2007年2月13日 入院の日
いよいよ入院の日がやってきた。朝8時前に自宅を出て、天王寺のの市大病院に向う。梅田以外には地理不案内な妻の道案内も兼ねている。妻はこれから何度往復するのだろうか。10時前に病院に着き、入院手続きを済ませ、13階の病棟ナースステーションで担当者に病室に案内される。
 4人部屋の病室の窓側のベッドだった。北側に解放された広々とした窓からの展望は、少なくとも1カ月以上を過ごす住環境としては満足できるものだった。天王寺動物園、通天閣、OBPのツインタワー等が眼下に広がる。
 12時、いかにも病院食といったポリ容器の昼食が配膳される。ところが意外にもまずまずの味だった。同室の人からも食事はおいしいですヨとの情報。食生活もひとまず合格というところか。 
2007年2月14日 入院生活のイメージが見えてきた
入院二日目である。これからの入院生活の過ごし方のイメージが徐々に明らかになる。18階建の高層ビルにおさまった病院の設備環境のレベルは高い。地下1階には24時間営業のファミリーマートが出店している。入院生活に必要な日常品はほとんど揃っている。私のように食事制限のない外科系の患者にはコンビニ総菜が手軽に入手できるのはありがたい。1階には喫茶室を兼ねたベーカリーショップがあり、更に六階には和風レストランまで設置されている。
 入院中も万歩以上のウォーキングだけは続けようと思っている。入院初日の昨日は自宅周辺で少し歩いたこともあり、クリアできたが、今日は夕方になっても8千歩余りである。18階から地下1階まで階段室を下ったり、病室フロアを回遊して尚この歩数である。こちらの方は1日1万歩はかなり厳しそうだ。
2007年2月16日 老後生活の予行演習
 入院4日目を迎えた。初回の手術を終え大きな山を越えた。患部細胞の病理検査は10日から2週間を要するという。次回の手術の内容はその結果で決まる。その間は、腹部のCT検査を受ける以外には特に治療らしきことはない。病院での長い無為の生活が続くことになる。完全にリタイアした後の老後の生活にオーバーラップしてくる。
 入院生活の1日は長いようで短い。元気な時は思いもよらないテレビや昼寝の贅沢をむさぼることも可能である。意識的にコントロールしなければそうしたイージーさに流されそうだ。ここは老後の生活の予行演習の意味でも最低限の規律を課した生活スタイルが必要と思い至った。
 まず健康上からも1日1万歩のウォーキングは何としても継続しよう。過去の経験則からこれに要する時間はせいぜい1時間30分である。とはいえ限られた建物内での歩行でこれを達成するのは骨である。過去3日間は部屋のあるかなり広いフロアの主通路を回遊してクリアした。
 ブログの闘病記の更新は、頭脳の活性化上も有効な手段ある。携帯端末Zaurusのありがたさをあらためて実感した。唯一の難点はNETのアップ・ダウンの処理速度のおそさであるが、そこまでは贅沢というものだろう。ブログの更新で小一時間は費やされることになる。
 次に、読書がある。30年程前に読み終えた司馬遼太郎の「菜の花の沖」の文庫本全6巻を持参した。当分、材料には事欠かない。
 ウォーキング、ブログ更新、読書を定数とし、それ以外の時間でテレビや昼寝を楽しむことにしよう。果たしてそんなにうまくいくのだろうか。
2007年2月17日 娘の玉子焼き
 入院5日目の土曜日である。14時半頃、入院後初めての休日を迎える娘をともなって妻が3度目の見舞いにやってきた。
 昨日、娘からは携帯メールで「何かほしいものがあったら買って行から」と連絡があった。休日の夕食には、自分で作った海苔を巻き込んだ卵焼きを添えるのが私の定番メニューだ。悲惨な病院食という予想は外れたものの、自宅での食事の味わいは望むべくもない。我が家の味「海苔入り手作り卵焼き」をオーダーした。やってきた娘は、開口一番「朝寝をやめて卵焼き作ってきたで!」。
 久々の家族のおしゃべりで2時間半ばかりを過ごし、母娘は帰っていった。18時になって夕食が配膳される。魚のムニエルが本日の献立である。私の好みからはほどとおい。が今回ばかりはこれを上回る我が家の味がある。海苔を巻き込んだ卵焼きの見事な渦巻き状が、いやがおうにも食欲をそそる。渦巻きの数の多さの分だけ娘の気持ちがこもっているようにも思える。ほどよい塩加減の久々の手作り感あふれる味を堪能した。食後に娘の携帯に「うまかったメール」を発信した。家族への素直な気持ちを表すことの日頃のてらいを、入院生活が取り払ってくれている。
2007年2月18日 穏やかな日曜の夕刻
 入院6日目の日曜である。時折、看護士さんの巡回がある以外はなんの予定もない。術後の化膿止めの朝晩2回の点滴も昨晩で終了した。入院後初めて迎えるのんびりした日曜日のひとこまである。
 午前中の大半は、東京マラソンを満喫した。単調な映像が続く中で、トップランナーたちが繰り広げる一瞬の仕掛けをめぐる駆け引きは、緊張感あふれるドラマといえる。
 午後は、昨日、妻に持参してもらった購読誌「ほんとうの時代」3月号を読むことに費やした。典型的なシニア向け月刊誌である。以前メールのやり取りのあった副編集長の田中さんとは、先月末のさくら会例会で初めてお会いした。購読して2年目を迎えるが、号を重ねるごとに馴染んでくるようだ。今月号の特集は「脳が若返る」である。読者にシニアであることをいやおうなくつきつける紙面構成に、当初は抵抗感がなかったわけではない。最近はこの雑誌を通して、あるがままの現実を素直に受け入れることの大切さを教えられている。以前の購読誌「日経ビジネス」が私だけの読み物だったのに対し、こちらは夫婦共通の読み物であることも見逃せない。
 読書の合間に眺める窓からの展望ほど癒されるものはない。高層ビルの13階からの眺めである。都心のど真ん中とはいえ、大阪の主要な建物が見渡せる贅沢さがある。天王寺動物園、通天閣、道頓堀の楕円形観覧車、ビルの屋上に辛うじて顔を出す大阪城の天守の頂き、四天王寺の森、OBPのビル群等々。部屋の窓のすぐ前のベランダの手摺りに時折はとが羽根を休めにくる。トンビなのだろうか。二羽の黒い鳥が戯れながら悠然と舞っている姿さえも心を和ませる。窓際でないベッドだったらこの素晴らしさは享受できない。1カ月以上もの入院生活を、窓際のこの部屋で過ごせることの幸運にあらためて感謝しよう。
2007年2月21日 遺伝子の不思議
 入院9日目は慌ただしい一日だった。
 午前中、弟夫婦が見舞ってくれた。1階喫茶室での会話の中心が、お互いの病のことになるのはやむを得まい。昨年の暮に私の深刻な病が見つかり、弟に連絡した。励ましの言葉をかけてくれていた弟もまた、その直後に脳梗塞という重大な病に見舞われていた。実は、私と弟とは一卵性双生児である。これ程深刻な病をかって経験しなかった二人が、ほぼ同時期に大病に見舞われたのだ。単なる偶然と片付けられない、想像を越える遺伝子の不思議を思った。それだけに弟の脳梗塞は、同じ体質と同じ食生活の嗜好を持った私の脳梗塞のシグナルと受止めるべきだろう。弟夫婦が語ってくれる脳梗塞の予防と検査の情報を真剣に受け止めた。
