2007年6月例会

 6月19日(火) 患者の達人=老後の達人
■1月以来の5ヶ月ぶりの大阪さくら会の例会出席となった。この間、重い病いを得て50日間の入院生活とその後の再入院による治療が例会と重なったためだ。
 そして迎えた6月の例会は、幹事の皆さんの心遣いから私の復帰祝いの会として開催された。例会では私から闘病生活を中心としたこの間の心境を「患者の達人=老後の達人」をテーマに以下のような内容を語らせていただいた。左画像の右下の髭面顔写真は当日配布のレジュメに貼付した退院直後のものである。家族の評価とは裏腹に本人はいたく気に入っている。リタイヤ後の再挑戦が楽しみだ。

◆発病
 数年前から右手親指の爪の下に黒ずみが発生していたが、痛み等の自覚症状もないため放置していた。その後黒ずみは拡大し、爪を持ち上げるまでに盛上がってきた。昨年12月19日ようやく職場最寄りの皮膚科クリニックで受診した。精密検査が必要とのことで大阪市大病院を紹介される。
 大阪市大病院皮膚科専門医の診断は次のような深刻なものだった。「病名は悪性黒色腫(メラノーマ)で皮膚癌の一種。検査結果次第だが内臓転移の有無では命にも関わる。年末年始を挟んだ時期なので1カ月後に胸部CT検査とPET検査をする。指先の切除は避けられず、1カ月以上の入院が必要」 。
◆死と向き合う
 自覚症状のない健康な生活の中での突然の「死に至る病い」の宣告だった。検査結果判明まで1ヶ月以上もの間の不安は言いようのないものだった。死の恐怖が同居する眠れない日々が続き、誰にも分ち合えない、自分だけで耐えるしかない恐怖が募る。
 詮のない繰り言が次々とついて出る。「検査待ちの今も症状は悪化しているのではないか!夢であってくれ!何故自分に!自分がどんな罪を冒したのか!人生の収穫期を目前にして何ということだ!」
 始めていたブログ発信も中断した。到底、自分を語れる心境にはない。「ジタバタしてもはじまらない」「所詮なるようにしかならない」という諦観と割り切りで辛うじて精神の平衡を保っていた。
◆「禍福はあざなえる縄の如し」
 年が明けた1月中旬、地元小学校の先生からうれしいメールを貰った。私の個人HP「にしのみや山口風土記」にアクセスした先生からの、ぜひこれを教材に子どもたちに授業をしてほしいという依頼だった。快諾し、2月1日に授業を行なった。
 1月24日にはCT検査の結果が判明し、「懸念された肺と腋下リンパ節への転移はない」とのこと。ヨカッタ〜ッ!!最悪の事態は回避された。
 「禍福はあざなえる縄の如し」の故事がピッタリの心境だった。ようやくブログに向かう気力が湧いてきた。この際、冷静に我が災厄と向き合うのも悪くない。1月29日にはさくら会の例会出席のため天満の繁昌亭にでかけた。
◆闘病
 2月15日に第1回目の手術があった。右手親指の第1間接先の患部周辺を切除し、病理検査に回された。局所麻酔による手術は、指先の骨を削る音と感触を味あわせるものだった。手術数日後のガーゼ交換の際に眺めた手術跡はグロテスクでホラーの世界を連想させた。
 3月8日、第2回目の手術を迎えた。病理検査結果は予想外の症状の進行を示していた。その結果、手術内容は親指のほぼ全てを切除し、予防的に右脇下リンパ節もあわせて切除するという厳しいものとなった。
 更に手術直後と退院後2回にわたって8日間の入院による抗癌剤投与が必要だ。その後5年間程は血液検査による経過観察が待ち受けている。この日以来、長い闘病生活とともに右手親指を失くした障害者の生活が始まった。
◆患者の達人
 「病いの克服のために患者は何ができるのか」「見舞客と交わされる患者の『頑張り』とは何か」。入院中に思ったことである。
 治療の成果は医師の力量と処方箋の有効性や合併症や副作用の発症など患者の体質に負うところが大きい。前者は医師に任せるほかなく、後者も蓋を開けなければどうにもならず患者自身の頑張りの埒外である。
 深刻な病いであればあるほどそれを突き付けられた時の衝撃は大きい。「なぜ自分が・・・」という絶望感は深い。どれほど悩もうが与えられた現実は変わらない。ここで患者の『受け止め方』が問われることになる。突き付けられた現実は変えられなくとも、ポジティブに受け止めるかネガティブに受け止めるかは患者自身の選択である。
 患者自身がネガティブになればなるほど本人の病いを克服する気力を奪ってしまう。それは同時に患者をサポートする医師や看護師や家族の支援の意欲を萎えさせることにつながる。患者のポジティブさこそが病い克服の貴重なエネルギーである。それは患者を支援する回りの人達と積極的な関係を築く上で患者自身が対応可能な唯一の手立てでもある。
 『患者の頑張り』『患者の達人の極意』とは、患者自身が病いとポジティブに向き合うことに尽きるのではないか。
◆入院生活
 50日間の入院生活だった。限られた治療と検査以外はすることがない隔離されたこの生活は、リタイヤ後の生活に重なっていた。無為に過せば果てしなくテレビと惰眠に流されることになる。同室のお年寄りの暮らしぶりを反面教師に、規律を課した生活を決意した。
 そのひとつは、ブログ更新である。とはいえベッドにパソコンは持込めない。持込んだとしてもネット環境がなければブログ更新はできない。幸い2年前から携帯端末PDAのZaurusを愛用していた。持ち込みサイズでNET環境なしでもメール送受信とネット閲覧、ブログ更新ができた。入院中、毎日更新を続け、家族を始め、私のことを気に掛けていただいている友人、知人にリアルタイムな病状報告と想いを伝えることができた。ブログ更新がもたらしたものは大きかった。それは日々のテーマへの執着であり、思索を強いる罠だった。問題意識をもって眺める病棟の風景から多くのものを得た。何よりも読者を念頭に置いた発信は、いやおうなくポジティブな思考を要求していた。
 今ひとつは、ウォーキングである。2回目の手術当日と翌日の2日間以外は1日1万歩以上を歩きぬいた。一口に万歩といっても病院内でのことである。病室のある広大なフロアを20数回徘徊してようやく達成可能な歩数である。そしてウォーキングはブログ更新の多くの題材を提供してくれた。
◆病いのバランスシート
 病いを得て失くしたものは大きい。右手親指、健常者の日常生活、木造模型やジャズイラストの趣味、入院・治療費・休業中の給与などである。反面、得たものも少なくない。5級の障害者手帳、出費を上回る個人保険や社会保険の保険金、生き方・過ごし方の啓示、夫婦と家族の絆などである。私にとっての病いのバランスシートは、負け惜しみの気持ちも含め負債を上回る資産であったと受け止めよう。
◆黄昏
 62歳の私の現在は、定年以降、63歳の年金受給年齢までの再雇用の身である。間違いなく人生の黄昏時を迎えている。最近、藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」を読み返した。「日は残りて昏るるに未だ遠し」。作中のこの言葉が心に沁みる年齢である。肩の力を抜いてありのままの現実を素直に受入れよう。定期購読誌が「日経ビジネス」から「PHPほんとうの時代」に変わった。
 見方を変えればゴールデンエイジともいうべき人生の収穫期を迎えようとしているのも間違いない。とはいえテーマ(ライフワーク)とテーマ達成を律する仕掛けがなければ、老後は「惰性に流れる余りの人生」になることも心しよう。
◆ライフワーク
 ライフワークをどのように見出すのか。やりたかったこと、好きなこと、得意なことにこだわれば良い。私の場合は、「執筆活動」「イラスト・漫画」「ITスキルの活用」といったことが休日の楽しみになっていた。それを集大成するものとして個人HPの発信に繋がった。私のIT暦は同世代と比べれば比較的長いと言えよう、12年前にパソコンを始め、10年前にHPを立上げた。昨年からはブログ発信も開始した。
 他方で3年前から万歩ウォーキングを日課としている。休日のウォーキングで住んでいる街の自然と歴史の素晴らしさを発見した。それが私のライフワークであるHP「にしのみや山口風土記」の立上げに繋がった。
◆地域活動
 2005年春から2年間、自治会役員を務めた。1400世帯もの新興住宅街の自治会の肩書きは防犯担当副会長がだった。この経験が地域と地域活動への関心を深めさせることになった。
 私は、故郷を離れ山口という歴史の街の一角に忽然と姿を現したベッドタウンに移り住んでいる。そんな私には、子供たちに子供たちの故郷であるこの街をを語れない。新興住宅に住む多くの親たちも然りである。「風土記」による新興住宅の住民や子供たちへの「歴史と自然の街」のアナウンスへの思いが加速した。ライフワークがステップアップしたと思った。
 新興住宅街の中に開校した小学校の先生の「風土記」へのアクセスが、私を小学校の教壇に立たせることになった。3年生の授業に地域学習がある。「通い」である先生たちもこの街を語れない。「風土記」の作者の出番となった。6月初めに110名の児童対象に「風土記」を教材とした二回目の授業をおこなった。個人的ライフワークが社会貢献と結びついた喜びの瞬間だった。
◆患者の達人=老後の達人
 基軸となるテーマ(ライフワーク)の設定と、テーマ達成を律する仕掛けの設定、ポジティブ思考というこが、入院生活で学んだことだった。「患者の達人」のこの方程式は、私の「老後の達人」に応用されることになる。ライフワークは、「風土記」の執筆とブログの更新である。「風土記」の取材がウォーキングの楽しみとなる。ブログを念頭に問題意識を持続しよう。
 何よりも大切なのは「ポジティブ思考」だ。「ほんとうの時代」の記事で「京都西陣のわらじ医者・早川一光氏(83歳)」を知った。氏の次の言葉に、老いをポジティブに受け止め笑いにくるんで向き合うしたたかさを見た。
 
