 この根源がどこから出ているか、みんなで真剣に考えたいものです。


闘う全財労組が弾圧を受けて暗い谷間へ


 第二次世界大戦は、日本帝国政府が、ポツダム宣言(米、英、ソ三国が戦争
終結後の日本の処理を決めた協定、あとで中華民国も参加)を受諾し、連合国
の勝利、日本帝国主義の敗北のうちに終りました。連合国軍ということでアメ
リカ軍の日本占領がはじまりました。
 当初、占領政策は、社会主義国ソ連邦の力が加わって、日本帝国主義の戦争
能力の破壊、日本の民主主義的傾向の復活強化を目標とし、戦争犯罪人のタイ
ホ、戦争責任者の追放、財閥の解体、労働組合の育成、農地解放など、一連の
「民主化」政策がとられました。
 しかし、東ヨーロッパの人民民主主義革命の進行、とくに、中国革命の勝利
が決定的となり、政治的、経済的危機をふかめたアメリカ帝国主義は、西ドイ
ツとともに日本を侵略戦争の拠点としてうち固める道をすすみました。
 一九四七年(昭和二十二年)四月の総選挙では社会党が第一党となり、また
一九四九年(昭和二十四年)一月の総選挙では、共産党議員が四名から一挙に
三十五名に増加したことなどにあらわれているように、労働者階級と民主勢力
のたたかいは発展し、日本国内においても、アメリカと日本の反動勢力の孤立
化と危機がふかまっていました。アメリカ帝国主義は、国会議員の追放など共
産党を弾圧し、労働運動の中心部隊であった官公労働者から労働基本権をうば
い、民同を育成し、下山、三鷹、松川など謀略事件をデッチあげるなどして、
労働運動を分裂させ、民主団体を破壊しました。また、かれらは、ドツジ・プ
ラン(経済九原則)による首切り「合理化」(一九四九年には、一〇〇万人の
労働者が職場を追われた)を強行し、シャウプ税制勧告によって大衆課税を強
化し日本独占資本をたちなおらせ、これを目したの同盟者とし活用する方向に
すすみました。そして、かれらは、一九五〇年(昭和二十五年)六月二十五日、
朝鮮戦争を起こし、これを機会に警察予備隊(後の自衛隊)をつくり、日本の
再軍備を公然と開始したのでした。
 このような、占領軍の全面的な攻撃によって、戦後の初期、爆発的に高揚し
た労働運動、民主運動は、大きな打撃をうけ、運動は一時的に後退の時期をむ
かえるにいたりました.。

(以上98/03/19追加 本文8〜10頁5行目まで)


全財労組の結成


 一九四六年(昭和二十一年)二月四日、東京財務局(当時は、いまの国税局
と財務局が一つになっていた)に職員組合が結成されました。
 東京は、戦争で焼野原と化し、神田橋の局舎も空襲で焼かれたため、当時、
下谷の黒門小学校に仮住居していました。この日、黒門小学校の中庭には、
局に働いている人たちだけでなく、都内の税務著から仕事を放棄してかけつけ
た多くの人びとが参加し、朝から午後にかけてみんなははじめての経験ではあ
つたが、沸き立つような雰囲気の中で、規約を決め、役員を選んで、組合の結
成を宣言し、ただちに「生活補給金」などの要求をかかげて、たたかいに立ち上
がりました。これが国税の職場に、正規に誕生した最初の組合でした。
 一月三十一日、大蔵省職員組合が結成され、その結成大会には、局の係長
クラスが招かれて参加し「大蔵省に職員組合というものができた」と伝えたこと
が直接的な刺激となり、直税、間税、経理(いまの徴収)部の青年層が中心とな
り、二月一日、昼休みに監察官室を「占拠」して準備委員会をつくり、大蔵職組
の規約などをモデルにして、連日徹夜の準備を重ね、わずか三日間で結大会に
もちこんだものでした。
 これと相前後して、多くの職場で、職員会などの名称で組織の結成がすすめら
れていました。 当時、国税職員の多くは、戦争によって肉親を失い、戦災によっ
て家財を焼失するなどの被害に加えて、都会地では、買出し休暇を認めさせた
ほどの極度の食糧難とインフレ政策による極端な物価の騰貴によって、生活が
破壊され、みんな食うため生きるための手段を探し求めていました。また、終戦
前、天皇制官僚制度のもとでおさえつけられ、酷使されてきたことにたいする怒
りと「戦争に勝つために」と国民にたいして、納税を強制してきたことにたいする
反省も加わり、それが、学閥特権官僚にたいする怒りと憎しみに変り、学閥人事
の打破、税務官庁の民主化の声になりはじめていました。そこへ、連合国による
一連の「民主化」措置がとられ、その重要な一環として労働組合育成等がとられ
たため、りょう原の火のように、またたくまに労働組合が結成されるうごきがあり
ました。こうしたなかで、国税の職場にも職員組合が結成されたのでした。

 国税の職場に労働組合が結成されたことは、国税職員の歴史に、百八十度の
転換をもたらすものでした。天皇の官吏、税務官吏が「自分たちも労働者である」
と自覚しはじめ、団結と闘争によって自分たちの生活と権利をまもる道に、第一
歩をふみだしたのですから、まさに歴史的なできごとでした。
 東京財務職組労組は、生活補給金、学閥人事の打破、人事諮問委員会の設
置などの要求でたたかいを進めるとともに、管下(当時は東京、関信が同一局)
の税務署に組合結成をよぴかけ、全国の財務局に打電して代表者会議をひらく
ことを計画しました。大蔵省傘下労組の結集をめざして、会議をひらくことの提唱
も行ないました。東京都内をはじめ、関東信越一帯の組織化がすすむととも、東
京税務職員組合が結成され、また、全国代表者会議には、大部分の局の代表
が、食糧をつめたリュック・サックを背負って参加し、全国財務職員連合準備委
員会をつくりました。
(以上98/03/21追加 本文10頁6行目〜11頁)                                                             


 この年三月十七日、全官公職員労働組合連絡協議会が結成されました。国税
労働者の組織もこれに参加しながら、五月十六日、全国財務職員組合連合会を
結成、さらに、二・一スト直前の一九四七年(昭和二十二年)一月十三日、単
一化を達成、全国財務労働組合(三万人)を結成したのでした。

