わからん長崎
二日目 10月23日(日)
大浦天主堂とグラバー園居留地跡見学
■5時起床。相変わらず早起きの習性は変わらない。ホテル周辺を散策し、7時には朝食のテーブルに着く。ホテル2階のワシントンホテルにお馴染のレストラン「三十三間堂」である。用意されたバイキングは和食を中心とした豊富なメニューだった。 フロントにバッグを預け、二日目の最初の訪問地である南山手観光に出発。
■「大浦天主堂下」電停で下車し、ちゃんぽん発祥の店といわれる「四海楼」と全日空ホテルの間を抜けたところに天主堂に向う坂道がある。坂道の両側には土産物店や飲食店が軒を並べているが、8時前の時間ではどこも開店していない。
 坂道を登るに従って、その突き当たり正面の大浦天主堂が徐々に姿を見せる。純白の壁がひと際美しいゴシック調の教会である。現存する日本最古の木造教会ということだがとてもそうは見えない。外壁は3年前に全面改装されたようだ。信仰とはおよそ無縁に見えるおばさん集団が、正面の階段下の撮影スポットではしゃいでいた。
■向って右手の坂道を進むとグラバー園に辿り着く。
 グラバー園は、長崎港を一望する小高い丘の上にある。出島貿易で財をなした外国商人たちが住まいを構えた南山手のエリアにある居留地跡である。入口で入場券を求め、順路に沿って二つの動く歩道を利用しグラバー園の頂上に至る。
 頂上には、前面に洋風の庭園が配されたおしゃれな白い洋館・旧三菱第二ドックハウスが建っている。館内には大きな帆船をはじめとした数々の木製船模型が陳列されている。2階のベランダからは長崎港が一望できる。
■広大な園内には順路に沿って旧長崎高商表門衛所、旧長崎地方裁判所長官舎、旧ウォーカー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校、旧自由亭そして最後に旧グラバー住宅と続く。これらの9棟の洋館は石畳の道で繋がれ、邸内には当時の内装や調度品が保存され、主の遺品等が展示されている。とある洋館には、竜馬の見慣れた写真の等身大のパネルが展示されていた。早速、観光客に竜馬とのツーショットのシャッターを依頼した。
 旧リンガー住宅から旧グラバー住宅に向う途中に、三浦環のブロンズ像がある。オペラ「マダム・バタフライ」のヒロイン蝶々夫人を何度も演じた世界的オペラ歌手の記念像だ。
■グラバー園のメイン館である旧グラバー住宅は最後に見学することになる。江戸末期に建てられた日本最古の洋風住宅であり、国の重要文化財に指定されている。邸内には主であった英国人トーマス・ブレーク・グラバー氏の事績の記録や写真、ゆかりの品々、家族の紹介などが展示されている。幕末の「尊皇攘夷」の嵐のなかで諸藩に武器を売って莫大な富を築いた武器商人にして、薩長の尊皇派に賛同し、坂本竜馬や伊藤博文たちを応援し、維新後は数々の産業開発で日本の近代化に貢献した人物である。
■グラバー園を出て、もと来た道を引き返す。松ヶ枝通りを南に下り東山手観光に向う途中で、グラバースカイロードの観光案内看板に気づいた。確かガイドブックに「グラバー園楽ちん観光のルート」として紹介してあった筈。行ってみることにした。斜行エレベーターに乗り下車し、更に十数メートル先の垂直エレベーターに乗り換える。降りた所は、グラバー園の頂上の旧三菱第二ドッグハウスの横のゲートのすぐ近くである。途中の展望台も兼ねた遊歩道からの長崎市街の眺めが素晴らしい。
 そばに南山手レストハウスがある。幕末に建てられた洋風住宅で観光客が気軽に休憩できるよう開放されている。
東山手から唐人屋敷跡散策とちゃんぽん・皿うどん
■再びグラバースカイロードの下りルートを利用し電車通りまで出る。「石橋」電停脇を抜け東山手地域に入る。大通りから100mほど入ったところに孔子廟がある。色彩豊かな中国様式の門をくぐると、孔子の門人と思しき賢人たちの多数の石像が正面の廟をガイドするかのように並んでいる。廟の奥には中国歴代博物館があった。廟だけの見学にしては高すぎる入館料500円の根拠はこちらにあった。予想以上に広い博物館には中国の歴代の遺物、宝物の数々が展示されている。見学者は、それらの文物を目にしながら紀元前10世紀以上を遡る殷・周の時代からの歴代王朝の歩みに沿って館内を歩くことになる。出口付近には土産物ショップがあり中国の食品雑貨が並べられている。
■孔子廟の右手の路をしばらく行くと左手に石畳の坂道に出くわす。傍らに「オランダ坂」の石碑が立っている。オランダ坂の両脇には東山手洋風住宅群と呼ばれる7棟の洋館が狭い敷地に密集する外国人居留地跡がある。東洋人以外の外国人を全てオランダさんと呼んでいたことからこの坂はオランダ坂と呼ばれたという。
