2006年12月20日 我が身を襲った災厄の始まり
我が身を襲った突然の災厄に愕然とした。2-3年前から右手親指の爪の内側が黒ずんでいた。単なる打撲の内出血だろうと高を括って放置していた。痛み等の自覚症状も全くなかった。ところが黒ずみはだんだんと増殖し爪を持ち上げるまでに膨らんできた。これは尋常ではないとさすがに不安に駆られてきた。
 12月19日、職場の最寄の皮膚科で初めて受診した。「爪の下の黒ずみは気になる症状で、大病院での精密検査が必要」とのこと。翌20日、紹介された大阪市大病院の皮膚科外来で診察を受けた。外来初診の女医の「異常な症状で悪性の恐れがある」との診断に言いようのない不安が募る。 そのまま専門医に引き継がれて再診される。「悪性黒色腫という一種の皮膚癌の疑いが極めて高いのでそれを前提に精密検査をします」「指先の切除手術は避けられず、1ヶ月以上の入院が必要です」
 ガーンと頭を殴られたかのような気分とはこういう場合をいうのだろうか。何ということだ!深刻な病がいつの間にか我が身を蝕んでいたのだ。「悪性?」「黒色?」いかにもオドロオドロしい響きの病名ではないか。「生死にかかわるような症状なんですか」。抑えきれない心の動揺に上ずった声で尋ねる私に、若い専門医は冷静な口調で答えた。「内臓への転移の有無や度合いでその懸念もあります」「検査結果次第です」
 長くなるかもしれない私の闘病生活の始まりのひとこまだった。
2007年1月24日 禍福はあざなえる縄の如し
今日、市大病院で診察があった。昨日の胸部CT検査の結果が知らされた。「懸念された肺と両腋下リンパ節への転移は見られませんでした」とのこと。ヨカッタッ〜。あとひとつ26日のPET検査が残されているものの、ひとまず最悪の事態は避けられたようだ。
 一息ついてようやくブログに向かう気力が湧いてきた。この際、冷静に我が災厄と向き合ってみるのも悪くない。ふと先人の残した格言が浮かんだ。「禍福はあざなえる縄の如し」。ヨッシャー!これで行こう!
2007年2月13日 入院の日の治療方針説明
 いよいよ入院の日がやってきた。
 談話室で昼食中に、製薬会社のMRをしている息子がやってきた。職業柄、医療知識は人並み以上にある。今日の主治医による治療方針説明に立ち会ってくれるためだ。
 14時15分、治療方針説明が始まった。明後日の手術では、まず指先患部から1cm程度下で切除し傷口を仮止めしておく。手術後、患部細胞の病理検査を1〜2週間かけて行い、その結果次第でさらに下まで切除したり、腋下リンパ節の切除手術の是非判断が必要と告げられる。いずれにせよ2度の手術は避け難いということのようだ。説明中に息子は、私が不安に思っていたことを上手に医師から聞き出してくれた。いずれにしろかくなるかうえは医師に身を委ねるほかはない。
2007年2月14日 初回手術の前日
 入院二日目である。治療の方は、入院直前に再発した眼病の診察を受けた。ポスナーフェロスマン症候群という病である。左目の眼圧が一時的に急上昇し、光を見ると周囲に輪ができてかすんで見えるという自覚症状があらわれる。直前の眼科の診察で45もあった左目眼圧は、この間の眼圧降下剤の点眼薬の効果で13にまで下がっていた。
 内科の診察もあった。PET検査で見つかった大腸の2カ所の集積は、入院前の内視鏡検査で単なる生理的なものと判明したが、念のため腹部のCT検査もしておく方が良いとの内科の医師の判断だった。
 明日の手術に備えて主治医のツベルクリン反応のテストがあったり、術後の点滴の実施等の説明もあり、いよいよ山場がひたひたと迫ってくる。
2007年2月15日 さらば!指先
 手術の日である。11時過ぎに妻がやってきた。2度目の来訪である。12時20分、看護師さんが押してくれる車椅子に乗せられて4階の手術室に向う。入口で手術担当の看護師さんに引継がれ、手術室に入る。そこは手術室ゾーンともいうべき広大なスペースだった。真ん中に主通路が走り、左右に手術室が20室以上も並んでいる。この病院全体の手術室のようだ。車椅子が一番奥の部屋に入る。サークル状の手術灯の下に置かれた手術台が処刑台のように見えるのは気のせいだろうか。 
 手術前の台の調整や各種の検査や担当者の打ち合わせやらの準備が続く。執刀の主治医と指導教官らしき医師、若手の医師の3人の担当医が揃った。右手と上半身の間のフックに掛けられたバスタオルが、局所麻酔で意識のある患者と手術の残酷な現場を遮断している。「それでは始めます」と主治医が告げる。高まる緊張感は覆い難い。