二・一スト


 一九四六年(昭和二十一年)にはメーデー(第十七回)が復活され、食糧 
メーデー(五月十九日)、産別会議の十月闘争にひきつづき、官公労働者のた
たかいが高揚していきました。
 十一月二十六日、国鉄、全逓、全官労、全公達、全教協の五者で、全官公庁
共同闘争委員会をつくり、1.越年資金の支給、2.最低賃金制の確立、3.
俸給、諸手当の現金支給(当時は一人五〇〇円まで現金、残り家族一人につき
一〇〇円を現金化することができる封鎖予金で支給されていた)、4.勤労所
得税の撤廃、5.総合所得の免税点を三万円(年間)に引き上げよ、6.労働
関係調整法の撤廃、7.差別待遇の撤廃、8.団体協約の即時締結、9.寒冷
地手当の支給、9.不当解雇反対、などの要求でたたかいにたちあがりました。
 しかし、大部分の要求が翌年にもちこされました。一九四七年(昭和二十二
年)、吉田首相は年頭の辞で、労働者を「ふていのやから」と呼び労働者の怒
りを買いました。全官公は、一月九日、「二月一日からストライキの決行」を
決めました。このあと全財労組のほか、都市同盟、都市交通、都労連、大蔵三
現連合会、全日本医療、全国大学高等教職組協、日本進駐軍委員労組の八団体
が、参加し、名実ともに全官公共闘組織ができあがりました。一月十五日には、
民間産業もふくめて、五十四団体が参加し、全国労働組合共同闘争委員会(全
闘)が結成され、二・一ストは、参加者二六〇万人という大規模なものとなる
ことが明らかとなりました。そのうえ、前年末からの、社、共両党による倒閣
運動とむすびつき、経済的ストライキであった二・一ストは、吉田内閣打倒民
主人民政府樹立をめざす、政治的ゼネストとしての性格をもつにいたりました。
 中央労働委員会(この頃故末広厳太郎氏が会長でした)があっせんにのりだ
し、一月二十入日、平均月収一、二〇〇円の暫定措置をとることなどの調停案
をしめしました。翌二十九日、共闘は.調停案を拒否、政府もこれを拒否、同
日の交渉で政府は、総収入月収一二〇〇円を回答したが共闘はこれを拒否し、
交渉は決裂しました。中労委は、なおもあっせんにつとめたが、政府も共闘も
ともに強硬で、一月三十一日未明、あっせんはついに不調に終りました。
 一月三十一日午後、それまで全闘にたいして警告をつづけていた占領軍司令
官マッカーサーは、ついに声明書を発表して、ストライキの中止を指令しまし
た。二・一ストは中止され、伊井弥四郎共闘議長のラジオ放送によって、スト
態勢はとかれ、全官公共闘も、全闘も即日解散しました。
 全国の国税の職場では、執行部、青年行動隊だけでなく多くの組合員が泊り
こみで準備しました。官印は署長が保管、出勤簿は組合管理、来訪者は署長が
応接するなどの手筈がととのえられ、いよいよ明日は、全国の税務署の業務も
完全にストップする予定でした。ストライキの準備は完了していたのです。そ
こへ伊井議長の声涙ともに下るラヂオ放送、みんな泣きました。二・一ストの
中止命令は、労働者がそれまで「解放軍」と考えていたアメリカ占領軍にたい
する見方や考え方を変える契機となりました。
 二・一ストが不発に終わったとはいえ、賃金を六〇〇円ベースから一二〇〇
円ベースに引き上げ、各組合とも労働協約を締結するなどの成果を収め、三月
には、全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成されるなど、組織的前進も見
られました。
(以上98/03/21追加 本文12〜14頁7行目)


 全財労組は、前年十月闘争のなかで、税務特別手当二五%のほか、米、酒、
タバコの特別配給をかちとりました。さらに、この年四月に行なわれた初の参
議院選挙には、当時の委員長川上嘉氏(現在税理士)を三年議員のトップで当
選させるという成果を収めました。

労働協約の締結


 ニ・一スト中止の直後全財労組が大蔵大臣石橋湛山との間に妥結した内容は、
一、二〇〇円ベースヘの賃上げと労働協約のていけつでした。このとき締結し
た労働協約の内容の特徴点は、次のとおりでした。
 1 組合員の労働条件の維持改善をはかり、財務行政の徹底的民主化を実現
  する。
 2 全財が唯一の団体交渉権を有する組合であることを認める、
 3 中央協議会、地方協議会、職場協議会をおく、
 4 協議する事項、
   a組合員の給与、昇給、昇級、採用、休職およぴ退職に関する一般基準、
b組合員の休職、退職、異動およぴ懲戒処分(懲戒的転勤をふくむ)の
場合において本人より組合を通じて申し出があったとき、その基礎事
実の判断に関する事項、
c組合員の厚生施設およぴ教育に関する事項、
 5 協議会の成立した事項は、双方が誠意をもって遵守する責務
   を負う、
 6 組合員の転任、休職およぴ退職の場合においては、大蔵大臣は、事前に
本人および組合に通知する、
 7 執務時間中の組合活動への参加およぴ組合専従者を認める、
 8 組合事務所、調度などの便宜供与を行う、
 9 政治活動の自由を認める、
 10 組合運動を理由とする不利益処分は行わない.というものでした。

 非現業公務員のストライキ椎は、労働関係調整法によって、すでに制限され
ていたとはいえ、労働組合法が適用され組合活動の自由、団体交渉の権利が保
障され、組合専従者は、労働協約によって、中央本部五十名、地方会議(局毎)
十名、地連(都道府県毎)五〜十名、全国で合計約五〇〇名が、有給のまま活
動していたのですから、その力がいかに強大なものであったかがわかると思い
ます。
 当局の労務管理の支柱であり、国税労働者にとってもっとも切実な関心事で
ある配転について、発令二十日前に、本人およぴ組合に通知され、職場協議会
を通じて本人の意見をいれて発令されるというしくみがつくられたことは、職
制に気兼ねする必要がなく、全財労組を中心に、職場の団結をつよめるうえで、
大きく役立ちました。また、署長など管理者の人事についても、組合の意見が
反映されることになっていたため、職制層も組合の権威を認めざるをえません
でした。当時は、局長が招集する署長会議に欠席する署長もいましたが、組合
が招集する署長全議には全員出席したものでした。
 高等財務講習所(いまの税務大学校本科)も組合の力でつくられました。
 労働協約をていけつしたときに、当時の大阪の局長はオイオイ泣いたといわ
れています。兵隊の位でいえば師団長であり「閣下」とよばれた勅任官の局長
にしてみれば、まさに「革命」のように思えたのでしょう。また、当時、大蔵
省主税局(国税庁はまだなかった)職員課長吉田信邦(のちに関信局長、退官)
は、労働協約の調印をおえた直後、全財労組代表といっしょに、インターナシ
ョナルをうたいました。当時の労働組合と当局の力関係、特権官僚の動向をし
めしているといえます。

大衆課税反対・財政民主化闘争


 戦後初期の労働運動は資本家の生産サボにたいして、生産管理という戦術が
編みだされ、経済復興闘争がたたかわれ、またあらゆる分野における民主化闘
争がたたかわれた点に特徴がありました。国税労働者は、封建的官僚制度を打
破し、税務官庁の民主化をめざして学閥人事の打破のたたかい、官庁民主化運
動、綱紀粛正運動、職場秩序確立運動とともに、大衆課税反対運動を展開し、
財政民主化闘争をすすめました。
 アメリカ占領軍の費用を賄うために、また、経済九原則、ドツジ・プランに
よる独占資本の復活と経済の軍事化の費用をうみだすなどのために、所得税を
中心とする戦時増税体制がそのまま温存され、加えて、財産税、増加所得税、
非戦災者特別税、取引高税などが創設され、大衆課税が一だんと強められまし
た。

(以上98/03/26追加 本文14頁7行目〜16ページ4行目まで)


