主婦たちに受継がれる数珠繰りの行事  2012.08.24
 地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の執筆資料を求める過程で、「我が町山口」というビデオのコピーを入手した。約30年位前に作成された山口町の紹介ビデオである。この中に毎年、名来の正明寺本堂で行われる「数珠繰り」の行事が紹介されていた。2年前に「山口町史」が刊行され、この数珠繰りについての次のような謂われを知った。
 「正明寺境内に一体の地蔵尊が祀られている。(略)戦前は西生寺の東隣りで祀られていた。(略)戦後、正明寺境内に移され、お堂が建てられ現在に至っている。地蔵尊が正明寺境内に移されてから地区の主婦によって地蔵講が構成された。(略)毎年、8月24日には、零歳児から献じられた地蔵提灯に灯をともし、(御詠歌をあげながらお数珠繰りを行い)、盆会を営む」
 その24日がやってきた。ぜひこの目で昔ながらの行事を見ておきたいと思った。午後1時半頃に正明寺に着いた。境内右手の地蔵堂は扉が開けられ、お堂前には零歳児の名前の書かれた色鮮やかな地蔵提灯が幾つも吊るされている。本堂では既に20名ほどの主婦たちによって数珠繰りが始まっている。ビデオでは正座して行われていた数珠繰りだが、現在はパイプ椅子に座って営まれている。
 取材の許可を得るため話し声の聞こえる庫裏に回った。年配の世話役さんらしき方と話ができた。取材の依頼に快諾を得た後、数珠繰りが御詠歌に合わせて2時間ばかり続くことや、名来の地蔵講の講員が現在は31軒にまで減少したことなどを聞いた。
 本堂に上がって、仏壇前でお参りした後、カメラを向けた。何人かの知人の顔もあり幾分ホッとした。大きくて長い輪になった一連の数珠を御詠歌を唱えながら手送りで回していく。白い布で覆われた大玉が巡ってきた時は頭を下げて礼をする。しばらくすると一区切りついたようで休憩となった。知人の内、お二人が立って来てもらった。挨拶を交わして雑談した。地域の昔ながらの行事を知人たちが守っている様子に心安らぐ思いがした。
「平尻道(へんじりみち)の地図帳」の発刊 2012.07.18
 先日、地元山口の郷土史研究の第一人者である橋本芳次さんから、発刊されたばかりの著作「平尻道(へんじりみち)の地図帳」を戴いた。サブタイトルに「そのルートの確認を中心として」とある。
 平尻道は、江戸時代に大坂と丹波を結んだ丹波街道の一部であり、山口町の北部を横断していた。西国三十三所巡礼の街道としても活発な往還があったことから、私の「HPにしのみや山口風土記」でも「山口の西国巡礼街道」として紹介している。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sansaku-junrei-kaidou.htm
 今回の橋本さんの著作は、この平尻道の古来のルートを踏査、聞き取り、文献調査によって丹念に検証し、解明できた事項を地図帳として整理された労作である。大正10年生まれで90歳を迎えた橋本さんにとって、それは大変な根気と気力、労力を要する営みだったに違いない。永年主宰されてきた名来郷土史研究会のメンバーたちのサポートも大きかったと思われる。
 内容は、市井の民間人の著作の域を超えて極めて実証的で学研的であり、関係するテーマの研究者にとって貴重な資料となるものである。最初に平尻道の「名称について」の解説があり、続いて「沿革」が「起こり」と「変遷」に分けて述べられる。いずれも郷土史誌や江戸期の国絵図などの文献にもとづく解説である。