 午後一番に担当医の回診があった。早速、弟の脳梗塞の件を伝え、脳のMRI検診を打診した。「何も症状が見られない状態でのMRI検査は保険適用上の問題がある。但し、この後、予定している脳のCT検査の結果少しでも疑問があればMRIも実施する。」とのこと。
 15時過ぎに妻が3度目の見舞にやってきた。2時間近くをかけての来訪に感謝。持参の手作り卵焼きや焼き海苔、インスタントコーヒーが、日に日にウェイトを増してくる食生活の楽しみのカンフル剤となる。1日おきの入浴が16時に割り当てられていた。自宅では何とも思わなかった入浴前後の妻の世話が、入院生活の中でこそ見えてくる。
 17時前に、大阪市大医学部の学生のヒアリングがあった。発病経過、手術後の状況、過去の重大疾患、親族の重大疾患等が尋ねられる。ヒアリングとは言え、こちらの素朴な疑問にも一生懸命答えてくれる。ナースステーションの前に「本院は教育病院です」とのポスターが掲示されている。大学付属病院の特性を好意的に受止めた。
2007年2月23日
 入院した日から髭を剃ることをやめている。以来11日目を迎え5〜6mm程度に伸びた髭は、なんとか様になってきた(・・と本人は思っている)。
 学生時代の一時期にも髭を蓄えたことがある。全共闘運動のはしりに属した世代だった。当時の学生たちのカリスマであったチェ・ゲバラの髭を蓄えた風貌が学生たちを魅了していた。なんのことはない今思えば単なるミーハーだったのだ。
 社会人になってしばらく経った一時期にも口髭を伸ばした。結成したばかりの労組の書記長という役職が、反体制的な気分の中で伸ばすことを意味づけていた。
 今回、病を得てはからずも1カ月以上の強制休暇を得た。既に定年を迎え再雇用という一線を退きビジネス秩序からも距離をおける立場になっている。限定された日常を余儀無くさせられる入院生活の潤いのひとつに「髭」を選んだ。1カ月以上も世間と離れた生活という環境だからこそ可能な選択でもある。とはいえ過去の髭との大きな違いがある。かっての黒髭は、今や7割以上の白髪に取って代わられている。ゴマシオ髭の中途半端さは否めない。
 妻と娘の口からは、オヤジの髭面を非難する言葉は今のところない。病を得たオヤジへのいたわりの気持ちなのか。それだけに今の黙認が退院後に自宅周辺を徘徊した時の容認を意味していない。
 入院中、自分だけで髭の生え具合を楽しむ分には問題ない。退院時の1カ月以上も蓄えた髭が果たしてどのような面相を招くのか。その面相を眺めた上での決断を迫られる。どんな選択になるのか自分でも楽しみである。
2007年2月24日 初めての外出散歩
 入院12日目、2日おきのガーゼ交換の日だ。いつも夕方近くの筈が朝10時過ぎに早々と処置室に呼ばれた。見知らぬ医師に処置してもらう。考えて見れば土曜日である。ガーゼ交換程度なら担当医に代って宿直医が処置したとしても不思議でない。そんなわけで本日の唯一のスケジュールが午前中にあっというまに終了した。
 昼食後、窓から眼下の天王寺公園を眺めていた時、直接歩きたくなった。曇り空の今日は一気に寒さが戻っている。パジャマの上にスエットタイプの部屋着を重ね着し、冬物ベストを羽織り、スニーカーに履き替える。どこから見てもウォーキングスタイルである。
 地下1階の時間外出入り口から外に出て、天王寺駅側から公園に入る。公園内のメイン通路を西に進む。多くの人が土曜の午後の散策を楽しんでいる。左手には市大病院の高層ビルが望める。市立美術館の前を抜け、広いロータリーを進むと動物園の入口前に出た。
 真前には狭くて派手な装飾に彩られたいかにも大阪風の商店街が貫いている。ジャンジャン横町の看板が見える。浪速名所のひとつ「新世界」のど真ん中である。人通りの多い商店街の左右のあちこちに行列ができている。新世界名物の串カツ屋だった。NHKの連続ドラマにも登場した囲碁・将棋クラブも満員の客で埋まっている。
 ジャンジャン横町を抜け、JR環状線の高架下をくぐると市大病院前の国道に出た。30分余りの初めての外出散策が万歩計のカウントを一気に押し上げていた。
2007年2月25日 健康診断結果報告書
  入院13日目、2度目の日曜日である。10時半過ぎに妻が娘を連れてやってきた。娘も今のところ週一回のペースで付き合ってくれている。持参の卵焼き、振りかけ、焼き海苔、瓶詰の海苔の佃煮等の食生活のスパイスが日を追うごとに輝いてくる。
 入院直前に職場で定期健康診断があった。妻は、会社から自宅に送られてきた健康診断結果報告書も持参している。「精密検査が必要」との所見につけて厳封された主治医への紹介状が添えられている。妻は「高脂血症」の所見と併せて、この厳封の紹介状にいたくショックを受けたようだ。ここぞとばかりに日頃の私の食生活の不摂生を非難する。報告書には過去4年間の診断結果も併記されている。この推移をみれば過去3年間に比べ今回は改善されていることは明らかだ。にもかかわらず私の反論が力強さに欠けるのは否めない。入院生活中の力関係がそうさせているといえなくもないが、入院生活が、老後の生活に向けてよきパートナーシップの必要性を痛感させているのも事実である。
2007年2月26日 一心寺散策
 入院14日目、2週間が経過した。夜明けとともに広がった雲ひとつない青空が気持ちを弾ませてくれる。9時過ぎ、脳のCT検査に呼ばれた。指先の悪性腫瘍の転移の有無を調べる最後の検査だ。朝一番の検査だったらしく、待つ間もなく検査が始まった。布のベルトで頭をゆるく固定され、検査台に仰臥すること数分で検査は終了した。
 昼食後、快晴の空を目にして朝から予定していた2回目の外出散策に出かける。前回の外出散策は寒さの戻った曇り空で早々に引き上げたが、今日は絶好の散策日和である。病室の窓から真正面に見える大きな寺院「一心寺」まで足をのばすつもりだ。事前にzaurusによる地図検索をしてみるとですぐそばに茶臼山古墳もある。
 天王寺駅西側の大通りを北に向かう。四天王寺の案内看板のある場所の手前の通りを西にまがる。石垣に白壁の立派な塀が表われ、塀に沿ってほどなく一心寺南門に出た。石段を上り門をくぐる。左右の霊園の向こうに大きな本堂があった。病室の窓越しに見慣れた建物である。月曜の昼下がりの境内には多くの参詣者の姿があった。境内の案内板でこの寺院が浄土宗の宗祖・法然の開山であることを知らされる。本堂の正面には山門はないが左右を二体の現代的なブロンズ像で構成された正門があった。像の顔は仁王像のようにも見えるが、余りにも全体のイメージが現代風に過ぎ、古刹の風情を損なっている感は拭えない。境内の二カ所ほどで病気快癒のお参りをした。
