2011年7月例会

8月6日 龍馬が残した大坂の足跡
■昨晩、7カ月ぶりに大阪さくら会の例会に出席した。今年から例会ごとにテーマや講師を各幹事が担当するという方式になっている。今回の担当幹事は竹内(佳)さんである。その竹内幹事紹介の講師は「大阪龍馬会」の幹事・長谷(おさたに)吉治さんだった。竹内氏の今やライフワークになっていると思われる大坂検定の活動を通じてのテーマであり講師選定のようだ。7時半の定刻になり、竹内さんからそうした経過の講師紹介があった。
■講師のスピーチが始まった。自身の著作「大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜」をベースに、龍馬が残した大阪の史跡が紹介され、配布された古地図のカラーコピーを示しながらの興味深い解説が行われた。
 ホームページによると「大阪竜馬会」は1985年に高知、東京についで全国3番目に結成された龍馬会ということだ。現在100名の会員を擁し、年4回の機関紙発行や年数回の史跡探訪や親睦会などのイベントを開催しているという。
■講師のスピーチの骨子は、「龍馬の足跡の中で最も訪問回数が多いのが大坂だった」という点である。その訪問先の場所として北鍋屋町(現在の淡路町)の「浄土真宗・専稱寺」と東横堀川思案橋西詰の「船宿・河内屋与次兵衛」があげられた。
 専稱寺は幕府の軍艦奉行並に就任した勝海舟の大坂での寓居先であり、私塾の海軍塾を開いた場所でもある。当時、海舟の門弟でもあり海軍塾の幹部でもあった龍馬が、頻繁に出入りしたことは想像に難くない。
 もう一方の船宿船宿・河内屋与次兵衛は、京都・大坂を結ぶ淀川の三十石船の大坂側の船宿のひとつである。龍馬の伏見の滞在先が、船宿・日野屋孫兵衛であることは姉・乙女に宛てた手紙で明らかだが、その大坂側の提携先の船宿が河内屋与次兵衛である。実際、この宿から大坂海軍塾・専稱寺まではわずか400m程の距離であった。
■スピーチ終了後には参加者からの質問が相次いだ。ユニークだったのは「龍馬ブームがこれほどまでに根強いのは何故だと思いますか」という質問に、講師からは「司馬遼太郎の『「竜馬がゆく』の影響が極めて大きいと思います」という回答が返された。簡潔明瞭で説得力のある回答だった。講演後に、持参頂いた著作「大坂の史跡探訪〜龍馬の足跡〜」(600円)を購入した。龍馬の大坂での足跡が写真、絵図、地図などをふんだんに織り交ぜて解説されている。大阪中心部での時間を見つけた街歩きの楽しみを手にした。
■スピーチの後は、恒例の会食懇親会である。例会の会場がOBP3階の月日亭になって久しいが、毎回の料理も趣向を凝らしてもらっている。今回は牛すきをメインとした涼しげな涼風会席料理だった。以前は座卓だった席もテーブル席に変わり、ゆっくり寛いで過ごせるようになった。
 ちなみに今回の参加者は、講師の長谷さんに、川島、盛田、森、岡、竹内、日高、福井、筧田、岡山、横山、桑田の12名の皆さんだった。