●「テキストサーフィンの未来」注釈

 たとえば岩波書店ニューメディア開発室長の合庭惇は、『デジタル羊の夢 マルチメディアとポストモダン』(筑摩書店)の中でこう書いている。

 電子技術の急速な発展に支えられたコンピュータの普及は、この一〇年間でわれわれのメディア環境を大きく革新した。マスメディアはいうまでなく、ものを考え、書き、伝えるといったきわめて個人的な営みでさえも、今日では多くの部分がコンピュータによって支えられている。パーソナル・メディアからマスメディアにいたるあらゆる環境が、グーテンベルクの印刷革命に匹敵するような劇的なメディア革命にさらされていると言ってよいだろう。この事態を性格に予測した上院議員時代のアル・ゴアが発表した「インフラ整備に政府の投資を」は大きな反響を呼び起こし、一九九二年末の副大統領就任と同時に起案したHPCC構想(いわゆる情報スーパーハイウェイ計画)は日本をはじめとする多くの国の電子政策に強い影響を及ぼしている。

――同書8ページ、「メディアの変容とポストモダン」より


日経アントロポス(日経ホーム出版社)1月号の見出し。同誌によれば、『「電子報連相」時代の幕開け』だそうである。ちなみに電子報連相とは、「電子メールによる報告連絡相談」らしい。


 SFを翻訳したり、パソコン雑誌に原稿を書いたり、次世代ゲームマシンのソフトをレビューしたりするような商売のこと。


 最近の例では、Voice(PHP)94年12月号が『大丈夫か、情報立国』と題して、マルチメディア危機をテーマにした座談会を掲載。週刊文春には「くたばれマルチメディア狂騒曲」の連載があり、日経トレンディ94年1月号は「マルチメディアの正体」を特集している。


 cyberia、直訳すれば「電脳界」か。cyberpunkの語源でもあるcyberneticsからつくられた造語で、エレクトリック・フロンティア、コンピュータ・アンダーグラウンドなどとほぼ同義。ただしラシュコフはもうすこし広い意味で使っている。


 ハウス・シーンは踊り手を完全参加に解放する。新しいクラブ〈UFO〉をオープンしたばかりのフレイザー[・クラーク]は、ノー・スター・システムの利点をこう説明する。

「ひとつのステージを占領して、スタジアムを埋めつくす二万人の人間の前で演奏できるほど突出して優秀な人間なんか存在しない。聴衆とくらべてそこまでうまいやつなんていやしなんだ。おれたちにそんな人間は必要ないし、みんなもうそんな人間を求めていない。今晩きみが耳にする音楽の大部分は、一度もレコードになってない。若いやつらが前の週にミックスした曲をその晩に流す、それだけさ」

 だから、ハウス・ムーブメントはスターを持つまいと決意している。生き延びるために自我と偶像崇拝を必要とするレコード産業に対する痛烈なしっぺ返し。そのかわり、ハウスは共鳴するコミュニティに依存する。フラクタル方程式はバランスを保たなければならない。もしひとりのスターが群衆の上に立てば、フラクタルを生み出す自発的フィードバックが抹殺されてしまう。自分のパートナーと向き合って踊ることさえ嫌う若者たちが、ステージを向いて踊ることを好むわけがない。クラブの中の全員が▼ひとつ▲にならなければならない。演奏者も聴衆もなく、リーダーも自我もない。

――ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』(アスキー出版局近刊)第9章より


Bit誌の最新号に「カラオケに見るマルチメディア技術の応用」とかなんとかって記事が載ってて笑っちゃったけど、じっさいJVCが開発した「CD一枚に74分の映像を収録!」のビデオCDだって、もともとはカラオケ用。去年の10月までは「CD動画カラオケ」ってナイスな名前で業務用に売ってたんすからね。いまやカラオケはマルチメディア業界の最先端。どうだ参ったか、てなもんである。

画像圧縮技術のみならず、通信分野でもカラオケは最先端を走る。いわゆる通信カラオケってやつね。デジタル音声を圧縮し、電話回線を使って送受信するシステム。

いまのカラオケの主流を占めるLDソフトは、第一興商とか日光堂とか東映とかがLD単位で新作をリリース、それを業務用60連奏LDプレーヤーとかにぶちこんで、お客がリモコン操作してリクエストすると、機械がうぃんうぃんうぃんと目的のLDをさがしだして希望の曲を再生する仕組み。これだと各ボックスに巨大なLD再生装置と大量のLDソフトを用意しないといけないし、ソフト交換も手間がかかる(集中管理システムを採用すると省スペースになる反面、歌いたい曲を含むLDがほかの部屋で使われてると待たされることになって、いつまでたっても新曲が歌えなかったりする)。

ところが通信カラオケなら電話回線で送るからソフトはいくらでも増やせて場所をとらず、新曲もすぐリリースできる。いまんとこ画像が送れないのが唯一の難点だけど(だから見た目はCDカラオケとおんなじ。アニソンの場合はちょっと悲しい)、ディープなカラオケおたくの場合、映像は見飽きてるから曲数が多い利点のほうがポイント高い。