 一心寺南門を出て西に向かう。左手に天王寺公園入口があった。警備員に茶臼山古墳の場所を訊ねる。公園内にあるが今日月曜日は休園日で入れないとのこと。残念だが次回の楽しみとしよう。塀に囲まれた公園を貫く一般道を通り天王寺駅方面に向かう。
 約1時間の散策だった。パジャマの上にスエットを重ね着した体からは、ポカポカ陽気が汗をしたらせていた。16時からの週末を挟んで3日ぶりの入浴が快適だった。
2007年3月2日 久々の職場訪問
 慌ただしい1日だった。朝食を済ませ一息ついてから、外出の準備にかかる。職場近くの歯医者に10時30分の予約をしている。通り道に職場がある。折角だから顔を出しておこうと少し早目に病院を出た。入院前にも職場からウォーキングを兼ねて通院した徒歩20分のみちのりである。10時前に職場に着いた。大病で入院しているはずの同僚の突然の来訪に、誰もが驚きの表情で向かえてくれた。加えて20日近く伸ばすに任せた髭面がダブルで驚きを与えた筈だ。20分ばかり雑談し最寄りの歯医者に向かった。
 歯医者での診察目的は、麻酔措置で金具を口から挿入する際にぐらついている歯が抜け落ちる懸念がないかという点だった。歯科医の判断はぐらついている歯自体が、隣接している3本の歯と結合された刺し歯であり単独での脱落の懸念はないとのこと。その旨の所見を記した診断書を貰い歯医者を後にした。
 帰路についたのは12時前だった。事前に病院食はキャンセルしている。久々に外食を味わうつもりだった。何にしようか思案しながらハタと気が付いた。箸の持てない境遇になっている。握ったフォークでなんとか食事をこなしている状態だった。結局、コンビ二弁当を調達しベッドの横でマイフォークによる昼食を終えた。これからこうしてそのつど新たな境遇での様々の不自由さを味わうことになるという現実をあらためて教えられた。
 夕食を済ませた直後に勤務を終えた娘がやってきた。今週半ばに来訪できなかった妻に代って着替えを持参してくれた。話しの端々で父の病状を気遣う気持が伝わってくる。父と娘だけの何年ぶりかひとときだった。1時間ばかりを病室ですごして娘は帰宅した。
2007年3月3日 通天閣
 朝起きた時から今日のウォーキングコースを通天閣と決めていた。朝食を済ませ病院を後にする。至近距離と言ってよい徒歩10分のみちのりである。1階からエレベーターに乗り込むと若者とおばさんの会話が耳に入る。「上はどげんなっとるんや」「俺も初めてやけん」初めて大阪見物にでてきた母親を案内しているにちがいないほのぼのとさせられる光景だった。ここはまぎれもなく大阪のお上りさん御用達の名所だった。いったん2階に出て600円の展望券を購入する。専用エレベーターで5階の展望台にでると360度のパノラマが広がっている。エレベーター出入口のすぐそばには名物のビリケン像が安置されている。案内板でこの像がアメリカの女流作家の想像物であることを初めて知った。数え切れない人達の撫ぜあとでビリケン像は黒ずんでいた。天王寺公園経由で60分ばかりの散歩を終えた。通天閣のエレベーター内での「通天閣とは天に通じるの意味です」という案内ガイドがなぜか心に残った。
 昼食後、メールと知人のブログチェックをした。私とほぼ同時期に脳梗塞の病を得た知人のブログに発病直後の心境が綴られていた。共感を込めて以下のコメントの書き込みをした。 
 『昨年12月に医師から深刻な病の指摘を受けた直後、私も「死の恐怖と向き合う」体験を味わいました。『結局最後は自分独り』の実感もよく分かります。孤独な入院生活のもとでの死の恐怖は想像を絶するものがあったでしょう。私の場合、その後通常どおりの日常生活を過ごしながら検査結果を待つ身であったことが救いだったかもしれません。
 とはいえベッドについた途端に押し寄せる恐怖に悩ませられながら眠れぬ夜が続きました。幾日かを経てようやく到達した心境は、『どんなに悩もうが与えられる現実はひとつであり、たんたんと受け入れるしかない。その現実をどれだけポジティブに受け止められるかということこそが私ができる唯一の努力ではないか』というものでした。そのことを通してはじめて私を気遣ってくれる周囲の人達と与えられた現実をより意味あるものとして共有できると思いました。』
 「天に通じる」という通天閣に登った日の心境だった。
2007年3月4日 幼い夫婦と病の赤ちゃん物語
 朝6時過ぎに目が覚める。洗顔の後、少し歩くことにした。早朝の談話室の片隅にひとりの女性の姿があった。鼻に管を通した赤ちゃんを左手に抱え右手で携帯メールを操作している。二十歳前後の若い母親である。
 昨日の深夜、赤ん坊の泣き声に私の眠りが奪われた。生まれてまもない赤ちゃんらしいか細い泣き声が途切れることなく続いていた。赤ちゃん同伴の入院が許されるはずはない。泣き声は患者自身のものだろう。眠りを覚まされた苛立ち以上に、付き添いの恐らく母親だろう女性の切なさを想った。誰もが寝静まった深夜の病棟である。病を得た赤ん坊は、そんな事情は知る由もなくいつまでも泣き続けている。周囲の迷惑に気遣いながら必死であやしている若い母親の姿を想像しながらいつの間にか眠りに落ちた。
 今談話室で目にしたのは、昨夜の泣き続けた赤ちゃんとその母親にちがいない。必死で操作している携帯メールは若い母親には手に余る状況の身内への助けを求めるものなのだろうか。
 朝食後のウォーキング途中で私の部屋に間近い部屋から昨夜と同じ泣き声を耳にした。同じフロアを何度か周回した時、廊下の先の窓際で先程の母親が再び泣き続ける赤ん坊をあやしていた。泣き声が聞こえていた部屋では若い男の子が室内の洗面台で洗い物をしている。妻のSOSメールに応えてやってきた赤ん坊の父親にちがいない。授かったばかりの我が子の病に必死で立ち向かう幼い夫婦の姿は、自分自身の病を忘れさせる勇気をもたらすものだった。
 昼前に妻が着替えと好物を持参してやってきた。そのありがたさをかみしめながら、私の想像もまじえて「幼い夫婦と病の赤ちゃんの物語」を話さずにはおれなかった。
2007年3月5日 石田三成の強さ
 朝7時過ぎ、血液検査用の採血があった。入院直前の職場の健康診断で高脂血症の診断と精密検査を促す医師への紹介状が渡された。担当医に紹介状を渡した結果、今回の血液検査となった。検査結果は昼食後間もなく担当医から伝えられた。総コレステロール値、血糖値ともに基準値をわずかに上回る程度で懸念するほどでないとのこと。良かったと思いながら、悪性腫瘍の大手術の直前に、健康診断の精密検査結果を気にしていることのおかしさに苦笑した。関が原の戦いに敗れ捕らわれて処刑場に向かう石田三成が、柿を勧められ「腹をこわすから」と断ったという古事をふと思い出した。どんな状況になっても生きることをあきらめなかった三成の強さを想った。
2007年3月6日 老後のライフワーク
 当初の予想を越える入院期間が避け難いことが明らかになった。長びく入院生活を老後のライフワークの準備に充てようと思った。
