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野尻抱介 RE:科学への信頼(2)(3) 2002年10月15日(火)12時59分50秒

>瀬名さん

 結論から言えば、私と瀬名さんの科学観にはほとんど相違がないですね。これはちょっと空振りでしたが、そのかわり科学観の周辺で明白な相違が見えてきました。ご多忙なところ、ずいぶん長い文章を書かせてしまいましたが、おかげさまで私には収穫でした。

 科学についてA、B、Cと分類されていますが、一箇所だけ切り分け方が私と違います。
|B)その自然法則を見出し、応用するための科学的な方法論。野尻さんのいう
|「知の方法論としての科学」。以下、「科学の方法論」と呼ぶ

 私は「応用するための」を(C)に混ぜたいです。(B)は純粋に(A)を知るためだけの方法論としたい。(B)においても検証のために応用の要素が出てくることはありそうですが、目的はあくまで「知る」に徹する。
 このあたり、実践知を対象にしてきた瀬名さんとのスタンスの違いでしょうか。
 しかし、瀬名さんの分類のままでも以後の話は支障なく進められると思うので、このままいきます。

 先に述べた「主観的事象はすべて客観化できる」には、「応用科学が充分に発展すれば」という前提があります。神経細胞の結線、発火の状態、ホルモン物質の働きなどが逐一トレースできて、いわば意識の全容が解明された遠い未来のことです。いわゆる内省とか自己批判の話ではありません。つまり「この曲がなぜ自分を惹きつけるかは、いつか必ず科学によって解明されるだろう」という信念を持つということです。

 過去に瀬名さんと議論していて私の話が乱暴になってくるのは、SFファンのメンタリティの話などを説いていて、
「ここまで言ってわからないなら、瀬名さんはわからない側の人なんだよ。瀬名さんはすべての人に理解できる話だと思っているようだけど、永遠に平行線のままの人って絶対いるもん」
 という諦観を持った時だと思います。この段階で失礼な物言いがあったことは認めます。これは今後慎むように心がけます。

 私は広い意味でなくても、科学が常に正しいとは思いません。(C)はもちろん、(B)のレベルでも実際のアプローチは一通りではないので、正しいとは限らない。(A)自然法則のレベルでさえ、修正が加わることがある。
 私が科学について信じるのは、(B)における健全さです。ある人が知識を得ようとして科学の方法論に徹している時、その行動は合目的性において健全であると信じられる。
 その結果得られた理解が間違っているとか、回り道をしたとか、その行動に没頭して健康を害したとか、そこで得た知識を不健全な目的に使うといったことは関係ありません。科学は知識獲得の手段に健全さを保証する、ということです。
 私はそういう健全な態度で動いている人間を好ましいと感じるので、交友関係や小説のキャラクターにもそれが反映しています。

 科学を賛美する時代は終わった、というのは同感です。あれは1960年代がピークでしょう。瀬名さんの答え方からすると、科学を賛美しないのは、その時代が終わったから、ということになるでしょうか。自分の著述や意見は時代を反映したものでありたい、と。
 私とて「賛美」なんて頭の悪そうな言葉は使いたくありませんが、科学を肯定することはどんな時代であっても続けるつもりです。かっこよくないし、文芸的にも評価が落ちるのは承知していますが、時代に照らして物事を考えることにはさして興味がありません。

 私の手本のひとつはクラークです。あの能天気な科学肯定と楽観主義を、揺らぐことなく引き継ぎたい。なぜかといえば、楽観主義はバカに見えるけど、人を巻き込む力があるからです。本を読み終えて「こいつはお笑いだ。バカな話を読んだ。現実はこうはいくまい。……だが待てよ、ある仮定においては不可能ってことはないよなあ……?」と読者が考え始めたら、私の目標は達成です。小説だけでなく、ノンフィクションや日頃の発言でも、この態度は変わりません。
 正しいかどうかとか、時代を鋭く描いているかどうかではなく、人をやる気にさせることが私の勝利条件です。そのための物理的リアリティであり、そのための楽観主義です。それとバッティングするようなら、社会・人文系のリアリティは目をつむります。
(なお、これを瀬名さんは「マンガ的」と形容していますが、この表現は漫画家さんに失礼なので私は使わないようにしています)