インフレ、賃下げによって労働者の生活は破壊されているうえに、所得税が天
引されるため、当時「勤労所得税の撤廃」は、労働者の切実な要求となっていま
した。
 農民、中小企業者はインフレ、物価高騰による名目所得に、高率の課税が行
なわれるため、納税はきわめて困難な状態におかれていました。そのうえ、占
領軍が直接、徴税の指揮監督を行ない、割当課税(目標額制度−税収予算を
水増しし、税目別に徴税目標を定め、個々の税務署におしつけ徴税を強制する
やり方)と天下り更正決定によって、農民、中小企業者に高額の課税を強行した
ため、審査請求と滞納が激増しました。
 昭和二十二年度の国の予算は1144億で、年度末の租税滞納は九四七億だっ
たのですから、いかにぼう大な滞納であったかがわかると思います。占領軍が
「銃剣一歩前のあらゆる強制方法」(「フオ−チュソ」誌四九年四月号)による課
税と滞納処分、差押が強行され、徴税旋風、税金地獄を現出しました。国民の怨
嗟の声と怒りは税務署に向って爆発し、反税関争が高まり、国税庁の統計によっ
てさえ、反税関争に参加した人員は、一九四九年上半期二五万二、二七四人、
下半期二七万四、七六四人に達しました。
 滋賀県大津税務署では、婦人職員(十九才)が、労働過重と栄養失調で失明
しました。岡山県味野では、ムシロ旗をたてた農民によって十三名が暴行をう
けたほか、各地で流血事件が起りました。神奈川県川崎署端山豊浩間税課長は、
密造酒検挙にからんで殺されました。国税労働者の過労と苦痛は極限に達し、
一九四七年には過労のため三十八名が死亡しました。
 こうしたなかで全財労組は、一九四七年五月の第一回定期大会で税制委員会
を設け、その後、大衆課税反対闘争本部と本部書記局に財政研究部を設置、国
家予算、税制改正、機構改革、徴税費予算、徴税業務の運営などについての意
見をまとめ、大蔵当局に要求、国会に働きかけ、労農連絡会を組織し、宣伝活
動、地域公聴会の開催財政白書の発表など多面的な活動を行い、労農、労商で
ていけいを進めました。また、税務署に特別調査班をつくり、ヤミ所得、脱税
の摘発をすすめました。
 一九四七年六月の第二回中央委員会(江の島)では、大衆課税反対運動の基
本的な考え方についてつぎのように意思統一しました。それは、1われわれは
税務官吏である前に労働者であるという前提にたつ、
2大衆課税とは「生活費にくい込む課税」と定義し、税金は利潤(剰余価値)
からとるべしの原則にたち、大衆課税反対、最低生活費の免税を実現する税制
の根本的改革を刺する、3財源は大口所得、ヤミ所得に対する高度累進課税、
新円登録制をふくむ第二次財産税の実施、4税務機構の徹底的民主化と拡充強
化、徴税費の大巾引き上げ、したがって、この運動は、全財組合員の待遇改善
に関する一切の要求をふくむ、6われわれ労働者の闘争が直ちに勝利するため
には、労働者、農民、中小企業者と手を握る必要がある。大衆課税反対運動は、
労農市民提携の大きなテコであり、われわれ自身の闘争を勝利に導く基礎であ
る。そののち、大衆課税反対運動は、財政民主化闘争の一環として位置づけさ
れ、運動がすすめられました。
 この運動のなかで、「増加所得税の公正を期しえなかったことは、当局の責
任である」「五万円以下の税額の場合でも延納できる」と認めさせたり、微税
費予算の大巾増額をかちとったり、数々の成果をあげました。
 税制委員会の最初の委員長は、石田亮盛氏(東京局法人税課長、のちに札幌
国税局長、故人)でしたが、当時主税局長は、しばしば全財幹部を招き、税制
改正についての意見を聞いたものです。
 また、予算、税制についての全財の見解は、労働組合民主勢力のなかで重視
されただけでなく、政府、保守党も傾聴するほどに権威をもっていました。シ
ヤウプにも会い詳細に意見をのべました。
 しかし、この運動のなかで、岡山県笠岡税務署で、七名の不当術雇が出され
るなど、次第に弾圧が加えられ分裂攻撃の口実にされました。

三・一五スト


 二・一スト後成立した片山内閣は社会党首班とはいっても、民主党、国協党
との連立内閣であって、その基本政策は「耐乏生活」を国民におしつけるもの
でした。物価と賃金を同時に安定させるというふれこみで、戦前の1934年
−36年(昭和九−十一年)を基礎にして、物価は六五倍、賃金は二七倍とい
う比率をきめて、官公労働者の賃金を1800円ベースに定めるという不当な
ことをやりました。

(以上98/03/27追加 本文16ページ5行目〜18ページ1行目まで)


 実質賃金を戦前の二分の一以下に引き下げようというものでした。また、片
山内閣は、封建的官僚制度を打破し、民主主義を確立する方向とは逆に反労働
者的な公務員法の制定(昭和二二・一〇・二二公布、二三・七・一施行)を行
ないました。
 こうしたなかで、一九四七年八月十一目、恒常的組織として、全官公庁労働
組合連絡協議会(全官公)が結成され、生活と権利を守るために、ふたたび、
たたかいにたちあがりました。二・一ストで禁止された全国全産業的なゼネス
ト方式をさげ、職場闘争、地域闘争、単産毎のストライキをもってたたかいま
した。そして、公務員法の制定にたいし「これまでの特権官僚の地位を破り、
国民への奉仕者と規定せよ」「政治行為の制限をするな」など官庁民主化をめ
ざす要求をかかげてたたかいました。また、片山内閣の一、八〇〇円ベースお
しつけにたいしては、1.二、四〇〇カロリーの摂取に必要な生活必需物資の
適正価格による完全配給を裏づけとし、これに必要な地域差を考慮した最低賃
金制の確立、2.生活補給金として一月から六月までの赤字補給金本人二、〇
〇〇円、扶養家族一人一、OOO円を八月中に支給すること、を要求してたた
かいました。年末には、中労委の調停で、赤字補給金は、ほぼ解決したものの、
給与については政府、組合、中立の三者構成の臨時給与委員会を設け、そこで
決定することになりました。全官公七組合は反対しましたが、国鉄だけは代表
を参加させ、一月二十七目臨時給与委員会は発足しました。
 イエスマン内閣(占領軍のいうとおりになるの意)といわれた片山内閣に、
労働者、国民の批判が強まり、二月十日退陣しました。二月二十一日、臨時給
与委員会は二、九二〇円ベースを基準とする職階給を決定し、報告書を政府に
提出しました。三月十日成立した芦田内閣は、各組合にたいし「職場闘争、地
域闘争をやめて、中央交渉に移し、臨時給与委員会の決定を受諾せよ」「組合
が拒否した場合には二、九二〇円ベースは実施しない」と通告し、期限付で回
答を要求しました。国鉄はすでに受諾しましたが、全官公は、全逓、全財を先
頭にストライキでたたかいました。
 全財労組は、統一要求のほかに業務で死亡した組合員(三十八名)の救済、
労働協約の改訂などの要求をかかげ三月十五日、一斉賜暇、その後さらに地方
別一斉賜暇をもってたたかいました。石川県小松をのぞいて全国の税務署の業
務は終日ストップしました。朝のうち訪れた外来者も、玄関前に張られたピケ
ットの説得によって、納得して静かに帰っていきました。全国いたるところで
ストライキにたいする共闘の訴えが行なわれました。
 弾圧にそなえて、第二、第三執行部もつくられました。幹部活動家は、「沖
縄行」を覚悟してたたかったものでした。新聞は「わが国さいしょの全国組織
の全国統一ストライキ」と報道しました。占領軍司令部キレン労働課長の警告
をはじめ、全国各地で占領軍の干渉がはげしく行なわれました。そして、占領
軍司令部経済科学局長マーカットは、大蔵大臣にたいして、適切な措置をとる
よう厳重な指令を行ないました。政府は、三月三十日、全財幹部六名(井上政
枝、徳島米三郎、岩上新一郎、品川一登、佐藤誠、有賀茂雄氏)の懲戒免官を
ふくむ不当処分を発令しました。金沢、佐賀、神奈川で刑事弾圧が加えられま
した。平石甫(現計理士)は、軍事裁判で一年の刑を課せられ服役しました。
 ついに、通し号俸から級職号俸の職階級へと賃金体系が改悪されましたが、
全財労組は、このたたかいのなかで全財案という俸給表をつくり、税務特別手
当の既得権を守り、調整号俸として確保しました。その成果は、いまの税務俸
給表にうけつがれています。