 親指の付け根に麻酔が注射される。ピンセットで摘ままれた指先の痛みが感じなくなるまで何本も施される。歯医者で経験する筋肉が物体化したようなあの何とも言えない感触が指全体を包む。切除部位の確認やマーキングを打ち合せる会話が耳に入る。メスが入れられた様子だが、痛みは全くなく殆ど感触もない。ガリガリと骨を削るかのような音と感触だけが伝わってくる。かなりの時間が経過した。突然、甲高い機械の回転音が耳に入る。何回かに分けて断続的に回転音が続く。指先の骨が切断され、永遠の別れを迎えた瞬間だった。
 その間、ピッ、ピッ、ピッという心拍音とともにドラマでよく目にするそのモニター画像と、足首につけられた血圧計の5分おきに測定される圧迫感、そしてクラシックのBGMの流れだけが時を刻んでいた。思った以上には平静な気分で時を過ごしたと思う。「終わりました」と告げられた時、手術経過時間を表示したデジタル計器のカウントは57分を表示していた。
 右手を覆っていたカバーが除かれ、初めて右手の親指を眺めた。包帯で何重にも包まれた親指は既に2時間前のものではない。これから関節から先のない右手親指との長い付き合いが始まる。利き手だけに日常生活の不便さは想像以上のものがあるに違いない。切除した患部細胞の病理検査結果によっては更に苛酷な治療があるかもしれない。今は唯、これが与えられた現実として冷静に受け止めるほかはない。初期診断時の命に関わる懸念が払拭され、ようやくここまで病状が確定したのだから。
2007年2月20日 初めて見た切除後の指先
 入院8日目、そして手術後6日目である。手術後初めての傷口のガーゼ交換の日だ。昨日の主治医の回診の際に「術後5日間ほど経過し傷口が安定してから交換する」と告げられていた。15時前に看護師さんから連絡があり、部屋の斜め向かいの処置室に入る。執刀医と若手の担当医のお二人が待ち受けている。
 処置用ベッドに右腕を乗せ、手首の下には据置きクッションが敷かれ、手のひらの下にはステンレストレイが置かれて準備完了。患部に何重にも巻かれた包帯の中心部は滲み出た血を吸って赤黒く染まっている。包帯を解いた後には、糸で縛られたガーゼが、乾いた血糊を含んでカチカチに固まって幾重にも覆っている。固まったガーゼの束をほぐすため消毒水がたっぷりかけられる。ピンセットとハサミを持った担当医が柔らかくなったガーゼを上から丁寧に取り除いていく。傷口にくっついたガーゼが引っ張られる度に鋭い痛みが走る。脂汗が滲んでくる。最後のガーゼが除かれた時、緊張感がピークに達し、一気に脂汗が噴き出たのが自分でもわかった。「気持ちが悪くなるようだったら目はそむけておいて下さい。失神する人もいますから」という担当医の言葉に「大丈夫です。見ておきたいですから」と答えた。
 それは信じ難い光景だった。ホラー映画を見ているような光景だった。関節から先の指先の上半分が見事に抉れている。その赤黒いグロテスクな肉の形に思わず唾を飲み込む。「傷口そのものはキレイな状態で安定しています。もちろんこのままの形でなくだんだん指の形に整えていきます」との医師の言葉に幾分慰められる。
 傷口を消毒し、真新しいガーゼと包帯が患部を包む。今後は2日に1度の頻度で交換するとのこと。2日毎にこの醜悪な肉体の一部にお目にかかれるわけだ。
 ついでながら、昨日の上腹部CT検査の結果も告げられた。「特にどこも問題はありませんでした。後はPETでも検査できなかった脳のCTをしばらくしてやります」
 約15分の包帯交換だった。精神にダメージを与えた刺激的な時間だった。
2007年2月22日 傷口との二度目の対面
 入院10日目となった。2度目のガーゼ交換の日である。3時過ぎに処置室に入る。今日の担当医師は手術に立ち会った若手の先生のみである。それだけ症状も安定したということかとポジティブに解釈した。初回に比べ、ガーゼの交換処置自体ははるかに簡単に進められる。最後の一枚のガーゼのが除かれ、まごうことなき醜怪な指先が登場する。精神的ゆとりのなかった前回の初めての対面は、垣間見た程度だったが今回は違う。手首を引き寄せてじっくり見つめた。とはいえ脂汗が滲んでくるのはいかんともしがたい。えぐり取られた指先の上部の周囲を糸切れが数本はみ出している。「傷口をカバーしている人工真皮です」と医師の解説。消毒液がたっぷりかけられ、網状の傷口カバーに化膿止めとおぼしき軟膏が塗られる。ガーゼで覆われ包帯が巻かれて終了。
