●「テキストサーフィンの未来」

【この原稿について】
 この原稿は、BNNがマックエキスポ95で無料配布したCD-ROMのために日本語エキスパンドブック用素材として1994年9月に書き下ろしたエッセイをhtml化したものです。

 情報スーパーハイウェイ構想が描く未来像だの、マルチメディア*兆円市場説だの、「電子メールを導入しない会社には見切りをつけろ」だの、新聞雑誌をにぎわす見出しを見てると、やっぱりコタツにみかんで紅白歌合戦を楽しむのが正しい人の道ってもんじゃないかという気がしてくるんだけど、そうはいってもこういう商売をしている以上、パーソナル・コンピュータに代表されるテクノロジーが文化地図を塗り替えつつあるってことはある程度まで認めざるを得ない。「マルチメディアは絵に描いた餅」式の議論もなんだかずれてる気がするし。

 もちろん、グーテンベルクの昔から、テクノロジーはつねに文化の大衆化を加速する方向で機能してきたわけで、べつだん目新しいことじゃないという言い方もできなくはない。それでも、変化の速度が大幅に上がってきていることは事実で、なにもモザイク立ち上げてネットサーフィンしなくたって、変化の兆しはあちこちに観察できる。

 たとえば、ダグラス・ラシュコフの『サイベリア』という本がある(アスキー出版局から拙訳で近刊予定)。サイベリアとはハイテク武装した新しいカウンターカルチャーを指す言葉で、その現場報告とでもいうべき性格のノンフィクションなんだけど、ハッカーやコンピュータ・ネット、ヴァーチャル・リアリティ、サイバーパンクetc.の定番アイテムだけでなく、もっと大きな視点から新しい文化的潮流を分析している。キーコンセプトのひとつは「文化の脱中心化」で、ラシュコフはその一例としてハウス・カルチャーに注目する。

 ハウスにスターは存在しない。メロディラインやポピュラーソングのドラマティックな歌詞はむしろ挾雑物でしかなく、120BPMのハウスのリズムに合わせて徹夜で踊りつづけるハウスキッズたちは、全員がおなじ立場で、文化を(享受するのではなくて)つくりだしているのだと、ラシュコフはいう。

 竹内まりやの最新アルバムが300万のセールスを記録するこの国の音楽状況は、一見それとは対極にあるようだが、日本が世界に誇るカラオケ文化に目を向けると事情が一変する。現時点では、国内でもっとも成功したマルチメディア・ビジネスともいうべき通信カラオケ7の世界では、あらゆる曲がMIDIデータに変換され、電話回線を通じて送られてくる。美空ひばりもセックス・ピストルズも「ゆずれない願い」「ポポ」も、そこではすべて等価なデータとしてアイウエオ順にリストアップされ、目次本に掲載される。

 通信カラオケは、一万曲近いデータを網羅することによって、マイクを握って歌を歌う自由をほとんどあらゆる人間に解放する。カラオケパブ全盛時代にはかろうじて存在していた歌い手/聞き手の関係は、ボックス文化の中で完全に崩壊しつつある。カラオケフリークにとって、CDパッケージされて販売される新曲は、他人よりはやくサンプリングすべきデータでしかない(というのは極端な意見だろうけど)。

 あるいは、コミケに代表される同人誌文化。晴海のコミック・マーケットが2日間で20万の入場者を集めるという事実以上に注目すべきなのは、2万を超えるサークルが販売スペースをとり、自分たちの雑誌を販売していること。ワープロとコピーマシンの爆発的な普及と印刷技術の進歩、低コスト化によって、ほとんどだれにでも同人誌を出すことが可能になった。コミケに(いやべつにシティでもレヴォリューションでもいいんだけど)参加することは、文化の創造に積極的に関わることだといってもいい。

 まあだからって「一対多」のコミュニケーションから「多対多」のコミュニケーションへの情報革命が起こりつつある……と結論するのは短絡的だろうけど、コンピュータ・ネットワークが多対多のコミュニケーションを(原理的には)あっさり実現してしまったのは事実。

 清水義範の『発言者たち』が活写するとおり、世の中にはなにか発言したい人があふれている。じっさい、旧来のメディアでは、発言者は特権的な地位(見知らぬ他人に自分の主張を述べることで対価をもらう)にあるにもかかわらず、その地位に見合うだけの資格っていうのは明確じゃない。新聞なんかだと、「○○大学教授」の肩書きをその資格証明に使っているわけですが、だからといって万人を納得させる深い学識を持っているということにはならなし、。これが一般の雑誌になるともっといいかげんで、むしろ「一般読者にとってわかりやすい文章が書けるかどうか」が基準になる。映画評や書評などの分野では、送り手より受け手のほうがはるかに知識を持っていることは当たり前。

