海外図書紹介 ウディ・アレン『フローティング・ライトバルブ』

  トム・バクスターの出てこない「カイロの紫のバラ」

書籍名:"The Floating Light Bulb" by Woody Allen
(原題:『漂う電球』ウディ・アレン著)
ISBN :0-394-52415-2(但し絶版)
出版社:Random House, Inc., New York, N.Y. 10022
価 格:$10.50
出版年:1982

前の画面に戻る  初期画面に戻る


<追加情報>
ウディ・アレンの戯曲『漂う電球』(THE FLOATING LIGHT BULB)は2006年9月から10月にかけて、東京、大阪など各地で上演されました。公演に関してはこちらをどうぞ。

 『フローティング・ライトバルブ(以下FLB)』はウディ・アレンの邦訳されていない二つの戯曲の内の一つであり(もう一つは『Don't Drink the Water』)、『ボギー!俺も男だ』と並ぶ彼の傑作だ。『FLB』は1981年4月にニューヨークのヴィヴィアン・バーモント・シアターで上演され、脚本は82年にランダム・ハウスから出版されている。この本は既に絶版になっていて、私も2年前のカナダ滞在の間あちこちで探したものの、どこでも見つけることが出来ずあきらめかけていた。スティーブン・スピネッシの『ウディ・アレン コンパニオン』で「面白いが絶版なので図書館などで探すように」と書かれており、どこの図書館や古本屋でも見つけられなかった。ところが日本に帰る1ヶ月前にたまたま寄ったロサンゼルスのハリウッド大通り沿いの古本屋で見つけることができたものだ。とてもうれしかった。カナダ滞在中の最大の収穫の一つである。

 『FLB』は1945年のブルックリンの一角にあるアパートに住む貧しいユダヤ人一家の物語だ。作品の時代背景はウディの『カイロの紫のバラ』や『ラジオディズ』と同じ頃だが、作品のタッチはがらりと違っていて『インテリア』や『私の中のもう一人の私』風のビターな味付けとなっている。現実の生活に窒息した人たちのあえぎが全編を満たしており、そこには希望の光がない。いわば(『カイロの紫のバラ』で映画から抜け出してミア・ファローに希望を与えた)トム・バクスターの出てこない『カイロの紫のバラ』とも言える。

 主人公のポール・ポラックは内気で無口な16才のユダヤ人少年だ。親しい友人も少なく、趣味は電球を宙に浮かべたり、切り刻んだネクタイを元に戻すといったたぐいの手品の練習をすること。言葉のどもりが彼の内向さに拍車をかけている。弟のスティーブは13才で兄より外向的だが、父親の怠惰な性格を受け継いで、不良仲間とつきあったりしている。二人の少年の父親マックスはレストランで給仕をやっているが、怠け者で自分勝手な男である。ただでさえ乏しい金を女と遊びにつぎ込んでは妻と口論になる。彼にはベティという情婦がおり、時たまかかる無言電話が二人の密会の合図となっている。二人はそのうちニューヨークを出てフロリダに移り住むことを夢見ている。(ちなみに上演時に父親を演じたのは『カイロの紫のバラ』のダニー・エイエロであり、ここで演じるキャラクターも『カイロ』のそれに近い。)母親のエニッドは疲れた主婦だ。若い頃にはダンサーを夢見たこともあるが、今の彼女は日々の生活に追われる毎日である。苦しい生活や遊び好きな夫などの頭痛の種を多く抱え、時たまそのつらさを酒でまぎらしている。彼女の唯一の希望はポールだ。かつてポールはIQテストで148という高得点をとったことがあり、そのためエニッドはポールに過大な期待をかけている。しかしそれは内気なポールにとっては重荷以外の何者でもなかった。

 そんな一家に転機が訪れる。エニッドの知合いの兄で劇場のエージェントをしているジェリー・ウェクセラーという男が、劇場に出演できる手品師を探しているというのだ。エニッドは彼を家に呼んでポールの芸を見てもらうことにする。自信をまったくもてないポールとは裏腹に、エニッドはまたとないチャンスに有頂天になり、家族にもポールの練習を手伝うよう命令する。一方でマックスはついに家族を捨てて借金を残したまま、知合いのいとこがモテルをやっているネヴァダへベティと駆け落ちする決心をする。ポールの手品に夢中のエニッドはそんなことを知る由もない。それぞれの家族の思惑をよそにポールは一人でもくもくと手品の練習をする。