マッカーサー書簡政令二〇一号


 三月闘争を終った全官公は、激しくなってきた弾圧と分裂攻撃にもめげず、
さらにたたかいを発展させていきました。一九四八年(昭和二十三年)六月以
降五、二〇〇円ベースとともに、物価改訂、大衆課税反対、最低賃金制確立の
三項の要求をかかげてたたかいを開始しました。三月闘争とちがい国鉄も統一
闘争に参加していました。国鉄、全逓が八月五日には、冷却期間(中労委提訴
後三十目)を終って、ストライキ権を行使できる体制にありました。そして、
中労委の第三回調停委員会の開かれる前日、七月二十二日、政府は、占領軍司
令官マッカーサーの書簡を発表したのでした。マッカーサーは「自ら支持を誓
った政府をマヒせしめんと企図するような行為は想像しえないものであると同
時に許しえない」「団体交渉は国家公務員制度に適用されるに当っては明確な
そして変更し得ない制限を受ける」とのべて、官公労働者から団体行動権、団体
交渉権をとりあげてしまいました。

(以上98/04/10追加 本文18ページ1行目〜20ページ3行目まで)


 一九四六年三月一日施行された労働組合法は、官公労働者もふくめて、すべ
ての労働者に、団結し、団体交渉し、ストライキをする権利を保障しました。
この考え方は、日本国憲法(昭和二一・一一・三公布、ニニ・五・三施行)第
二十八条に「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他団体行動をする権利は
これを保障する」と明文化されました。これよりさき、アメリカ占領軍は、官
庁の徹底的民主化を恐れて、労働関係調整法(二一・九・二七)によって非現
業公務員の争議権をうばいました。マッカーサー書簡は、官公労働者の労働基
本権をうばい一層憲法をじゅうりんしたのでした。
 前年二・一ストの中止を命令したマッカーサーの声明には「余は差し迫った
非常手段の一つとして今回の措置をとったが、これ以外のことで労働者が正当
な目的を達成するため今回まで与えられて来た行動の自由を制限するつもりは
毛頭ない。また、それと関連ある基本的社会問題をそらせたり、それに影響を
与えたりする意思は毛頭ない」という弁解がついていました。二・一スト中止
命令とマッカーサー書簡の間には、これだけのだけの違いがあり、占領軍司令
官の姿勢の変化、それは、対日占領政策が百八十度の転換をつげるものでした。
このやり方は、対目理事会などでソ連代表によって、とり消しを要求され、イ
ギリス代表も批判しました。占領軍司令部キレン労働課長は抗議の声明を出し
て日本を去りました。
 芦田内閣は、この書簡にこたえて、七月三十一目「昭和二十三年七月二十二
日付内閣総理大臣宛連合軍最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」(い
わゆる政令二〇一号)を公布し、官公労働者の団体行動に刑罰を課することと
しました。これにたいして、国鉄、全逓の労働者を中心に、職場放棄戦術をも
って、熾烈な反対闘争が展開されました。マッカーサー書簡、政令二〇一号を
転機として、戦後の労働運動は、大きく後退しました。全財労組も国税局と財
務局に機構が分割され、労働協約は無効とされ、専従者は職場に復帰させられ、
その団結と戦闘力は大きな打撃をうけ、分裂、解散という経過をたどり、国税
組合運動も後退をよぎなくされました。

全財労組の解散 日財労連の結成


 冷たい戦争をつよめていたアメリカ帝国主義の策動によって、世界労連は分
裂し、一九四九年(昭和二十四年)十一月、世界労連の第二組合国際自由労連
がつくられました。
 わが国においても、一九四八年二月、産別民主化同盟(民同)が生まれたこ
とを契機として、いわゆる民主化運動(その本質は反共運動)が強められ、労
働運動が分裂させられました。これよりさき、全財労組では一九四八年三月間
争後、関東を中心に分裂的なうごきがはじまり、七月十五日、全財再建同盟が
うまれました。「共産党フラクションの排除」「政党支配の排除」がその旗印
でしたが、その中心は、「反全財本部」であり「反共」運動でした。その直後、
マッカーサー書簡と政令二〇一号がだされたため、全財労組が、全官公に結集
して、これに反対してたたかっているさなかの九月七日、再建同盟は全財を割
り、全財の第二組合として、関東財務局職員労働組合を結成しました。
 十二月には、国家公務員法が改悪され、団体交渉権がうばわれ、団結権も制
限され、人事院登録制度がつくられました。

(以上98/04/10追加 本文20ページ3行目〜22ページ1行目まで)


「合法闘争」を主張していた関財労組は、いちはやく人事院に登録し、法内組
合となりました。全財労組は登録を拒否してたたかいました。政府、大蔵省当
局は、全財労組にたいする弾圧と分裂の攻撃をつよめるとともに一九四九年八
月「行政機関職員定員法」による行政整理を強行してきました。全財労組は第
一次行政整理(七月二五目)を前にして、東北財労に共闘の申入れを行ない、
共闘が行われることとなりました。また、関財労組に無条件裸合同を申入れた
が拒否されました。八月二十目に行なわれた第二次行政整理(占領軍の指示に
よるレッド・パージ)は、国税のばあい共産党員だけでなく、活動家をみなご
ろし的に職場から追放しました。再建同盟のメンバーの多くは、これに協力し
ました。
 関財労組は、そののち第三回大会(十月十五目)で、「免職者をやめさせ、
合法闘争を前提」とし、全財との合同の態度を決めました。中央段階で話し合
いがすすめられましたが、労働運動の未経験もあって、統一は前進しませんで
した。そして、全財労組は、十二月七日、四国琴平大会で、解散の決議を行な
い、自らその歴史を閉じました。
 一九五〇年(昭和二十五年)一月二十四、二十五日、熱海市で、日財労協(
全財第二組合−四九・四・一六結成)を発展的に解散し、日本財務職員労働組
合連合金(日財労連)が結成されました。この結成大会には、関財労組、東北
財労、三重財労(中部)山陰財労、北九州財労が参加し、大分財労がオブザー
バーとして参加しました。この大会で決められた綱領はつぎのとおりでした1
 われわれは労働条件の改善と生活保障を確立し、社会的地位の向上を期す。
2 われわれは相互の信義と友愛に立脚した健全強固な自主的組織の確立を期
す。3 われわれは財務行政の民主化をはかり民主的目本建設の推進力たるこ
とを期す。4 われわれは民主的労働戦線の統一を期す。
 かくして、はなばなしくたたかって多くの成果をあげた全財時代は終り、サ
ンフランシスコ体制のもとで、公然たる再軍備、日本独占資本の復活、これが
ための税収奪の強化、労働強化、首切り「合理化」によって、職場はじゅうり
んされ、国税労働者にとって「暗い谷間」の時代が訪れたのでした。