 次に、本論の「ルートの現況と問題点について」が、道場平田との境の始点から名塩赤坂との境の終点まで丹念に綴られる。略地図や踏査写真をふんだんに織り込んだ詳細な検証が続く。「平尻道の始点である道場平田と名来の境の地点の確定」「名来山中の鍛冶屋の屋敷跡付近のルート確定」「名来山中の向坂の地蔵型道標付近の分岐点の整理」といった点など、平尻道のルート確定に伴う9か所の問題地点の克明な調査分析の結果が報告されている。
 最後に、街道が果たした沿道での繁昌ぶりを「川辺郡米谷村の米・薪の仲買商人の商い状況」「東久保の旅籠と牛宿」の事例を挙げて紹介される。その上で、今後のテーマとして「平尻道の果たした役割」「参勤交代で通行した歴代三田藩主と平尻道との係わり」「鍛冶ノ辻に鍛冶屋が居住していた理由とその後」「向坂地蔵尊の縁起、西国巡礼の巡行状況」があげられている。
 巻末には江戸期の絵図6点、国土地理院所蔵の旧地図2点、西宮市発行の年代別の地図5点も収納されている。地図のそれぞれには橋本さんとそのグループが推定した平尻道のルートが描かれている。また第6地図には本文記述の問題地点も明示され、実際に何度か歩いた者だけでなく、これから実地に歩いて研究しようとするする者にとっては貴重なデータになる筈だ。
 著作には「礼書」として橋本さんの謝辞と謹呈の辞が添えられている。末尾に「今後とも、余生を、郷土の先人が残された生活文化の跡を探求し、温故知新による郷土の豊かさの増進に役立っていきたいと願っています」と記されている。齢90にして尚、こうした言葉を言わしめる氏の情熱とひたむきさに敬服する他はない。 
公智神社拝殿前の松の巨木の古写真 2012.03.20
 昨日、下山口の旧家を訪ねて昔の写真をお借りした。今朝、お借りした写真を子細にチェックして嬉しい発見があった。このサイトで公智神社の絵図に描かれた拝殿前の松の巨木のことを記事にした。なんとこの松の巨木が実際に拝殿前に聳えている写真があったのだ。
 写真屋が撮影したもので装丁された台紙の裏に「大正四年十一月十六日 御即位大禮式大郷會 公智神社前二於テ」との文字がある。祭典行事のひとつだった村芝居の出演者一同が公智神社拝殿前で写した記念の集合写真と思われる。
 絵図に描かれた位置と同じ拝殿前の向かって右寄りに松の巨木の幹が画像をはみだすように突き抜けている。当然ながら拝殿自体も改築以前の木造瓦葺の建物である。拝殿前には今はない木の鳥居も写っている。
 大正4年といえば一般にはカメラなど所有していなかった時代である。写真屋に高額な支払いをして初めて可能だった写真の筈だ。公智神社という式典の会場前での記念撮影という偶然が重なってこの写真が奇跡的に残された。絵図を見ていなければ見落としていたと思う貴重な写真だった。それだけに嬉しい発見に無邪気に喜んだ。
続・絵図に見る昔の公智神社の姿  2012.02.15
 昨日の朝、絵図を返すため公智神社を訪ねた。あいにく禰宜さんはお留守で、来意を告げるとお父さんの宮司さんが出てこられた。とっさにこの幸運に感謝した。60代後半と思われる宮司さんはこの絵図について禰宜さんよりはるかに詳しい情報が得られるにちがいない。早速、絵図を示しながらお訊ねし、次のようなことが分かった。
 現在の旧神輿殿と対をなす本社南の神楽殿では昔から御神楽が舞われていた。大永松は幹周り1m以上、背丈2.5mほどの切り株で屋根で覆われていた。これよりも大きな松の巨木が拝殿前に立っていた。確かに見落としていたが拝殿の高さの3倍ほどにも高く描かれた大樹がある。
 続いて今朝、いつも昔のことをお聞きしている地元の91歳の最長老のお一人に電話で同じ絵図のことを訊ねた。概ね宮司さんの話に重なったが、ひとつ分かったのは少なくともこの絵図が昭和4年以前の作成である点だった。絵図の左下には現在も建っている円柱の社標石碑「式内 公智神社」が描かれている。その左には当時の下山口の倶楽部の建物が見える。昭和4年に公智神社が懸社に昇格したのを機に倶楽部が御旅所になったという。従ってこの図は少なくとも昭和4年以前の姿と言える。
