1998.11.11
7月17日(金)
 ナヌッ・・・あの車谷が直木賞!!
 今月も日記のネタに巡り合えないままアッという間に月半ば過ぎ。JRの通勤車中の日経新聞。思いもかけず飛び込む日記ネタ!。
『・・・直木賞は車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)氏(53)の「赤目四十八瀧心中未遂」(文芸春秋刊)に決まった。・・・』 ナヌッ・・・あの車谷(しゃたに)が直木賞!!『・・・車谷氏は兵庫県生まれ。・・・』 その通り、彼は小生と同じ姫路市は飾磨区出身なのだ。何を隠そう、小学、中学、高校と同じ学校に通った御学友なのだ! 家にだって遊びに行ったこともあるんだから・・・。もっとも高校卒業後は全くの音信不通。ついこの間まで彼が作家であることすら知らなかったんだから、偉そうなことは言えた義理ではない。『・・・慶応大学卒。広告代理店勤務などを経て作家に。93年「鹽壷の匙」で三島由紀夫賞などを受賞。・・・』
 「車谷が三島由紀夫賞をとって単行本を出しているんやけど知っとったか?」 「その作品集の中にどうもお前がモデルらしい描写のある作品があったけど、読んでみたら?」 1年ほど前、高校時代の友人G君からこんな電話をもらった。早速その単行本『鹽壷の匙(しおつぼのさじ)』を購入した。(鹽の検索は大変だった。部首索引もダメ。手書き認識検索もダメ。総画数検索でなんとか検索。車谷君!ハタ迷惑なタイトルはやめてくれ。) 表紙の帯には「第6回 三島由紀夫賞受賞・芸術選奨文部大臣新人賞受賞」の文字が輝いている。
 早速、自分の描写とおぼしき個所を探してみる。アッタ! 作品集のうちの「吃りの父が歌った軍歌」の中の一部である。
「・・・三年前、私も藩黌以来の県立高校の入学試験に失敗し、二次募集をしても定員に満たない市立高校へ半強制的に振り分け入学させられた・・・(中略)・・・私の通い始めたのは、人の口の端に「土亀とパン助の収容所」と侮られている学校だった。・・・(中略)・・・私と同じ憂き目を見た生徒が二十人程いて、連中の顔に滲み出た卑屈さは、そっくりそのまま私のものであった。それが私には我慢がならなかった。『生島、俺な、この学校へ来たこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前も自分のこと土亀でええ思うやろ、思う言うて呉れ』 演劇部の主役、三宅はこう言って私に同意を求めるのだった。自分で自分を受止められない腑抜けが洩らす切ない泣き言だった。私は、『嘘つけ』と言い放って、横を向いていた。三宅は私を憎み、私から離れて行った。どいつもこいつも三宅と同じ腐れ掛けた自己欺瞞を口にして、肩を寄せ合っていた。・・・」 (新潮社版「鹽壷の匙」170〜171頁)
 G君は、文中の「演劇部の主役、三宅」とは、小生ではないかという。確かに小生は、高校時代、演劇部なんぞという軟派な部活で過ごした。3年の文化祭では、フランス喜劇「モリエール作・スカパンのわるだくみ」で主役スカパンを演じもした。当時の住所が「姫路市飾磨区三宅」だったことも車谷なら良く知っていたはず。となれば「演劇部の主役、三宅」はヤッパリ自分のことか?それにしてはヒドイ登場のしかたではないか。腑抜けのチャンピオンみたいなものだ。マッいいか。私小説の世界で自分の心象を描く時、対象となる素材の記号は何でもよかったのだろう。たまたま思いついた記号が「演劇部の主役、三宅」だったということか。などと変な納得のしかたをすることにした。
 読売新聞の受賞者紹介。「車谷長吉さん 本名・車谷嘉彦(しゃたに・よしひこ)。兵庫県生まれ。慶応大文学部卒。広告代理店などに勤務後、八年余り料理人として各地を転々とした。(へ〜ッ。知らんかったな〜。ヤッパ苦労したんだ。) 著書に「鹽壷の匙」(三島由紀夫賞)、「漂流物」(平林たい子賞)など。夫人は詩人の高橋順子さん。(かっこいい!作家夫婦なんだ。)
 彼の受賞のニュースは、間違いなく嬉しい出来事だったし、級友であったことを誇らしく思う。とはいえ、おそらくこれからも『直木賞作家・車谷長吉』氏に会うこともないだろう。只、ひょっとして会えたとしたら『腑抜けが洩らす切ない泣き言』を言ってやろう。『車谷、俺な、お前と級友だったこと好かったと思とんや・・・、な、な、お前もええ思うやろ、思う言うて呉れ』
8月15日(土)
 春をひさぐ作家の狂気--『赤目四十八瀧心中未遂』考--
 級友「車谷嘉彦(しゃたによしひこ)」君の直木賞受賞作品を読んだ。
 前作『鹽壷の匙(しおつぼのさじ)』単行本の帯には”反時代的毒虫としての私小説”の副題?が記されている。同じく「あとがき」には、その心情が吐露されている。『私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって・・・中略・・・。書くことはまた一つの狂気である。』