「黄色い船」や「海風」が入ってるタイトーのX2000も渋くていいっすけど、ねらい目は7000曲のソフトを武器に店舗数急増中のJOYSOUND。後奏カット機能や2コーラス機能使うと1時間に20曲歌えてお得。■1

 10年後には、音楽ソフトや出版物の半分くらいはパッケージじゃなくてオンラインで流通するようになってるんじゃないかと思うけど、通信カラオケはそのモデルケースにじゅうぶんなる。クリントン政権の情報スーパーハイウェイ構想打倒の鍵を握る日本の秘密兵器こそ、わが国が世界に誇る通信カラオケなのである(本気度13パーセント)

――「大森望のメディアこゆるぎ弁当」より[初出LOGOUT(アスキー出版局)94年5月号]


 その後、カラオケ業界最大手の第一興商がDAMで参入、ギガネットワークスのギガ・マイステージも加えて、大手4社が通信カラオケをリードしている。有線放送を利用したユーカラもスタート、ゲーム業界大手のセガも参入を計画中。この一年間の通信カラオケの普及ぶりはほとんど爆発的である。


 テレビアニメ「魔法騎士レイアース」の主題歌。ヴォーカルには、「永遠の一秒」でブレイクした田村直美を起用。


「ポンキッキーズ」で使われている電気グルーヴの曲。ちなみに電グルの現在の最新曲は「カメライフ」。


いずれも大手同人誌即売会。営利団体の赤ブーブー通信社が主宰するコミックシティは、幕張シティ中止問題で94年後半の同人誌界の話題を独占した。


 清水義範に『発言者たち』って本があって、これはテレビ局に電話をかけたり出版社に投書したりする人々――つまり、世間に向かって訴えたいことがあるんだけど表現手段を持っていないために鬱屈している人たちのメンタリティについて考察した小説で、それを読んであらためて思ったのは、新聞や雑誌に文章を書く場所を持っているというのがいかに特権的なことであるかってこと。映画を見たり本を読んだりしてなにかいいたいことができるのはごく自然なのに、たまたま出版業界とつながりがない人には、それを文章のかたちで発表する手段がほとんどない。雑誌に投稿するか同人誌をつくるか、いずれにしても相当な労力を強いられる。

じっさい、パソコン通信の電子会議室を読んでると、自分の考えを他人に読んでもらいたい人がこんなにたくさんいたんだなあとつくづく感心する。いままではメディアの国の関係者にしか許されなかった「文章を発表する」特権が、歴史上はじめて完全に民主化されたのがネットの会議室だといってもいい。

 まがりなりにもメディアによってあらかじめ選別された情報が伝えられる新聞や雑誌にくらべると、なんでもありの電子会議室ではもちろんクズ情報の量も膨大。しかし、その速報性と生々しさ、特定分野についてのつっこみの深さでは、既製のメディアはとうてい太刀打ちできない。雑誌でやってれば一年はかかる論争が一週間限定で爆発し収束するなんて現場を見てると、まるでエドモンド・ハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」だもんなあ。(後略)

――ヤングチャンピオン94年14号ヤングチャンピオンコラムより(大森望)


ネット上の会話に参加するさいに忘れてはならないのは、あらゆる書きこみをじっとながめている数百数千の潜在的批評家たちの存在だ。疑わしい事実は反論され、虚偽は暴露され、盗作は発覚する。サイバースペースは真実の血清なのだ。サイバー倫理やコミュニティの道徳基準に抵触する発言はただちに槍玉にあげられ、データ空間の全回路を光速で悪評が伝播していく。とあるWELL会員をだます意図で悪質な書き込みをすれば、その無分別な言動は数分のうちに世界中に広まってしまう。悪徳政治家や麻薬疑惑に関する内部情報、既成メディアならスポンサーからの検閲の対象になりかねないニュースまで、サイバースペースではあらゆる情報が聴衆を獲得する。

 サイバーコミュニティはパーソナルコンピュータや情報通信ネットワークの出現によって存在が可能になった。テレビや衛星放送システムの普及に加えて、家庭用ヴィデオ装置の出現もそれに貢献している。ヴィデオカメラが一般化したおかげで、警察権力の横暴が第三者のヴィデオカメラで撮影される可能性は無視できないほど大きくなっている。サイバー革命は世界を急速にせまくしてきた。TRWがだれの経済的状況を暴露できるのと同様、WELLやUseNetのようなコンピュータ・ネット、あるいはCNNでさえ、TRWの行状を暴き立てることができる。サイバースペース――本来は軍または先進的科学研究のためだけに開発されたもの――へのアクセスが、個人対世界の関係を変革しようとしている。

――ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』(アスキー出版局近刊)第三章より


 金井美恵子の最新エッセイ集『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬPARTII』(日本文芸社)をぱらぱらめくっていたら、「電子小説の未来」という一章が目にとまった。