2007年2月27日 暗転
 入院15日目は、それまでの楽観的な気分を一気に落ち込ませる日となった。
 昼食後しばらくして病室を訪れた主治医から腫瘍の病理検査の結果がもたらされた。内容は予想以上に苛酷なものだった。「患部腫瘍の厚さは、事前の予測2〜4mmを越え、4.5mmでした。病期はstageUCになります。そのため親指患部から更に2cm離した切除と右脇下リンパ節切除が必要です。手術後1〜2ヶ月毎に1週間程度の入院による化学療法が5〜6回必要です。今回の入院期間も2カ月程に伸びます」
 30歳前後の若い主治医から淡々と告げられる内容は、入院以来の各種の検査結果をがもたらしたここ数日の楽観的な気分を打ちのめすに十分なものだった。
 「もっと早く気づいて診てもらっておけばよかったんですね」。せんのない繰り言めいた私の質問への医師の回答が、私に気持ちの切り替えを促した。「患部のこれ程の進行にもかかわらず、リンパ節へも内蔵へも転移が見られず、予防的なリンパ節切除ができることことがむしろ良かったと私は思っています」
 深刻な病魔を初めて告げられて2カ月余りが経過した。この間、何度一喜一憂したことだろう。今、検査による症状が最終的にようやく確定した。途中の予測からみれば厳しい結果ではあったが、最初に抱いた深刻な懸念からははるかに好ましい結果ではないか。病魔との戦いは始まったばかりだ。長いつきあいとなるだろう。告げられた内容は、今回の入院を、中途半端な措置でなく、この際抜本的措置を講じることを求めている。長い病魔との付き合いから見れば、この措置が結果的に幸いするに違いない。
 「3名の担当医による正式な治療方針説明は、来週月火のいずれかで行い、手術は3月8日を予定しています」。最後に今後の日程を告げ、クライアントに重大で不本意な通知を行った主治医はベッドを離れた。
 夜、別の担当医の回診があった。昨日の脳のCT検査の結果が伝えられた。「脳の方は全く問題ありませんでした。過去の脳梗塞の跡も見られませんでした」。ブルーな気分にチョッピリ明かりがさした。やっぱり一喜一憂している。
2007年2月28日 驚愕の提案
 病理検査の結果が予想以上に厳しいものだったことを受けて、医師側でも新たな対応を検討しているようだ。
 14時過ぎ、病室に執刀医と若手医師のお二人の来訪があった。メインの用件は、リンパ節切除に際して、切除部位の正確な特定のための臨床試験実施の本人同意を求めることだった。医療現場では世界的にも一般化しているもののまだ厚生労働省の認可を得るに至っていないとのことだ。無駄な切除のリスク回避という点で納得できるものであった。大学病院ならではの先進医療の享受と理解し同意した。
 むしろ同意書にサインした後で執刀医から伝えられた情報の方が、私を驚かせ困惑させた。予想以上の深さの指先切除になることで患者の日常生活への負担を考慮した執刀医は、形成外科の同僚医師の助言を求めたという。整形外科医の提案は、足の指を右手親指の切除跡に付け替えるというものだった。それに伴う歩行上の障害はほとんどなく、右手親指機能の回復というメリットは大きいと想定されるとのこと。
 予想だにしない驚愕の提案というほかはない。@歩行上の障害の懸念A付け替え後の外観B追加手術の負担の懸念C入院期間延長の懸念について訊ねた。@Aについては専門医と直接話せる機会を設ける。Bについては可能な限り指先とリンパ節手術の延長での手術を検討するがそのためには本人の早い決断が必要。Cについては術後2〜3週間のケアが必要。これは手の手術との同時実施なら多少の延長が想定されるという程度か。
 話しを聞きながら内心の逡巡が目まぐるしく駆け巡る。いずれにしろ形成外科の専門医の臨床事例の情報が決め手になりそうだ。その情報を得る上でも今は提案を前向きに受け止めるサインが必要だ。選択肢は多いに越したことはない。提案者に専門医との面談と手術の同日実施の対応をお願いした。
 その後、家族に報告をし意見を求めた。妻も息子も提案には消極的な反応だった。齢を重ねた身にそこまでせずともという想いのようだ。製薬会社のMRである息子に医療機関での情報収集を依頼した。