 妻に連絡し先日「山口村史」という郷土誌を持参してもらった。個人HP「にしのみや山口風土記」の執筆をリタイヤ後のテーマにしている。山口村史は、昭和26年に西宮市と合併して消滅した旧・有馬郡山口村の歴史、伝承、自然、風物を伝える西宮市発行の書籍だ。豊富な資料を駆使した700頁にも及ぶこの書籍は、昭和48年に発行され、地域住民に配布されたものの市販はされなかった。私の住む住宅街は旧山口村の一角にあり、地域紹介サイトである「風土記」執筆には、山口村史は貴重な書籍だった。つてを頼りに入手を試みたが叶わなかった。結局、古書籍売買のネット検索で入手した。
 昨日から山口村史を読み返し始めた。2月初めに住宅街の中の小学校で子供たちにHP「風土記」を教材に山口の歴史や自然を伝える機会に恵まれた。そのことがライフワーク取り組みの意欲を加速させた。入院生活のあらたな励みにしようと思う。
2007年3月11日 息子の挑戦
 手術後4日目を迎え、ほぼ日常生活を取り戻した。万歩計のカウントも昨日から1万歩を越えるようになっている。唯、入浴だけは許されていない。脇腹の血流排出用チューブが取れるまで我慢が続く。とはいえ看護師さんに洗髪をしてもらい、最低限の快適さも取り戻せた。
 11時過ぎに妻と息子夫婦が見舞ってくれた。外資系製薬会社勤務の息子は、今月末に同じ業界のやはり外資系の会社に転職する。製薬業界では転職は一般的というよりむしろジョブアップを意味するという。転職の際の処遇条件も業界ベースでのスタンダードらしきものがあるようだ。個人の側では成長性を見込める分野の薬品をいち早く担当し、その知識と経験を蓄積することがスキルアップに欠かせないという。今回の転職はそうした見通しと意志をもとに転職先とネゴをして実現したという。自らの職業生活を主体的に切り開く新たな挑戦を始めたようだ。結果的に5年近くを過ごした現在の住まいも遠く離れた地に移すことになる。嫁の気苦労も想像に難くない。
 私自身は卒業後すぐに就職した会社で実質的に定年を迎えた。息子の歩んでいるサラリーマン人生は、そんな私から見れば及びもつかない。自らを転勤族と語る息子の人生に一抹の寂しさを感じないではないが、それ以上に着実に自分たちなりの生活を築きつつある息子夫婦の逞しさを頼もしく眺めた。
2007年3月12日 同室のMさん
 先週の月曜日に同室の斜め向かいのベッドにMさんが入院してきた。病室での患者同士の自己紹介は、お互いの病名と入院経過の報告が名刺替わりとなる。私と同じ病名で54歳だというMさんは、手術後退院し、今回が最後の化学療法受診のための入院だった。私の近い将来の姿を知る具体的な手掛かりを得ただけでなく、驚愕するほかはない以下のような恐ろしい話も聞かされた。
 『発見時の病期はstage4とかなり進行していた。しかも患部が右頬だったことが治療を苛酷なものにした。患部切除後の腹部筋肉の接合、顎のリンパ節切除という14時間にも及ぶ手術だった。手術直後から1週間ほどを、個室で顔を固定され仰臥したまま身動きできない状態で過ごした。全身のしびれに耐えながら、ひたすら天井を眺めるしかない苛酷な現実が、睡眠と覚醒の境界をなくし、時に幻覚が襲ってきた。今だから口にできる恐ろしい幻覚だった。
 眠っているこの部屋に不意に子供たちがドカドカと入ってくる。何十人となく入り込んだ子供たちは楽しげに歌い、はしゃいでいる。ただその子供たちの顔は誰もが右半分が欠けている。右頬を切除した自分の姿が重なる。またある時は、北朝鮮で苛酷な労働を強いられている右半身のない自分の姿が見えた』
 今も右頬を大きな絆創膏で覆ったMさんが淡々と語った話だった。Mさんの作り話と片付けられない人間の想像力を越えた内容だった。まぎれもなくMさんが実際に味わった地獄の現実なのだろう。
 そんなMさんの1週間の入院による最後の化学療法が無事終了した。今朝の血液検査で最終的に検査項目の正常値が確認され、主治医の退院許可が下りた。昨年11月の手術以来4カ月もの闘病生活がいったん終了し、以降は定期的に検査を受けるだけとのことだ。私よりも2段階も病期が進行していたMさんの闘病生活の克服は、私にとっても励みとなる明るいニュースだった。そしてMさんが語った地獄の体験談のインパクトは強烈だった。
2007年3月13日 白い巨塔
 毎週火曜日と金曜日の13時から病棟では指導教官による回診がある。今日も助教授を中心に10数名のメンバーがベッドを囲んだ。先週から実習で私を担当している5回生の女子学生の顔も見える。担当医が簡単に病状を伝え、助教授が手元資料を確認しながら問診する。あっと言う間に終了し次の患者に移る。山崎豊子原作の「白い巨塔」で一世を風靡したあの光景が繰り広げられている。
 直後に実習中の学生がやってきた。患者にとっては余り意味がないと思われる「回診」について尋ねてみた。
 『回診は、診療科ごとに教授や助教授である指導教官を中心に主治医、診療科所属医、研修医、実習中の学生等により診療科の全入院患者を対象に行われる。指導教官が指導下にある全患者の病状を把握するとともに所属医全体で情報を共有するという目的がある。複数の指導教官がそのつど交替することでダブルチェックの機能もある。患者にとっては主治医を越えて直接指導教官に訴える機会でもある』
 なるほどそれなりに筋は通っている。自己満足的な「白い巨塔」のセレモニーというわけでもなさそうだ。
2007年3月14日 付添い女性たちの修羅の場
 病室のある13階のフロアを主通路に沿って1日に10数回も周回している。自宅近くの有馬川沿いの自然豊かな遊歩道には比ぶべくもないが、1カ月もこの道を歩き続けて、景観とは別の景色が見えてきた。
 10基のエレベーターホールと巨大な吹き抜けを挟んで東西に病棟がある。通路沿いには94のベッド数を収容する32の病室と東西の病棟ごとにナースステーション、談話室、食事スペース、処置室、洗面所などが配置されている。14の個室以外の病室入口は常時開放され、病室内の様子が通路からもうかがえる。病室の住人は日々入れ替わる。見慣れた住人のベッドが、ある日真っさらのシーツに替わり入院待ちの状態に整えられた時、住人の退院を知らされる。
 同じフロアにある耳鼻咽喉科の病室には幼児や児童の患者も多い。通路沿いによちよち歩きの幼児の後ろを若い母親が見守りながらついてくる。私にとっては心和む風景だが、幼児に付添う母親の心労はいかばかりか。談話室では30代の母親がいつも決まった時間に小学校低学年の女の子と一緒に休学中の勉強の遅れを取り戻そうとしている。母親たちの夜はベッドの傍らに並べられる病院貸与のボンボンベッドの上である。
