『博士の異常な愛情』の幻のパイ投げシーン


≪幻のパイ投げシーンとは≫

『博士の異常な愛情』には、撮影・編集されていながら、公開前の試写をした際に評判がよくなかったので公開版からキューブリックが削ってしまった幻のパイ投げシーンがある。これは映画のラストで、地球が皆殺し爆弾による死の灰に包まれるなか、米国の国防総省地下の最高作戦室(ウォールーム)で、ふとしたことがきっかけで米国大統領やソ連大使、政府高官、軍首脳らがパイ投げ合戦をするというものである。映画ではストレンジラブ博士が「総統!私は歩けます!」と叫んで車椅子からよろよろと立ち上がると、ヴェラ・リンの『We'll meet again(また会いましょう)』が始まり、甘い音楽にのせて核爆発のモンタージュが続く。このストレンジラブ博士のセリフと核爆発の間にパイ投げシーンが存在していた。今日このシーンは我々は目にすることはできない。

 ジョージ・C・スコット

 ピーター・セラーズの伝記によると、隠しカメラによる盗撮現場をおさえられたソ連大使が投げたパイが大統領にあたり、反目する空軍と陸軍の将軍たちもパイ投げを始め、会議室は一大パイ投げ合戦場となるという。パイに腰までうまった大統領とソ連大使は、砂浜で遊ぶ子供のように大きなパイのお城をつくり、やがてみなで『For he's a jolly good fellow(彼はいいやつ)』を歌い、それが映画のヴェラ・リンの『We'll meet again(また会いましょう)』につながっていくのだという。

(『博士の異常な愛情』はセラーズ自身も気に入っている数少ない出演作のひとつである。当初は映画でスリム・ピッケンズの演じたコング少佐をセラーズも演じて、大統領、ストレンジラブ博士、マンドレーク大佐に加えて1人4役となるはずだったが、セラーズの足のけがでコング少佐は代役が勤めることになったとされている。しかし彼の伝記によると、実際にはセラーズがテキサスなまり丸出しのコング少佐の役を気に入らず、けがを口実にその役を断ったのだと言う。後日スクリーンでスリム・ピッケンズの素晴らしい演技を見たセラーズは、その役をやらなかったことを後悔したという。)

 ピーター・セラーズ(右)

 映画で見ることが出来ないならせめて文章で、ということで以下に紹介するのは、ハリウッドのシナリオ専門書店 BOOK CITY COLLECTABLES から購入した『博士の異常な愛情』シナリオからのシーン抜粋である。シナリオは撮影前の準備稿で、表紙の日付は63年1月27日改訂となっているが、中のページの日付は63年1月1日から25日までまちまちである。パイ投げシーンの日付は1月1日となっている。全体にシナリオは映画に比べるとやや冗長で、映画にはないシーンやエピソードが多く、シーンそのものも映画の方が簡潔にまとめられている。下記のシナリオも実際の撮影においてはより簡潔にまとめられていた可能性が高いが、失われたシーンを知るてがかりとはなるだろう。

 抜粋したシナリオは映画とのつながりがわかるよう、タージドソン将軍(シナリオではオコナー将軍)のラストのセリフから載せている。ラストに奇妙なクレジットが現れるが、これはシナリオでは映画が未来の宇宙人による滅亡した地球文明のドキュメンタリーという設定になっているためである。このアイデアは映画には取り入れられなかったが、参考までに掲載した。


≪『博士の異常な愛情』シナリオ抜粋≫

(シナリオのオコナー将軍とは映画でジョージ・C・スコット演じるタージドソン将軍、ド・サーデ大使とはピーター・ブル演じるド・サデスキー大使である。)

シーン74 最高作戦室(室内)

(中略)

オコナー将軍
(権威をつけるように)
大統領閣下、「炭坑ギャップ」を決して許してはなりません!

 

同意する声が聞こえる。

ド・サーデ、あたりをぶらついている。靴ひもを結ぼうとかがみこみ、すばやくネクタイピンに手を触れる。

ド・サーデのネクタイピン(クローズアップ)。小さなシャッターがすばやく開く。

オコナー、何かを叫び、かけだし、ド・サーデに飛び付いて体当たりする。ふたりとも気が狂ったように取っ組み合う。

 

大統領
(よろめきながら近づく)
いったいどういうことだね!