『「老い」というものは、生まれたそのときから、あなたの背後をついてまわります。そして知らないうちに近づいてきて、後ろから肩をポンと叩いて、「おい」といいます。「ワ!老いがきた」とびっくり仰天してショックを受けるのを「オイル(老いる)ショックといいます。』
■スピーチを終え、井上代表幹事からスピーチのコメントと復帰祝いの言葉が述べられた。併せてお祝いの花束が森さんから贈呈された。紫陽花とバラの鮮やかな花束である。私の病いをよく支えてくれた妻への良いプレゼントになる。帰宅後、花束は早速我が家の食卓に飾られた(右画像)。
■スピーチの後は、例によってやなぎ店長のお品書き案内で始まる会食だ。以下本日のお品書きである。お酒は山形の超辛口吟醸酒「くどき上手・ばくれん」@、お造り(まぐろ・平目)A、鱧の照り焼きB、じゃこと大根のパリパリサラダC、鶏大根煮D、柚子豆腐E、貝柱のそば寿司F、お漬物(キャベツ・水菜・白かぶら)G、大皿仕上そばH。
■久々の例会での懇親だった。テーブルを回りながらしたたかに酔いしれた。最後に川島代表幹事の閉会挨拶で締めくくられた。私のスピーチに関する過分なコメントを頂いた。
 今回の参加者は、川島、井上、岡、日高、竹内(佳)、森、麻生、北村、谷山、木下、筧田、岡山、家入、新屋、吉井、奥野の16名の皆さんだった。

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