日財労連結成から全国税職員労働組合へ



 中国革命の前進に対抗し、アメリカ帝国主義が日本に長期的支配体制をしこ
うとして、軍事基地の強化、ドッジ・シャウプによる合理化の促進、収奪強化、
マッカーサー書簡、政令二〇一号、国公法改悪などで民主運動に弾圧を行ない、
全産業にわたって首切り合理化が強化されました。
 アメリカ占領軍は、アメリカ占領政難に労働者を協力させるために援助して
総評をつくらせました。そして、対目支配を永続化し、目米軍事同盟の締結に
よって朝鮮戦争を遂行するために、単独講和を結び、占領体制からサンフラン
シスコ体制に変りました。朝鮮戦争がはじまるや、共産党の追放、民主運動に
対する弾圧が一層つよまり、首切り、賃下げ、労働強化、しめつけなどの合理
化攻撃のなかで人民と労働者は苦悩し、再びたたかいに立ち上がりました。
 講和条約をめぐって社会党の分裂。そして、国家権力によって白鳥、メーデ
ー事件がおこされました。このなかで総評は平和四原則を決定。ストックホル
ムアピールの署名活動、原水禁運動など、平和運動が高まってきました。労働
者の闘争も破防法、労働法闘争、日産、三鉱連、日鋼、近江絹糸、証券取引所
などの闘争へと高まり、総評も戦闘性を回復しはじめました。
 私たち国税労働者は全財の分裂、解散のなかで首切り、労働強化などの合理
化攻撃を全面的に受け、第一次、第二次首切り攻撃と闘えないだけではなく、
労働強化、しめつけ、首切り、一方的配転、昇給昇格ストップ、結核患者の給
与給付打切り、人権侵害など職場は無法状態になりました。
 組織破組分裂の攻撃は同時にすべての組合活動の自由を圧殺し、実質的には
日財にも加えられ、脱退解散が続き、第三回大会は正規の代議員数の大会とす
ることができない程困難な条件になってきました。
 これらの攻撃は国税庁、特権官僚が他省庁にさきがけて攻撃を加えてきたも
のです。

(以上98/04/10追加 本文22ページ〜23ページまで)

未払い超勤手当よこせ 調整号俸のたたかい


銀座のどまんなかで人事院勧告六、三〇七円べース即時実施という要求で国鉄
労組幹部がバンガーストライキを一九四九年(昭和二十四年)十二月にはじめ
ました。
 国公法改悪と労働運動の右旋回のため、官公労働者の賃金闘争は幹部が要求
をつくり、労使対等の団交によらないで人事院に陳情し、勧告がでると人事院
勧告即時実施を国会に要請する人事院と幹部に依存する闘いが闘われました。
そのなかでのハンスト戦術でした。日財労連斡部も四谷駅前でハンストに入り
ました。続いて一九五〇年、一九五一年に「年未手当増額と未払超勤手当よこ
せ」を要求してハンストを行い、超勤手当を四十時間から五十時間を獲得しま
した。この頃の職場は、しめつけがきびしく、事務量が増加し、連日超勤を強
制されましたが、手当は支給されませんでした。
 この闘いは、典型的な幹部闘争でしたが職場の事情を反映して、年末手当増
額せよ、労働強化反対闘争の契機をつくりました。一九五四年三月国税庁職組
が人事院に超勤手当の完全支給についての行政措置要求を提出しました。内容
は、組合員八七名が同年一月四日から二月二十八日までの超勤手当の一部未払
分(合計三六〇、八八七円)の支給を要求するというものでした。当局は人事
院に働きかけましたが、要求は全額獲得しました。また税務特別俸給表(調整
号俸のはくだつと補填の闘いはこの期間の重要な闘争でした。 全財労組が解
散し、日財労連の活動が停滞するなかで有効な闘争はそしきされなかったため、
政府と人事院によって一九五一年一月、七、九八一円ベース改訂の際、国税労
働者から、おおよそ二号俸の「調整号俸」をはくだつしてきました。
 政府と人事院が調整号俸を全面的にはくだつする攻撃は一九五二年六月に発
表した給与準則案によって一層明らかになりました。
 日財労連は八月下旬宣伝、署名、交渉を繰返し行うなかで、八月二十六日浅
井総裁との交渉で「調整号俸を従来通りとしながら税務俸給表を存置する」こ
とを確約させました。このとき浅井総裁は「大蔵省幹部で存置に反対る人が居
るので・・・と発言し、特権官僚が反対していることが明らかになりました。
 これは政府、人事院、特権官僚が一体となって国税労働者に既得権剥奪の攻
撃をかけているものでした。
 日財労連は十月一目、平田長官に行政整理反対と併せて給与の不合理是正、
各級枠外、頭打ち者の全員昇格、昇椿の際調整号俸を加える、損失補填、調整
号俸一律四号アップなどの要求を提出して闘争に立ち上がり、全国的な高まり
を背景にして当局、人事院との交渉を強め、ついに事務総長名による「税務職
員の給与の再計算について」(通達)を出させました。その内容は、今後昇格
毎に調整号俸を加算し、今までの分は三月までに再計算をし、俸給月額の決定
をしなおせというものでした。この結果、実際に賃金を引き上げることができ
ました。
 この闘争で日財労連は結成以来はじめて、独自に全国の仲間約七〇〇名を結
集した集会を成功させました。

尻叩き労働強化反対のたたかい


 職場は十年前と比較して所得税納税人員は約二倍、法人数が約五倍、滞納件
数が五百倍となり、事務量は著しく増加し、国税労働者にとって日旺日、祭日
も休めない「月月火水木金金」の勤務体制になっていました。
 このようにしめつけと労働強化を押しつけていながら政府、独占、官僚は一
九五一年国会に定員削減として国税関係も一〇、二八〇名削減案を上提してき
ました。
 日財は官公労と統一し、連日国会陳情で一、一〇〇名復活修正を闘いとりま
したが、九、一八〇名の定員削減を許し、老令者、婦人、活動家のバージを受
けました。
 四十五才以上のものが一斉に退職勧奨を受けたのもこのときでした。
 このようなしめつけ、人べらし、労働強化は国税労働者の健康に重大な影響
をおよぽし、結核性疾患で倒れるといういう事態をひきおこし、現員対結核性
疾患者との割合で十一・二%と全官公庁の最高率を示し、現員対重症者との割
合でも三・八%という高率で次の厚生、通産、電通は一・○%で約四倍弱を示
しました。
 一九五〇年より結核患者の撲滅、超勤は十五時間以上はやらない、定員増加、
療養所および診療所の設置、健康診断と健康管理などの要求をかかげ、一九五
三年よりさらに給与給付のニカ年延長、全額国庫負担の要求を付加して闘いま
した。
 数年にわたる闘争の結果、当局は現在のような診療所や委託病棟の建設、各
局の診療所設置、定期健康診断、レントゲンカーなど健康管理をするようにな
りました。
(以上98/04/11追加 本文24ページ〜26ページ4行まで)


