1985.09
大坂労働協会「月間 労働」寄稿報告

パート組合・12年間の軌跡
働くお母ちゃん運動


はじめに---アイドル母ちゃんたちの熱唱---

会場を埋め尽くした主婦たちの、むせ返るような熱気のなかで歌自慢の「アイドル母ちゃん」たちが、次々と熱唱する。
取材するマスコミのテレビカメラの放列にもめげず、ライトの眩しさにもくじけない堂々たる歌いっぷりに、働くお母ちゃんたちの逞しさとしたたかさを垣間見る。
紙テープが飛び交い、花束が贈られる。バックコーラスの職場の仲間たちは、手にしたティッシュペーパー製のピンクの花を振って盛り上げる。
手作りの真っ赤なドレスを着て"美空ひばり"が、年齢に挑戦するかのように、胸元あらわに登場した。爆笑と拍手と野次と手拍子がひときわ高くこだまする。
なんとも凄まじいエネルギーという他はない。
昭和60年3月7日、大阪中之島公会堂の中ホールを舞台に繰り広げられた「パートタイマー協議会・85春闘カラオケ団結祭」のヒトコマである。
そして、この風景こそが、当社における12年間のパート問題の取り組みを経て辿り着いた「一里塚」であり、同時に未来に向かう「道標」でもある。
本来「春闘決起集会」であるはずの風景が、何ら違和感なく「カラオケ大会」に取って代わられるところに『労働運動』とは言い難い、ましてや『婦人運動』からは程遠い”働くお母ちゃん運動"としか言いようのない当社のパート運動の性格が象徴的に語られている。
こうした風景を生み出すに至った当社におけるパート問題の背景と歩みについて、以下報告したい。

社員組合の「全従業員路線」
昭和47年前後、結成2年余りにヨチヨチ歩きの当社の労組は、急速に進展する従業員のパート化を前にその対応を迫られていた。
当時、急成長を遂げていたスーパー業界では、相次ぐ出店による慢性的な人不足を、パートタイマーで補うことは、社員にとっても直面している労働強化の最も現実的な解決策であった。めまぐるしく入れ替わるパートタイマーの定着化と、より多くの採用をめざして、彼女たちの労働条件改善に取り組むことは、社員自らの要求でもあった。
こうした背景のもとで、労組は、73春闘において初めてパートタイマーの時間給引き上げ要求や一時金要求を取り上げ、同時に会社と「パートタイマーの労働条件整備と労組への加入」を骨子とした「定時社員協定」を締結した。ところがその後のオイルショックに端を発した経営環境の悪化は、労使関係を先鋭化させ、「定時社員協定」の制度内容についての労使の食い違いを表面化させることになった。最終的な会社案による「定時社員」は、社員とパートタイマーの中間に位置する少数の「第三身分」的様相を帯びたものであった。ここに至って労組は、「定時社員協定」の履行を断念せざるをえなくなった。
同時にその後の会社申し入れによる労働条件の見直しを巡る厳しい闘いの過程で、「社員だけの組合」のもつ限界が明らかになってきた。例えば、「時間内職場集会」という形のストライキは、現実には既に延人数で社員数を上回っていたパートタイマーと管理職によって、店そのものは、開店され営業されるという実態であった。
こうした背景と経過のもとで、労組のパート政策は根本的な転換を迫られることになった。
「12,000名の従業員の内、わずか3,000名しか組織化されていない労組の組織基盤をどう強化するのか?」
「定時社員協定の白紙化にみられたような、労組の請負的なパート問題の取り組みの限界をどう克服するのか?」
昭和53年秋の労組定期大会で打ち出された『全従業員を代表する組織づくり(全従業員路線)』の方針は、こうした問いについての労組としての回答であった。

「日常問題の100項目要求」
大会直後からパート組織の結成に向けて、労組役員による全面的な職場オルグが開始された。
ところが労組の側の、ある意味で一方的で理念的なパート組織結成の提案は、あるべき理念や長期的な見通しよりも、目の前の現実的な利害こそ大切という主婦たちの感覚の前に、より現実的な修正を加えられることになった。
「社員は、私たちパートを利用しようとしているだけではないのか?」「組織が出来ればどんな具体的なメリットがあるのか?」
こうした声に直面して、労組は「要求こそが組織結成の原動力」であることをあらためて確認するとともに、パートタイマーの現実的で身近な職場要求の吸収に全力を挙げることになった。
その結果まとめられたのが、「社員は、パートタイマーをオバチャンと呼ぶのをやめて!」といったことから始まって、備品や制服支給、仕事場の冷暖房などの職場環境問題など「日常諸問題に関する100項目要求」である。この100項目要求は、その後数年間にわたって、本部の労使交渉のテーマとして取り上げられ、一つ一つ着実に解決されることになる。