 息子からの連絡があった。足指の右手親指跡への移植手術の事例情報を得たとのこと。移植後著しい機能回復があり、移植後の手指と足指の外観も多少の違和感がある位で見苦しいものではないとのこと。貴重な情報だった。専門医との面談には前向きに臨むことにしよう。
2007年3月1日提案のあっけない結末
 1週間後の手術に向けて検査が始まった。
 10時前に1階麻酔科を訪ねる。待つほどもなく診察室に入ると女医さんが待ち受けていた。型通りの問診が行われたが、現在歯が1本ぐらついている事が問題となった。「次の手術では全身麻酔が必要。麻酔処置の過程でぐらついている歯が抜け落ちる懸念がある。意識があればそれを自分で排除できるが、麻酔中の無意識状態の場合は、最悪の場合は抜け落ちた歯が気管支に入り込むという危険性もないではない。できれば事前にかかりつけの歯科医で抜歯や固定化の措置を薦めたい」とのこと。
 なるほど全身麻酔ともなれば様々のリスクがあるものだ。ましてや高齢の身に処置するとなると既往症への影響も多くなる。患者本人の自主的なリスク回避の努力も必要と納得した。
 診察後すぐにかかりつけの職場近くの歯科医院に連絡した。「手元のレントゲン写真が2年前のものしかなく正確な診断が難しい。できれば来診してもらい、現状を確認して判断したい」とのこと。明日10時30分の診察予約をした。
 13時過ぎ執刀医の来訪があり、足指の移植手術の病院側の協議結果が伝えられた。形成外科と皮膚科の打合せ会議での以下の結論が、患者側の家族も巻き込んだ賛否を巡る論議にあっけなく終止符を打った。@指先患部の悪性腫瘍切除手術を最優先すべきA切除部分の大きさによる不便さはあるものの患部への連続接合手術のリスクは大きいB患部からの再発の懸念が皆無ではない中での接合は、再発の場合手術自体が無意味になるC接合手術を行うにしても患部の完治が確認される半年後以降が妥当。
 要は今回は患部腫瘍切除に止め、必要なら患部完治後に接合手術を実施することが望ましいということだった。一件落着。
2007年3月5日 切除部位特定の臨床検査
 今日の大きな出来事は昼食後にやってきた。リンパ節切除の手術に向けて切除部位を特定する臨床検査が行われた。12時半に地下1階の核医学という危険な匂いがする名前の検査室に入る。前回手術の際の指導教官だった担当医が、指先患部のすぐ下周囲4カ所に検査用の注射をした。かって味わったことのない痛みを伴う注射だった。注射液の特殊な色素が患部から右脇下リンパ節に向かうリンパの流れを明らかにするとのこと。色素の流れが還流するまで数時間かかるため一度病室に戻る。
 16時に再び検査室に戻り検査台に横たわる。3名の担当医と核医学検査室の技術者4名という物々しい布陣である。レントゲンの断面写真撮影用の検査台につながれた4台のモニターを眺めながら関係者の確認作業が続いている。最後に右脇の切除部分の肌にマジックペンで9カ所にマーキングが行われ1時間余りの検査が終了した。病室に戻ってすぐに近くの処置室でマーキングが消えないよう薄い皮膜状のシールが貼られた。この検査の実施で執刀前の切除部位の特定精度が大幅に向上したという。不要な執刀や切除の防止は患者にとっても大歓迎だ。医療技術の進歩に感謝したい。
2007年3月6日 手術方針の説明
 19時に担当医から明後日の手術について本人と家族への説明があった。18時30分までに妻と子供達が自宅や職場からそれぞれに駆けつけてくれた。病棟談話室が、家族全員の久々の懇談の場となった。19時に談話室横の小会議室で担当医3名の治療説明が始まった。主治医の説明と指導教官の補足説明が続く。手術の内容やそのリスク、術後の合併症の懸念等が明示される。術後の何回かに分けて実施される抗ガン剤投与に伴う副作用も話題となる。あらためて我が身に降りかかかっている災厄の苛酷さを知らされる。前回同様、息子が私に代って気になる点をいくつか質問してくれた。冷静に確認しておくべき点をきちんと尋ねてくれる頼もしさが心強い。40分ばかりの懇談を終えた。後は担当医に全てを委ねるほかはない。
 再び談話室でしばらく家族でテーブルを囲む。弾んだ会話は望むべくもないが、家族たちの気遣いはひしひしと感じられる。「家族の絆」という言葉が身に滲みるひとときでもあった。20時前に自宅に戻る家族たちを見送った。
2007年3月7日 折り返し点
