9月18日 始発電車でジュネーブへ 
■実質的なツアー最終日の朝である。ツェルマット5時30分発のジュネーブ行きの始発電車に乗車予定である。4時45分に起床し、ホテルの朝食はパスした。真っ暗のツェルマット駅のホームに着くと既に列車は到着している。座席確保の懸念のない始発電車に座席指定なしで適当に席をとった。車内の1/4位のスペースが透明の分煙板とドアで仕切られた禁煙席になっている。
 発車してから気がついた。この電車の行先表示はBrigブリークである。どうやらジュネーブ直行ではなさそうだ。地図を確認してブリーク手前のVispフィスプが乗換駅と分った。6時39分フィスプ駅に到着した。夜明前のローカル駅のホームは尚暗い。7時3分のジュネーブ行きに乗車する。発車してしばらくすると夜が開け、途中の停車駅での乗降客が増えてきた。月曜の朝の通勤、通学ラッシュが始まりだしたようだ。
JCBプラザお勧めのモントルー観光
■9時30分、ようやくジュネーブのコルナヴァン駅に着いた。4時間の列車の旅だった。予約ホテルの「アストリア」は、駅前の大通りに面して200mばかり先の至近距離にあった(画像@)。スーツケースの預ずかりをフロントに頼むとチェックインOKとのこと。JCBプラザはホテルから数分の所にある銀行ビルの5階にあった。既に2組の日本人旅行者の先客があり、女性スタッフ二人が応対に追われていた。JCBカードを提示し、お勧めのジュネーブ近郊の観光スポット情報を尋ねる。現地滞在の永そうな中年女性に勧められたのがモントルーを足場にしたロシェ・ド・ネーとシヨン城だった。モントルーからロシェ・ド・ネー行の乗り継ぎ登山電車の時刻表メモまで貰った。旅先で聞ける現地の日本語情報の有難さを実感した。今後の海外ツアーでもJCBプラザは利用価値がありそうだ。唯一の国際日の丸カードJCBの他社カードとの差別化戦略を垣間見た。
■10時36分発のBlig行の電車に乗車。モントルーには11時39分着の予定が5分以上も遅れて到着。あせって隣接の登山鉄道のホームに駆けつけるが乗継電車は既にホーム離れた後だった。落胆するまもなく次の電車が滑り込んだ。広々とした窓の4人がけボックス席の明るい電車だ。まもなく運転手が乗客たちの所にやってきて料金を徴収する。スイスパス提示で半額割引の往復25スイスフランだった。電車の中でカードが使えるか不安だったが何とか運転席で処理してもらえた。
 11時55分に出発した電車はレマン湖の雄大な光景を下に見ながらぐんぐん登っていく。途中の切り替えしポイントでは対向電車とすれ違う(画像A)。しばらく進むと山岳風景が左右に広がる(画像B)。途中には雪除け用なのか線路の一部が木の屋根で覆われている珍しい景色が目に付いた(画像C)。12時30分頂上展望台駅に到着(画像D)。ガイドブックに「モントルーから乗換えなしで訪ねられる2000mを超える展望台」と紹介された展望台である。残念ながら今日も頂上付近は厚い雲で覆われアルプスの雄大な展望は望むべくもなかった。先客の外国人観光客グループのツアーガイドらしきオジサンに家族の記念写真を撮ってもらった(画像E)。
 乗ってきた電車は12時46分発で下山する。これを逃すと75分後になるとのこと。展望が望めない山頂での滞在を早々に切り上げた。
湖上に浮かぶシヨン城
■13時40分、登山電車でモントルー駅まで戻った(画像@)。朝食抜きでホテルを出発し、ロシェ・ド・ネーの山頂レストランでの昼食の予定もパスせざるを得なかった。空腹の限界が近い。駅前のカフェでホットドッグ風のサンドイッチを調達した。
 モントルーは気候と景色に恵まれたレマン湖畔の高級リゾート地である。東西に半月上に広がるレマン湖の西の端にジュネーブがあり、その対極にモントルーが位置している。学生時代にジャズに嵌っていた頃、毎年夏に開催されるモントルー・ジャズ・フェスティバルの開催地がここだったことを思い出した。
■JCBプラザのスタッフからはシヨン城の訪問を勧められていた。モントルー駅前のバス停からシヨン城方面のバスが出ている筈だが一向にやって来ない。やむなくタクシーで行くことにした。高台の通りを走る車窓からレマン湖畔の風光明媚な風景が見え隠れする(画像A)。湖に突き出た岩場に建てられた珍しい古城である。遠くから見るとまるで湖上に浮んでいるようだ(画像BCD)。バイロンの叙事詩「シヨン城の囚人」の舞台でもある。
 シヨン城の前からモントルー駅まではスイスパスでトロリーバスを利用した。バスは来た道と異なり海岸通りを走っている。下車駅に迷い近くの老夫婦に尋ねた。次が下車駅というところでボタンを押して合図をしてもらった。
ジュネーブ旧市街の散策