中堅職員試験反対の闘い

 これだけ働かせ、昇給昇格をストッブし、調整号俸をはくだつし、そして人
べらしをしても当局は満足せず、他省庁にさきがけて一九五三年(昭和二十八
年)七月十目、通達を下ろして、新たに中堅職員(税務四級)および国税調査、
査察官任用資格試験の実施を明らかにしました。
 この試験は法律に根拠のない試験で、当時級別定数が少なく頭打ち枠外者が
圧倒的に多いなかで級別定数の拡犬が困難なため、試験によって職員の能力に
責任を転化しようとし、勤務評定のDEは不合格とし、結果的に不能力、非能
率者のレッテルをはりつけ首切りを狙っていました。
 日財の中心的な役割を果していた関財労組がこの闘争は成績競争、人べらし
を狙っており、これに反対し、全国的に阻止すべきであるとの態度を決定し、
宣伝、該当者集会、行政措置要求、提出願書撤回、受験拒否、試験場にはピケ
ットを準備するなどの指示をしました。
 闘争は関信、東京に広がり、関信では受付申込者四九五名中願書撤回の連判
状に署名した人は四六四名でした。
 闘争の結果は試験を中止させることはできませんでしたが、枠外者の無条件
即時昇格、今年度は昇格の絶対的条件にはしない、試験期日の延期をかちとっ
て闘争を終結しました。
 日財はこれらの諸条件を解決するため一九五四年春、完全休養遵法闘争を組
織しました。
 職場は休養の権利すら尊重されず、労働強化、結核患者が続出している。こ
の原因は、税制問題を除いても、定員の不足、左遷人事、成績主義、目標制度
を中心とした尻叩き機構のなかにあり、組合員の事大主義思想があるからであ
り、それは事務計画に集中的に現れています。
 これを是正するためには三月一日以降日曜、祭日は休もう、家に持帰り仕事
はしない、年休は必ず消化します、命令のない超勤はしないというものでした。
 この闘争は全体的に組織されませんでしたが、労働強化反対から職場の労務
管理の仕組みに目を向けた闘争として重要な契機つくりました。
 また配転は「あれは気にくわない」「会議で反対する」など管理者の恣意に
よる配転、生活を無視する配転が行なわれ、「佐渡にいってもらうぞ」と脅迫
する管理者もいました。組合は、不当配転撤回要求をそしきして闘い、逐次撤
回させました。
 一九五四年頃、東京で、分会三役の配転は事前に連絡する慣行を闘いとりま
した。

第七回定期大会


 労働強化、しめつけ、配転、首切りなど合理化攻撃に対し、未払超勤手当よ
こせ闘争から中堅職員試験へと多様な闘争が組織され、国税労働者の奪われた
労働条件と権利を一つ一つ回復していき、闘争も幹部闘争から大衆闘争へ、統
一行動と組織拡大も進み、関信、東北、中国、東京から四国、国税庁、北陸へ
と拡大されていきました。この中で、一九五四年(昭和二十九年)四月二十六
日より三日間、日財労連第七回定期大会が開かれました。
 大会は、昇給ストップ反対、目標実績主義の廃止、試験、勤評制度数の撤廃、
人事異動の十日前公開、表彰、特別昇給制度の廃止など徴税合理化に反対する
旗印をかかげ、賃上げ、一時金の獲得、損失号俸禰てんなど生活向上の要求を
決めました。そして、名称も全国税職員労働組合と改め、専従者も六名に増員
して指導体制の確立をはかりました。
 とくに不十分さはあったが、闘う相手をを政府、資本家、特権官僚とし、敵
対関係にあることを規定しました。

(以上98/04/25追加 本文26ページ〜28ページ1行目まで)


青森・塩釜の人権闘争


 「アクビ、吸殻をかぞえるアラ探しはやめろ」「軍隊と同じの週番制度はや
めろ」「入浴時間まではかる使用簿はやめよ」「私物検査はやめろ」「ラジオ
体操のほかにレクリエーションタイムを認めろ」「自転車の抜き打ち検査をや
めろ」など十数項目の要求を掲げて青森支部は立ち上がりました。
 管原署長は曇り硝子であった署長室の窓硝子を明るい硝子に変えて(職員は
これを金魚鉢と呼んでいました)アクビの数をかぞえて監視したり、職員を常
時署長私宅の薪割に使ったり、週一回署内の清掃をさせて窓枠のホコリを指で
点検したりしました。それは、成績表争、尻叩きによる特高的監視、監督の典
型でした。
 一九五四年六月、青森支部は、この人権を無視する署長の態度と当局のやり
方に憤りを持ちながら、職場大会で一つ一つの要求を決定しました。
 連判状に示された全員の要求解決までは、署長と口をきかないという決意を
こめて、全員で署長室に押しかけ、決議文をよみあげ手交しました。連日の交
渉、ビラ宣伝のなかで要求は前進しました。
 特に人権闘争として近江絹糸闘争が闘われている情勢もあって、朝日新聞全
国版(六月二十二日) および週刊朝日で報道され、成績競争の労務管理の実
態が明らかになりました。
 塩釜では署長や総務課長がひどく職員を圧迫することに対して闘争が起きま
した。
 「納税者のいるところで職員に対する詰問はやめること」「昼食時間の自由を
認めること」「幹部の成績をあげるため、係員を酷使しないこと」「必要以上に勤
評、昇給に言及するのをやめること」「小室事件の真相を究明すること」「署長パ
トロールをやめろ」などの要求をかかげ塩釜支部は職場大会、交渉を繰返して闘
いました。
 特に故小室尚夫君が六月四日滞納督励に出張し、列車に触れて死亡させられ
た事件は、その原因が心身ともにつかれたこと、署長、総務課長が徴収成績−
パーセントをあげるための尻叩きによるものでした。
 その後たたかいは反職制闘争、人権闘争として、水沢、江戸川、構須賀、尾
道などへ広がりました。
 これらの闘いは成績競争、昇給ストップなどの尻叩きによる特高的監視、監
督、人権無視に対するやむにやまれぬ闘いでした。
 青森闘争は本格的な職場闘争のはじまりでした。

 

一九五四年夏期の闘い


 第七回定期大会のあと、同年五月に第一回中央委員会を開き大会方針を具体
化する夏期闘争方針をきめ、闘いに入りました。
 各単組は生活補給金、尻叩き制度の廃止、お茶代よこせなどの諸要求を掲げ、
東京、四国は六月二十八日、関信、東海は七月二日、国税局玄関前で坐り込み
に突入しました。
 全国税中央本部は六月二十九日生活補給金三、〇〇〇円よこせ、徴税競争に
よる労働強化をやめろ等の要求を長官に提出し、誠意ある回答が得られないと
きは止むを得ず実力行使に入ることを通告しました。
 翌三十日午前十時から行われた交渉時の回答は新鮮味がなく、事態を解決す
る誠意がみられず、十一時四十五分交渉は決裂し、中闘、単組代表二十二名が
国税庁玄関前で無期限坐り込みに突入しました。
 地方の坐り込みは規模が大きく、創意性に富んだ戦術も行使されました。
 中央では地方の坐り込み隊の結集とともに、七月三日総決起集会を国税庁の
屋上で行い、宣伝を強化するため、懸垂幕を三本第二大蔵ビル玄関にさげまし
た。
 全大蔵、総評の支援、抗議も続いて組織され、交渉は連続、長時間、深夜に
わたって行われました。
 七月十日の団交で昇給ストツプ撤回、表彰、中堅職員試験中止の回答を出し
てきましたが、それ以外は前進しませんでした。
 闘争は長期戦の様相を示しましたが、要求解決の切実な声は、十四日交渉決
裂後長官室に行き、「要求解決を迫ろう」ということになり、直ちに(九時十
二分)長官室に斎藤闘争委員長、坂根副委員長を先頭に突入し、要求解決を迫
りました。
 長官室では交渉のあと長官、次長たちが、カバ焼で、ビールをのんでいると
ころでした。
「誠意ある回答を出せ」と迫ったのに対して、長官は退去命令を出しましたが
「要求解決までは動かない」と長官室に坐り込み、組合員一人一人が労働強化
や結核で苦しんでいる仲間の実態を訴えました。その切実な訴えに、長官達は
次長室に移り、団交は座り込み隊のなかで再開され、翌日まで続行、生活補給
金、模範者・署長表彰、中堅職員試験、特別昇給などの中止など、諸要求の前
進がはかられ闘争は妥結し、確認書をとりかわし、闘争体制を解除しました。