 手術の前日である。昨日の医師の治療説明を聞き終え自分なりに整理してみるうちにあるイメージが浮かんできた。今私は大病を得て退院というゴールに向けてマラソンコースを駆けている。12月20日にこの病を初めて知らされて以降2カ月半が経過した。この間数多くの検査を受け最終的にようやく病名と症状と病期が確定した。20日前の指先切除の手術さえ病理検査のための検査だった。その意味では明日の手術は初めての本格的な治療のスタートといえる。手術という外科的治療の後には抗ガン剤投与の化学療法も控えている。マラソンコースで言えばようやく折り返し点を迎えたというところか。退院後も何回かに分けた化学療法が待っており、完治に向けた新たなレースも始まる。治療後5年間は再発に留意する期間と考えておく必要がある。息の長いレースである。レースのコースガイドは用意されている。とはいえゴールに至るレース展開はランナーの体力や気力に委ねられている。タイムにこだわればリタイヤのリスクも大きくなる。何よりも完走を目指した粘り強さが肝要と心掛けよう。
 朝から麻酔科の医師の問診があり、担当医の腋下リンパ節の触診があった。看護師に執刀部分である脇毛も剃ってもらった。手術に向けた準備が着実に進められている。
2007年3月8日 手術の日
 手術の当日を迎えた。ここ数日寝つけない夜が続いており睡眠剤のお世話になっている。昨晩も早目に睡眠剤を服用し22時過ぎには眠りについた。今朝は5時過ぎに目覚め7時間ほどをぐっすり眠った。
 12時過ぎに使用しているベッドのまま手術室に運ばれ13時過から手術が始まる予定だ。今回の4時間前後と思われる手術は、局所麻酔だった前回と異なり全身麻酔で行われる。体力面では負担があるものの精神的な負担は少ない。特に問題が起こらなければ手術直後に目覚め、夕方には病室で家族たちと顔を合わせていることだろう。
 入院以来かたくなに続けてきた1万歩以上のウォーキングも今日ばかりは難しそうだ。とはいえできる範囲でこなしておこうと9時過ぎまでに7千歩ばかりを稼いでおいた。今朝の朝食から絶食が始まった。入院中の規則正しい食生活のもとでわずか1回食事を抜いただけで空腹感がしみわたる。11時頃、妻が休暇を取っていた息子とともにやってきた。
 以上が本日の手術前のコメントである。今日の夜には手術後の後半のコメントを更新できる筈だ。
2007年3月9日 手術を終えた
 昨日の5時半に病室に戻った。4時間に及ぶ手術だった。昨晩の手術後のブログ更新などとなんと甘い見通しを記したものだ。病室に戻って以降、あちこちに術後のチューブを挿入し、一晩痛みで眠れぬ夜を過ごしたのだから。とは言え現在は回復した。ブログを更新できているぐらいなのだから。主治医の「術後の経過も良好です」との言葉もあった。
 昨日の中途半端なブログのとりあえずの報告である。
2007年3月10日 術後二日目、完全回復
 朝6時、爽やかな目覚めだった。
 手術直後の1昨晩は痛みと仰臥姿勢の維持という環境でまんじりともできない悲痛な夜を過ごした。昨日一日は腰の痛みと術後の体力低下ダメージの残った寝たきりに近い状態だった。それでも普通食を食べ術後の初回診療を受けトイレに行き数行のブログを書き込むという最低限の日常生活を取り戻したのだから良しとしなければならない。
 丸二日眠っていない手術翌日の夜を迎えた。通常ならば安眠を貪れる筈である。駄目押しの睡眠剤を服用し21時過ぎに床に就いた。9時間ばかりの快眠を得た体は前日と打って変わった回復ぶりだった。
 この回復ぶりに気をよくして、手術日の空白の時間のブログを忘れないうちに埋めておこうと思う。
 一昨日の12時前、前開きのゆかたとT字帯(ふんどし)に着替え、両足に弾性ストッキングなるものをはかされる。手術中の足への血流不足による血栓防止の用具だ。12時10分、いつも使用しているベッドに寝たまま手術室に向かう。入口前まで妻と息子が見送ってくれる。前回と同じ手術室に運ばれる。心音や血圧等のチェック環境が整えられた後、麻酔科医の「それじゃ点滴に眠くなる薬をいれますネ」という声を最後に聞いた。その後の手術室内の記憶は全くない。全身麻酔の威力が、その後の私の肉体に加えられた筈の残酷な一切の場面を私の意識から奪っていた。