「いまだにワープロさえ使ったことがない身」である筆者が、(バブル崩壊時代を生きる小説家の自己防衛として)出版社を経由せずに小説を発表する手段たりうるデスクトップ・パブリッシングに興味を持ち、さらには電子メディア時代のい小説の未来像に思いをはせるという趣旨のこのエッセイは、滅びゆくメディアの代表選手といえなくもない文芸雑誌のひとつ〈群像〉に発表され、それに対して断筆宣言前の筒井康隆がまたべつの文芸誌〈文藝〉の「文藝時評」で罵倒するという文壇的事件も起きていたらしいのだが、あいにく勤めを辞めてからとんと文芸方面のゴシップに疎くなっているぼくは、単行本になるまで寡聞にして知らずにいたというお粗末なのである。

 ここで興味深いのは筒井康隆の攻撃に対する金井美恵子のじつに金井美恵子らしい反撃の嫌味さではなく、電子メディアとはもっとも遠いところにいる小説家のひとりである金井美恵子が、パソコンという道具の、文字どおりパーソナルなメディアとしての側面に着目し、たとえばマッキントッシュのエキスパンデッド・ブックの設計思想とも通底する個人的な夢をそこに託している点だろう。

(後略)

――SFマガジン(早川書房)94年1月号「SF翻訳講座」より(大森望)


NECの肝いりで、デジタルブックなる電子書籍が発売された。ソフトの媒体は2HD(1.2メガ)のフロッピー一枚。大容量の8センチCD―ROMを使う電子ブックは辞書・辞典類がメインだが、デジタルブックは文字どおり本を読むためのもの。電子化された本の中身を、フロッピー添付の専用ヴューアー・ソフトで読む仕組み。液晶画面やパソコンのCRTにページ単位で表示させ、自由にページをめくったり、拡大・検索・切り抜きができる。

同時発売の専用ハード、デジタルブック・プレーヤは、てのひら大の読書マシン。ソフトを内蔵のメモリに移して持ち歩けば、通勤電車の中でも気軽に電子書籍が読めるというわけだ。

出版の世界でもフロッピー入稿が日常化してる現在、電算写植機用に変換→出力→ゲラ校正→製版→印刷→製本という過程をぜんぶすっとばし、いきなりフロッピーで売ってしまおうというのは、いわば当然の発想。

とくに、文字データだけからなる小説の場合、電子メディアとは非常に相性がいい。音声や画像データの場合、大量のメモリを必要とするから、どうしてもCD―ROMのような大容量の容れ物が必要になってくるんだけど、たとえば400ページの文庫本なら、フロッピー一枚に軽く3冊はおさまる(圧縮ソフトを使えば約2倍入る)。

 しかも、電子的なデータにとって、フロッピーやCD―ROMは便宜的な容れ物でしかないから、物理的な縦横高さを持つ紙の書籍とちがい、電話回線を使って送ることもできる。秋葉原で売ってる1万いくらの2400bpsモデムでも、長編1冊分のデータの転送にかかる時間はせいぜい10分くらい。

 森林を破壊し、高い流通コストを払って書店に配本するまでもなく、ユーザーが直接出版社の端末にアクセスするなり、大手商業ネットを経由するなりして、自宅にいながら新刊の小説を入手するシステムは、(技術的には)いますぐにでも実現可能。そうなれば増刷にかかるコストはゼロだから、絶版だの版元品切れだのという不幸な事態も根本的に解決されるわけだ。

近所に書店がなくたっていつでもリアルタイムに新刊が入手できるし、ダウンロードした小説をプリントアウトして読むもよし、サブノート・パソコンに入れて外出先で読むもよし。朗読ソフトにかけて耳で楽しむことも、点訳することも自由。

では、こんど発売されたデジタルブックがそういう時代に向けての第一歩となるのかどうかというと、これがむずかしいところ。NECのブランドネームと販売保証のおかげで、デジタルブックのソフト自体はすでに100タイトル以上準備されているようだし、(マッキントッシュのエキスパンド・ブックが数タイトル先行しているものの、本格的なかたちでは)日本ではじめての読むための電子書籍≠ニしての意味はたしかにちいさくない。

しかし、専用ソフトでしか読むことができず、2000円を越える定価をつけ、パッケージ入りで電器店や書店に並べられるデジタルブックは、電子メディアの自由度の大部分を犠牲にしている。もちろんこれは、オリジナルとまったくおなじものがコピーできるという電子メディア特有の事情によるもの。違法コピー天国の、いまの日本のコンピュータ・ソフト市場を目の前にして、出版社サイドがソフト資産の無制限な電子化に二の足を踏むのも無理はない。

 その結果、見るからに中途半端な(よほどの物好きをべつにすればおよそ利用価値があるとも思えない)いまのかたちにおちついてしまったのだろうけれど、とにもかくにもバスは走り出してしまった。電子出版の行き着く先がどこなのか、目的地はまだ見えていない。

――ヤングチャンピオン94年4号「ヤングチャンピオンコラム」より(大森望)