 西病棟の通路突き当たりからは、広々とした窓越しにウォーターフロントまで遠望できる景色が広がっている。この場所でしばしば車椅子の老人とその夫人らしき姿を見かける。80の峠をとっくに越えたかに見える車椅子の老人は、鼻に酸素チューブをつけ、うつろな瞼を開き、半ば口を空いたまま全く身動きしない。すでに話すことも適わないようだ。そんな夫とともに傍らの夫人は、沈みゆく夕日をいつまでも眺めている。逆光に浮かぶ夫人の背中に、いつ果てるともしれない絶望の中で必死で耐えている哀しみを見た。
 入院病棟は、幼い子供たちの病苦を分かち合う母親や夫の晩年を支える妻などの付添い女性たちの修羅の場でもある。
2007年3月16日 患者の達人
  「それじゃ頑張ってね」入院患者の見舞客が帰り際にしばしば口にする言葉である。「うん、頑張るわ」答える側も多くの場合、これ以外の言葉を持ち合わせない。『病を克服できるよう頑張る』ことが共通項である。
 ところでそのために患者ができることは限られている。病の克服はなによりも治療する医師の力量に負うところが多い。次に医師の処方箋を受ける患者の体質に左右される。処方箋の有効性、合併症や副作用の発症など個々人のばらつきは大きいが、これは蓋を開けて見なければ分からない。これらは患者自身の頑張りの埒外にある。
 にもかかわらず患者には『頑張り』が求められる。深刻な病であればあるほどそれを突き付けられた時の衝撃は大きい。「なぜ自分が・・・」という絶望感は深い。どれほど悩もうが与えられた現実は変わらない。ここで患者の『受け止め方』が問われる。突き付けられた現実は変えられなくとも、前向きにポジティブに受け止めるか、後ろ向きにネガティブに受け止めるかは患者自身の選択である。
 患者自身がネガティブになればなるほど本人の病を克服する気力を奪ってしまう。それは同時に患者をサポートする医師や看護師や家族の支援の意欲を萎えさせることにつながる。患者のポジティブさは病克服の貴重なエネルギーである。そしてそれは患者を支援する回りの人達と積極的な関係を築き維持させる上での患者自身が対応可能な唯一の手立てである。
 『病は気から』。この言い古された陳腐な言葉があらためて実感されてくる。これこそが『患者が頑張る』ということの意味であり、『患者の達人』の極意である。
2007年3月17日 同室者たち
 4人部屋の病室が昨日から満室になった。向かいのベッドの68歳のFさんは私の入院の翌日に入院し、1カ月以上に及ぶルームメイトとなった。足指の水虫から入り込んだバイ菌が悪化し結局指先切除手術を施された。昨年11月にもこの病院で心臓のバイパス手術を受けたという。腎臓も悪く常時血糖値を測りインシュリンを打つ毎日だ。既往症とのバランスを取りながらの術後の治療は、年齢ともあいまって予想以上に長引いているようだ。子供の頃に両親を亡くし、親戚を転々とした。一時はサンパウロにも在住していたというFさんの波瀾万丈の人生を聞かされた。週3回は見舞ってくる伴侶が、近づいた内孫の宮参りの仕度を伝えている。同伴できないことが目下の悩みという口ぶりに彼の現在の幸せを垣間見る。話し好きである。油断をすれば長時間拘束の罠に嵌まる。いかに巧みにその罠をかいくぐるかが私の目下の悩みである。
 隣のベッドの54歳のOさんは、私と同じ悪性腫瘍が足裏に見つかり1週間前から入院している。入院の際は一人だった。家族はなくずっと独り身だったという。若い時は気楽で良かったがこの年になると寂しくもあると本音をのぞかせる。巨漢である。その体躯から繰り出されるいびきは凄まじい。睡眠剤の服用が私の日課となった。
 昨日入院の70歳前後と思われるIさんの詳細は知らない。午前中に奥さんだけが入院準備に訪れ、本人は午後2時頃一人でやってきた。先住者たちに挨拶をするでもなくさっさとベッドに入り込み、話の接ぎ穂がない。以来、同室の誰とも口を聞いた様子はない。小柄で細みの体からは神経質そうな雰囲気が漂っている。昨日の深夜、フト目が覚めた。Oさんのいびきの合間にかなり大きな独り言が聞こえた。寝つかれないIさんのOさんへの罵りだった。
 狭い病室の4人部屋に様々な人生がこめられている。同室者たちがおりなす人間模様や葛藤がある。
2007年3月18日 病床の雪
 昨晩は9時半頃の早目の就寝だった。明け方3時半頃目が覚めたものの再び眠りに落ち次の目覚めは6時前だった。睡眠剤の助けを借りたとは言え久々の8時間もの睡眠を得た。
 6時になって室内灯の明かりがいっせいに灯された。いつものように窓側のカーテンを開いた。目に飛び込んだのは、どんよりとした曇り空に舞う粉雪だった。3月中旬になって目にしたこの冬初めての雪だ。降りしきる粉雪を美しいと思った。こんな景色にもちょっとした感動を覚えている自分自身を不思議に思った。
 この病床での生活はすでに1カ月以上に及ぶ。検査や手術や治療といった病にかかわる状況には起伏はあるものの、変化のない日常生活は淡々と平坦に刻まれるだけである。限られた空間の中で限られた人たちとのかかわりだけで成り立っている。
 13階の窓から眺める景色にしばしば見とれている自分がいる。風景のありがたさをこれ程思ったことはない。大病で長期間病床で過ごしたからこそ得られた感受性なのだろう。
 病床から眺める粉雪の美しさをかみしめた。
2007年3月19日 ももかちゃんの笑顔の謎
 入院中の万歩ウォーキングがけなげにも続いている。途中でしばしば顔を合わせる母娘がいた。若い母親は1歳前後の女の子のよちよち歩きを見守ったり、抱っこしながらあやしたりしている。すれ違う時、いつも女の子はなぜか私をじっと見つめている。ある時、髭に覆われた口元をほころばせて手を振った。なんと女の子はこぼれるような笑顔をみせてバイバイを返してくれたのだ。すっかりうれしくなった。ウォーキング中で女の子に会えることを願うようになった。病室の前で母娘と出くわした時、病室の名札で女の子が「ももかちゃん」だと知った。
 昨晩、談話室で母親の傍らでももかちゃんをぎこちない手つきであやしている男性を見かけた。父親に違いない。父親の口元には口髭と顎髭が蓄えられていた。私に向けられたももかちゃんの予想外の笑顔の謎が解けた。今朝、ウォーキングで出会った母親に声をかけた。「パパも髭を生やしているんですね」。母親が笑顔で答えた。「そうなんです」。髭面に興味を示す愛娘の無邪気さをお見通しと言った風情だ。
2007年3月20日 続・ももかちゃん
  昨日の朝食後のウォーキングの時だった。ももかちゃんのベッドが消えていた。月曜日である。手術の日だ。ももかちゃんんが手術室に運ばれている。あのチッチャな体のどこにメスが入っているのだろう。胸がしめつけられた。
 今朝の同じ時刻のウォーキングの時だった。談話室にももかちゃん母娘の姿があった。思わず母親に声をかけた。「昨日、手術だったんですね」「そうなんです。右頬のたちの悪い痣を取ったんです。手術前後は泣き叫んでもう大変でした」。若い母親の愛娘と一緒にひとやま乗り越えた逞しさがあった。顔見知りになったオジサンを身を乗り出してのぞき込むももかちゃんの無邪気さがたまらない。