(以上98/04/25追加 本文28ページ〜30ページ5行目まで)


 そのときの状況を大会報告は生々しく報じています。
「坐り込み体制のまま午後十一時三十分より第七次交渉に入る。昇給ストップ
は四月一日に全員遡及昇給、七月該当者も同様とする。事務官昇任試験は組合
と協議。生活補給金一、〇〇〇円の回答が行われたが生活補給金、特別昇給を
不満として交渉を打切った。三時四十分坐り込み続行。第八次交渉を午前十一
時二十八分より実施。特別昇給は気の蕃な人を優先してやることでけり、残り
は生活補給金に論議集中、官側一、二〇〇円案を提示、不満のため一たん休懇。
同日午後三時二十五分交渉再開、組合一律一、五〇〇円の最終案を提示、官側
は小休して協議、四時四十分了解回答、午後五時十五分一応妥結する。翌日第
九次交渉を午後二時三十分より開き、各要求に対する回答を碓認し、同三時三
十五分了解事項成立し、最終妥結する」
 七月十六日回答の主なものは、
 生活補給金の支給は要望の趣旨をくんで努力する。
 徴税競争云々などと言った考えは全々なく、第一線で誤解があるので是正し、
個人、団体の模範者表彰は本年度これをしない。特別昇給は本年度は理由のつ
く限り、情理兼ね備えてこれを行い、昇格については制度上制約のあるもの以
外は頭打ち枠外が生じないようにする。
 中堅職員試験は本年度これを行わない。事務官昇任試験は組合と協議する。
一方的人事行政は改めることについて、職員の事情、希望をしんしやくして公
正に行い、二重生活者については棒別に調査する。
 次長およぴ書記長の間でとりかわした了解事項要旨は生活補給金の回答で、
要望の趣旨をくんで努力するとは具体的に税込一、五〇〇円、今回は一律支給
とする。
 特別昇給の回答について、情理かねそなえてこれを行うとあるのは、何人が
みても気の蕃だと思われる人を優先して特別昇給させることである。


川ロ・浦和・米子・水沢の闘い


 夏期闘争のあと、闘争の成果を未組織仲間にも宣伝し、組合の結成をよびか
け、北陸(一九五四年十月)、南九税(何年十一月)の加入をかちとり、西日
本の中心大阪の組織化のオルグにも入りました。
 また年末にも賃上げ、年末手当、税務俸給表適用範囲拡大、総損失の補填、
住宅建設、税理士法改正などを要求し、中央、各単組、各税務署支部毎の坐り
込み、平田長官を含む全国税局長との合同団交、国税庁へのピケによる早朝出
勤戦術などを行い、要求を前進させ、回答、確認書をとりかわしました。
 職場で、切実な要求をかかげての闘争、青森、塩釜闘争、五四年夏期闘争か
ら秋期年末闘争へとたたかいの高まり、そして組織の拡大強化におどろいた当
局は、翌一九五五年一月、大槻次長名で「庁舎を利用しての集会、デモ、坐り
込みなどの行動許可、ピケ禁止、けんそうな行為の禁止など組合活動制眼」の
申し入れを中央、地方に行ってきました。
 この攻撃で一部に動揺が起り、中沢(東京、現在第二組合委員長)有岡(四
国)、平田(熊本)などが富士見寮で方針の転換などを密談し、第四回中央委
員会の闘う方針を転換させようと策動したため、充分な討論が行われず、闘い
の方向を決定することができませんでした。
 このため、合理化攻撃のなかで予算−人件費の圧縮はつよめられ、昇給昇格
ストップが出される情勢に対処できませんでしたが、大阪国税局職組結成(同
年三月)北海道加入(同年五月)をかちとりました。全国大会はこの内部の困
難を克服して闘う体制を確立し、予想される昇給ストップに反対する夏期闘争
方針を決定しました。
 六月下旬浦和でMさんが昇給ストップになりました。支部は署長交渉を繰返
し行い、その理由を追及しましたが「人事の機密」一点張りで誠意ある回答も、
態度もみられませんでした。
(以上98/05/3追加 本文30ページ〜32ページ1行目まで)


七月一日、署長の不誠意に憤激した支部は、大会できめた方針に従って署長と
集団交渉を行ったところ、署長は「配転で現在はここの署長ではありません。
個人的に同情しますが…」という不誠意な態度をとりました。組合員はますま
す憤激し、要求解決まで玄関前で坐り込みに入りました。
 この昇給ストッブは単に浦和だけではなく、川口、足利など各県にそれぞれ
二、三名の該当者がいることが明らかになり、国税関信全体の闘いに発展し、
県毎に坐り込みに入りました。
 連日商業新聞でも報導され、国鉄、教組など官公労の仲間も支持にかけつけ
ました。
 このなかで関信本部は松田局長と集団交渉をもち「勤評がDだから昇給スト
ップした」ことを明らかにさせ、具体的解決策を示させました。
 その後の交渉で「成績不良による昇給停止は全面撤回する。計算期間を機械
的にあてはめる昇給停止も同様とする。主観的理由の成績比較は行わない」を
かちとりました。署長が配転になった品川支部では問題を解決しなけれ
ば着任を拒否する。幹部会の招集には応じない、組合員はあいさつを受けない、
口をきかない、と大会で決定しました。
 そして連日一〇〇名にのぼる集団交渉で追及し、「浦和のようなことはやら
ない」と確約させました。その次の異動で松田局長は神戸税関長に左遷させら
れました。同じ頃、徴税成績全国一の表彰を受けた模範署水沢支部でも、労働
強化が行われ、結核罹病率が職員三十六名中十四名で三三%という全国第一と
いう職場の状態でした。その犠牲となって結核で倒れた0,H両君に昇給スト
ップが出され、職場は憤激して坐り込みで闘いましたこの闘いに県評の支援、
地区労の十円カンパ、市民へのビラ撒き体制がとられ、闘争支持を岩手日報社
説で報じました。
 問題を東北本部の団交にうつし、局長の配転阻止声明を出すなどのなかで見
舞金支給、ストップ撤回をかちとりました。
 米子支部でも「風評で退職を強要したり、総務課長の許可した年休を取消し
て減給処分した」暴君署長への闘争が起り、問題を全部解決させました。
 この昇給ストップ反対闘争はその後も国税中国、南九税(都城、知覧)で闘
われました。

勤評闘争と二・二五弾圧



 国家公務員法が改悪され、職階制が導入され、勤務評定が実施されることに
なりました。ところが、国税庁は、人事院規則ができる前に、他省庁にさきが
けて一九五〇年(昭和二十五年)十二月に実施してきました。当時の勤務評定
は現在の身上申告書と勤務評定が一枚の用紙でできており、評定方法は秀、優、
良、可、不可で、まもなく点数制となり、評定者は税務署の係長、課長、署長
の三人のほか、局で税務署の評定を実施し、局で全体の序列をつけました。
 労働強化と結核をなくし、職場を明るくするためには模範表彰、昇給昇格ス
トップ、特別昇給、配転、試験、成績主義、勤務評定などの尻叩き制度をなく
する以外にないとしてこれを闘いながらやめさせましたが、最後に勤務評定が
残り、一九五五年度の昇給ストップ撤回闘争のなかで、その役割が一属明らか
にされ、職場から勤評撤廃を闘えという声があがってきました。
(以上98/05/4追加 本文32ページ〜33ページ)