 

オコナー、ネクタイピン型カメラをもぎとる。

 

オコナー
アカの現場を押さえました、大統領![訳注:原文は "Got the Red red-handed" で駄洒落になっている]
(カメラを見せる)

 

大統領
(カメラを見る)
ド・サーデ大使!こんなことをするとは・・・

 

ド・サーデ、高慢にそっぽを向く。

 

ド・サーデ
はっ!こんな子供じみた中傷には我慢ならん!

 

指輪型カメラ(クローズアップ)

ド・サーデ、振り返り、手を挙げる。指輪の石が戦車の砲塔のように持ち上がり、小さなシャッターがぱちりと開く。

 

オコナー

ちょっと待て、この野郎!

(ド・サーデをつかむ。気違いのようにつかみあう二人)

 

オコナー、指輪型カメラを示してみせる。

 

大統領
ド・サーデ大使!いくつもの小型カメラで最高作戦室の写真をとろうという君の企ては、外交儀礼へのかつて見たことのないほどの深刻な侮辱ですぞ!そのうえ、もしこのフィルムに我が国の機密情報が写っていることがわかれば、間違いなくあなたはスパイ活動の罪に問われるのですよ!

 

ド・サーデ
(かんかんに怒って)
実に馬鹿げてる。私には外交特権があるのですぞ、大統領!

 

オコナー
大統領、ネズミ臭いですな。C、O、M、M、I、Eという綴りのネズミの。私の考えでは、このカメラは我々を油断させるためのおとりにすぎません。こいつはリアル・マッコイ[訳注:みんなから好かれたり、頼られたりする人物]のような外面を見せかけているだけです!徹底的に身体検査してみるべきだと思います。
大統領
(まゆをしかめる)
そうだ、おそらく君の言っている通りだろう、オコナー将軍。事態の深刻さを考えると、それと(手にしたカメラを見て)彼の道具の小ささを考えると。
ド・サーデ
何ですと!よくもそんなことが言えたもんだ!ただちに私を大使館に送り返し給え!

 

オコナー、部下に合図をする。彼らは待機している。

 

オコナー
おい、このアカ殿をお連れして、荷物や身体を調べるんだ。小型カメラや何かをかくしてないかな。
ド・サーデ
(怒り狂って)
大統領!大使へのこのような扱いを、我が国の政府は許しませんぞ!

大統領
(がんとして)
申し訳ないが、大使閣下、私がここの責任者だよ。君はさっき私にカメラのことでうそをついた。そして今はこの別のカメラだ・・・
(首を横に振り、向こうを向く)

オコナー
ようし、いいか、みんな。十分に調べるんだぞ。このカメラはとても小さいからな。どんな穴も見逃すんじゃないぞ。人体の7つの穴のな!
ド・サーデ
人体の7つの穴だと?!7つ?
(ちらと数える)
(憤激する)
この資本主義の豚め!

 

ド・サーデはサイドボードの上の大きなカスタードパイをとりあげ、オコナーの怒った顔に投げつける。

オコナー、ココナッツクリームパイをド・サーデに投げるが、ド・サーデはかがむ。パイはビュロック提督の顔面に力いっぱいたたきつけられる。

誰にやられたのかわからぬまま、ビュロック提督はチョコレートクリームパイをオコナーめがけて投げる。パイははずれて、マフリー大統領の顔に思い切り当たる。

大統領にパイが当たると、あわてて数人がかけよって顔やメガネをきれいにする。しかしきれいにしてメガネを直すやいなや、別のパイが彼を襲う。こうして彼もけんか騒ぎにまきこまれていく。

こうして、よく出来たパイ投げシーンがそうであるように、誤解が誤解を呼び、部屋の中の全員がパイをお互いの顔めがけて投げ付けるようになる。

 

シーン75 遠ざかる地球を宇宙から眺めつつ

タイトルロール
われわれの銀河から遠く離れたゆえに知られざる死の惑星地球は、今日の我々の学術的な興味をそそっている。本日は『滅亡した古代文明シリーズ』としてこの前史の風変わりな喜劇をおとどけしました。

−終わり−


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97年1月1日作成