鈴木いづみコレクション『恋のサイケデリック』(文遊社)解説(1996年9月)


   解説

大森 望  



「なんと、恋のサイケデリック!」。
ぼくが鈴木いづみに決定的に恋してしまったのは、この短編を読んだ瞬間だったと思う。いまにして思えば、この小説がぼくにとってのサイバーパンクだった。書き下ろしのこの作品を巻頭に置いて出版された鈴木いづみの短編集『恋のサイケデリック!』(そして、奇しくも彼女が自殺した年に刊行された、大原まり子の『処女少女マンガ家の念力』)は、魔術的リアリズムによって日本の「現在」を切りとり、圧倒的なスピードで高度資本主義社会の消費速度をも凌駕することに成功した、ある種奇跡的な書物なのである。
 サイバーパンクSFとは、手垢にまみれたSFのガジェット(タイムマシン、エイリアン、宇宙船、パラレルワールドetc.)を捨て去り、コンベンショナルなサイエンス・フィクションの「懐かしくて居心地のいい閉じた世界」から決然と歩み去ろうとする試みだったと言うことができる。
 そのためにウィリアム・ギブスンが選びとった武器が、コンピュータを中心とするハイテクノロジーだった。彼は卓抜なセンスでテクノロジーを近未来の街角{ルビ:ストリート}に解放し、見慣れない造語を大量投入して“新しさ”を演出した。一方、鈴木いづみは“明かるい絶望感”の漂うまなざしで日本の“現在”を見つめ、持ち前のセンスだけを武器に時代を超越する。サイバースペースのかわりにスリムのコットンパンツを、パーソナルコンピュータのかわりにグループサウンズを。冴えたハックの顛末を語るテッキーの口調でルイズルイス加部を語り、アナキストのネット者が情報スーパーハイウェイを罵倒する辛辣さで谷村慎司を論評する。自分自身の感覚の正しさを確信できる強さと激しさが、鈴木いづみに比類なき速度を与えた。
 重要なのはしかし、それがたんなる“よくできた現代風俗小説”ではなかったということだ。鈴木いづみは、おもちゃを与えてもらったばかりの子どものように、伝統的なサイエンス・フィクションの枠組みを嬉々として使用する。
 そう、SFという小説ジャンルは彼女にとって秘密の遊び場だったのかもしれない。現実に対して感じる齟齬や苛立ちは、現実世界にいるかぎり、自分を変えることによってしか(あるいは薬物の助けを借りることによってしか)解消できない。しかしSFなら、自分ではなく世界を変えてしまうことができる。「カラッポがいっぱいの世界」を“明かるい絶望感”で受け入れながらも、鈴木いづみは心のどこかでもうひとつの現実を、自分にふさわしい世界を夢見ていたのかもしれない。
「なんと、恋のサイケデリック!」をはじめ、本書におさめられている短篇のほとんどは、作者と世界の関係を描いた物語として読むことができる。いちばんSFらしいSFである「夜のピクニック」(なにしろこれは、正真正銘の異星生物の話なのだから)は、客観的現実の不在を、逆転したかたちで明晰に描き出す。「あたし反抗期なんだもん」と戸棚に閉じこもる娘に向かって、父親は「おまえの解釈は、まちがってるぞ」とたしなめる。しかし父親の解釈が正しいという保証はどこにもない。いや、それをいうなら、娘が娘であり父親が父親であるということさえも、客観的事実ではありえない。もちろん、ぼくら自身にとっても「現実」は共同幻想の産物でしかないのだが、もうひとつの現実が存在しうるということを具体的に(物理的に?)示せるのは、SFという表現形式だけが持つ特権だろう。
 作風はまったく異なるものの、鈴木いづみの遺したSF小説群の根底に横たわるこうした現実感は、現代SFが生んだ最高の女性作家、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアのそれと共通する。かつてべつのところにも書いたことだが、じっさい鈴木いづみとティプトリーのビブリオグラフィには奇妙な共通点が少なくない。鈴木いづみもティプトリーも、最初から「SF作家」として出発したわけではない。ふたりとも人生のなかばを過ぎてからSFを「発見」し、SFの虜になった。ティプトリーは男性名を名乗ることによって自分を徹底的に隠し、新しく見つけたSFの遊び場で(少なくともそのSF作家歴の初期には)無心に遊びつづけた。鈴木いづみはその特異なキャラクターで過剰に自己を演出し、日本のSF界に旋風を巻き起こした。ふたりとも、人生の最後の一時期をSF作家として過ごしたのち、ティプトリーは猟銃で、鈴木いづみはパンティストッキングで首を吊って、みずから命を絶った。
 とはいえ、SFの世界で、鈴木いづみはティプトリーの百分の一の評価も受けてはいない。デビュー当時は、「独特の皮膚感覚」とか「女性作家特有の生理」とかの言葉でなかば困惑気味に評されたものだし、作品よりもむしろ、作家自身のエキセントリックな性格について語られることのほうが多かった気がする。たぶん、鈴木いづみのスピードに追いつけるほど、当時のSF読者は成熟していなかったのだろう。なにしろ、わずかでも彼女に似た作品を書くSF作家は、当時まったく存在しなかったのだから。
 驚くべきことに、初出から十数年を経たいま、本書収録の作品を読み返してみても、まったく古びていない。はるかな「未来」を描く多くのSFが、その未来に到達するまでもなくあっというまに古くなってしまうのに対して、瞬間的な「現在」を描く彼女の小説は、ほとんど時代を超越した鮮度を保ちつづけている。ティプトリーの小説がそうであるように、鈴木いづみの小説も、サイバーパンクを通過したいま、ますますその輝きに鋭さを加えつつある。
 残念ながら(むしろ、さいわいなことに、というべきか)ぼくは生前の鈴木いづみに会ったことがない。映画「エンドレス・ワルツ」で広田玲央奈が演じた「鈴木いづみ」が生前の彼女とどのくらい遠かったのか、それを判断するすべもない。けれどそれでよかったのだと思う。ぼくにとっての鈴木いづみはあくまでもSF作家であり、SF作家がどんな人生を送ろうが(いささかのワイドショー的な興味はあるにしても)作品にはほとんど関係がないのだから。
 したがって、いまふたたび、彼女の作品によってではなく、その生き方によって、鈴木いづみにスポットライトが当たっているらしい現状については、いくらか複雑な思いを抱かないでもないのだけれど、それによってふたたび鈴木いづみの作品が読めるようになるのなら、文句を言ういわれはないだろう。
 死の直前のSFアドベンチャーに載った短い近況欄に、「最近は母娘でチェッカーズに夢中」と書かれていたのをなんとなく思い出す。いまならたぶん、SMAP×SMAPを欠かさずチェックしていたかもしれない。だからぼくは、「青い稲妻」をBGMに『恋のサイケデリック』を読み返す。鈴木いづみはいつだって“いま”の作家なのだから。





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