■15時19分発のジュネーブ行きの電車に乗った。16時20分にジュネーブに着くと真っ直ぐJCBプラザを再訪した。朝のお礼とディナーガイドの依頼が目的だった。朝と同じスタッフに韓国料理店を紹介してもらった。
 ジュネーブ市内観光に出かける。コルナヴァン駅前のモン・ブラン通りを旧市街に向って進みレマン湖にかかるモン・ブラン橋の手前で右折しすぐの橋を渡る。橋の途中に小さなルソー島がある(画像@)。島内にはジュネーブ生まれの偉大な思想家ジャン・ジャック・ルソーの銅像が建てられている(画像A)。フランス革命の精神的支柱となったルソーの「社会契約論」は余りにも有名である。
■旧市街の中心部に一際目を引く尖塔がある。サン・ピエール大聖堂である(画像C)。16世紀の宗教改革の中心人物であるジャン・カルヴァンが25年間に渡ってプロテスタンティズムの説教を行った教会である。神殿風の荘重な正面玄関(画像B)から堂内に入る(画像D)。3スイスフランを支払い狭くて急ならせん階段を喘ぎながら登りつめると素晴らしい光景が飛び込んでくる。レマン湖とジュネーブ市街の360度のパノラマが展開している。ジュネーブのシンボル大噴水も真横に眺められる(画像F)。尖塔の回廊の中の巨大な鐘を間近に見ることもできた(画像E) 
■サン・ピエール大聖堂を出てからは例によってショッピングを楽しみたいパートナーたちと別行動をとる。ひとりで西に向かいガイドブックを片手に「ジャン・ジャック・ルソーの生家」を捜すが見つからず断念する。市庁舎の南の坂道を下った先にオペラ劇場があった(画像@)。次に訪ねたいスポットの宗教改革記念碑は、オペラ劇場向いの広大な公園の中にあった。カルヴァンはじめ宗教改革の中心人物4人が像が中央に並ぶ長さ100mの大きな壁像である(画像A)。公園を抜けて東に向い大通りに出たところに巨大な建造物「美術歴史博物館」(画像B)があった。博物館から北にレマン湖に向かう。湖畔の広大なイギリス公園からは間近に大噴水が望める。
■待ち合わせ場所のミグロ(スイスを代表するスーパーマーケットチェーン)の前で娘と合流した。母親は近くのCO‐OPの店でお土産の豊富な品揃えのお土産品を前に最後の買出しに余念がない。お土産ショッピングを済ませていったんホテルに戻ることにした。コルナヴァン駅(画像C)の駅前大通りを過ぎるとすぐにホテルに到着する。ホテルの向いにはノートルダム大聖堂(画像D)の威容が佇んでいる。
■ホテルの部屋に重くなったお土産を置き、一休みした後、夕食に出かける。JCBプラザ紹介の韓国レストラン「IZOイゾ」を尋ね当てたが定休日なのか閉店していた。やむなくガイドブックを頼りに10分ばかり歩いてアジア料理の「Bokyボーキー」(画像E)に席を取る。タイ料理がメインとのガイドだったが提供された日本語メニューのほとんどは中華料理だった。チャーハン、やきそば、シューマイ、海老チリ等をオーダーした。運ばれてきた料理を小分けしながら味わっていた。すると食べた筈の海老チリの後に再び海老料理が運ばれた。娘が注文していないと断ると、いったん引下げたウエイトレスに代わって再びウエィターが「この席に間違いない」と言って持ってきた。こうなると単なるトラベル英会話のレベルを超えてくる。娘は結構猛然とトラブル英会話を展開している。出番のない父親はそばで「ケッコーやるやないか」と娘の語学留学の成果をあらためて再認識していた。結局、責任者らしき中国人男性が登場し、「こちらのミスなのでノーチャージで結構です」と述べて一件落着。ちょっとしたハプニングとなったこの出来事は、それなりに思い出深いものとなった。20時45分、ホテルに到着。
9月19日〜20日 帰国 
■ツアー最後の日の朝を迎えた。早朝、例によってひとりでホテル周辺を散策する。ノートルダム大聖堂と向いあったアストリアホテルのアングルを収めた(画像@)。部屋に戻るとベランダから朝焼けの美しい光に染められたジュネーブ市街が望めた(画像A)。
 典型的なアメリカンブレックファーストを済ませ7時50分にホテルを出た。徒歩数分の駅のホームで8時10分発のエアポート行の電車を待つ。電車が到着し、車床とホームの落差の大きいステップを通勤客たちが次々と降りてくる。中年の男性が赤ちゃんを乗せたベビーカーの前を持って降りてくる。ベビーカーの取っ手を持ってホームに降り立った若い母親が、ごく自然に男性に礼を述べている。さりげない様子で立ち去る男性。どこにでもあるようでなぜか日本では見られない風景だった。日常生活に息づいたキリスト教文化圏の優れた点を想った。