 またお二人とも拝殿前石段上の砲弾と思われる左右の敵弾の記念碑は全く記憶がないとのことだ。大正9年生まれの91歳の古老に記憶のない砲弾は恐らく大正末以前に撤去されたものと言えそうだ。少なくとも軍国ムードの強かったと昭和10年代に設置されたものではないことはお二人の証言が裏付けている。
絵図に見る昔の公智神社の姿  2012.02.14
 事前にアポを入れ、公智神社に禰宜さんを訪ねた。公智神社HPに掲載の昔の神社境内の絵図を山口フォトコンテスト展示用にお借りするためだ。朝9時に社務所応接室でお会いし、印刷された所蔵の数枚の絵図の1枚をお借りした。自宅に戻り、縦16.5cm、横24cmの絵図をスキャナーで取り込むと読み取りにくかった由緒書きの文字もかなりよく読めた。この絵図から次のような様々なことが読みとれた。
 まず絵図の標題は「摂津國有馬郡下山口村・式内郷社公智神社境内圖」とある。「山口村誌」によると公智神社の郷社格加列は明治12年(1879)であり、郷社から懸社格への加列は昭和4年(1929)である。従って、この絵図に描かれた境内の様子は昭和初期以前の姿を写しているものと推定される。
 次に今の境内には見られないいくつかの建造物がある。本社南側の旧神輿殿と一対をなす神楽殿の存在、萱葺の本社や長床、瓦葺の拝殿、拝殿南側の「大永松」の高い切り株、拝殿前の木の鳥居の存在などである。大永松については山口町史に大永2年(1522)に社殿が再建されたとあり、この時代の名残りをとどめる老大木と思われる。その他「敵弾」と名付けられた砲弾が拝殿前の左右に描かれている。この違和感のある記念物が軍国ムードの強い昭和10年代の設置物とすれば郷社の標題と矛盾が生じる。これらの現存しない建造物の多くは、昭和49年の本社、拝殿、社務所の大改築により姿を消したようだ。
 由緒書きの記載者は松原嘉平とある。村誌によれば明治22年(1889)に山口村初代村長に選ばれ、その後明治38年(1905)に公智神社宮司となった人物である。由緒書きには「山口荘(名塩、生瀬、船坂、湯山、中野、上山口、下山口、名来、平田、生野)の総社にして」という注目すべき内容が記されていた。当時は上記10ケ村を総称した山口荘の呼称が残されていたとことや公智神社が現在の中野、上山口、下山口、名来だけでなくもっと広範囲なエリアの氏神だったことが推定される。
 1枚の絵図から今は見ることのできない様々の事象を垣間見た。 
公智神社の大鳥居は市内最大か? 2012.02.08
 今朝9時前に公智神社を訪ねた。境内には西宮市立郷土資料館のスタッフFさんの姿があった。コンベックス(巻尺)では測れない参道の大鳥居などの高い石造物の計測を行うためだ。早速二人で伸縮式の全長3mの棒状の道具で計測にかかった。ところがこの道具をもってしても大鳥居の高さは測れないことがすぐに分かった。やむなく隣接の民家のブロック塀に登り、鳥居の二層の水平材の下側の貫(ぬき)の下面に計測棒の上端をつけ、下端をコンベックスで計測した。その結果、貫の下面から地上までが506cmの実測値が得られた。帰宅後、鳥居の写真をプリントし、実測値の比例按分方式で鳥居の中心部の高さ668cmの計算値を推定した。尚、柱と柱の中心点の実測値(大鳥居の幅)は554cmだった。Fさんの話では「これまでどの鳥居でもこの計測棒で測れないものはなかったので、恐らくこの鳥居は市内で最も大きなものではないか」とのことだった。