「歌がうまくない歌手」「芸のない芸人」がマスコミに登場し、人気を博するという現象は、活字媒体についてもごく一般的なわけです。

 この種の一方通行なメディアでは、受け手の側に異議申し立てする対等な手段が用意されていない。もちろん投書や電話で文句をいうことはできるけれど、それを掲載するかどうかはメディアの側にまかされている。しかし、パソコン通信の世界には(ASAHIネットの作家専用サロンなど一部の例外をのぞいて)送り手に特権はない。原理的には、全員がおなじ立場で全員に向かって発言することができる。

コンピュータ・テクノロジーは、発言の権利を万人に解放すると同時に、出版の権利も万人に解放しようとしている。金井美恵子が語るDTPによる産地直送出版もそのひとつだけれど、さらに直接的な方法は、いわゆるT電子本Uの形態をとる新しい出版だろう。98ではNECのデジタルブック、Macintoshではエキスパンドブックが、それぞれコンピュータ上で本をシミュレートする手段を提供し、ツールキットを購入することで、だれでも簡単に「電子本」を「出版」できるようになった。商業出版以上のクォリティを個人で実現した永井義人氏の画期的なアンソロジー『接続する社会』16をはじめ、すでに無数の個人出版物が流通している。

FDやCD―ROMを媒体として使用するかぎりある程度のコスト負担が必要だが、オンライン電子出版なら流通コストは事実上ゼロにまで抑えることができる。商業ベースでは、アスキーが平井和正を起用して〈ボヘミアン・ガラス・ストリート〉の連載をスタート(デジタルブック形式とテキスト形式の両方がある)。NIFTY-Serveのピーノ電子本センターでは、清水義範の『名古屋語辞典』がエキスパンドブック形式でオンライン販売されている。また、NIFTY-Serve本と雑誌フォーラム(FBOOKR)における電脳草子計画など、テキストをシェアウェアとして(シェアテキストと呼ばれる)オンライン販売する試みもはじまっている。

こうなってくると、「本とはなにか」という問題をいまさらのように考えなおす必要が出てくるんだけど、これはたんに容れ物だけの問題じゃない。コンピュータ・テクノロジーは、「読書」という行為そのものの意味さえそのものさえ解体しようとしている。この小文も多少はそれを意識しているのだが(めったやたらにボタンがついているのはつまりそういうわけなんですね)、いわゆるハイパーテキスト型の読書ってやつ。

もちろん、活字の本がリニアな読書しか許容しないということではない。とばし読み、拾い読みは自由だし、トイレや風呂用にそれぞれべつの本を常備しておける活字本の自由さは、現在の電子本には望むべくもない。つまり、(すでに手もとにある)一冊の本を読むことに関しては、活字の本に圧倒的優位性がある。しかし、活字文化全体を人類の知的財産の集合体として考えた場合、活字の本という容れ物ははなはだ使い勝手がよくない。

たとえばこの原稿を書く場合、かなりの量の書物を参照することになるのだが、たかだか数千冊の本がおさまっているだけのわが家の本棚から目的の本をさがしだすだけで、たいへんな苦労をする。持っていない本なら書店に買いにいく、あるいは図書館にさがしにいく必要がある。また、一冊の本の中でさえ、ある特定の語をさがしだすことには困難がつきまとう(索引がついていればまだましだが、どのみちすべての単語に索引をつけるのは無理な相談)。すべての書物が電子化されてしまえば、こういう苦労は永遠に過去のものになる。

テッド・ネルソンザナドゥ構想は、すべてのデータを電子化ししてネット上のデータベースに蓄えることで、あらゆる書物からあらゆる書物へ自由自在にアクセスすることを可能にする。もう一度この小文を例にとると、いくらクリックして引用文を呼び出したところで、一枚のCD―ROMにスタンドアローンなテキストとしてパッケージされている以上、閉じた情報でしかない。だがもしザナドゥ上にあれば、あらゆる過去の書物とリンクさせることができる。たとえば引用文から『本とコンピュータ』に興味がわけば、ネットサーフィンの感覚で原文に飛び、全文を読むことができる。その途中でテッド・ネルソンの人となりが知りたくなれば、人名検索してネルソンに関する記事を呼び出し、そのビブリオグラフィからさらにネルソンの著書にジャンプするという具合。

じっさい、この文章を書くために、ノートパソコンのハードディスクに格納されている過去数年の文章を縦横無尽にカット&ペーストして材料をつくっているわけだけれど、紙の本から引用しようと思えば、開いたページを見ながらキーボードから入力するというきわめて原始的な作業が必要になってくる。ザナドゥ構想ほどの大風呂敷をいきなり実現するのは困難であるにしても、新刊書籍のオンライン販売が一般化するだけでもずいぶん便利になるよねっていうのは率直な感想。

 もっともそうなった場合、『本を読む』とか『本を書く』という行為が根本から問い直されることになるし、活字文化における執筆者というある種特権的な地位が脅かされる可能性はじゅうぶんにあるわけで、それはそれで難議な話かもしれない。


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