 突然、話し声が耳に飛び込んできた。手術前の緊張感からは程遠い雑談のようだ。終ったのだ。と思う間もなく「お疲れさま〜終わりましたヨ〜」という声が耳元に届けられた。手術室ゾーンの入口を出て病室看護師にベッドが引き継がれる。意識は朦朧としたままだ。病室に運び込まれた。私の顔を覗き込む妻と息子の顔が見えた時、あらためて無事生還したのだと実感した。
 「今何時?」と声をかけた。「5時半や。先生が手術は予定通り4時間で終って特に問題はなかったと言うてたで」息子の声だ。家族たちが帰宅し孤独な環境に置かれて以降、想像以上の苦悶が訪れた。鼻に挿入された酸素吸入の管、尿管につながれたチューブ、腋腹につながれた血流排出用チューブと3本の管が身動きを奪っている。麻酔の切れ具合と痛み止めの間隙を縫って執刀部分の傷口が疼く。1時間ごとに様子を見にきてくれる担当看護師との会話が辛うじて挫けそうになる気持ちの支えとなる。眠れぬ夜が明け9時になって担当医の指示でようやくベッドで起き上がることが許された。その時、手術後初めて右手を眺めた。包帯で異常に膨れ上がった手。それでも形は鮮明である。明らかに親指が欠如している。今日から身障者としての新たな一歩が始まったと思った。
 12時になり待ち兼ねた40時間振の昼食を味わった。昼食後、気になっていたブログ更新をした。夕方には主治医3人そろっての手術後初めての処置が行われた。傷口のチェックがありガーゼ交換が施される。右腋患部の処置後、右手の包帯が解かれ親指の切除部分が開かれる。結局この時は右手患部を直視するだけの気力はなかった。痛みに耐えるために目を閉じるに任せるしかなかった。「経過は順調です」主治医の言葉が励みとなる。夕食を終え、いつになく早目の就寝準備に入る。辛かった1日が終ろうとしていた。
 そして冒頭の爽やかな朝を迎えた。
 昼食中に娘が見舞ってくれた。術後の辛かった思いをぶちまけられるのも家族ならではだ。とりとめない会話の中に家族との日常生活の窓口がある。2時頃、主治医から今日の術後処置が告げられた。昨日に比べ処置の際の痛みはかなり薄らいでいる。右手患部の状態も直視した。術後の回復というプラスと苛酷な現実というマイナスが着実に進行している。双方を引き受けながら完治という息の長いマラソンレースを駆け抜けよう。
2007年3月15日 ハム太郎ポシェット
 手術を終えて1週間が経った。経過は順調だ。日常生活もある点を除いては手術前に戻った。昨日は妻の手を借りて術後はじめてのシャワーも浴びた。厄介でうっとうしいのは、右腋下にぶら下がるチューブの存在である。
 手術で右腋下のリンパ節を切除した。その結果、右腕の血液やリンパ液等の体液が腋下に滞留し還流しなくなっている。そこで右腋下に挿入したチューブからそれらの体液(ドレーン)を体外に流出させる処置が施された。チューブの先端に繋がれたJ−VACという特殊なビニール袋が流出された体液を収納する。
 手術直後のチューブは血液を中心に真っ赤に染まっていた。日を追うごとに血液からリンパ液に比重を移しチューブの色は透明化してきた。順調な経過とのことだ。チューブの取り外しは流出量で決まる。毎日10時にJ−VACのドレーンをメジャーに移して流出量が測定される。術後3日目に60mlに達してピークとなり以後7日目の今日まで同じ量が続いている。チューブの取り外しはまだまだ先になりそうだ。
 ところでチューブに繋がれたJ−VACは手に持って行動するわけにはいかない。何かに収納して首から吊るすほかはない。看護師さんに手作りポシェットを貸与してもらった。利用対象者は子供が多いということで、なんとも可愛いポシェットである。アニメキャラクターのとっとこハム太郎と仲間たちの図柄である。ピンクの布地が可愛さに拍車をかけている。どうみても60を越えた髭面のオヤジが身につける代物ではない。とはいえオヤジの側に選択の余地はない。常時これをお供に日常生活を過ごす羽目に陥っている。エレベーターで鉢合わせた顔見知りの幼児連れの若い母親が子供に囁いた。「可愛いポシェットやね〜」。赤面しながら笑顔を返すしか手はない。
 院内ウォーキングもこのスタイルである。今日も首からピンクのハム太郎ポシェットをぶら下げたオヤジが院内を闊歩する。
2007年3月19日 親指の無い右手の全貌
右腋下に挿入したチューブから排出される体液量は、術後8日目からようやく減少に転じた。3日目に60mlのピークが5日間続いた後の減少だった。11日目の今朝は21mlまでになっている。チューブ取り外しの10ml以下まであと一息だ。