 その後、別の石造物を案内してもらうため禰宜さんにお会いした。鳥居の規模の大きさを話すと、その大きさの理由を教えて頂いた。秋祭りにこの鳥居の下を壇尻が通過するためだった。山口の7基の壇尻の内、最大のものは1895年建造の幅1.8m、長さ3.2mの下山口の壇尻である。高さは3mを優に超える。毎年秋祭りの御旅所からの引き回しでこの鳥居下を通過する。1940年建造のこの鳥居は、当然、下山口大壇尻通過を前提にその規模が決められたにちがいない。禰宜さんの話では以前、西宮神社での引き回しに参加した下山口の大壇尻が、高すぎて赤門をくぐれなかったということだ。赤門を上回る公智神社の大鳥居の大きさを実感した。
公智神社裏山の卵塔場  2012.01.09
 市立郷土資料館の学芸員さんと一緒に公智神社の禰宜さんに案内していただいて神社裏山にある卵塔場の石造物調査を行った。卵塔場とは、卵塔と呼ばれる僧侶の墓石として使われた卵型の墓石のある墓所のことである。「山口町史」の巻頭の写真集に「神仏習合の時代、公智神社の境内に法楽寺と呼ぶ真言宗の寺があったが、いまは歴代住職の墓所だけが神社の裏山の一角に残っている」というコメントとともにその写真が掲載されている。
 法楽寺については「山口村誌」や「山口町史」でも以下のような内容の記載がある。『江戸期の神仏習合の時代にあって公智神社境内(現在の社務所南側とされる)に宮寺・法楽寺があった。従来、同寺の住職が公智神社の神職を兼ねていた。ところが慶応4年(1868)に明治政府により「神仏分離令」が発令されたため、当時の法楽寺住職であった源恵は名を公地権之輔と改め還俗し神主となった。以降、公智神社の祭祀や運営も日本古来の神道に立ち返り、神仏を整然と区別するものとなった。一方で神仏分離令は廃仏毀釈の運動を全国で展開させるきっかけとなった。また法楽寺は明治初年には壇家の減少により廃寺となったが、わずかにその名残りが公智神社裏山に歴代住職の墓として残されている』。裏山の卵塔場は以上のような歴史的背景を物語るものだった。
 公智神社境内の裏道を通り、踏み跡で辛うじて道筋の残る山道を登り、裏山頂上に辿り着いた。案内がなければ到底分らない場所だった。7基の卵塔を中心に14基の石造物が建っていた。卵塔には僧侶の位階を示す法印の文字が刻まれ、歴代住職の墓石であることを窺わせている。石造物に刻まれた年号には江戸初期の「寛永」などの文字が読み取れる。法楽寺の存在は明治初年までであり、当然ながら歴代住職の墓石はそれ以前の江戸期の建立である。正面右手に直角に並ぶ3基の石造物の真ん中の石仏が気になった。宝篋印塔の上部の石仏には頭部が欠けていた。風雨や倒壊による破損とは思われない切り口だった。学芸員さんによれば、「廃仏毀釈の運動による破壊の典型」のようだ。歴史のうねりの物証を目の当たりにした。
 14基の石造物の高さ、幅、奥行きのそれぞれを手分けして計測・記録した。調査を終え、枯れ草に覆われ滑りやすい下り道を降りた。学芸員さんの話ではこの卵塔場は郷土資料館でも詳細は把握できていないようだ。地元在住の歴史調査団メンバーとして貴重でやりがいのある調査に少し誇らしさを感じた。 
山口伝統の「しめ縄づくり」  2011.12.11
 伝統の「しめ縄づくり」をやるという情報を得て、朝9時に下山口会館に行った。会館前の空地には大勢の下山口の男性たちと山口中学の女生徒たちの姿があった。広報の腕章をつけ報道用のビデオカメラを抱えた人たちの姿も見える。西宮市の広報とケーブルテレビの取材陣だった。
 自治会長の挨拶の後、参加者たちの「しめ縄づくり」の作業が始まった。まず用意された沢山のワラ束をほぐしてワラの袴やクズを取り除き30本ばかりを丁寧に揃えていく。揃えたワラ束を木つちで叩いて柔らかくする。しめ縄条に編み上げやすくするためだ。柔らかくなったワラ束はブルーシートを敷いた作業場で待ちかまえるベテランのオジサンに渡される。芯になる細いしめ縄が編み上げられる。芯縄は横に立てられた3本の垂木で組まれたやぐらで何本ものワラ束が加えられ太く長く編み込まれる。出来上ったしめ縄の飛び出たワラのひげをハサミで切り取って出来上りである。