 一九五五年入月、弟五回中央委員会は「積年のうらみをこめる勤評がのび
のびとなっている。現在が闘う時期である」として「世論調査と話し合いを
しっかりやり、勤評反対の意志がための決議と署名運動、職制から書かない
という連判状をとる。勤評は主観性のつよいもので公正な人事管理の資料と
はならない旨の署長の確認をとる」など勤評阻止方針をきめました。
 北海道では勤評反対八一%の結果が出され、反対の態度を決定、署名と道
委員長に一任の連判状にとりくみ、四国では課長、係長が書かない連判状を
九七%の人が提出するなど、各単組も、圧倒的多数の人が反対の意思表示を
しました。
 中央で全国的な体制を整るため、十月総決起集会を行い五〇〇名を結集し
ました。
 続いて第六回中央委員会で勤評阻止の方針を再確認し、指令権を中央に一
任しました。
 「高い税金をムリヤリとらす武器、勤務評定やめろ」の懸垂幕を下ろして、
約一〇〇名の坐り込みをもって全国々税局長会議に切実な意見を反影させま
した。
 そのときの阪田長官(現在専売総裁)各局長と全国税中央、地方代表との
合同団交で「勤評は検討している、案ができたら事前に組合と相談し、納得
してもらってやる。十分周知徹底し、試行調査をやりそれから実施したい」
と明らかにさせました。
 十一月に入って勤評テストが各局毎に抜き打ち的にはじめられました。
 輪島支部では、急遽幹部会が招集され署長がテストをやると説明しはじ
めたところ、役付の支部長は反対の意思表示をして席を立ちました。総務課
長が「腹を切る気か」と恐喝しましたが「みんなのため腹を切ろうじゃない
か」と宣言したため幹部会も反対に結束しました。
 続いて職場大会を開き「支部長を守れ、全員でテストは実力阻止だ」と決
議し、署長と局員をつるし上げ、用紙を回収しました。板橋支部では、連日
の抗議と交渉で当局にテスト用紙を焼却させました。
 各地で同様なテスト阻止行動が闘われました。
 当局は、組合オルグを業務命令で職場復帰をさせるなど攻撃を加えながら、
各局部長が先頭に立ち、旅館に幹部を集めるなどしましたが、ついに打切ら
ざるを得ませんでした。
 一方これらの闘いの高まりは、大阪局職組結成から、大阪、京都、兵庫、奈良
へと組織を拡大し、近畿連協の結成を経て、同年十二月待望の大阪国税職組
を結成し、全国税への加入をかちとりました。
 このときの組織人員は三二,一〇〇名でした。
 「大阪もできた。もう油断がならない」との大槻次長が団交の席上で発言
したことばは、弾圧政策に転換した当局の態度を示したものと言えます。
 春闘は、一律二,〇〇〇円賃上げ、勤評阻止、損失補填、事務量へらせ、
雇の全員任官、税理士法改正などを要求し、官公労と統一して二月二十五日
を山にしてもりあげ、二月二十五日に全国一斉の職場大会を開くことを決め
ました。
 闘争体制の高まりに当局は二月九、十、十一日局長会議、二月二十一日緊
急総務部長会議を開き、組合の弾圧方針を決定し、準備をはじめました。
 当局は二月十六日、回答と同時に、二月二十五日職場大会に対する警告を
出し、中央団交を拒否、都内職制を通じて東京都内の職場大会を切崩してき
ました。
 東京は機関を招集し、実施を再確認しました。
これに驚いた当局は、署長、総務課長会議を開いて「実力行使を許したら首
だぞ」とおどかし、署長を監視するため督戦隊八〇名配置しました。
(以上98/05/5追加 本文34ページ〜36ページ3行目まで)


二月二十五日の全国一斉職場大会は二〇五支部が決行東京国税局支部では、
大槻次長の陣頭指揮で大会効害のため中庭に自動車とスピーカーを配置したの
で、戦術を変更し、従来通りの各部屋毎の職場大会を行い、決議した要求決議
文を局長室に持って行きましたが、局長は面会しないので、決議文を読みあげ
て引返しました。
 当局は、翌々日速報をもって「国税東京のみ違法戦術を行使」の大宣伝を開
始しました。組合は第二波を決行しました。
 三月三目の団交で「全員任官、超勤二十五時間増配、昇格三、○○○名増加、
調整号俸一、二〇〇名補正、税理士法改正上提」を回答、三月十六日賃金カッ
トを京橋、茂原、練馬、武蔵野支部の二七〇名に行ってきました。そして、当
局は、三月二十四日(土曜日)石田望君の免職と外三名の停職、訓告処分を加
えてきました。
 全国税は日財結成以来の弾圧に対処して、臨時大会を開き、弾圧の狙いと闘
争方針、犠牲者の救援、勤評撤廃闘争の最終段階に対処する方針を決定しまし
た。
 大会終了の翌四月十六日、当局は勤評実施規定発表、その後宣伝、職制の統
制を行い、五月二十一日を評定日、三十一日までを評定期間として、一人一人
に業務命令をつけて全国一斉に実施してきました。
 全国税はこの段階で情勢を検討し、全国統一して命令を拒否できない、全労
働者のものになっていない、新たに大規模な弾圧を準備しているため、ここで
組織の団結を守る立場から戦術転換することを五月二十一日に決定しました。
この闘争のなかで「国税のうた」「明日は我らの手のなかに」がつくられまし
た。
 当局の反共を旗印にした全財労組への分裂攻撃は合理化のまえぶれであった
し、すべての国税労働者は、既得権はくだつ、首切り、労働条件切下げなどの
攻撃を受け多くの犠牲を払う結果になりました。しかし国税労働者はどんな困
難があってもそれを一つ一つ克服し、再び戦闘性を回復し、統一行動の発展の
なかから組織的統一をかちとりました。
 その統一行動のそしきは、思想、政治信条の違いにかかわりなく、具体的な
要求で一致させ、職場から団結して闘ったことでした。
 また一貫して私たちの生活、権利を破壊し、分裂攻撃をかけ、苦しめている
ものが政府、資本家、特権官僚だということが事実を通じて明らかになりまし
た。
(以上98/05/16追加 本文36ページ4行目〜37ページ)


テキスト化の記録

98/3/19現在 9/85頁まで掲載  98/3/21現在 11/85頁まで掲載  98/3/21現在 13/85頁まで掲載
98/3/26現在 15/85頁まで掲載 98/3/27現在 17/85頁まで掲載   98/4/10現在 19/85頁まで掲載
98/4/10現在 21/85頁まで掲載  98/4/10現在 23/85頁まで掲載  98/4/11現在 25/85頁まで掲載
98/4/25現在 27/85頁まで掲載  98/4/25現在 29/85頁まで掲載  98/5/3 現在 31/85頁まで掲載
98/5/4 現在 33/85頁まで掲載  98/5/5 現在 35/85頁まで掲載  98/5/16 現在 37/85頁まで掲載
98/5/17 現在 39/85頁まで掲載、98/06/13 41/85掲載、98/6/13 43/85掲載、


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  OCRを使ってテキスト化するしていく予定ですが
  いつ完了するか見通しもたちません。とりあえずはじめました。