 昼過ぎにはガーゼ交換があった。主治医から右手親指切除後初めて自分自身で右手の手洗いをやってみるよう指示された。防水シートに覆われた第一関節から先のない親指のノッペラボウな全貌を初めて凝視した。一瞬の胸が詰まる。親指のない右手のイメージは幾度も想像していた筈だった。確かな想像と実際に目にする現実の埋めようのない乖離を知らされた。この一瞬の精神的ダメージからの立ち直りは意外と早かった。この瞬間をブログでどう表現しようかという思いが意識を切り替えてくれた。IT時代に入り文章表現の手立てが親指主体のペンから親指不要のキーボードにシフトしていることのありがたさに思い至った。人差し指中心の不器用な入力レベルにあることすら今となっては幸いしていると強がった。
 ガーゼ交換の処置の際、主治医から切除したリンパ節の病理検査結果がもたらされた。「転移はなかった」との3人の担当医全員の所見だったとのこと。『禍福はあざなえる縄のごとし』苛酷な現実とともに、いい情報もついてきた。
2007年3月23日 春がすみ
 春がすみに覆われた朝を迎えた。昨日夕方の処置後、私の日常生活が一変した。腋下のチューブが取れ、右手の包帯が外された。退院後の生活とほぼ同じ身体条件での生活がスタートした。右手親指のない生活が具体的にどのようなものになるのか。その実態は春がすみに包まれた風景のようにおぼろげでつかみ切れない。
 朝日がのぼりその輝きを増すごとに、春がすみのベールが剥がされていく。様々な生活シーンを過ごすたびに、あらたな身体条件でできることとできないことが明らかになっていく。ペンで文章を書くということは半ばあきらめていた。とはいえ署名という必要最小限のペン字は日常生活の上で欠かせない。親指付根と中指でボールペンを挟み住所氏名を書いてみた。かっての筆跡実現は叶わないものの署名自体は可能だった。
 朝9時に前夜当直だった主治医の、いつにない早い処置があった。チューブを外すことで懸念された体液滞留による腋下の腫れはなかった。処置もチューブ挿入跡のガーゼ交換だけという簡単なものになった。
 引き続き主治医から26日から開始予定の化学療法の説明があった。DAV−feronという抗ガン剤投与が化学療法の内容である。1日2時間余りの点滴を5日間実施する。予想される副作用とその対応策が告げられた。早速、説明を受けたことの確認の署名が求められた。
 2日に1度の入浴日だ。11時に看護師さんに右手をビニール手袋でカバーしてもらい浴室に入る。両手でシャンプーが可能になった。タオルも結構きつく絞れるようになった。ところが何かの拍子に、掴んだはずの動作が空を切ることもある。
 春がすみのベールが1枚1枚剥がれていく。
2007年3月26日 最終ラウンド
 入院生活も最終ラウンドを迎えた。今日から5日間の抗ガン剤投与を経て来週の血液検査結果を待って退院の可否が決まる。順調なら来週末には我が家で食卓を囲んでいることになる。
 入浴日でもある。予定表では9時からとなっている。少し前に看護師さんに右手と腋下のカバーを頼んだ。担当医に看てもらったら、カバーは一切不要だし湯船に浸かっても良いとのこと。誰の介助もなく自力の入浴で20日ぶりに湯船にゆっくり浸かった。
 9時半頃、担当医が看護師さんを伴ってやってきた。左腕に点滴用の注射針が挿入され、いよいよ化学療法が始まった。最初の30分は吐気止めの点滴だった。この点滴中に担当医から患部親指跡付根の3カ所にインターフェロンの注射が施された。かなり痛いとの噂の注射だった。歯医者の麻酔注射の痛みを少し上回る程度だった。抗ガン剤の点滴に移った。初めてのことでもありゆっくりと50分ほどかけて注入された。この段階で吐気や痛みが生じやすいのでその場合はすぐに知らせるように告げられる。いやでも緊張してしまう。こればかりは個人差も大きく蓋を開けなければ分からない。5分経ち10分が経過した。何の自覚症状もない。良かった。安堵の気持ちが広がる。最後の30分は生理食塩水で問題なく吸収した。11時半過ぎに抗ガン剤投与という緊張感のある治療が無事終了した。
 同じ病で以前同室だったMさんは、点滴後、病院食を前にした途端吐気をもようし全く受付けなかった。昼食の病院食にどのように反応するかが次のハードルだった。チャーハン、サラダ、スープの昼食は決して美味しいとは言えないものの抵抗なく胃袋に納まった。