 知人から話を聞いた。「しめ縄は公智神社と丸山稲荷神社に奉納される。公智神社境内の末社用もあり、合わせて約20本が作られる。公智神社氏子である旧山口村の4カ村が毎年この時期に持ち回りで担当することになっている。近年は各村とも作り方が伝承されなかったり作り手が不足したりして自前でできなくなりつつある。下山口だけが今尚こうしたしめ縄づくりを継承している」。
 おそらく西宮市内では珍しい伝統行事なのだろう。だからこそ市の広報やケーブルテレビの取材もあったと思う。稲ワラに象徴される農耕文化を色濃く残した「しめ縄づくり」の行事が、西宮の田舎・山口で辛うじて息づいていた。 
野ざらしの硅化木  2011.11.14
 面識のある公民館活動推進員の方から耳寄りな情報を得た。「自宅近くの田圃に大きな珪化木が野ざらしで置かれている」とのことだった。
 山口の地質の大部分は神戸層群である。神戸層群は、砂岩、礫岩、凝灰岩などで構成され、凝灰岩の中には植物化石がたくさん発見されている。この植物化石が珪化木で、公智神社周辺などの山口の西北部で数多く発見されている。推進員さんの話では最寄りの造成工事などで最近発掘された珪化木が放置されたものだという。
 その野ざらしの硅化木を訪ねた。国道176号線の新明治橋南詰の有馬川歩道沿いを南に進み、平成橋を過ぎて的場建設のビルの手前を左に折れた。左手の田圃の畦道にそれらしき巨石があった。巨石の東側からは西方向に明徳寺の甍が臨める位置である。
 高さ1.2m幅1.3m奥行き0.7mの角ばった珪化木が数個の岩石と並んで放置されていた。公智神社や山口郷土資料館に保存されている珪化木に較べても遜色ない大きさである。キチンと手入れすれば立派な庭石にもなりそうだ。発掘した地主はこの巨石が珪化木と承知していないのだろうか。承知していても処置費用等の問題であえて放置しているのかもしれない。国や自治体の天然記念物に指定されている場合もある。そんな珪化木が目の前で野ざらしで放置されている風景を物悲しさを覚えながら後にした。 
伝統芸能の伝習(袖下盆踊り中央大会)  2011.08.17
 袖下盆踊り中央大会というイベントを見学した。山口町古文化保存会が主催し、名来、下山口、上山口、中野、船坂の旧山口五村で構成する自治会連合会と連合婦人会が協賛する行事である。二年に一度、山口中央公園で開催される。旧五村各地区の盆踊りは8月13日から24日に渡って順次開催され、この中央大会はちょうど真ん中の時期に開催されるようだ。8月初旬に山口ホールで三日間の袖下踊り伝習会があり、伝統芸能の伝習が行われている。
 7時30分開会の会場には、公園の縁にテントが並び中央に櫓がたっている。各地区の盆踊りでは見られる夜店のテントはない。そのためか開会前の会場に人影は少ない。櫓前に設置されたマイクに司会者が立ち開会が告げられた。櫓には各地区かの喉自慢の音頭取りたちが伝統の大小二つの太鼓を囲んでスタンバイしている。
 音頭取りの唄が太鼓に合わせて始まった。櫓を囲む浴衣姿の輪が動き出す。次第に輪が大きくなり踊り手の人数が膨らんでいく。輪の外では学校の先生など地区外の参加者の見よう見まねの身ぶり手ぶり姿が見受けられた。
 ひとしきりデジカメでデント行事の風景を撮影した。合間に見物に来た同じ住宅街の知人や面識のある旧地区の知人たちと雑談を交わした。テントの中では来賓や各地区の長老たちが缶ビール片手の懇談風景があった。旧知の長老の一人と話しこんでいるとテーブルに缶ビールが運ばれ一緒にごちそうになった。