 私がファーストコンタクトを無条件に素晴らしいこととするのも同じことです。そのあと人類が異星人に滅ぼされようと、ファーストコンタクトという素晴らしいことが起きた点で、私の中では楽観主義に属する話になります。
「ちょっと待て、俺はラテン文学を極めたいんだ、エイリアンごときに興味はないし滅ぼされるのも困る」という意見もありましょう。その通りです。
 たとえノンフィクションであれ、私の意見に公正さはありません。所詮一人の作家が述べることですから、偏見があって当たり前。公正な考えなどさして面白くもないし、人を動かす力も弱い。それより百人中一人でも「おお野尻よ、よく言った! 俺もファーストコンタクトに立ち会えるなら死んでもいいぞ!」と身を乗り出してくれたほうがいい。

 瀬名さんには受け入れがたいかもしれませんが、私の信じるところ、作家は何を言ってもいいし、正しくなくてもかまわない。
 私がSFで科学的裏付けにこだわる第一の理由は理屈っぽい読者を動かすためです。第二の理由は、科学に忠実にあることによって人間の常識から離陸しやすい――すなわちセンス・オブ・ワンダーを生みやすいこと。第三の理由は科学の持つ健全さが好きなこと。いずれにせよ、教育的配慮や公正さのために科学にこだわっているのではありません。
 それでも、百人が百人とも単なる読書で終わってしまうよりはいい。その気になった読者が報われない人生を送ってもかまわないし、著者の私がバカよばわりされてもかまいません。

 私が書こうとするものをアッパー系と呼ぶなら、瀬名さんの著作・論述はどこかダウナー系です。確かに時代や現実をよく反映していて読書体験としては濃厚だけど、よし俺も何かやろう、という元気は湧いてこない。そのリアリズムが、読者を実社会で動かす力をむしろ奪っているように思える。瀬名さんの作品すべては読んではいないので、一部に対してそう感じるのですが。
 結局、瀬名さんは――うまく形容できませんが――社会派?の作家として科学を作品に盛り込んでいるようです。個人の物語であっても、背景社会のリアリティを軽視しない態度で一貫しているように思える。(A)を曲げることがある/(C)を重視すると追伸されているとおりですね。文芸作品としてきわめて正統です。
 私は科学を後ろ盾にしつつ、それ以外では嘘八百ならべてでも人を動かしたい。それだけです。そういう態度に乗ってくる人の健全さを私は信じられるので、心おきなく不公正でいられます。

 ハードSF観については「科学の方法論の達成を主眼に置く小説」ではなく、「科学の方法論が達成したふりをすることで読者を動かす、しょせん嘘八百のSF小説」ぐらいに思っています。人文社会を含めた総合的リアリズムに照らせばファンタジーと大差ありませんが、異なるのは読者の動き方です。ハードSFを楽しんだ読者の一部は、他ジャンルの小説では味わえない「希望の感触」を抱いてその後を生きる。そう信じています。
 そんな自分が、どういうわけか『航路』を楽しんでしまった、ということです。瀬名さんも楽しまれたと思いますが、批判もしておられる。その批判は、私には欠点とは思えません。理屈付けを要領よく省略したなあ、ぐらいに思っています。
 『航路』は多くのSFと違って、世界がほとんど変わらないまま終わる。しかし世界が変わるまでのハードSFだと思えば、かなり近い気がします。

 科学者がSFとどう接しているかは私にもよくわかりません。私と交流があり、気の合う自然科学者はどこか浮世離れしてエキセントリックなところがありますが、だからどうだとは言えません。
 以前なら、だからどうだと言ったかもしれませんが、今回反省しましたので。

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瀬名秀明 2002年10月15日(火)08時45分40秒

