1986.09.01
労組機関紙・コラム

国際化が向こうからやってきた


某大学の先生からの電話
ある会議で面識のできた某大学の先生から電話が入った。
「教え子でもあるオーストラリアの女性研究者が日本の小売業の研究をしているので会ってやってもらえないか。」
語学力に自信のない筆者の不安を察知してか、先生いわく「本人の日本語はおぼつかないが、客員教授として来日中の御主人は、流暢な日本語が話せるので同伴したいということだ。」 当方、ホッとして「OK」。
会って話を聞けば、「日本の経済成長についての多くの文献は、製造業中心。そこで日本の小売業について研究したい。」「ナルホド」

繁栄が招く「国際化」
「国際化」が語られだして久しい。ところで、なぜ「国際化」なのだろう?
日本経済の国際レベルでの繁栄と無縁ではない。かつて栄華を極めた中国の「唐」にあって、都「長安」は、当時の比類なき国際都市であったという。遣唐使の悲劇を持ち出すまでもなく、元来、人類は、経済・文化の摂取のためには、地理的限界をも乗越えてしまうものである。
国際交通手段が飛躍的に発達した今日、島国・日本の繁栄の秘密と配分を求めて「国際化」が向こうからやってきたとしても不思議はない。
かつての日本にとっての「唐ゆきさん」の不幸が、今日の東南アジアの人たちにとっての「ジャパゆきさん」の不幸に変わったように・・・。

日本の「国際社会化」
「国際化」と聞けば、海外出張や海外旅行を思い、自らの語学力を心配しがちである。ところが「向こうからやってくる国際化」とは、実は「日本社会そのものの国際社会化」にほかならない。この国際化には、どうやら語学力はあまり心配する必要はなさそうである。(これが結論だったりして・・・)

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