 袖下踊りは市の無形民俗文化財に指定されている伝統芸能である。多くの伝統芸能が伝習者がいなくなって消えていっていると聞く。山口の袖下踊りの伝習が各地区の盆踊りだけでなく、二年に一度の全地区合同の中央大会開催という行事も含めて維持されている。 
名来山中の丹波街道沿いの鍛冶屋跡  2011.06.05
 郷土資料館の歴史調査団メンバーになって、山口にある神社の石像物調査を行うことになった。今日10時半頃に2回目の調査のために名来神社を訪ねた。
 調査を開始したばかりの時に、名来の方から三人のオジサンが愛宕橋を渡ってやってきた。「コンニチハ」と挨拶したら、「今から丹波街道の鍛冶屋跡に行くけど一緒に行きますか」と返された。旧知の名来の歴史研究会の代表だった方だ。
 聞けば研究会メンバー三人で丹波街道の整備要望を市に出すための調査に行くところだとのこと。丹波街道沿いに鍛冶屋跡があることは知らなかった。刊行された「山口町史」にも記載はなかった筈だ。歴史研究会の講師でもある地元の長老の情報のようだ。「HP山口風土記」管理者としては貴重な情報だった。渡りに船と同行させて頂くことにした。
 名来山中の丹波街道の地蔵型道標に着いた。ここでオジサンたちが写真を撮った後、平田宿方面に向う街道を辿った。案内ポールのすぐ北側の右手の竹藪の中に鍛冶屋の跡らしき史跡があった。今は街道筋のそばに井戸跡のような丸い石組の跡がある。その奥には手水鉢のような石が雨水を湛えていた。更に北側にも丸い石組と壊れた陶器の甕が埋まっていた。確かに人家の跡らしき史跡である。注意して探さなければ分からない竹藪に埋もれた史跡である。しかし何故こんな場所に鍛冶屋があったんだろう。研究会メンバーによると講師である長老の話しでは参勤交代のための街道筋であったことから馬の蹄鉄を造ったり修繕したりしたのではないかとのことだった。ナルホド。
 秋には公民館講座の一環で受講生の皆さんとこの旧街道を歩く予定だ。途中、史跡らしきものといえばお地蔵さんの舟形道標しかない。今回の新たな情報で鍛冶屋跡という珍しい史跡を紹介できる。
 名来神社前であらためてオジサンたちにお礼を述べて、帰路に着いた。帰宅してから石造物調査をすっかり失念していたことに気づいた。 
山口の新名所?丸山のコバノミツバツツジ  2011.04.18
 先日、知人から地元山口町の丸山に群生するツツジの話題を聞いた。コバノミツバツツジという品種で、広田神社がその名所として知られている。ところが丸山に登って、見てきたばかりだという知人の話では、丸山の方が群生規模では上回っているという。そんな情報を得ては、「山口風土記」執筆者としては見過ごすわけにはいかない。好天に恵まれた今日、丸山探訪にでかけた。
 9時45分頃に金仙寺湖の南湖畔に着いた。正面の丸山には薄いピンクのまだら模様が描かれている。湖畔のさくら並木は、散り染めた茶色の茎と散り際のピンクの花びらが葛藤し、名残惜しげなくすんだピンクをまとっていた。
 山道に入るとすぐにコバノミツバツツジの鮮やかなピンクが目に飛び込んでくる。正直いうとこの品種のツツジをつぶさに眺めるのは初めてだった。よく見るとピンクというより薄紫に近い。木によってはその色合いにも濃淡があるようだ。山道の両脇に塊になって群生している。
 山頂近くに金仙寺湖と湖畔のさくら並木を一望できる絶好のビューポイントがある。裏六甲の山並みをバックに、松の樹越しにコバノミツバツツジと鏡のような湖と湖畔のさくら並木が名画を思わせる風景をつくっていた。山頂の稲荷神社境内で少し休んで、稲荷神社本社横に出る西側ルートで降りた。山頂まで往復30分ほどのハイキングだった。
 丸山のコバノミツバツツジは山口の新しい名所になるだろうか。
旧街道の案内ポールの設置 2011.03.03
 朝の散歩道の有馬川東岸の名来墓地の前に見慣れないポールが建っていた。近づいてみると丹波街道の文字が見える。黒塗りの木製ポールの白い地紋に楷書体でくっきりと書かれている。設置者は山口町徳風会だった。