伝わっているかどうか、どうも不安でならないので、申し訳ありませんがもう一度書きます。

・障害者団体も、全団体が「表現をあいまいかつ包括的なルールで縛」ろうとしているわけではないので、十把一絡げに考えるのはよくない。従って「障害者団体による表現規制の要求と同じロジック」というご指摘はどうも納得できない。
・私自身、「表現をあいまいかつ包括的なルールで縛」ろうとしているわけではないし、それを野尻さんに求めているわけではない。私がいっているのは対人関係上のマナーの問題である。また実際、私自身が不快に感じることはあるし、私の知人でもそのような感情を持つ場合がある。私宛に限らず、これはどうも野尻さんが文章を書く際のクセであるように思えるので指摘したい。少なくとも私と野尻さんは知人なのだから、互いの心がけを改善することで、ある程度は解決できる問題だと私は信じている。
・野尻さんが「いまのままの表現で自分はマナー違反だと思わない」と感じ、その理由が明快であれば、私としても無理にとはいわない(人によって価値観は違うので)。だがいまはそれ以前のところですれ違っているので、もう一度互いの考えを確認したい。

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瀬名秀明 RE:表現の問題について 2002年10月15日(火)08時05分14秒

野尻様
「誰かを殴りたくなる」は私宛の文章ではなかったとのこと、大変失礼いたしました。お詫びいたします。ただ、私が野尻さんに対し、過敏な反応を取らざるを得なかった経緯についてはご理解いただければ幸いです。

>「ロボットを軌道上で研究開発するために有人飛行すればよい」

「有人飛行を推進するなら、ロボット技術を大々的に取り上げ、日本の独自性を掲げた方がよい」という意見でした。宇宙ロボット技術の推進の動きもおぼろげに存じています。しかし「曲がりなりにも有人飛行賛成派だった」というのは間違っていません。今回の本論と外れることなので、この件については止めます。

>これは障害者団体による表現規制の要求と同じロジックですね。表現者のはしくれとして、このロジックの上に立つ求めには首肯できません。表現をあいまいかつ包括的なルールで縛るのはきわめて危険です。
瀬名さんだって「SFファンを怒らせるような発言はやめてください」と求められたら困るでしょう?
 不快を感じたり怯える人がいるなら、面倒でもそのつど私にご連絡ください。ケースごとに対処します。

機会があるごとに申し上げてきました。
ここでもすれ違いがありますので確認させてください。私は決して、言論や表現を規制しようとしているのではありません。以前の「「これはSFじゃない」というのをやめよう」という私の提案に対しても、今回と同様のご意見をいただきましたが、どこかでずれている気がします。
私が仮に「SFファンを怒らせるような発言はやめてください」と包括的に求められた場合、怒らせることを意図していなかった場合は以後自分で気を付けます。自分の本論と違うところで他人が不快になっているのだとしたら、それは自分を見直した方がよいだろうと考えるからです。誤解があると感じたら説明を試みる場合もあります。
つまり私が申し上げているのは対人関係、マナーの話です。「表現を縛る」というのは表面のみを取り繕った話で、だからこそ私もその考え方には反対です。
障害者団体による言論規制と仰いますが、十把一絡げにしてよい話ではありません。私の書き方が十把一絡げであったというのなら、お詫びします。ですが、障害を語らないことと、障害を語りながらも気を付けることは別ではないですか。
私自身、SFでは「つかみどころのない不特定多数」に対する「鬱屈した思い」がありますが、野尻さんをはじめ、顔のわかる方については個別に申し上げてきたつもりです。
もちろん、今後も個別のご連絡を心がけますが、ぜひ野尻さんも何かしらご自身でお考えいただきたい、というのが私の願いです。話し合いを通じて寄りよい関係性を見出そうとしているだけであって、むろん野尻さんが「このままで構わない」ということであれば、それはそれでひとつのご意見だと思います。ただ、いまは野尻さんの提示されている根拠(「表現者のはしくれとして」「表現をあいまいかつ包括的なルールで縛るのはきわめて危険」だと感じている、というのが野尻さんの根拠ですね)が私の意図と完全にずれているので申し上げているのです。

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野尻抱介 表現の問題について 2002年10月14日(月)10時01分09秒

>瀬名さん

|1)については、海法さんに同意されるということでしたから、
|瀬名にとって当初粗雑・悪質に見えた文章展開も、意図的なものではなかった。
|今後は瀬名宛の文章に限らず、わかりやすい書き方を心がけたい