 以上のような問題を解決するため,互換性や自由度には目をつぶり,特定のプラットフォームに対応したいくつかの電子本専用フォーマットが開発されている。前述のNECデジタルブックもそのひとつだが,Macユーザーにおなじみなのは、市販のMac電子本では事実上の標準形式に近い,米ヴォイジャー社のExpanded Bookだろう(日本語表記はエキスパンドブック)。▼拡張された本▲という名称が示すとおり,ディスプレイ上で書物をシミュレートするのが目的。Macintoshに標準でバンドルされるHyperCardを利用し,活字の本とおなじように,ユーザーが勝手に変更できない固定的な電子書籍を▼出版▲する。写真や動画も自由に貼りつけることができ,本文中に埋め込んだボタンをクリックして注釈を呼び出すことも可能。ページめくりやしおり機能,ノート機能など,活字の本に近づけるさまざまな工夫が凝らされている。もちろん,検索やコピーなど,電子媒体ならではのメリットもある。また,同一ボリュウム内のエキスパンドブックすべてをチェックしてリストアップするライブラリ機能もあり,ハードディスクを仮想的な本棚のように使うこともできる。Windowsの世界に似たものがないことを考えても,エキスパンドブックは電子本の代名詞的存在といってもいいだろう(じっさい、エキスパンドブックWindows版の開発計画もあるらしい)。

 エキスパンドブックの利点は,送り手側がスタイルを固定できること。活字の本で版面や装幀に凝るような感覚で,字づめや行間,タイトル文字やレイアウトに気を配り,紙媒体の書籍とおなじようにして読者に提供できる。作家の立場からすれば,ユーザーがどう加工するかわからないテキスト形式での配付には不安があっても,エキスパンドブックのような固定されたかたちであれば安心して小説やエッセイを提供できることになる。じっさい,英語版Expanded Bookのベーシックなスタイルはきわめて洗練されたもので,ディスプレイ上で読んでもほとんど違和感がない。

 もうひとつの利点は(これはエキスパンドブックに限った話ではないが),ファイルを圧縮することで,日本の文庫本にして1000ページを越える分量をFD一枚に楽々収納できることだろう。たとえばウィリアム・ギブスンの電脳空間三部作『ニューロマンサー』『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライブ』を一枚におさめたものなど,パッケージまで含めても,活字の本よりはるかにコンパクト。DUOのハードディスクにこの種の電子本を何冊か放り込んでおけば,旅先で読むものに困ることはない(電源に困るという問題は避けて通れませんが)。

 また,辞書と首っぴきで英語の本を読むのはたいへんだが,電子テキストならオンライン英和辞典が活用できる。Mac対応の英和辞典を裏で立ち上げ、コピー&ペーストで辞書を引くだけでも便利だが,DA型の英和辞典rSTONEを持っていれば,rSTONEアクセスをインストールして(日本発売された英語タイトルには最初から付属しているものが多い)不明の単語にポインタを合わせoptionキーを押しながらクリックするだけでたちどころに該当する日本語がわかる。このへんも紙の本にはないメリットだろう。

――『極楽Macintosh劇場2』(ビー・エヌ・エヌ)より(大森望)


『接続する社会』(今岡清編/プロスペロー・デザインズ)がはたして「単行本」の範疇に属する出版物かどうかは疑問だが、3・5インチのフロッピーディスクに収められている以上、ソフトカバーよりはハードカバーに近いはず。紙に印刷された本ではなく、いわゆる電子本というやつで、中身はコンピュータ・ネットワークに関係する小説/エッセイ/マンガを収める電子本オリジナルのアンソロジー。収録作は、ブルース・スターリングの「ディープ・エディ」とジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「接続された女」(この二編は英文テキスト付き)、ヴァーナー・ヴィンジの長編『マイクロチップの魔術師』(かつて新潮文庫から出ていたサイバースペース物の先駆的名作)と、柾悟郎の書き下ろし短篇「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、東野司の「こんにちは赤ちゃん」。そのほか、ひろき真冬の「CALLING」をBGMつきでマルチメディア化したデジタルコミックと、今岡清、中島梓、会津泉、ケヴィン・ケリー(WIREDの編集長)の書き下ろし/訳し下ろしエッセイというラインナップ。

 SFファンのみならず、エレクトロニック・フロンティアに関心のある人にとってはマストバイの一冊だが、本書の最大の特徴は、これだけのクォリティのアンソロジーが堅気のサラリーマン、永井義人氏によって自費出版されたことにある。大手出版社の出版物にも負けないクォリティのものが個人のデスクトップで電子出版できる事実を証明したしたという意味で、『接続する社会』の持つ歴史的意味はきわめて大きい。金井美恵子が夢想するDTP産地直送出版システムが、(紙媒体に固執しさえしなければ)ここではすでに実現している。じっさい、作家が自作の電子テキストを直接オンライン販売する時代が来たとき、いったいどこに出版社の居場所があるのか。「編集」という作業についてきちんと考えなおさないかぎり、出版社の特権的地位はいつまでも安泰ではないないだろう。