 「赤目四十八瀧心中未遂」は、前作の「毒虫」のような私小説 から『物語』の世界に一歩踏み出したかに見える。(『わたくし小説』の故に彼に関わった多くの知人たちの間にバラまかれた毒はそれなりのインパクトをもっていたはずだが・・・。) それでもやはり彼自身の体験の延長線上の物語にちがいない。その限りでは依然として春を鬻いでいることに変わりはない。「薄暗いアパートの一室で、ひとりモツ肉の串を指し続けた」男の狂気は、自らの肉体に宿る原体験を言葉をもって切り刻む作者の狂気に重なる。
 おどろおどろしい結末を予感させる「赤目四十八瀧心中未遂」のタイトルにも関わらず、読者は驚くほどあっけなく、腑抜けた結末を味あわされる。物語性にこだわれば作者は、もっと違ったエンディングも可能だった。にもかかわらず私小説作家は、物語でない日常生活の腑抜けた現実に最後の一点で踏みとどまった。エンタテナーに徹しきれない私小説作家の真骨頂か。
 私小説にこだわる直木賞作家は、既に53才という星霜を重ねている。鬻ぐべき春は残り少ない。直木賞を転機に春を鬻ぐ手法からの脱皮をめざすのだろうか。それとも一層醜い「毒虫」となってあたりかまわず毒気を撒き散らすのだろうか。直木賞作家「車谷長吉(くるまたにちょうきつ)」氏が、『私』を素材としない本物の直木賞作家として飛躍した時、ペンネームから「車谷」の字が消えるのだろう。
9月17日(木)
 直木賞作家を巡るその後のドラマ
 級友・車谷君の直木賞受賞を巡って、私の周辺で小さなドラマが展開している。1年ほど前、高校の級友G君が、車谷君の三島由紀夫賞受賞を私に連絡してくれた。ドラマの始まりだった。受賞作の1部にはG君が指摘したように私らしき人物が、腑抜けの見本の如く登場していた。 なんともひどい登場のさせかたではあった。その車谷君がナント直木賞を受賞してしまったのだ。そのニュースは、ひどい登場のさせかたではあっても、彼の作品にそれらしく登場したことにまんざらでもない気分に浸らせた。直木賞作家の胸中に何がしかの自分の印象が残っていたのかなどと勝手な解釈をしたものだ。
 その後、G君からのメールが届いた。「出版社を通じて彼の作品の感想と共に、『土亀仲間による祝杯の機会があれば』とのメッセージを託した。」とのこと。そして再びG君からのメール。「メーッセージに対する冷やかな返事が『文芸春秋10月号』に載っていた」とのこと。そして今日、「立ち読みで充分」というG君の意に逆らい早速購入して読んでみる。
車谷長吉(くるまたにちょうきつ)氏の題して「私の月間日記---直木賞受賞修羅日乗---」の1部。『8月20日・木曜日。---(略)---手紙が3通。高等学校時代の同級生G氏からの手紙は不快だった。「親しくすること」と「狎れ狎れしくすること」とを履き違えている。親しくするとは、持続することだ。35年間1度も逢ったことがないのにどうしていっしょに酒など呑めるものか。こちらが困惑するだけだ。』 実は文中のG君のところはフルネームの実名である。文芸春秋に活字となって発表されている作家・車谷氏の日記である。インターネットのホームページにチマチマと書いているマイナーな「明日香亮のつぶやき日記」とはわけが違う。
 作家・辻井喬(堤清二)氏はじめ著名人を含めた多くの知人・友人が実名で登場する。作家・車谷氏の『修羅日乗』とは受賞後、一躍有名人に仲間入りし、一変して超多忙を極める得意絶頂の日常の様(さま)のことであるようだ。
タイトルの小見出しが語っている。「これまで多くの人に小馬鹿にされてきたが、これで私も男になれた」。日記の底流に一貫して流れる氏の心情か。「男子の本懐というか、男の花道というか。兎も角、これで私も男になれたのだ。これ迄、随分多くの人に小馬鹿にされて来て、悔しい、癪に障る思いをして来たが、そういう人達がTVや新聞を見て、どう思ったか。私が捨てた女たち、私を捨てた女たち、あるいはすでに絶交した友たち、私としては、見たかッ、という思いである。これも私の劣等感のなせる業である。」
 直木賞作家のプライドをかなぐり捨てたかのような、その余りにも赤裸々で見事なまでに俗な心情の吐露に、ある種の狂気を垣間見る。私(ワタクシ)を鬻ぐことをもって小説を為すとはこういうことか。私に関わる他人は、所詮「私」が語る他人でしかないのか。他人が眺める「私」についての彼の想像力は希薄であるかに見える。いくつかの文学賞の受賞に至るまでの彼の余りにも長かった日常は、まさしく『修羅日乗』であっただろうことは想像に難くない。血みどろの日常を這いずり回って獲得した今日の『修羅日乗』である。私信を公のメディアで実名をもって切って捨てようがなにほどのことか。「無邪気に35年ぶりの祝杯などを酌み交わせる相手ではない。
思わず漏れるつぶやき。『車谷、俺な、お前と級友だったこと、あんまり好かったと思てへんのや・・・、お前かてそう思てんのやろ』

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