●旧刊十二番勝負その五 鈴木いづみ『恋のサイケデリック!』(《本の雑誌》1992年5月号)/大森 望


 速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。どのくらいのはやさで生きるか? (――「いつだってティータイム」より)
 こう書きつけた五年後、彼女は死んだ。実の娘の目の前で、パンティストッキングで首を吊ったという。

 彼女の名は、鈴木いづみ。

 一九四九年、静岡県伊東市生まれ。県立伊東高校卒業後、伊東市役所キーパンチャーを経て上京。浅香なおみの名で数本のポルノ映画に出演。一九七〇年、《文學界》新人賞候補となる。七三年、伝説的なアルトサックス奏者、阿部薫と結婚。一九八六年、自殺。著書に、四冊の長編小説、二冊の短編集、二冊のエッセイ集がある。

 以上が鈴木いづみの略歴。ぼくの知るかぎり、自殺した女性SF作家は、彼女とジェイムズ・ティプトリー・ジュニアだけ。鈴木いづみはティプトリーの半分も長く生きていないが、その分だけ速く生きた。

 ティプトリーの「ビームしておくれ、ふるさとへ」を読んだとき、鈴木いづみの「契約」を思い出して、ちょっと泣いた。

「契約」は、自分が宇宙人だと信じている女の子の話だ。宇宙の彼方にメッセージを送るため、主人公の少女は行きずりの中年男を殺害し、精神病院に入院させられる。「ビーム……」の主人公ホービーは、故郷に帰るため、空軍士官学校に入学し、宇宙飛行士養成プログラムに志願する。

 ティプトリーになれなかった鈴木いづみを覚えているSFファンはすくない。いや、量的に判断するかぎり、鈴木いづみはSF作家でさえなかった。八冊の著書のうち、SFは短編集二冊『女と女の世の中』と『恋のサイケデリック!』だけ。それでも、十代の終わりから二十代前半にかけての一時期、ぼくにとって、鈴木いづみは世界でもっとも重要なSF作家だった。

 ある意味で鈴木いづみは、はやすぎたサイバーパンクだった。速度が問題なのだとするなら、鈴木いづみのSFは、『ニューロマンサー』よりも『スキズマトリックス』よりもまちがいなく速かった。鈴木いづみは"いま"を描く作家だった。そしてそれは、当時のSFにもっとも欠けているものだったのだ。だから、彼女の登場は、はるかな未来や銀河の彼方をさまよっていたぼくにとって、はかりしれない衝撃だった。

     *   *   *

『阿部薫覚書』という本がある。一九七八年、ブロバリン九八錠を飲んで死んだひとりの男に関する証言を集めた本だ。

 日本を代表する前衛アルトサックス奏者だった阿部薫について、ぼくはなにひとつ知らない。彼女の小説にくりかえしあらわれる男性像からぼんやり想像するだけだが、生前のふたりを知る沢田恭子は、

「"ボニーとクライドのような"あるいは"ゼルダとフィッツジェラルドのような"と形容されたりもした鈴木いづみと阿部薫は、これ以外は考えられないような、見事な好一対のカップルだった、と今にして思う」
 と、この本に寄せた文章で書いている。

 処女長編『残酷メルヘン』から、遺作『ハートに火をつけて――だれが消す』まで、鈴木いづみの長編には、つねに阿部薫を思わせる人物が登場する。彼女にとっての阿部薫が、ディックにとっての"黒髪の少女"とおなじ、いやそれ以上のオブセッションだったことはまちがいない。

 阿部薫は鈴木いづみと同じ一九四九年生まれ。六八年ごろからプロとして演奏活動を開始。六九年、山下洋輔トリオへの参加を要請されるが、それを断って独自の活動をつづけ、「なしくずしの死」と題する伝説的なアルバムを残し、二十九歳で他界。「できうる以上の過激さとスピードの極限に行き着くこと」を願い、「まだのろい。まだまだだめだ」とつぶやきつづけた(間章「なしくずしの死」への後書)阿部薫は、速度に憑かれたミュージシャンだった。そして、その阿部薫に憑かれた鈴木いづみもまた、速度に憑かれた作家だった。
「『別れたい。別れたい』と繰り返しながら、結局、いつでも、どこでも、鈴木いづみは阿部薫と一緒にいた。阿部薫には、この世界に対する強い違和感のようなものが全身から漂っていて、その傷めた魂を想う時、人を慄然とさせる負の存在感が、確かにあった。鈴木いづみは自分がとうに失ってしまった熱烈なる痛苦を病んでいる阿部薫を、どこかで焼けるように嫉妬しながら、どうしようもなく身をすり寄せていかざるを得なかったのに違いない」(見城徹「死と再生のアルト」)

 鈴木いづみの普通小説を読むのは、フィリップ・ディックの普通小説を読むのに似ている。書かれている人間や、くりかえしあらわれるモチーフは、SF作品のそれと変わらない。けれど、(ぼくにとって)ディックの普通小説がそうであるように、鈴木いづみの普通小説を読み通すのはつらい。サイエンス・フィクションというすてきに人工的な入れ物は、彼女が客観的に現実とつきあうための最高の装置だったのではないか。SFを通して、鈴木いづみは現実とのあいだに接点を見つけた――そんな気がしないでもない。

 鈴木いづみのSFは、その人生から想像されるような重さとは対極にある。十九世紀的な悲壮感は、彼女がもっとも憎んだものだった。なにしろ『恋のサイケデリック!』におさめられた六つの短篇は、〈明るい編〉〈暗い編〉に分類されているくらいなのだから。

 先週、亀戸行きのバスの中、カセットボーイでWINKを聞きながら、彼女の「なぜか、アップサイド・ダウン」を読んだ。十年前の小説だけれど、古さはちっとも感じなかった。BGMの「背徳のシナリオ」とぴったりフィットするのが不思議だった。十年たったいまも、鈴木いづみのSFには、ノスタルジーではなく、"いま"がある。

 いつか古本屋で『恋のサイケデリック!』を見かけたら、かつてこの国に鈴木いづみという素敵なSF作家がいたことを思い出して、手にとってみてほしい。



文遊社《鈴木いづみコレクション》『恋のサイケデリック!』解説


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