 同じフロアを周回し、再び談話室横に通りかかった。クッションベンチの背もたれにつかまり立ちしながら、ももかちゃんが手を振ってくれる。今は自信をもって振り返している。なんといっても髭面はももかちゃんのタイプなのだから。
 昨晩から我が病室の消灯後の夜間の静寂が戻った。連夜、雷鳴を轟かせていた隣のベッドのOさんが、就寝時間帯に限り個室に移ることになった。向いのIさんの看護師さんへの訴えが奏効したようだ。看護師さんから大部屋でのいびき問題の病院側の解決手法と聞かされた。入院中の睡眠剤服用を覚悟していた私にとってもありがたい措置となった。万事円く収まり一件落着。
2007年3月21日 娑婆の風景
 祝日の朝である。病室の窓越しに雲一つない青空が広がっている。眼下の天王寺公園の森を取巻く桜の帯がつぼみで白く染まり始めた。春の訪れを告げる柔らかな日差しの中を、何組もの家族連れが散策を楽しんだり、芝生で弁当を広げたりしている。健康な人たちの日常生活の営みがあった。「娑婆の風景」そんな言葉がふと浮かんだ。
 不謹慎のそしりを受けるかもしれないが、長期の入院生活はムショ暮らしを連想させる。限られた空間の中で、多くの時間をベッドの上で過ごすことを余儀無くされる。朝6時の室内灯の点灯を合図に1日が始まり、夜10時の消灯とともに就寝を促される。この間を8時、12時、18時の朝昼晩の食事が時間どおりに運ばれる。9時半前後には看護師の体温、脈拍、血圧の定期測定が、午後には担当医による処置がある。この余りにも規則正しく拘束された生活は、ドラマや小説の世界で描かれる刑務所生活のイメージにつながってしまう。病棟は、社会復帰に向けての「更生の場」といえなくもない。
 ムショ暮らしでは「娑婆の風景」は拝めない。病棟から眺められる「娑婆の風景」は、健康な日常生活を取り戻すための活力でもある。
 昼過ぎに妻と娘が訪れた。その直後に息子の嫁とそのご両親に見舞ってもらった。片道2時間もの遠方からの来訪だった。ありがたいことだ。ご両親のそれぞれの実家が、私の高校時代の級友につながっていたことをあらためて知った。
 妻の帰宅直後に、思いもかけない方の見舞いを受けた。1度お会いしただけの方である。私のこのブログだけでなくHPも驚くほど良く読んで頂いている。リタイヤを目前にした同年代の方である。「これからの自分さがし」という彼の問題意識は私にとっても共通のものだ。そんな点から私のHPに過分な共感を頂いた。うれしいかぎりだ。「老後のライフワーク」をキーワードに談話室での会話が弾んだ。
2007年3月22日 原色の街
 6階南側のレストラン奥に屋外テラスコートがる。コートの南側から天王寺界隈の南の風景が展望できる。暖かい春の日差しに誘われてウォーキング途中の足を止めた。眼下になつかしい建物を見つけた。大正ロマンの香りを帯びた料亭「鯛よし・百番」の全貌が見える。私が参加する異業種交流会の忘年会の定例会場だ。大正初期に遊郭として「原色の街・飛田新地」のど真ん中に建てられた。
 7年前に初めてこの街に足を踏み入れた。その時に目にした光景のもたらしたインパクトは今なお忘れ難いものだった。白と黒を基調としたくすんだ町並みにもかかわらず「原色の街」と呼ぶにふさわしい光景だった。「新世界」の南に縦横に長屋が立ち並ぶ一角である。間口2間ばかりの店が軒を並べている。どの店も玄関引戸が開放され、上がり框(かまち)に年配の女性が、一段上に若い女性がコンビを組んで待ち受けている。「にいちゃん!付けてって」年配女性が声をかける。旧遊郭の名残を留めた古式ゆかしい営業スタイルである。まぎれもなくここは風俗の街だ。とはいえ原色のネオンに彩られた新宿歌舞伎町に代表される今日の風俗街とおよそかけはなれた情緒ただよう街だ。それでもやっぱり欲望という原色を生業とした街に違いない。
2007年3月23日 春がすみ
 春がすみに覆われた朝を迎えた。昨日夕方の処置後、私の日常生活が一変した。腋下のチューブが取れ、右手の包帯が外された。退院後の生活とほぼ同じ身体条件での生活がスタートした。右手親指のない生活が具体的にどのようなものになるのか。その実態は春がすみに包まれた風景のようにおぼろげでつかみ切れない。
 朝日がのぼりその輝きを増すごとに、春がすみのベールが剥がされていく。様々な生活シーンを過ごすたびに、あらたな身体条件でできることとできないことが明らかになっていく。ペンで文章を書くということは半ばあきらめていた。とはいえ署名という必要最小限のペン字は日常生活の上で欠かせない。親指付根と中指でボールペンを挟み住所氏名を書いてみた。かっての筆跡実現は叶わないものの署名自体は可能だった。
 朝9時に前夜当直だった主治医の、いつにない早い処置があった。チューブを外すことで懸念された体液滞留による腋下の腫れはなかった。処置もチューブ挿入跡のガーゼ交換だけという簡単なものになった。
 引き続き主治医から26日から開始予定の化学療法の説明があった。DAV−feronという抗ガン剤投与が化学療法の内容である。1日2時間余りの点滴を5日間実施する。予想される副作用とその対応策が告げられた。早速、説明を受けたことの確認の署名が求められた。
 2日に1度の入浴日だ。11時に看護師さんに右手をビニール手袋でカバーしてもらい浴室に入る。両手でシャンプーが可能になった。タオルも結構きつく絞れるようになった。ところが何かの拍子に、掴んだはずの動作が空を切ることもある。
 春がすみのベールが1枚1枚剥がれていく。
2007年3月24日 バイバイ・ももかちゃん
 朝食後のウォーキング途中だった。談話室にももかちゃん母娘の姿があった。ももかちゃんは目ざとく私を見つけると、いつものように満面の笑みで片腕を振ってくれる。「バイバイ」と声をかけ手を振り返す。
 2〜3日前に「経過は順調なのでもうすぐ退院できそうです」というお母さんの話を聞いていた。「いつ退院ですか?」。私の問いに返されたお母さんのうれしそうな言葉は、私にとっては苦いものだった。「今日のお昼なんです。いつも遊んでもらってありがとうございました」「エ〜ッ今日ですか!寂しくなりますネ」思わず漏らした私のホンネだった。
 その足で部屋に戻りデジカメを手に談話室に向った。「思い出にももかちゃんを写させてもらえませんか」。お母さんは返事の替わりに笑顔でももかちゃんをクッションベンチに座らせてくれた。「オジちゃんに撮ってもらおうネ」。
 私のメモリーカードには、右手を上げてポーズを取っているももかちゃんの愛くるしい笑顔の画像が残されている。辛くて憂鬱なことの多い入院生活の中で、心和んだ楽しい思い出がこもった貴重な1枚だ。バイバイ!ももかちゃん。楽しい思い出をありがとう。
2007年3月25日 13階の震度3