――リテレール別冊『94年単行本・文庫本ベスト3』(メタローグ)より(大森望)


 去年あたりからようやく本格化してきたオンライン小説(ネットを通じて販売される小説)出版では、アスキーが大手商用BBSを網羅して、覆面作家の書き下ろしシリーズ〈ボヘミアン・ガラスストリート〉を大々的にスタート。第一部『発熱少年』★★★(七〇〇円)の販売開始と同時に作者あてクイズも実施された。すでに発表されたとおり、このシリーズの著者はなんとびっくり平井和正。小説の中身は、初期の高校生ウルフガイを髣髴とさせるクラシックな学園ラヴロマンスで、年配ファンには懐しさがこみあげる。時ならぬ人狼映画ラッシュに湧く昨今、久々に登場した平井和正のニューウルフ物がネットを舞台にひと波乱起こしそうな気配。なお、このテキスト、縦書き表示可能なNECのデジタルブック形式でも提供され、98ノートのHDにでもぶちこんでおけば、文庫本感覚で読める。

――『本の雑誌』(本の雑誌社)95年2月号「新刊めったくたガイド」より(大森望)


 電脳草子計画とは、早い話しが

        「 電子データの本を読もう! 」

 ということです。

 まあ、NECのデジタルブックに近いものですね。NECデジタルブックとの違い

は、作品はプレーンなテキストファイルで提供しますから、機種、ソフトを問わず利

用できるというところです。そして、オンラインで簡単に入手できるという点も違い

ます。

 残念ながら、NECデジタルブックのようにはプロ作家の作品は揃っておりませ

ん。今のところ極々一部です。しかし、フリーソフトウェアやシェアウェアにパッ

ケージソフト顔負けのソフトがあるように、FBOOKC、ひいてはNIFTYには優秀な書き

手がおられます(最近ログアウトという雑誌でデビューした方もいます)。アマチュア

とはいえ、結構面白い作品が揃うはずです。

 ネットワーカーにはPDA(携帯端末)をお持ちの方が多いとお聞きしています。

そのPDAで本でも読めたらなあ、と思ったことがありませんか?そのご要望に電脳

草子はお応え出来ると思います。アマチュアの作品ですが、プロを目指している者も

多いので、結構楽しめると思います。

 もうひとつ──

 私がこの企画に賛同したのは、電脳草子が視聴傷害者の方々も利用頂けるからで

す。電子データですから、利用者の必要に応じて簡単に加工できます。例えば点字

化。すでにFBOOK/LIBから一部の作品がPC-VAN上に転載され、障害者の方々に利用さ

れています。

 このように、電脳草子は手軽にPCで本を読もうという企画です。今お持ちのPC

で読むことができるのです。楽しい企画だとは思いませんか?[後略]

――電脳草子ダウンロード用の圧縮ファイルに同梱されている物草氏の紹介文より


 出版業界はいま、ほんの十年ちょっと前まではSFのエクストラポレーションでしかなかった問題に直面している。すなわち、「本とはなにか?」新しいテクノロジーの出現と、リーズナブルな価格でいつでもそれを使える利便性が、メディア状況を根本から再編しつつある。

――ローカス誌93年11月号"Multimedia Update"より(スコット・ウィネット)


読書という行為の本質とはなにか。あるいは「本」を「本」たらしめる条件とはなにか。いわゆる電子本の問題を突き詰めると、最終的にはそこに到着する。

とりあえず小説を読むことにかぎって考えると、ぼくの場合、字が書いてあれば手書きの生原稿だろうが横書きのワープロ原稿だろうが液晶画面だろうがなんでもよくて、じっさい書評用に著者から電子メールで送ってもらった長編を98ノートの画面で読んだり(部屋を真っ暗にしてバックライトの明かりだけを頼りに恐怖小説の電子テキストを読むという行為はじつに趣きがある)、チャールズ・プラットからインターネット経由で届いた未発表原稿をエディタに開き電子ブック版リーダーズ英和辞典引きながら#眺め#たりしてるんだけど、小説は本じゃなきゃね、という人もたしかに存在する。

「……ぼく自身についていえば、たとえ無料でもオンラインのSF書籍についてはほとんどなんの関心もないし、そんなものに金を払うという発想はばかげている。ギブスンの小説のヴォイジャー社版電子本のサンプルをもらってディスクで持っているが(電子出版のエレガントな一例だとか)、マッキントッシュのハードディスクにロードする手間さえかけていない。作家仲間からオンラインで新作長編が送られてきたとしても、まずまちがいなく活字版が出るまで待つだろう。自分でも、どうしてこんなに反発を感じるのかよくわからない。ひょっとしたら、まったく時代遅れで不合理な反感かもしれない。しかし、すくなくとも▼先入観▲でないことだけはたしかだ。これは長年の実体験に基づく結論なのである。電子テキスト化された小説が機能するとは思わない――この点については強い確信があるし、しごく一般的な見解だと思う。これには読書環境が関係している――電子テキストを消化する行為には、ある種の決定的なビタミンが不足しているという独特の感覚がつきまとうのだ。」