■わずか5分でエアポート駅に到着。日本の空港アクセスに比べなんという便利さだろう。重いスーツケースを電車の高いステップから降ろすと、さすがにエアポート駅のホームである。スーツケース用のキャリアが準備されていた。エアポート1階にミグロがあった(画像B)。母娘はお土産の駄目押しのお買物。父親はひとりスーツケースの見張り番。免税店よりもかなりお買い得という娘の情報でスーツケースともども入店しお買物の仲間に入る。帰国後のビールのツマミに10本入りの角型ソーセージを求めた。日本円換算で430円ほどだった。
■9時過ぎにデパーチャーカウンターで搭乗手続きの列に加わる(画像C)。ANAやルフトハンザのスターアライアンスグループの共同カウンターだ。9時40分に出国審査ゲートを通過し、搭乗ゲート周辺で現地通貨の処分のため購入したジュースを飲みながら過ごす。ルフトハンザの搭乗機が出発準備を進めている(画像D)。
 11時10分発フランクフルト行のルフトハンザが飛び立った。しばらくすると機内の窓越しにアルプスの鋭い山並みが眼下に広がっていた(画像E)。スイスに入って以降、悪天候続きで雄大なアルプスを満喫することが適わなかった。帰国途上の機内からのアルプスがせめてもの慰めと言うべきか。12時45分、約15分遅れでフランクフルトに着陸した。
 フランクフルトでの1時間15分のトランジットだった。14時発の大阪関西空港行のルフトハンザ機はジャンボ機だった。後方タラップから初めて搭乗した。11時間の飛行時間の後、9月20日の朝8時に無事、関西国際空港に着陸した。
エピロ−グ 「大国の狭間で生きる小国の智恵」
■ツアー4日目以降の5日間はスイスの旅だった。チューリヒ、ツェルマットに二日間ずつ宿泊を重ね、最後の朝をジュネーブで目覚めた。テレビをつけた時、飛び込んできたアナウンサーの音声になにか違和感を感じた。しばらくしてその違和感の正体に思い至った。昨日までのテレビのドイツ語の音声がフランス語に変わっていたのだ。ドイツ語の喉に引っかかったような促音の多い音声が、フランス語の早口で騒々しくて耳障りな音声になっていた。スイスは横長の四国のような形をした九州よりひとまわり小さい国である。東のチューリヒを中心としたドイツ文化圏と西のジュネーブを中心としたフランス文化圏に引き裂かれているかに見える。
 同じ国内を旅しながら一夜にして言語が変わる所にスイスの置かれた国の成り立ちの特性がある。ヨーロッパの中央部に位置する小国スイスは、ドイツ、フランス、イタリアの大国の狭間で生き延びている。ドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語を公用語にするスイスの事情がここにある。そしてスイスは、独自の智恵と戦略を駆使して独立と統一を確保してきた。
■190番目の加盟国としてスイスはわずか4年前の2002年9月に国連に加盟した。加盟の遅れは長年に渡る「永世中立」の国是の反映でもあった。ドイツからスイスに入り、ユーロの使用がかなり限定され不自由さを味わったものだ。スイス国内はスイスフランが主要通貨である。EUのど真中にあってスイスは、過去の何度かの国民投票にもかかわらず今尚EUへの参加を拒否し続けている。
 狭い国土と慢性的な過剰人口が歴史的にスイスを苦しめてきた。中世以降の牧畜の発展がますます耕地を狭め過剰人口を生み出した。スイス人の傭兵が盛んになった構造的な背景である。堅実で我慢強く働き者のスイス人傭兵は各国から求められ、スイス人同士が外国で戦う事も珍しくなくなった。相次ぐ国際紛争の中で傭兵を派遣するスイスが生き残るための国としての外交政策が「武装中立」だった。どの同盟にも参加しない「永世中立」の国是として長く保持されてきた歴史的背景である。
■スイスの物価高はかなり有名な話のようだ。「地球の歩き方」のコラムでも取り上げられている。その中でスイス人の次のようなコメントが紹介されていた。「スイスは観光立国だ。あの美しいアルプスと牧場の風景を守っているのは農家の人々だ。彼らがいなくなったら山は荒れ放題になってしまう。消費者の立場から彼らを支持するのはスイス国民としての義務でもある。」
 説得力のあるコメントである。物価高の要因の多くが自由化を拒む農産物の価格にあるようだ。一時的に通過する観光客がスイスの素晴らしい大自然を味わうためなら多少の物価高に目をつぶることもやむをえないといわざるをえない。スイスがEU加盟を拒み続ける理由もこの当りにあるようだ。日本では、貧困な農政の結果、地方の過疎化がどんどん進んでいる。農村の基盤が崩れ伝統的な田舎の風景が失われている日本の哀しさを想った。
 鉄道駅のホームで列車を待っていると、しばしばスズメの群れを目にすることがあった。スイスのスズメはどのスズメも丸々と太っていた。物価高であってもやっぱりスイスは金持ちの国なんだと思った。

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