旗揚げ!「パー連協」
昭和54年2月15日、大阪・中之島公会堂を、1000名近い主婦たちが埋めていた。
「パー連協」の愛称で呼ばれた「パートタイマー連絡協議会」の期待と不安の入り交じった旗揚げであった。会社との合意を前提としない労組独自の取り組みによって、学生アルバイトを除く約5000名の主婦パートタイマーの内、約2000名が、既にこの結成大会に先立って、加入届を提出していた。
結成大会では、会長、副会長などの三役を始め10数名の中央役員を主婦パートタイマーから選出するとともに、労組役員の内からパー連協書記長が選任された。同時に、既に各店舗の職場ごとに選ばれた世話係ともいうべき連絡委員を確認した。
パーレン協と労組との関係は、「協力・協同関係」として位置づけられた。具体的には、労組の専従役員であるパー連協書記長が、実務を担当し、パー連協総会を経て決定されるパートタイマーの要求は、労組が一括して委任を受けて会社と交渉するという形である。

5年間の草の根運動
結成後5年間、パー連協は次のようなめざましい成果を収めた。
@、職場でのパート問題に真正面から取り組み、就業規則の整備、昇給制度、残業・休日出勤の基準、年休付与基準、労災企業内保障、制服貸与基準、社会保険
加入基準、などの基礎的労働条件整備に大きな足跡を残した。
A、パートタイマーの自主的な会議やレクレーションを開催し、親睦を深め、助け合い、団結することを通して、社内の大きな勢力としての地位と役割を向上させた。
B、主婦がパートタイマーとして社会で働く上での税金や社会保険などの知識を学ぶ機会を提供した。
C、そして何よりも、同じ業界に働く他の多くのパートタイマーの運動に積極的な役割を果たした。
もちろんこれらの成果は、一朝一夕に得られたものでは決してない。
運動方針案の説明、春闘要求案の説明、春闘妥結報告と、毎年3回、定期的に開催された全店のパート集会は、労組の専従役員が手分けして受け持った。朝10時頃から夕方6時頃まで、ほとんど個人ごとに決められているといってもよいパートタイマーの休憩・退社の合間をぬった1日10回近くに及ぶパート集会である。
会社が認めた組織でないパー連協の会員たちにとっては、ユニオン・ショップの拘束性からも、会費のチェック・オフ停止の手続上の煩わしさからも自由である。会費を払わなければ自動的に退会することができる。妥結結果に満足できない会員が、苦情処理に不満な会員が、毎月のように「メリットがない」ことを理由に脱会する。
こうしたいつやめられるかわからない会員たちを相手のパート集会は、ユニオン・ショップとチェック・オフに守られた企業内社員組合の安易さの中で育った労組役員にとっては、労組本来のやりがいのある活動であった反面、ある意味では過酷な修羅場でもあったといえよう。
職場ごとに毎月のように一定数が入退社していくパートタイマーでもある。新規採用者に対する加入要請活動も決して楽に行われたわけではない。
にもかかわらず、パー連協は、結成2年目以降、約3800名会員数をコンスタントに擁し、8割近い組織率を維持していた。
その原動力は、何といっても新規採用者の加入要請も含めて、会費の手集めを毎月5年間にわたって担ってきた職場の主婦役員たちの自主的で粘り強い「草の根運動」であった。
そしてその運動を支えたものは、「労働運動論」からはおよそ無縁のまま過ごしてきた主婦たちの現実的な思考に裏付けられた進め方であったと思う。

「全従業員春闘」と労使関係の成熟化
パー連協結成直後の79春闘は、「一万人春闘」を合言葉に、全従業員の春闘として闘われた。その結果、春闘の展開が一変した。
従来、社員要求の付帯要求として、社員要求の解決とともにともすればなおざりな形で収拾されていたパート要求が、社員要求と同列の要求として「同時要求・同時交渉・一括妥結」という枠組みで展開されることになった。それは、その後の春闘の基本的枠組みとして定着化した。
同時にこの方式は、労使関係に重大な影響を及ぼすことになった。
会社の全従業員の毎年の賃上げを確定させるこの方式は、経営サイドにとっては、その年度の人件費総額を予算として確定させるに等しいものであった。事実、79春闘以降の春闘は、年ごとにより精度の高い人件費交渉の様相を深めることになった。そのことはひるがえって労組に対しても、いやおうなく人件費の在り方について、経営的な整合性も踏まえた政策的立場を明らかにすることを迫るものであった。
一方でパー連協の結成は、経営サイドに対しては、パートタイマーの雇用調整弁としての機能に一定の制約を加えるものであった。このことは、逆に労組に対しても「一万人の雇用」についての責任の自覚を促すものであった。
労組の、経営分析をはじめとした経営対策活動が本格化した主要なそして主体的な動機がここにあった。それは、それまでの大衆路線を標榜して、職場の闘うエネルギーを基礎においた運動路線から、話し合いによる交渉を重視し、冷静な政策論争を通じた合意形成を求める運動路線への質的な転換を意味していた。
こうした労使関係の成熟化を抜きには、パー連協の会社の「認知」という新たなステップに向けた条件整備は困難であったに違いない。