 ……と、これはSCIENCE FICTION EYE連載中のブルース・スターリングの人気コラム、CATSCANの「電子テキスト」と題された回の一節。べつの箇所では、

「電子テキストは印刷媒体の儀礼的官能的要素を欠いている。表裏のカバー、字面、イタリック、ちょうどいい中断箇所、はやく読み終えなければという衝動……つまり、印刷された本のボディ・ランゲージとでも呼ぶべきものだ。こういう感覚的手がかりの欠如が、テキストに対する接しかたに微妙な、しかし本質的な影響を与えている」

 とも書いている。長いネット歴を誇り、オンライン・マガジンのない生活は考えられないと語り、ネットが生活の重要な一部を占めるスターリングにしてこの発言である。彼の『ハッカーを追え!』(今岡清訳/アスキー)の英語版テキストはフリーウェアとしてインターネットのあちこちに流れ(国内ではNIFTY-Serveの未来フォーラムなどで入手可能)、雑誌発表のエッセイも大部分がコピーフリーでネットを回遊している。にもかかわらずスターリングは自分の小説をネットに流すつもりはないと断言する。

 いかにも『本の雑誌』の真空とびひざ蹴り氏がわが意を得たりと膝を打ちそうな意見ではないか(本誌1月号当欄参照)。しかし、近々くだんの目黒考二氏と同誌誌上で「電子本是か非か対決」をぶちかます予定なので、いくら相手がスターリングでもはいそうですかと聞いているわけにはいかないのである。そこで今回は予行演習としてまずスターリングを粉砕する(って順番が逆か>おれ)。

いやたしかに両方ある場合は本のほうがいいに決まってるんですけどね。ベッドに仰向けに寝ころがって読んだり(うつぶせならノートパソコンでも可能)、風呂の中やサウナの中、スキー場のリフトの上で読めるのは現時点では活字の本だけに許された特権である。例外的に夜中のタクシーの中ではバックライトつき液晶のほうがはるかに読みやすいが(後続車のライトに照らして文庫本を読むのは技術を要する。あ、東京の場合、提灯とかたつむりの個人タクシーはおおむね後部座席窓側にルームライトがついてるから便利だぞ←蛇足)、電車の中だととなりのおっさんにのぞきこまれ、「うちの息子もこういうのやってんだけどさ、おもしろい?」と話しかけられたりして(←実話)けっこう気を遣うのである。NECのデジタルブック・プレーヤーで読んでる人は見たことないし、HP100LXみたいなポケコンマだったらほんとに文庫本より軽いしのぞかれる心配もないけど、可読性ではとても本に勝てない。

活字の本は、読むための機械も電力も必要ないし、携帯性も抜群。いってみればソフト/ハード一体型の読書専用機で、しかもその形態は数世紀にわたって磨き上げられ、極限までユーザー・フレンドリーなインターフェイスを実現しているわけだから、ソフト的にもハード的にも、とてもいまの電子本じゃ相手にならない。

にもかかわらず電子本をしつこく支援しつづけるのは、物理的な大きさを持つ「本」が量的にすでにパンク状態に達しているからにほかならない。流通がどうの、絶版がどうのといわなくたって、16本あるうちの本棚に入りきらずにあふれだし、廊下や畳に山積みになる本の量を見れば一目瞭然。空間の量は有限なのに本は無限に増殖する。要らないと思って古本屋にたたき売ったり段ボール単位でだれかにあげたり実家に送りつけたりした本があとで必要になって買い直すなんてのは日常茶飯事、さらには混沌の中からさがす努力を考えると買ったほうがはやいなんて状況もしばしば生じるわけで、こうなるともう開いたページからたちのぼるほのかな香りが……とか悠長なことをいってる場合ではないのである。

といっても、すべての本が電子テキストになればいいと思ってるわけではもちろんないし、そうなるわけもない。『スチール・ビーチ』のルナでさえ図書館が存在し、大量の古本に囲まれることで精神の安寧を獲得する人々がいるんだから、紙媒体の絶滅を心配するのは百年はやい。本来、紙媒体と電子媒体は相補的であってしかるべきなのである……と以下次号。

――SFマガジン(早川書房)94年10月号「SF翻訳講座」より(大森望)


 にもかかわらず、話が「電子メディアと小説」的方面におよぶと俄然身を乗り出してしまうのは、元文芸出版社編集者の業というべきか、たとえば『本の雑誌』10月号の〈真空とびひざ蹴り〉が「漠とした不安」なるタイトルを頭に掲げ、NECのデジタルブック★に関連して、小説がFDで供給される現実に「やはり黙ってはいられない」と疑問を呈していたりするのを見ると、思わず反論を書いて読み返しもせずに編集部宛てにファックスモデムで送りつけてしまう程度にはいいたいことがたまっているようなのである。