 そして運命の夜、ジェリーが訪れる。マックスはでかけている。ジェリーを前にがちがちに緊張しながらポールは手品を行う。しかしポールは緊張のあまり手品に失敗して水さしを割ってしまい、途中で手品をやめてしまう。エニッドは狂ったようにポールをなじり、手品を続けるよう命令する。見かねたジェリーがポールの性格はショービジネス向けではないと言う。深く傷ついたエニッドをジェリーは優しくいたわる。ジェリーは彼女に自分の果たされなかった恋や実現しなかった夢(家族を持ちたいということ)を語り、一流のショービジネスを目指しながら現実には三流芸人しかかかえていないしがないマネージャーである境遇を語る。エニッドもダンサーになりたかったという夢を語る。二人の間に急速に愛にも似た感情が芽生える。しかしそれはジェリーが語るように20年遅すぎた。ジェリーは年老いた母親のために近々アリゾナへ移住する予定であると告げ、その家を去る。やがて帰宅したマックスにベティから無言電話があり、マックスはでかけようとする。堪忍袋の尾が切れたエニッドは手近にあった棒切れでマックスを叩き始める。それはポールが手品に使う杖で、殴っているうちに棒はきれいな花に変わる。それでもエニッドは殴り続けるのをやめない。マックスはついに家を出ていく。残された家族。ポールは電球を浮かべる練習をし、エニッドは放心したように花を見つめ続ける。

 この作品の重要なモチーフは「夢」である。登場人物の誰もが苦しい現実から目を背けるため、夢について語る。それは他愛もない夢であったり、途方もない夢であったりする。また彼らはほとんどかつて夢破れた夢をもっている。エニッドは妹のルナに個人向けの二つ折りマッチや熱帯魚の通信販売をもちかけたり、息子ポールをショービジネスに出そうと夢中になる。彼女にとってそれは自分の果たせなかった夢−ショービジネスの世界へのあこがれ−を実現しようとするものでもある。マックスは番号当てくじに夢中になっており、いつか大当たりをとってやると言っては当たりもしないくじをせっせと買っている。また彼はベティとフロリダで暮らす夢を見ている。ベティはしがない酒場のウェートレスから、学校に行ってデザイナーになりたいと言う。ジェリー・ウェクセラーも一流の芸人を抱えたいと望みながら、現実は歌を唄う犬で生活費をかせいでいる。夢こそが人間にとって苦しいつらい現実から逃れるための、またつらい日々をのりこえていくために不可欠なものだというのがウディのメッセージである。

 しかし夢は現実の前で無残にも打ち砕かれる。ラストでエニッドがマックスを棒切れで叩く内に棒は美しい花に変わる。その花でエニッドはマックスを殴り続ける。その姿は一人の人間の果たされないままに破れてしまった夢を象徴する実に哀しいシーンで、読んでいて非常に胸を打たれるシーンである。
 しょせん我々は現実から逃げることはできないし、現実だけが我々が生きられる世界である。しかしだからこそ束の間の休息をわれわれは夢の世界に求めずにはいられない。ラストでもくもくと手品の練習を続けるポールに何の当てがあるわけではない。彼はジェリーから才能が無いとはっきり宣告されている。それでも彼が手品を続けるのは、手品の中にのみ彼の安らぎは存在するからである。ちょうど『カイロの紫のバラ』のラストで現実の映画俳優に裏切られたミア・ファローが映画館でアステアとロジャースのダンス映画に見入るように。

 今のところウディが『FLB』を映画化するという予定はないが、その可能性は大いにあると思う。近年ウディは時間を経た過去の戯曲をいくつか映画化しているからだ。75年に書かれた『死』は結末を変えて92年に『霧と影』となったし、66年の『ドント・ドリンク・ザ・ウォーター』は94年にウディ自身によってTVドラマ化されている。内容がアレンジされた上で、ひょっとすると映画版『FLB』を我々が見ることができるかもしれない。ウディの分身とも言えるポールは誰が演じるのか、エニッドは?マックスは?と、創造するだけで楽しみが尽きない。

≪参考≫

上演時の出演者/スタッフ
 ブライアン・バッカー(ポール)
 エリック・ガリー(スティーブ)
 ビアトリス・アーサー(エニッド)
 ダニー・エイエロ(マックス)
 エレン・マーチ(ベティ)
 ジャック・ウェストン(ジェリー)
 ユル・グロスバード(演出)
 サント・ロカスト(小道具、衣装)
 パット・コリンズ(照明)
 リチャード・フィッツジェラルド(音響)
[初演1981年4月27日ニューヨーク、於ヴィヴィアン・バーモント・シアター]

 


前の画面に戻る  初期画面に戻る

ホームページへの感想、ご質問はこちらへどうぞ

96年6月1日作成