 朝食後のウォーキングを済ませ病室でくつろいでいた。ベッドを跨ぐ病人用デスクに向ってzaurusのメールチェックをしていた時だった。窓際のカーテンが突然揺れ始めた。一瞬、自分自身になんらかの脳障害が生じたのかと疑った。カーテンの揺れが大きくなり、ベッドそのものも明らかに揺れ始めている。「地震ヤッ!」思わず叫んでいた。隣のベッドで検温していた看護師さんが応じた。「ほんまや!怖ッ」部屋全体の揺れが止まらない。30秒近くも続いたのではないか。阪神大震災の時の未明のベッドでの恐怖がよみがえる。
 つけっぱなしにしていたテレビ画面にテロップが表示された。「9時42分頃、石川県で震度6強の地震がありました」その後の各地の震度速報では大阪北部は震度3と表示された。震度そのものは過去幾度か体験した地震と大差ない。ところが実感した揺れはそれらをはるかに越えている。高層ビル13階の病室である。揺れを吸収する高層ビルの柔構造が上層階の揺れを拡大していた。これもまた今回の病がもたらした特有の体験なのだろう。
2007年3月26日 隣接地の出火
 11時半頃だった。窓の景色を西から流れてきた白煙が包みだした。煙りは急速に膨らみ黄色に染まりだした。室内に焦げ臭い匂いが漂い始めた。明らかに火災だ。煙の元になる方角の病棟通路の西端の窓を覗いた。工事中の更地を挟んで隣接する一角で猛然と煙を吐いている。細い路地に囲まれた古い民家の密集する地域の中の1軒からの出火である。ほどなく消防車のサイレンが次々と鳴り響く。更地からの放水が奏効し間もなく鎮火した。昨日の震災に続く今日の火災だ。退院間近にハプニングの頻発する入院生活だ。
2007年3月28日 拝啓 大阪市長殿
 先週金曜日に病院で床頭台と呼ばれているベッドサイドの収納台が取替えられた。入院患者にとっては日常生活に密着した貴重な什器である。取替え目的は小型冷蔵庫の導入のようだった。ところが導入された新たな台は、ユーザーである患者にとっていくつもの問題を生じさせていた。@収納スペースの殆どを冷蔵庫で占められ自由に使用できるスペースが大幅にカットされた。A唯一の収納スペースである引出しは冷蔵庫が発する熱を吸収し、湿布薬等をうかつに置けないもの構造である。Bテレビを載せるターンテーブルの回転が重くなり両手でないと回せなくなった。病人であるユーザーの負担は大きい。C暗証式のセイフティーボックスがカード式になり、パジャマ姿で生活する患者にカードの常備が求められる不便な仕様になった。D食事台にもなっていたスライド棚が数cm低くなり屈み込む姿勢を強いられる。
 その日のうちにユーザーの立場から婦長さんに問題点を伝えた。他の患者さんからも聞いているとのことで早速業者に連絡をするとのこと。何の対応もなく土日が過ぎ月曜の午後に業者らしき二人が婦長さんに連れられてやってきた。金曜日以降、何度も連絡してやっと来てもらったとの婦長さんの弁である。何の挨拶もなくいきなり台の点検を始める。ターンテーブルを回してみて「こんなもんです」とほざいた。使い勝手を判断するのはユーザーであり業者じゃない。厳しく批判すると「また連絡します」とそそくさと退散した。
 そして昨日の午後、前日と同じ顔触れで再び現れて、何やら言い訳を始め出した。「お宅はどなたなんですか。名刺をもらえますか」との問いに「市立大学病院の外郭団体の医学振興協会の○○で、名刺は今持ち合わせていない。今月末に財団が解散するので剰余金で今回この台を市大病院に寄贈した。今は有料の冷蔵庫もこの台では無料になる」とのたまう。苦情処理にきておいて、名刺も持参せず名も名乗らずいきなり弁解を始める。およそ民間では考えられない度し難い対応である。「使用料無料の冷蔵庫付きの新台を寄贈してやっている」という態度がミエミエだ。「寄贈といっても煎じ詰めれば税金じゃないか。試作品による使い勝手の試用実験はしたのか。せめて天井ボードの上に追加収納棚を設置できないか」と言うと「看護婦さんには見てもらったが試用実験はしていない。この台の追加の加工等は一切できない」とのこと。どんなに非難されようがその対象である組織は今月末には解散するという魂胆なのだろう。「要するに弁解をしにきただけか。それならこれ以上話しても無駄」と打ち切った。
 今の大阪市のていたらくな実態の一端ををはからずも垣間見た。外郭団体の整理統合の流れの中の出来事にちがいないが、その方法もまたいかにも患者や現場を無視したお役所仕事である。台の側面に貼られた「贈呈:医学振興協会設立50周年事業」のシールがいかにも白々しい。
 それにしても結局しわ寄せを受けるのは現場の患者や看護師さんたちである。今回の導入は4人部屋だけだ。とはいえこの台の問題点が6人部屋や個室への導入時に改善される保証はない。同室の患者仲間の「よくぞ言ってくれた」との言葉にも意を強くした。そこでせめてもの思いでこの顛末の詳細をブログに記した。
2007年3月30日 地震・雷・火事・親父
 5日前に能登半島震災が発生した。高層ビル13階の病室で耐震構造の横揺れの激しさを味わった。翌日、病院と空き地ひとつを隔てた隣接の密集地の民家から出火した。猛炎が病院の建物を包み一時は病室内にも臭いとともに漂った。今日の未明には大きな雷鳴が轟いた。文字どおり地震、雷、火事の災害が相次いで押し寄せた観がある。となれば「親父」に相当する災害もあるのではないか。
 昨日、斜め向かいのベッドのIさんが退院した。Iさんは向かいのベッドのOさんのいびきにあからさまに不満を訴えた。以来Oさんは就寝時間だけ空いた個室に移ってもらうという緊急措置が取られた。そのIさんが退院し、なんと昨晩から病院側は緊急措置を解除したのだ。それでも睡眠剤が常用化していた私は、その効力でなんとか乗り切れるのではないかと思っていた。甘かった。22時半過ぎの服用後眠りに落ちた。深夜、大きな音量に目が覚めた。時計は1時半を指している。恐れていた事態である。100kgもの巨体のOさんのいびきは半端じゃない。睡眠剤の効果を吹き飛ばす破壊力である。ガーガー、ゴーゴーだけでなくアー、オーといった音声まで入り乱れた不規則な騒音である。まんじりともせずベッドで過ごした後、明け方ナースステーションに緊急措置の継続を訴えた。
 「親父」の災害の正体は、隣のベッドの54歳のオヤジの大いびきだったのだ。
2007年3月31日 週末の安息
 慌ただしい1週間が過ぎ、退院前の安息の週末を迎えた。
 月曜日から5日間抗ガン剤投与の点滴があった。朝9時前から約2時間をかけて可動式のラックにつるされたポリ容器の薬液をチューブと針を通して腕から注入する。身動きの自由はあるが、腕の角度で点滴速度が変わるのでできるだけ安静にしているほかはない。1日1回だった看護師さんの検温・血圧・脈拍測定も、抗ガン剤の副作用チェックのため1日5回と大幅に増えた。
 火曜日から金曜までは、リハビリが始まった。15時45分から約30分、手術で固まった筋肉を理学療法士さんの手で巧みにほぐしてもらった。
 このほか月水金は入浴日で、自力の入浴で浴槽にも浸れるまでになった。毎日のブログ更新には1時間程度は必要である。1日1万歩以上のウォーキングにも1時間以上を要する。そんなこんなでこの1週間はあっと言う間に1日が過ぎた感がある。
