9月8日(木) 帰国・・・娘との別れ
■7時15分、カナダでの最後の朝を迎えた。寝起きは最悪だった。深夜0時過ぎに外出から帰ったらしい隣室のティーンエイジャーたちのバカ騒ぎでほとんど眠れなかった。ホテルの安普請がこれに輪をかけていた。最後の宿のミスチョイスの懸念が現実のものとなった。
 8時30分、帰り支度を整え、チェック・アウトを終え、スーツケースをフロントに預ける。ホテル1階のアイリッシュ・バーでシリアル・ブレックファーストをとる。母娘は好物のホットケーキに満足そうだが、私はコーヒーだけでパス。
■9時15分、最後の観光に出かける。グランビル・アイランドのパブリック・マーケットとマリーナ見学だ。ホテル近くで市バスに乗車しグランビル・アイランドで下車。道に迷い回り道をしながら10時頃にようやくパブリック・マーケットに到着。入江に突き出た小さな半島の先端に建つ倉庫造りの大きなマーケットだ。野菜、果物、海産物、精肉、ハム・ソーセージ、アクセサリー、雑貨等がところせましと並んでいる。平日にもかかわらず朝から多くの市民や観光客で賑わっている。ウォーターフロント沿いの太陽をふんだんに取り込んだカフェテラスは、席待ちの人並で混み合っている。朝食抜きだった私はホットドッグを調達し、エスプレッソを買い込んだ同伴者たちとテーブルを囲む。テラスの外の岸壁にはカモメや名も知らぬ海鳥が悠然と羽を休めている。
 マーケットに隣接してアクアバスの乗場がある。ほどなくやってきたアクアバスに乗り、対岸のアクアバス・センターに着く。イングリッシュ湾の一角にあるアクアバス・センターからは太平洋に連なる果てしなく続く広大な海原が展望できる。ここからホテルまでの1kmほどを歩いて帰る。
■11時、ホテルに到着。スーツケースを受け取り、タクシーを呼んでもらう。11時15分、やってきたタクシーに乗り込む。若いアフリカ系のドライバーは陽気でおしゃべり好きだ。助手席の娘の英会話教室が始まる。ネイティブ・イングリッシュでないだけに私の耳にも時折会話の内容が聞き取れる。アフリカの母国の指導者の腐敗を嘆いている。カルガリー国際空港が近づき、空港内施設のガイドでドライバー氏はおしゃべりを締めくくった。そして彼は多少大目のチップを手にすることになった。
■11時40分空港着。エアカナダの大阪国際空港行きカウンター前には、お馴染みになった搭乗登録マシンはなく、カウンターでの日本人女性による手続だった。14時15分の出発便までかなり時間がある。娘はこの後、更に一泊してバンクーバーと海峡を挟んだ対岸の島・バンクーバー島の南端に位置するビクトリアを観光するという。フードコートで娘と別れのお茶をした。
 これからバスとフェリーを乗り継いだ長旅が待っている娘を余り長く引き止めるわけにはいかない。12時30分、搭乗手続ゲートをくぐる両親を、姿が見えなくなるまで見送る娘の姿に手を振った。
■搭乗まで1時間以上の時間がある。免税店ゾーンが目の前に広がっている。さっきまで娘との別れに涙ぐんでいた妻は、俄然元気が出る。その豹変ぶりに内心舌を巻く。彼女にとっては、今回のツアーで果たせなかったブランドショップのラストチャンスが巡ってきたのだ。化粧品ショップとバーバリーショップでようやく目的を果たしたようだ。もっともバーバリーショップでは私もカジュアルシャツを手に入れた。
 残った小銭を捌いてしまおうとアイスクリームを注文し、レジで清算しようとして狼狽した。手持ちの小銭と同じ価格のアイスクリームを手にしていたのだ。消費税をすっかり失念していた。ありったけの小銭を手にのせ、しどろもどろに「アイムソリー」「キャッシュオンリー」と口上する。よくあるパターンなのか、責任者らしき従業員が登場し「オーケー マイプレゼント」と口を挟んでくれた。
