2005年7月例会

松下幸之助の商いの心
大阪さくら会の7月例会は、講師にPHP総合研究所の谷口全平研究顧問にお越しいただいた。紹介者は、同じPHP総合研究所勤務のさくら会メンバーである福井栄子さんである。
 福井さんから谷口研究顧問の職場での幅広い活躍などの紹介があり、谷口顧問から「松下幸之助の商いの心」というテーマで一時間ほどお話しをいただいた。参加者は前月に引続き20名と多数を数え、期待の大きさがうかがえた。
 谷口研究顧問は、昭和39年に松下電器に入社し、人事本部に配属後、11月にPHP研究所へ出向されたとのことである。以下は谷口顧問の講演の概要である。
PHPとは、P(ピース・平和)、H(ハッピネス・幸福)、P(プロスペリティ・繁栄)を表しており、昭和21年11月3日に設立された。昭和21年といえば、松下電器にとって一番苦しい時であったが、松下幸之助は、「どうしたら人間は苦しみをなくし、幸福になることができるのか。正しい、平和な社会を築くにはどうしたらよいのか」を考えPHP研究所を設立した。

 当時、PHP研究所は京都南禅寺の近くの真々庵にあった。昭和39年12月2日に初めて松下幸之助にお会いした。その時の印象は、紺の背広で清楚な感じを受けたが、眼光は鋭く「君は学校で何を勉強してきたのか」と尋ねられた。経済ですと答えると「私は勉強してこなかったので経済を教えてくれ。経済とは何や・・」とおっしゃったのが印象に残っている。 
昭和37年から松下幸之助を囲んで研究会が持たれ「人生について」研究されている。幸之助は、40年前、日給83銭で働いていた。身体は病弱で半病人のようだった。小学校は4年生、9歳で中退。村の議員を勤めたこともある父親だったが、米相場に手を出し財産を失った。そのため夜逃げ同然で村を後にした。幸之助も大阪の宮田火鉢店へ丁稚奉公にでる事になった。三ヶ月勤めた後、五代自転車店に移り15歳まで勤める。その後、大阪電灯に22歳まで勤務し、独立して松下電気器具製作所を3人で創業する。38年後、60歳の時、所得番付で1位になったが、「38年で0からトップになったのは、運命としか考えられない」とおっしゃっていた。
昭和55年、88歳の時、YPO日本大会に出席された。ビジネスマンにとって一番大切なことは何かとの質問に、少し間をおいて「愛されることでんな」と答えられた。また「企業の盛衰は社会が決める」とも述べてられている。「社会が必要だと思えば企業は伸びるが、社会が要らないとなればやむをえない」とも語られた。
その他、谷口研究顧問は、「松下電器が将来いかに大をなすとも、一商人たるの観念を忘れず、従業員またその店員たることを自覚して、質実謙譲を旨として業務に処すること」という社内規を昭和10年に設けた事。「真の商人とは、@商売の意義がわかる人。会社は社会の公器である。A相手の心が読める人。B人より頭が下がる人。感謝と謙虚さをもっていること。謙虚な誇りが必要。」といった点を指摘された。
松下幸之助の身近におられた体験を通じ、松下幸之助の商いの心について、私たちの今後の仕事や人生にとつて極めて示唆にとんだ意義深い高話をいただいた。参加者は大きな感銘を受けるとともに、熱心にメモをとる姿が多く、充実した例会となった。
 参加者は、川島、井上、岸、竹内(佳)、森、川村、盛田、福井、北村、三浦(義)、木下(雅)、筧田、浦濱、高見、中野、吉川、大橋、家入、豊嶋、本間の皆さんだった。                                                            (文責:川島)