顕在化してきた「草の根運動」の限界
会社の合意を前提としないパー連協の様々の限界が徐々に明らかになりつつあった。
三役はじめ中央役員の、休日を利用した会議出席や対外活動への参加は、家庭の要でもある主婦たちの、家族へのしわよせを拡大しつつあった。連絡委員による毎月の会費の手集めにも限界が現れはじめていた。そして何よりも、会社が認めた組織でないことが、職場でのパートタイマーの活動に有形無形の制約を加えていたと思われ、そのことがパートタイマー運動の新たな飛躍にとっての大きな障害となって立ちはだかっていた。
他方で、労組の上部団体である「チェーンストア労働組合協議会」は、昭和56年秋に、『加盟労組は、昭和59年秋までにパートタイマーの組織化を完了する。』という方針を決定していた。

会社の「認知」を求めて
これを受けて、毎年秋の交渉を通じて、パート組織化問題の労使の話し合いと、パー連協内での論議が次のように進められた。
・昭和56年---「労組とパート組織の将来的な一本化の方向性」について労使の共通認識を深める。
・昭和57年---パー連協総会において「昭和59年秋の組織化の完結」の方針を確認。
・昭和57年---「昭和59年秋までのパート組織化問題の労使合意に向けた検討」を労使確認。
・昭和58年---「84春闘でのパート組織化交渉に向けた会社の前向きな検討」を労使確認。
以上のような着実な論議の積み上げと周到な準備のもとに、84春闘においてパー連協は「会費のチェック・オフ」と「役員の就業時間内活動の保障」という会社要求を決定した。

会員範囲を巡る労使の攻防と合意
会社は、要求自体については、前向きに検討することを約束したものの、「要求を受け入れることは、組織を認知することを意味する。」という観点から「千差万別」のパートタイマーが誰でも加入できる現在の組織をそのまま認めることは、今後会社が責任ある対応を行う上でも無理がある。」という立場を表明した。
ここにおいて争点は、「現状の組織を念頭に、より多くのパートタイマーの加入をめざす労組と、「より社員に近い層のパートタイマーに限定した組織化」を主張する会社との間で、会員対象者の範囲を巡る問題に絞られることになった。
労使双方の現実的な判断の末、最終的にそれは「1日5時間、1週5日、勤続1年以上」という基準をもって合意に至った。結果としてこの基準は、現状の約3800名の会員を約2000名に絞り込むというドラスティックな合意でもあった。
この労使合意の、パー連協としての批准を問うべく開催された臨時総会では、非会員となった仲間へのフォローと、新組織が全パートタイマーを代表すべく活動することを確認し、これを前提に圧倒的多数で新組織への移行を決定した。

新生・パート協議会の発足
昭和59年8月23日、大阪・桜ノ宮のホテルを、各店舗から選ばれたパートタイマーの代表者たちが埋めた。「新生・パートタイマー協議会」の発足である。
マスコミのカメラの砲列の中で、社長の祝辞が述べられた。担当常務から協議会三役に花束が贈られた。
この日からパー連協は、輝かしい歴史的役割を終え、社内でも認知され、社会的にも注目されるパート組織として、新たな第一歩を踏み出すことになった。
はじめてパート問題が労使のテーブルに上ってから、まる12年の歳月が経過していた。
それは・・・、とてつもなく長い道のりであった。

むすび---「お母ちゃん運動」と「働く運動」のせめぎあい---
新生・パート協議会は、発足後約1年を経て、2回目の総会を前に、大論争を展開している。
3800名を擁した旧組織の会員数が、一挙に2000名に減少した上で再出発した新組織が直面した最大の障害は、会費収入の激減という財政問題であった。新組織の執行部は、会員に対して「月額400円の会費の600円への引き上げと、年2回の一時金からの同額の徴収」を提案している。
「わずか200円・・・?」というのは、男たちの感覚でしかない。買物での10円、20円の損得に一喜一憂しているはずの多くの主婦たちにとっては、「200円もの値上げ」である。
この問題は、パート運動の在り方を巡る本質的な問いを投げかけている。
「働くお母ちゃん運動」とは、「お母ちゃんの運動」と「働く運動(労働運動)」のせめぎあいでもある。「お母ちゃんの感覚」だけが支配したとしたらパート協議会に、新たな飛躍は期待できないといえよう。とはいえ、組織率の低迷に悩む労働運動の男社会のリーダーたちが、単に量的拡大を目指して、従来型の労働運動論をもって、お母ちゃんたちを組織化しようとすれば、厳しいしっぺ返しをもって報われるだろうことは、身をもって体験したところである。
経済のソフト化が語られだして久しい。
主婦たちが、パートタイマーという気軽な形で職場進出を続けている現実は、経済のソフト化に対応した労働形態のソフト化といえまいか。であるならば、労働運動自体のソフト化も提案されてしかるべきではないか。
男女雇用機会均等法が施行されても、主婦パートタイマーは、その対象たる婦人労働者の範疇からこぼれ落ちているのが現実である。
主婦たちが、お母ちゃんのままの姿で、ゆっくりでも着実に「働く運動」を創造していく道がないだろうか?
会費問題は、「働く運動」に向けて、パート協議会にとって避けて通れない試金石である。
「働くお母ちゃん運動」とは、新生・パート協議会の発足に当たっての協議会会長の開会挨拶での言葉である。
パート運動の12年間の軌跡を支えた、「地に足をつけた現実的な運動」という本質の端的な表現でもある。

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