 本誌今月号とほぼ同時に全国電器店の店頭に並ぶだろうデジタルブックは、2HDのFDで供給される電子書籍で、バンドルされている専用プログラムによってテキストを縦書きで画面に表示させ、ページ送りやタグジャンプを行なう。テキスト部分の容量はおよそ800キロバイトというから、文庫本二冊分程度。同時発売の専用ハードウェア(てのひらサイズの液晶ヴューアーで、本体に1メガ強のメモリを持ち、フロッピーディスクからソフトを読み込んで携帯する)のほか、NECのPC98シリーズのパソコンで読むことができる。さまざまな理由から過渡的な形態であるとしか思えない製品ではあるものの、NECが出版社に対して販売保証を行なうなどの方法により、すでに百を越えるタイトルを確保しているらしいことを勘案すると、日本においてはじめて本格的に導入された小説を画面で読むシステム≠ナあることはおそらくまちがいない。

 これに対して〈真空とびひざ蹴り〉の筆者は、そのようにして読まれるものがはたして本と呼べるのか、利便性だけを求めて紙媒体を捨て去っていいものかという「漠とした不安」を抱く。

 ぼくが送った個人的反論の趣旨は、「ページをめくるという行為」は小説を読むことにとってあくまで副次的なものであり、液晶画面で読もうが21インチモニターで読もうが読書にかわりはあるまい、むしろ紙の媒体から電子メディアへ容れ物を変えても小説が生き延びることが重要なのではあるまいか、といったようなもので、だからこそ、金井美恵子が前述のエッセイの中で、「しかし小説家が怖れなければならないのは、永遠に不滅の「物語」が「小説」という器を完全に必要としなくなるかもしれないという、起こりえそうな事態なのではあるまいか」と書いているのを発見して、おおいに意を強くしたりもするのだが、改めて考えてみるまでもなく、紙に印刷された本がなくなってしまうことと小説がなくなってしまうこととどちらが悲しいかといえば、個人的にはもちろん後者のほうが悲しいわけで、たしかに液晶画面をスクロールさせていくのでは小説を読んだ気がしないというのは実感として理解できるにしても、要は慣れの問題であって、片手に万年筆握って原稿用紙のマス目を埋めることと両手でキーボードをたたくことのあいだの距離とくらべてさほど大きな差異があるとは思えない。

 もっとも、デジタルブックそのものの設計思想に関していえば、なにか重大な錯誤があるのではないかという気がしてならないのだが、すでにスペースもつきたことだし、「電子出版時代のSF翻訳」という本来のテーマまで視野に入れて、次回であらためて詳述することにしたい。

――SFマガジン(早川書房)94年1月号「SF翻訳講座」より(大森望)


 きめられた順序にしたがって前のページから後のページへとまっすぐに読みすすんでいくのが通常の本の読み方である。「エクスパンデッド・ブック」以下の電子本もこの連続的{シーケンシヤル}な性質をいちおう模倣してはいるが、と同時に、そこには画面上のボタンを押して、つまりクリックして、テキストの流れの外から注や挿絵や音を呼びだしてくる、といった新しいしかけがさまざまな手法で埋め込まれている。このしかけをさらに徹底させると、たてよこ斜め、いったりきたり、どんな順序によってでも読むことができる非連続的{ノンシーケンシヤル}なテキストができあがる。このような性質を持つテキストを、一九六五年に、はじめて「ハイパーテキスト」と名づけたのがテッド・ネルソンという人物である。

――津野海太郎「もうひとつの編集術」より(『本とコンピュータ』198ページ。晶文社刊)


 私は単純に、順序のない著述をハイパーテキストと呼んでいる。連続するテキストやイラストの挿入、囲み罫が入った雑誌のレイアウトは、まさにハイパーテキストだ。新聞の第一面、ドラッグストアの本棚で見かける種々のプログラムされた本(ページの最後である選択をすると、次にどのページへ進むべきかを指示されるようになっている本)もハイパーテキストである。

 コンピュータは元来ハイパーテキストの概念とは関係ないが、〈これからは〉あらゆる方法で、あらゆるタイプのシステムと係わってくる(理想的には読者が次に読みたいものを自由に選択できるべきである。とはいえ、制限の多いハイパーテキストでは、そうなっていないものも多い)。一般の人々の多くは、ハイパーテキスト形式の著作物は新しく、強烈で、害のある形式だと考えている。私としては、ハイパーテキストは伝統的に受け継がれてきた形式、つまり書物の主流に位置するものであると考えたい。

 いままでの著作物は、無数にある可能性のなかからひとつの説明の筋道を選ぶという形式をとるが、ハイパーテキストは、読者にたくさんの筋道、可能な限りの筋道を提供してくれる。

 実際、私たちはテキストに書かれた事柄の前やうしろを引き合いに出して、つねに順序から離れてしまうものだ。「すでに述べたように」とか「次にあるように」といった言い回しは、ひと続きの順序の別の場所にある内容を指し示すためのポインタなのだ。

