1988.09.01
労組大会挨拶



孤独な若者たち
『連合』の機関誌にある「孤独な若者たち」と題して慶応大学の精神医学の先生の話が載っていました。
『最近「つきあいが恐い」と訴える若者が増えている。与えられた仕事をコツコツこなす分には問題ないが、みんなと飲みに行ったりする、いわゆる「つきあい」のときにはとてもストレスを感じるという。とりわけこの「つきあい恐怖症」が最も深刻になるのは、仲間同志のコンパとかディスカッションなど、否応なしに自分をみんなの前にさらけ出し、自己表明を強いられるときだという。
つきあい恐怖症までいかないにしても、見かけはみんなとワイワイガヤガヤやっている若者たちの心にも、本当は人と人との出合いや、一対一のぶつかり合いを、微妙に回避している傾向が見られる。』

フリーターとディンク
最近、フリーターという言葉を耳にします。フリーアルバイターを略してフリーターというわけです。学校を卒業しても正式に就職せずに、自由気ままなアルバイト人生を過ごす若者たちのことをこう呼ぶそうです。
卒業と同時に会社に入り、定年まで勤めることが常識であった私たちの世代からみれば、「何と大胆な!」という他はありません。とはいえ、安定した収入の保障のないアルバイトでほんとにやっていけるのかと、他人事ながら心配したりします。
一方で、ディンク(DINK)という言葉で表されるライフスタイルも登場してきました。Double Income No Kidsの頭文字をとった言葉で、要するに「子供を作らない共稼ぎ夫婦」ということのようです。
フリーター同志のカップルが、ディンクという形で結ばれたとき、個人としての自由さと、それなりの収入に支えられた家庭を手に入れることになるのでしょうか。

孤独な若者たちにとっての組合は?
組合員相互の親睦や交流という名の「つきあい」や、人と人とのつながりを通して生まれる「団結」を基礎におく労働組合の在り方に対し、「孤独な若者たち」は、ダッセーとかサイテーと感じているのでしょうか。企業に属した社員で構成される労働組合は、フリーターやディンクに代表される「属さない気ままさや自由さ」を身上とする若者たちの感覚からすれば、ホンネのところでは相容れない存在なのでしょう。(こんな風に、何事も深刻ぶって考え込んでしまうオジサンたちの感覚そのものが、実はダサくてクライのかもしれません。)
それでもやっぱり労働組合は、企業に属する人たちの結びつきやつながりに支えられた組織にちがいありません。問題はそうした結びつきやつながりをつくる上での方法にあるのではないでしょうか。

「選択の時代」の若者たち
ある労組の役員からこんな成功例を聞きました。
『従来、スキー場で盛りだくさんの組合主催の行事を組んでやっていたが、参加者は年々減る一方だった。ところが、組合がやるのはスキー場への往復バスの手配だけにして、あとは一切参加者の自由行動という形に改めたところ、参加者がどんどん増えて大ヒットした。』
ともすれば押しつけ的でサービス過剰になりがちな組合の行事を、「孤独な若者たち」の感覚で改めて洗い直してみる必要があるのでしょう。
「エラクなりたい人」だけでなく「エラクならなくても親許だけは離れたくない人」「出世するより専門の仕事に打ち込みたい人」「仕事だけでなく趣味や遊びも大事にしたい人」など将来像についての多様なメニューも必要です。
若者たちの世界では、固定的な考え方にとらわれず、多様な選択肢の中から好みに合ったスタイルを選ぶ「選択の時代」になったのではないでしょうか。

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