最大多数の最大幸福について020303

僕は、「社会福祉とは」というのを説明する時に「福祉の思想は、最大多数の最大幸福の考え方とは違うのだ」といった形で説明をすることがあります。過去に原稿を書いてインターネット上で公開している文をご覧になって、このことについてご意見を書いてくださった方がいらっしゃいました。当然のご意見というか、他の方でも同じように感じている方もいらっしゃるかと思うのでそのときのやり取りをご紹介させていただきます。

この質問を下さった方とはその後のやり取りで功利主義の考え方をめぐって昔(学生時代に)とても大切な体験をなさっていたことが分かりました。
大学の講義で、「功利主義の考え方は出来るだけ多くの患者を救うことだが、その為には少数切捨て、つまり救えない場合も覚悟せねばならない」と教わり、「それはおかしい、ベンサムは少数切捨てを容認してはいない筈だ。最小少数の最小不幸を目指しているのだ」と反発したという経緯がおありだったのです。

現実認識と目指す方向の軸の取り方は同じですが、功利主義という思想をその中のどこに位置付けるか言う意味で少しだけ違いがあったということですよね。お互いにとってとても良い学びになりました。

ご意見メール
message=貴方はベンサムの言う「最大多数の最大幸福」の意味を少数切捨てのように捉えておるようですが、それは少し違うように思います。この意味は裏を返せば「最少少数の最少不幸」と言う意味です。従って、ベンサムは少しでも、不幸な人を出さない政治形態を目指すのが、「民主主義」の本義であると言っているのだと思います。

小山からの返事
そのとおりだと思います。だからこそ、基本的には多数決といった形で民主主義の現実原則にも援用されていると思います。
ただ、最小少数の最小不幸を目指してはいるのですが、結果的に最後まで後回しになる人がごく少数存在するということはこの論理にはくみ込まれているのですよね。止むを得ない現実として。

もちろん厳密には功利主義の中にも行為功利主義の立場や規則功利主義の立場などがあるわけでして、さらには古典的功利主義に対して現代功利主義とも言われる新しい流れもあり....一言で功利主義の立場を表現することは不可能ですし、それをさらに「最大多数の最大幸福」で表現することは全く不正確だと思います。不正確さをお許しください。

厳密に言えば、どのような立場で僕のどの発言にたいしてご指摘なさっているのかが分からないのですが、一般論としてはご指摘の主旨は分かります。そして実際だから僕はそれを一般原則として否定していません。現実社会で最大多数の最大幸福が社会生活上の原理として用いられていることを肯定します。
ただ、功利主義はその帰結主義的な姿勢に対して、「このままだと20人の捕虜全員が処刑されるが、もしあなたが彼らのうちの一人を銃殺してくれれば、残り19人を釈放するとの困難な選択に直面した個人に対して、功利主義は文句なく後者(一人を殺す)を選べと命ずる。しかしその際、19人の生命が助かるという帰結の望ましさだけに目が向けられていて、殺人を避けたいというその人の願いや手を下す当人の責任の問題が考慮から抜け落ちてしまう」(Williams)という指摘をはじめとして従来から批判は多くなされていますよね。極端な例のようですが、学問的論理的にはこのレベルの指摘がやはりポイントとして論議されてきたと思います。もちろん専門的には古い話ですが。そして、それに答えるべくいくつもの立場が出てきているわけですが。
「社会に帰属する全ての諸個人の満足を集計した純残高が最大となるよう、主要な社会制度が編成されている場合に当該社会は正しく位置付けられており、したがって正義にかなっている」(Rawls)という基本を功利主義が持つ限り、「総和」の大小比較に還元されない部分を重視する立場からの批判は受けざるを得ないでしょう。その部分が福祉のこだわっている部分でもあり、民主主義が多数決を重要な方法論的原理として持ちながらも理念的には少数意見の尊重が大切だといっている部分にもなると思います。
ですから厳密には功利主義と民主主義はイコールでないですね。少数意見の尊重は民主主義という政治的イデオロギーの範疇に入ると思いますが、功利主義という考え方は(少なくとも古典的功利主義は)個人間の幸福を計量比較可能であるとする限り、多数決を支持する思想につながると思います。
「最大多数の最大幸福を目指す」ということはすなわち「最小少数の最小不幸を目指す」ということでもあると同時に、「最小少数の最小不幸」を(望んではいないが結果的に)受け入れてしまう危険性をもつ論理でもあると思います。

ただ、僕の指摘はあくまでも素人レベルでの発言ですので、より専門のレベルからのご発言ご指摘でしたらご容赦ください。なにせ門外漢が基礎理論レベルで齧っているだけですから。





社会福祉士と精神保健福祉士と医療福祉士(仮称)の資格問題についての意見を聞かせてほしい。という類の個人メールを頂くことが多くなっています。
僕のコメントをここに載せます。(980721