 かって丹波街道の一部である平尻街道が名来山中を通過していた。以前に山中に道標があると聞き、熊笹をかき分けながらかなり苦労して辿り着いた。案内ポール設置で今は整備されているかもしれない。墓地前の畦道を辿って山中に向った。前回は途中で道がなくなり先に進むことを断念したルートだ。道のあちこちに竹の新しい切り株があり、明らかに整備された様子が窺がえる。三叉路を右に進んだ時、見覚えのある石碑が目に入った。お地蔵さんを刻んだ舟形の道標だった。前の苦労が嘘のように楽々と辿り着いた。道標前の旧街道を西に向い金網で囲まれた関西電力の敷地横を通って名来神社横の道に出た。
 思いついて公智神社に向った。この近くの旧街道のひとつに播磨街道がある。公智神社と光明寺の間を抜ける道がそれだ。行ってみるとやはり「播磨街道」の案内ポールが光明寺側に設置されていた。
御旅所の二本杉の伐採 2011.03.02
 公智神社前から御旅所方面に宮前通りを歩いていた。何気なしに前方右手に視線を移して仰天した。二本杉の北側の一本が全ての枝が払われて丸坊主になっているではないか。すぐそばにはクレーン車の長い腕が空高く聳えている。今も作業が続行しているようだ。
 クレーン車のそばで作業員二人が相談している。「ここに引っかけたらこっちに倒せるから」とか言っている。丸坊主にするだけでは済まないような会話である。その横で交通整理をしているガードマンに訊ねた。「あの杉は引き抜かれてしまうんですか」「そうや。何しろ根が張出してしもうて、石垣が崩れそうで危険なんやそうや」。
 ショックだった。市の保護樹木にも指定されている樹高15m、幹周り2mの巨木である。何よりも公智神社の御神輿を戴く台座の左右に聳える二本杉は、御旅所の威厳を保持する貴重な存在だ。その二本杉が無残にも引き抜かれてしまうとは・・・。
 個人的な想いを抜きにすればやむをえないのかもしれない。二本杉は石垣に囲まれた100坪ほどの狭いスペースに立っている。あの巨木を支える根元がどれほど太く深く張っているかは想像に難くない。石垣をも突き崩すほどの強力な生命力なのだろう。放置することで通行人の身体や生命に危険を及ぼす懸念も否定できない。それでもやっぱり無念さは消えない。明日にはなくなるだろう二本杉をしみじみ眺めた。
 後日、この件についての詳細を公智神社神社の公式HPで知った。
「山口町史」の発刊 2010.09.10
 7月に発行予定だった地元財団法人・山口町徳風会発行の「山口町史」が9月10日にようやく出来上がってきた。
 山口には昭和48年3月発行の「山口村誌」がある。こちらの発行者は当時の西宮市長であることから形式上は市の発行書籍といえる。これに対し「山口町史」は徳風会が発行者である。「山口町史」発行の趣旨は、編集後記で「山口村誌」の内容を補追し、村誌発行以降の事象を増補するものと記されている。また関係者から「町史こそ純粋に旧山口村住民の手になるものだ」とも聞かされた。それだけに「町史」には「村誌」にない「想い」が記述の中や行間に籠められている筈だ。「山口町史」と「資料編」それに昭和25年頃の地図に「大字別溜池位置図」が付いている。
 ただ山口村「誌」から山口町「史」になぜ変わったのだろう。この点については何も触れられていない。内容的にはいずれも「歴史・沿革」と「産業、風物、生活等」で構成され、単なる歴史書というより郷土誌の色彩が濃いように思われ、「山口町誌」であっても差支えはなかったようにも思う。
 いずれにしろ、山口町史の発行は私のHP「にしのみや山口風土記」の多くの部分にも修正や追記を迫るものである。それはそれで新たな魅力的な課題でもある。じっくりと町史を読みこみながら取り組むことにしよう。