――テッド・ネルソン「ハイパーテキストの定義」より(『リテラリーマシン ハイパテキスト原論』80ぺージ。竹内郁雄・斉藤康己監訳/ハイテクノロジー・コミュニケーションズ訳/アスキー出版局刊)


 コンピュータ・ネットワーキングの概念は急速に一般化した。無数の公共ブレティンボード(電子掲示板)が誕生し、CompuServeやProdigyのような情報サービスもスタートした。情報サービスとは、無数のデータバンクからなる巨大なネットワークで、ユーザーは、株式市況やマッキントッシュの最新情報から、過去の新聞記事、書籍総目録にいたるまで、ありとあらゆる情報にモデムを通じてアクセスできる。

 ハイパーテキスト(ユーザーフレンドリーなファイル間移動を実現する初期の画期的システム)の考案者として知られるしたテッド・ネルソンは、ここ十年間ほど究極のデータベースを実現すべく働きつづけてきた。そのプロジェクトには『ザナドゥ』(桃源郷の意)というぴったりの名前がつけられている。テッド・ネルソンの目標は、(文字どおり)あらゆるもののデータベースを構築し、著作権の保護やロイヤリティの支払いを含む無数の法的な手続きに必要なソフトウェアすべてをコンパイルすることにある。『ザナドゥ』のようなデータ貯蔵庫がそもそも実現可能かどうかはともかく、現実にそれに挑戦している人間が存在し、オートデスク社(ユーザーインターフェイスとサイバースペース技術のパイオニア)をはじめとするシリコンヴァレーの大企業がそれを支援しているという事実は、いつの日か、マトリックス上のどのノードからも(どのコンピュータからも)すべてのデータにアクセスできるようになるという展望の正しさを裏づけている。

 法曹界から見れば、ザナドゥが意味するのは、知的財産やプライヴァシーや情報をめぐる論争の底なしの泥沼だ。この種の論争はふつう、前サイベリア人種と後サイベリア人種とのあいだの中心的な対立点のひとつに集約される。すなわち、「データの占有は許されるか、それともすべて自由であるべきか?」問題の根本は、データの公正な使用方法について基準を定める能力が、データ処理能力の進歩に追いつかないことにある。

――ダグラス・ラシュコフ『サイベリア』(アスキー出版局近刊)第3章より


つまり、こういうことだ。

 未来のコンピュータ画面では、世界中の出版された情報のすべてにアクセスすることができる。書籍、雑誌、写真、録音、映像のすべて(さらに、最初からインタラクティブな画面で利用されることを目指したあたあしいしゅるいの出版物も)が含まれる。

 いかなる出版物(あるいはその一部分)でも、画面上に写し出すことができるようになる。

 文書の余白に、コメント、個人的なノート、その他の関連事項といった〈リンク〉を書き込み、後でさらにリンクを拡げるためにそれらを他者のため、あるいは自分用に残しておくこともできるようになる。そうしたリンクを出版することも可能だろう。

 ネットワークを通じてデータが送られるたびに、出版者に対する印税がそれぞれ自動的に支払われる。ユーザーがデータを受け取った時点で、伝送されたそれぞれの断片ごとに、ユーザーの口座から出版者の口座へと自動的に支払われるようになるのである。

 あらゆる文書に他を引用することが許される。なぜなら、引用された部分は伝送されたものであると同時に、リクエストを受けた瞬間にオリジナルから〈買われた〉ものでもあるからだ。その印税は自動的に創作者に帰するものとなる。

(中略)

 ある者は、電子出版はプラスチック製のディスクを売るためのものだと言う。また、紙を用いた出版の悪い部分だけが電子出版では残ると予測する者もいる。あるいは、電子出版は、資本力の大きな会社がさまざまな専用システムを素人に売り付けることで成立していると考える者もいる。

 こうした考えはすべて間違っている。

 電子出版は、必要な資金の額を引き下げ(よって、出版社の規模は小さくて済む)、最新版にリンクされたすべての文書は、つねに改訂改良されることになる。そして、ついには〈開かれたハイパーテキストの出版〉を可能にする。孤立することなく、共生する文書間におけるインターコネクションの壮大なジャングルのなかをともに歩むのである。さらに、電子出版は、ハイパーテキストおよびハイパーメディアの購買層のためのシステムづくりを担い、その購買層の頂点では、最も洗練されたリーダーシップとユーザーシップのまだ見られぬ開花がついに日の目を見ることになる。

 ザナドゥ・プロジェクトは、長期にわたって、各データの断片ごとに自動的に著作権料を支払う出版システムを構想し、その進展を目指してきた(これにより、文書間で思いのままに引用する自由が生まれる)。

――テッド・ネルソン「電子的出版のビジョン」より(『リテラリーマシン ハイパテキスト原論』19〜20ページ。竹内郁雄・斉藤康己監訳/ハイテクノロジー・コミュニケーションズ訳/アスキー出版局刊)


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