僕は、特に医療福祉の専門ではないので、明確なことをいえるほどの考えを持ち合わせません。
ただ、僕の立場から言えることは、理念上の問題、理論上の問題と、現実上の問題をある程度区別する必要はあるのではないかと思います。

ソーシャルワークが社会福祉学を学問上の前提とする実践の体系であることは確実であり、それは医師会や看護協会等も認めています。
そして、MSW,PSWもソーシャルワークである限りには、社会福祉学を前提とする援助実践であることは間違いないと思います。その意味では、本来社会福祉協議会の職員や福祉施設の職員とも共通の、福祉関連専門職=ソーシャルワーカーだと思います。
このことは、重要なポイントだと思います。本当は社会福祉士とMSW、PSWの関連だけを論じるのが正しいのではなくて、福祉事務所や社会福祉協議会そして各福祉施設等の福祉専門職をも含むソーシャルワークとの関係の中で、MSWやPSW問題は論じていくことが理念レベルでは必要なのだと思います。
例えば、スクールソーシャルワーカーを日本では心理系の団体のアクションによってスクールカウンセラーとして位置づけたように、メディカルソーシャルワーカーをメディカルカウンセラーとでもネーミングを変えるなら別ですがね。ソーシャルワーカーが福祉系であることは、全く確かです。
(そしてまた、スクールカウンセラーとよんで心理系を採用したとしても、必要とされている仕事は、心理面接相談だけでなく、ソーシャルワークレベルの内容が含まれるのも間違いないと思いますが。)

ただし、ソーシャルワーカーと一言でいっても、一定の知識技術で完全に全ての分野で働けるはずもありません。ソーシャルワークとしての共通部分に加えて、個別分野に関わる職として必要な知識、技術は当然違うでしょう。例えば保育は、幼児教育との接点をもつでしょうし、介護は看護との接点をもつでしょう。その意味では、医療関連の知識・技術を十分に持つことを要求される、ソーシャルワーカーがMSW、PSWと言うことだと思います。

そして、重要なこととして、現実の問題は各種専門職団体の利害関係によって成立するものだというクールな現実があると思います。
医師にとっても看護のレベルが向上することは必要であるに決まっています。しかし、准看制度を廃止して欲しい看護協会側に対して、温存したい医師会側という関係は理念の問題だけではなく、人手の確保の問題などといった経営の問題等が絡んでいるでしょう。
看護協会が介護の独自性、専門性に対して肯定的でないのも、理念問題と言うより、自分たちの利益の問題という側面も多少はあるでしょう。一方介護福祉学を、看護学からも社会福祉学からも絶対的に自立した体系として理解し論ずることもおかしいのにそう論ずることも、理念と言うより立場論でしょう。

何れにせよ、MSW、PSW、CSW論も理念上SWと呼ぶ限り社会福祉学を背景とする実践体系であることは間違いないし、それは、現にPSW資格も社会福祉原論を必要とすることなどからも明らかでしょう。
そして、別な資格になるかどうか、医師の指導という項目が入るかどうかなどといった問題は理念レベルの問題と現実の政治的、利害の問題の両面が混じっているから混乱するのだと思います。

理念レベルでは、資格については、あえて言えば、社会福祉士一本かそうでなければ、二段階の資格にすべきでしょうね。一本でないなら、社会福祉士が共通基礎で、プラスMやPの条件を積み重ねるのが筋でしょうね。そして、それは本来施設指導員も社協マンもスペシフィックの部分を本来二階部分として必要とされるはずですよね。

現実レベルでは医師や看護婦など既存の専門職との棲み分けが、新しい職には結果的に必要とされ、既存の職が利益を脅かされると感じる方向には進みにくいでしょうね。これは、政治力、アクションの問題ですから、福祉系専門職団体が頑張るしかないでしょうね。
裏返せば、論理的には社会福祉士と関連づけられるべきであると承知しながらも、現実の政治的判断として、ひとまずPSW資格を欲しいと判断したP協の行動は、理念レベルで批判することはできるけど、運動レベルとしては、正しい間違っているで他者によって評価されるべきではないでしょうね。
間違っているから怒るとか理念的に正しいから賛成するというよりは、MSW協会にとっては迷惑だから怒るとか、自分たちにとっても都合良いから連帯するとかね。

更に言えば、ソーシャルワーカーであることは理屈の問題ですから、間違いないけど、社会福祉士かどうかは、「福祉士」資格自体が理念ではなく現実の産物ですから、違うとなれば違うし、包括されると法定化されればされるといった質の問題なのですよね。

思いつくままのオンラインでのコメントですので、非公式で、未整理でごめんなさい。もしご意見があれば問い合わせいただければまた考えます。

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