■14時15分、搭乗機のAC039は定刻に離陸。帰国便の乗客は圧倒的に日本人が多い。機内で朝日新聞を読む。日本を出発したとき、二位の中日に0.5ゲーム差まで詰め寄られていた阪神がなんと3ゲーム差に突き放しているではないか。幸先のいい帰国になりそうだ。
 日付の変わった9月9日(金)17時40分、無事「関西国際空港」に到着。途中の強い向かい風で約40分遅れの10時間50分のフライトだった。18時には入国審査を終え、18時10分にはKHKサービスからマイカーを受け取り空港を出発。自宅近くで夕食を済ませ、20時、8日ぶりに我が家のドアを開いた。
エピローグ カナダという国
■これまで私にとってカナダという国は存在感の薄い国だった。とはいえロシアに次ぐ世界第二の国土を持ち、G7の構成国でもあるカナダは紛れもなく大国である。この落差はどこからくるのだろう。隣国アメリカの余りにも大きい存在感の故なのだろうか。あらためてその歴史に触れてみた。世界史に登場した17世紀以降、フランス、イギリス、アメリカにほんろうされてきた歴史があった。イギリスの植民地国家から1932年に独立して73年を経たばかりの国である。広大な国土を維持する上で多くの移民を受けいれてきた移民国家である。カナダの国家としての主体性や民族としての統一性を主張し難い歴史と構造が、他国民に存在感の希薄さを招いているのではないか。
 娘の留学先であるカナダ第1の都市トロントの人口の半数以上が移民である。街角はまさしく多民族国家の風景だった。特定の通りに同一民族が集中して居住するエスニックタウンがある。チャイナタウン、ポルトガル人街、コリアン・タウン、リトル・イタリー、ポーリッシュタウン、グリークタウンなどである。言葉や文化の違いをお互いに尊重しあいながら共存するモザイク都市の知恵と風土が、語学留学をめざす多くの若者たちを各国から引き寄せているのだろうか。
■多民族国家と並んでカナダを特徴づけるものに大自然がある。私のカナダ紀行の多くの部分が、この大自然への賛歌で占められている。
■娘の生まれて初めての一人暮らしの体験がトロントだった。娘とタクシードライバーとの何度かの会話を耳にした。4ヶ月の留学生活は、それなりの成果をもたらしているようだ。そんな感想を口にする父親に娘はクールな言葉を返してくる。「まだ言葉をそのつど日本語に置き換えているレベル。直感的に言葉が出ない。感情表現ができない。ボキャブラリーの多様な使い回しができない。片言会話はできてもコミュニケーションになっていない。」 納得。
 更にトロントでの生活ぶりを口にする。「学校通いや勉強の合間に何とか炊事・洗濯・掃除をこなしている。要領の悪さ、メニューの少なさを思い知らされている。より安く生活をするために買物の価格にもシビアになった。」
 これまでパラサイト生活の甘さや安易さの中でぬくぬくと過ごしてきた娘だった。高額なブランド・グッズに惜しげもなく小遣いをはたいていた娘だった。海外での独り暮らしの経験が、最も大切な部分の成長を促しているとすれば、語学に勝るものを学んでいるのかもしれない。
■4月のイタリア旅行に続いて今年2度目の海外家族旅行となったカナダツアーが終わった。娘の留学先訪問を兼ねた旅だったが、1年に二度に及ぶ海外ツアーはやはり異例のできごとだった。
 世界遺産を語るキーワードに「自然遺産」と「文化遺産」がある。イタリアでは、ローマ、フィレンチェ、サン・ジミニャーノ、シェナ、ナポリ、ポンペイなど数々の文化遺産に間近に接した。カナダではカナディアンロッキーをはじめ大自然の営みに包まれた。はからずも二度の海外ツアーは、自然と文化という人類にとってのかけがえのない遺産を巡る旅となった。

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