 15時半には主治医の処置があり、親指切除跡の抜糸が行われ術後処置が完了した。
2007年3月27日 リハビリ開始
 2回目の抗ガン剤投与を終えた。通常90分程度のようだが点滴の落下速度によって注入時間は異なる。今日も昨日と同じ約2時間を要した。右手親指跡根元への注射も、少しずつ位置をずらすためか昨日より掌側に移り、その痛みは強烈だった。点滴自体は問題なかったものの、昼食の病院食を前にした時少しむかつきを覚えた。食事そのものは残すことなく食べ終えた。
 一方で主治医の手配によるリハビリが今日から始まった。点滴を終えてすぐに1階のリハビリテーション部に行った。担当医の簡単な診察があり、午後トレーナーからリハビリを受けた。右腋下リンパ節切除後の縫付けで固くなった右肩をほぐすこと、右手親指欠如に伴う日常生活の機能改善が目的だ。担当のトレーナーは30代後半と思われる女性の理学療法士さんだった。丁寧で気配りのある指導やマッサージが今後のリハビリの励みになりそうだ。
2007年3月29日 理学療法士のプロの技
 3日前から病院のリハビリテーション部のリハビリを受けだした。正式には理学療法である。右腋下を手術で切除後縫い合わせて20日近くになっていた。この間、庇いながら過ごした右腕は、筋肉が固まり、思いのほか動きが悪い。利き手親指欠如後の機能をどのように回復するかも問題だ。
 担当の女性の理学療法師さんのマッサージや訓練は的確で効果的だった。右腕の上や横への動きを阻んでいた筋肉の硬直は、着実にほぐされてきた。ツボを心得たプロの技を感じさせる。それにしても力仕事である。患者の反発力を押さえ込むように負荷をかけながら巧みにほぐしていく。約30分の治療には相当な体力を要する筈だ。
 日常生活の機能回復面でも新たな発見があった。手術後の食事は右手でフォークを握って済ませてきた。左手で箸を使うことなど、はなっからできないものと思い込んでいた。今日、ものは試しとばかり左手で箸を使って様々の形のピースを籠に入れるよう指導された。なんと意外にできるものだ。「スポーツをやってましたか。初めてにしては素晴らしい運動感です」。励まし用のオダテ言葉と分かっていても悪い気はしない。早速今晩の夕食から木に登った豚になってみよう。
2007年3月30日 入院生活のゴールが見えた
 本日をもって5日間の抗ガン剤投与の点滴が無事終わった。特に副作用も発症しなかった。朝6時過に採血があった。この血液検査結果で退院日も決まってくる。
 13時過ぎに担当医の来室があり、今朝の血液検査結果が告げられた。「白血球と肝臓機能の数値が基準値を越えている。来週月曜の血液検査では、この間点滴を止めているので改善される筈。現状では来週火曜日の退院を予定している。ただ白血球の数値が改善していなければ肩に骨髄注射をして少し様子をみることになる。」
 ようやく入院生活のゴールが見えてきた。
2007年4月2日 入院生活最後の日
 入院生活最後の日となった。朝6時半の採血結果が、15時過ぎ主治医担から告げられた。入院延長の可否判断基準である白血球の値は無事改善していたとのことで、明日の退院が確定した。次回は4月9日に通院し、採血して昼前に結果を確認の上、職場復帰もOKとのことだ。今後は5月中旬、6月中下旬と順調なら2回ばかり1週間程度の抗ガン剤投与の入院と定期的な血液検査が待っている。
 50日という長きにわたる入院だった。病状確定の検査、右手親指と右腋下リンパ節切除手術、抗ガン剤投与という治療は、肉体的にも精神的にも苛酷な試練の日々だった。我ながらよくぞ乗り切ったと思う。
2007年4月5日 脱・患者宣言
自宅療養を始めて二日が過ぎた。
 病棟の患者向けに設計された空間で、看護師さんの様々なサポートのある生活が、我が家の通常の生活の場に移された。右手親指欠落のもたらす日常生活の不便さや不自由さが徐々に明らかになる。ドアノブの開け閉め、水道蛇口の上げ下げ、缶ビールのグラスへの注ぎ等々。「ア〜これもできないんだ」と、何気ないふとした動作の中で思い知らされる。
 病棟での克己心に満ちた生活ぶりに比べ、この二日間の過ごし方は惰性に流されたものになった。「病後の療養」が口実になっていた。生活は通常の場に移っても、意識は患者であることを引きずっている。
 「闘病記・患者の達人」を本日で終了しよう。