 前半はその通りですが、後半、瀬名さん宛の文章以外ではYESとは言えません。
 私は粗雑で悪質な人間かもしれませんが、誤解もあるようです。「誰かを殴りたくなる」発言は瀬名さんに宛てたものではありません。日経プロムナードという雑誌の存在すら知りませんでした。
 瀬名さんの有人飛行に対する考え方は、以前自分のサイトに書かれていた「ロボットを軌道上で研究開発するために有人飛行すればよい」ではなかったのですか? それはそれで私には異論があるんですが、曲がりなりにも有人飛行賛成派だったのでは。

 人間の代わりにロボットを宇宙へ送れ、という考えは瀬名さんの独創ではなく、宇宙探査の初期から連綿と語られていることです。ヴァーチャル体験できればいいやという考えも10年くらい前から言われています。無人探査やテレイグジスタンス技術は大いに推進すべきですが、有人飛行をやめる理由にはならないというのが私の意見です。
 賛同できない意見が、つかみどころのない不特定多数から出てくるからこそ「殴りたくなる」という鬱屈した思いになる。瀬名さんみたいに連絡のつく相手なら名指しで批判します。いずれにせよ「殴りたくなる」と言明しても実際に殴ることはあり得ませんが。

|なぜ私が1)についてこだわっているかというと、私自身の気持ちの問題でもある
|のですが、偶然にウェブで野尻さんの御発言に目を留めた私の知人や親類が、SF
|に対して強い怯えを抱く傾向にあるためです。

 これは障害者団体による表現規制の要求と同じロジックですね。表現者のはしくれとして、このロジックの上に立つ求めには首肯できません。表現をあいまいかつ包括的なルールで縛るのはきわめて危険です。瀬名さんだって「SFファンを怒らせるような発言はやめてください」と求められたら困るでしょう?
 不快を感じたり怯える人がいるなら、面倒でもそのつど私にご連絡ください。ケースごとに対処します。

|2)については、
|野尻と瀬名のハードSF観や科学観を披露し合うことでその代わりとしたい
|というお考えだと受け止めてよろしいでしょうか?
 いずれ『航路』の話につながれば、と思っていますが。それよりなにより、今回ようやく「ここさえ確かめれば瀬名秀明に対する長年の疑問が一気に決着しそうだ」と思い当たったので、うかつに脱線して物別れにならないうちに進めようとしています。
 ともかく、科学観についてはすでに回答をいただいていますので、別途コメントいたします。

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瀬名秀明 追伸 2002年10月12日(土)13時17分32秒

想定される質問に答えておきます。

私の場合、小説を書く際は、小説的な要請でA)を意図的に無視、ないしは誇張・曲解することがあり得ます。そちらのほうが小説として面白くなる、と判断した場合です。ただし現実社会でそのような行動を取ることはまずあり得ません。
科学的なスペキュレイションは好きなので、B)を信頼した上での考察過程には惹かれます。C)は私自身の問題意識とかぶるので、小説の中で大きく取り上げる傾向にあります。

A)を「科学」の範疇に含めるか否かは、ケースバイケースです。むしろ自然法則が先にあり、それにアプローチするための手法のひとつが科学であるという意識なので、惑星の運行や化学反応そのものを「科学」というのはちょっとヘンだという意識が(場合によっては)働くかもしれません。「科学」とはあくまで「学」なので人間側に寄り添っている印象です。

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瀬名秀明 科学への信頼(3) 2002年10月12日(土)10時19分28秒

>私はハードSFを読むとき、科学の方法論が成功する話を期待します。クライマックスで科学的手法が成功して知の最前線を一歩進め、そこで新たに見えてきた未知を哲学的に洞察するのが王道で、「ああ、いいハードSFを読んだ。面白かった」と満足します。