■オランダ坂通りを山側に沿って、民家と民家の間の幅2mにも満たない路地を抜けながら、北に歩き続ける。ようやく目的地の唐人屋敷跡に辿り着く。江戸時代に長崎在住の中国人が全てこの地域に集められて多くの唐人屋敷が建てられた。現在は明治期以降に四つのお堂が復元されて当時の名残りをとどめている。唐人屋敷通りの脇に建つ土神堂を左に見ながら、新地中華街に向った。
■長崎に来たからには「ちゃんぽん」と「皿うどん」を抜きには帰れない。四海楼のちゃんぽんも捨てがたいものがあったが、観光コースとランチタイムの事情から、新地中華街の老舗中国料理店「江山楼」での昼食となった。遅めの昼食と歩き回った腹ごなしの成果を過信してちゃんぽんと皿うどんの双方をオーダーした。フカヒレ、ホタテ、えび等の魚介類に野菜がタップリの具沢山麺だ。ボリュームの大きさは如何ともしがたく、それぞれ半分近くを残す羽目になった。
長崎くんちの舞台から駅周辺へ
■ホテルに立ち寄りフロントで預けていたバッグを受け取り最後の観光に向う。
 路面電車を「諏訪神社前」電停で下車し、少し歩くと石造りの大鳥居に出合う。更に三つの鳥居が立てられている参道の下を進み、最後に長い階段を登ると諏訪神社本殿に至る。長崎の総氏神にして秋の大祭「長崎くんち」の舞台でもある。左右対称の回廊を従え、格式の高さをうかがわせる見事な社殿である。おりしも七五三のシーズンである。広い境内は、晴れ着に着飾った七五三参りの一族郎党があちこちでグループをなしている。
■諏訪神社の階段下の人通りも少ない生活道路のような通りを西に進む。突き当たりの大通りを右に折れてしばらくすると和風の巨大で真新しい建物が忽然と姿を見せる。11月3日に開館される「長崎歴史文化博物館」だった。会館直前の訪問で、今回は前を通るだけ。残念!
■博物館の北の端を左に折れ、筑後通りを西に向うと、途中に聖福寺がある。「じゃがたらお春」の石碑があるというガイドブック情報を得て立ち寄ってみる。キリシタン禁制によって、じゃがたら(ジャカルタ)に追放されたというお春の悲劇の歌を幼い頃に口ずさんだ記憶がある。その記憶が、私に山門をくぐらせた。境内の片隅に苔むした石碑があった。
■筑後通りを南に折れて中町公園の角を西に向うとカトリック中町教会がある。殉教者のために建てられたという特徴のある尖塔を持つ白亜の教会である。会堂内の荘厳な雰囲気に、思わず身を引き締める。
■更に西に向い最後の訪問地である日本二十六聖人殉教地に至る。西坂公園の一角の広々とした石畳の敷地の奥に殉教者26人のレリーフ像が立っている。キリシタン禁令により処刑された外国人宣教師6人と日本人信徒20人の殉教の地である。
■西坂公園前の坂道を降りると、JR長崎駅が目前に見える。駅に隣接して大型専門店ビル「アミュプラザ長崎」がある。1階には長崎グルメのカステラ、角煮割包(かくにまん)、ビワゼリー、からすみ、冷凍のちゃんぽんや皿うどんなどの老舗が軒を並べる。後は帰るだけである。お土産をまとめて調達した。駅前の陸橋を渡った先に交通会館がある。ここから長崎空港行きのバスが頻繁に発着している。
 長崎駅前から空港までは約45分の所要時間だった。16時50分発のANA伊丹空港行きは定刻に離陸した。
エピローグ「和華蘭(わからん)長崎」 
■最後に訪れた長崎駅ビルの広大な吹き抜けのコンコースでは、「長崎ぶらぶらフェスタ」と銘打ったイベントが開催されていた。特設舞台では若者グループがよさこい踊りを熱演し、舞台周辺はもとより、舞台を見下ろせるビル前の陸橋からも鈴なりの観客の盛大な拍手が贈られていた。長崎は元気だった。
 長崎観光のあちこちで、地元の人たちに道を尋ねる場面があった。尋ねられた長崎市民は驚くほど親切で気さくだった。延べ二日の僅かな滞在だったが、長崎の「元気」と「親切」を見た。
■駆け足の旅を振り返ると、いくつかのキーワードが浮び上がる。「港・出島」「異国情緒(オランダ・唐人・キリシタン)」「坂本竜馬」「原爆・平和」「長崎グルメ」等々である。そしてそれぞれが多彩な歴史と風景をつくりだしている。小さなエリアにこれほど多くの見所を擁した都市を私は知らない。
 原点は、室町時代から海外に向って開かれた長崎港(鎖国以降は出島)ではないか。異国人との交わりでは、長崎は日本のどこよりも深い。異国人と異国文化を受け入れ、そして伝来の文化と融合させながら独自の風土をつくりあげてきたかに見える。卓袱に代表される長崎グルメとは、まさしく「和華蘭融合の郷土料理」である。
 多様な文化を受け入れることで育てられてきた柔軟で進取に富んだ風土が、竜馬をはじめ多くの人材を呼び寄せた。そしてその同じ風土が、被爆という悲惨な体験を乗り越え「元気」を維持し、「親切」を当たり前の気風にしている。長崎の「元気」と「親切」を風土が生み出している。

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