 そして迎えた土曜日の今日である。昨日までで今回の入院中の治療は一旦終了したことになる。この週末に治療らしきものはなにもない。抗ガン剤投与に伴う身体へのダメージの回復に努める期間といえる。今日と明日の病院食の昼食をキャンセルした。コンビ二弁当や最寄りのレストランの昼食を味わうつもりだ。長かった治療をようやくに終えることができたことのお祝い気分でもある。後は月曜日の血液検査で問題のあった項目の数値改善を祈るばかりだ。そして火曜日の昼頃には、この長い入院生活に終止符を打つ筈だ。
2007年4月1日 鈍感力
 見舞ってもらった知人から何冊かの書籍を差し入れてもらった。その中に渡辺淳一の近著「鈍感力」があり、昨晩これを読み終えた。
 作者は人間生活の様々なシーンで鈍感であることが大切と説く。才能を開花させ、健康を維持し、会社や仕事で力を発揮し、恋愛を成功させ、幸せな結婚生活を維持する上で鈍感力は欠かせないという。作者は医学博士で整形外科医でもある。その専門知識をベースに語られているだけに説得力がある。
 ガンについても1章もうけられている。「ガンの予防から治療、そして社会復帰したあとまでも、すべての点で大切なのは気持のもちよう、すなわち鈍感力です」と綴られ「いい意味で鈍くて、嫌なことや鬱陶しいことは忘れるようにして、万事、明るく前向きに生きていく。こうすれば血もよく巡り、身体の抵抗力も強くなり、身体そのものに生気が漲ってきます」と断じる。今回の入院体験を通して、私自身も同感するところだ。
 ところで私の鈍感力についていえば、はなはだ心もとない。手術直後に担当医に言われた。「手術直前の血圧は一気に上がっていました。相当緊張していたんですね」。局所麻酔の初回手術のより全身麻酔の手術で気分的にはリラックスしていたつもりだったが、生理的には過敏な反応をしていたようだ。せっかちでイラチな性分も否定し難い。どうみても渡辺説にいうところのナイーヴな敏感タイプで要注意型にちがいない。
 更に鈍感力の男女差についても作者は語っている。「男はなんと律義でナイーヴな性なのか。それに比べて女性はなんと包容力があって、曖昧で鈍感な性なのか」。そして女性の鈍感力が、子供を生むという人類の存続に重大な仕事をするための天性の力だと説く。この説は、2児をもうけた我が伴侶にも十分通用する。彼女は、仕事に家事に日常生活において多分にマイペースである。家族団欒のおしゃべりの際に娘から「空気が読めない」と非難を浴びる場面もある。従来消極的な見方をしていた妻のこうした特性は、実は偉大な鈍感力なのだと知らされた。敏感タイプの私と連れ添って40年近くになる。この長きにわたる同居生活を支えたのは、彼女の優れた鈍感力だったのかもしれない。
 10時半頃、その妻がやってきた。二人で天王寺公園を散策し、駅前ビルのレストラン街で久々に美味しい握り寿司を堪能した。かってない一味違った夫婦の時間だったと感じたのは、『鈍感力』の読後感を引きずっただけなのだろうか。

2007年4月2日 入院生活の支え
 家族の支えや友人知人の励ましは別にして、辛くて単調な入院生活を乗り切る上で、このブログの更新の果たした役割は極めて大きい。それを可能にしてくれたZAURUSの威力をあらためて痛感した。病棟へのパソコンの持込みは無理である。持込めたとしてもベッドにNET環境はない。結果的に携帯端末PDAしか選択肢はなかった。幸運にも1年前からこの愛用者であったことが幸いしたというほかはない。
 それにしてもあり余る自由時間があったとはいえ、よくぞ毎日欠かさず更新できたものだ。当初、単調な生活でそんなにネタが続く筈はないと思っていた。ブログ更新というテーマがあればこそ生活や環境を見つめ直し思索を深められたことは疑いない。「ブログを読んでいるヨ」と寄せてもらった声にも大いに励まされていた。このブログを自分自身で読返すことで、次の段階の闘病生活のエネルギーにもなる。
 1日1万歩以上のウォーキングもよく頑張った。手術当日と翌日こそ達成できなかったものの、それ以外の日は無事1万歩以上を歩きぬいた。そしてウォーキングはブログ更新の多くの題材を提供してくれた。
 結果的に読書の方は、思ったほどには進まなかった。50日もの期間中に読了できたのは、わずかに文庫本7冊に単行本2冊だった。
2007年4月3日 退院・我が家の食卓
 待ちかねた退院の日を迎えた。目覚めたのは未明の4時半だった。隣のベッドの大いびきの所為だけにするわけにもいくまい。
 朝食後、病院での最後のウォーキングに励んだ後、早々と私服に着替え、ベッド周りの片付けも済ませた。一息ついたところでしみじみと病室の窓の景色を眺めた。咲き誇る天王寺公園の桜並木がなぜか感傷を誘っていた。
 9時半に最後のリハビリに1階に降りた。今日が最後と承知している療養士さんに30分以上もかけて入念なマッサージをしてもらった。今後提供してもらったメニューに沿って自分自身でリハビリに励もう。
 リハビリ室前のソファーでは、迎えに来た妻が待っていた。10時半には治療費の精算を終え、住みなれたといっていい病院を後にする。天王寺駅前で早目の昼食を済ませ、電車とマイカーを乗り継ぎ自宅に向かう。
 50日ぶりの我が家の敷居を踏んだのは13時半頃だった。玄関ドアのロックを回しながら、「戻ってきた」という思いがこみ上げた。
 夕食は私の好物の肉団子をメインとした天婦羅だった。春冷えの肌寒い気候にビールをやめて燗酒にした。腹の奥までしみ込む日本酒が心地よい。病院での食事と何という違いだろう。ベッドサイドのスライドボードで、温められて特有の匂いを発するプラスティックトレーに閉口しながら独り黙々と食べるほかなかった。食卓に向かって家族とともに味わう食事のありがたさを痛感したひとときだった。
2007年4月4日 さらば!髭面
 今日から日曜までの5日間、自宅療養とした。抗ガン剤投与後の免疫力回復が必要との医師の指示だ。9日に病院の外来で血液検査結果を待って翌日から出勤予定だ。
 朝から健保の高額療養費支給申請書、傷病手当金支給申請書、個人保険の給付金請求書、身障者手帳交付申請書等の作成に追われた。右手親指欠如後も、筆記機能は辛うじて維持された。不幸中の幸いという他はない。
 昼前に散髪に出かけた。50日に及ぶ入院中に蓄えた口髭と顎鬚は2cmにも伸びそれなりに様になっている。何しろ病棟のアイドル・ももかちゃんに愛された髭面である。そんな本人の思いとは別に、家族の評判は芳しくない。顔剃りをオーダーするかどうかが理髪店までの道すがらの悩ましい問題だった。有馬川沿いの小道を歩きながら、「いつまでも入院生活を引きずるべきではない。今の私には、今まで通りの社会生活への復帰こそが大切だ」と思いを定めた。「髭も一緒に剃っていいんですね」。散髪屋の念押しに大きく頷いた。