この意味では、野尻さんの期待する「科学の方法論が成功する話」を結末に持ってきてはいません。すべて物語の途中で出てきます。
私にとって、科学の方法論はストーリーの展開と不可分なのです。「方法論」として信頼しているからこのような扱いをするのであって、成功させることを目的に小説を書くことはあり得ません。というかそれは自明なので、方法論が達成されてよかったという話はあまり面白くない。小説のテーマとしては、もっと別のものを持ってきたい。
あと、科学的手法が「成功」するかどうか、というのは私の気分とかなり違います。論文を書くとき、結果と考察をまとめますが、そこに「成功した」とは書かない。「成功した」と書く時点で、主観的評価が入る。だからそれはすでに「科学的手法」ではない。その意味で、海法さんの
>前提1.SFファンは、科学的な落ちを好む傾向がある。
というご指摘とも絡みますが、SFファンのメンタリティと相容れないことがあります。
私はハードSFを「科学的なスペキュレイション強くこだわった小説」程度に考えていますので、『航路』に関しては主人公の研究内容を細かく検分し、「科学的結論の理屈付けが弱い」と感じます。しかし野尻さんは物理法則がきちんと守られているかどうかでハードSF性を判断されている。もしSFファンの多くが、ハードSFを「科学の方法論の達成を主眼に置く小説」と思っているのなら、私の小説は永遠にハードSFではあり得ません。また私にとってその定義は一種のファンタジーと同義です。
実際、私には、どれほどの科学者が現在のハードSFに共感を覚えているのか、ちょっとわからないのです。別の書き方もあるのではないか。そう考えながら模索を続けているところなので、ジャンルSFの評価から外れてしまうのは仕方がありません。『BRAIN VALLEY』の物語展開は、そういった私の考えを反映しています。ラスト近くに「科学者なんて、みんな死んでしまえ」という極端な台詞が出てきますが、これは「科学をすること」に対する私の強い揺れを一言で表現した部分です。しかし『BRAIN VALLEY』は、科学の方法論そのものと決別するわけではない。自分の心と折り合いを付けつつ、科学そのものは信頼したまま終わります。いや、描写としてA)やB)を無視しているではないか、というのが野尻さんの主張ですが、私自身はかなり厳密にここにはこだわり、小説のテクニックとして私自身の許容範囲に収めたつもりです。当然、失敗したところと成功したところがあるでしょう。その許容範囲が心情的に相容れないから瀬名に不信感を抱くのだ、というご批判はもっともだと思います。ですからご批判は厳に受け止めますが、上記の考察経過を踏まえないままご自身のハードSF観をそのまま適用されてしまうと、こちらももどかしさを感じるので、前提を明示してほしいなと思うことはこれまでありました。
『BRAIN VALLEY』の世間的な評価ですが、これまでいただいた反響を見る限り、私の意図を確実に汲み取って下さった方は何人もいらっしゃいますので(ウェブ上の反響だけでなく、直接口頭で聞いた感想や、著者宛の手紙、書評など)、自分としてはそれなりの達成感を持っています。

>「瀬名さんて人は、科学を賛美するのが嫌なのかな?」

これは我々の考え方の相違を端的に表現していますね。「科学を賛美」する時代は終わったと思うのです。科学的手法はそもそも賛美する対象ではなく、信頼の置ける手法であるというのが私の考え方です。そこに付加価値はない。
「科学を賛美」は時代の雰囲気なので、私が野尻さんの小説に古き良き時代のアメリカSFを感じ取るのもそういうことでしょう。小説の戦略としては優れているのですが、それをご本人の口から直接聞いてしまうと、失礼ながらマンガ的だと感じてしまうわけです。アポロ世代との差でしょうか。
私が賛美する場合があるとしたら、それは科学者に対してです。

以上、長くなりましたが、私のスタンスを説明いたしました。
さて、このように書いた上で、私はどうしても野尻さんに一点確認したいことがあるのです。というのは、
>野尻さんとて、広い意味での科学が常に正しく、科学万歳だけで世界が良くなる、と思ってるわけでもないでしょう。
という海法さんのご指摘との関係が私にはわからないのです。野尻さんは「海法さんの整理に全面的に同意します」と仰っているので、自分ではこのような考えを持たない、と明言されているわけです。しかし他の文面(特に宇宙開発関係やファースト・コンタクト関係など)を拝読すると、ある程度この指摘が当てはまってしまうように思えるのです。科学への無邪気な信奉や、科学をすることへの過信がときに御発言の中から感じられます。単に書き方の問題ではないような気配を受けます。
はじめに私は、二種類の違和感を覚えると書きました。それがこのことで、私がどうしても気になるところです。ぜひこれについてのご意見をお聞かせいただければ幸甚です。

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瀬名秀明 科学への信頼(2) 2002年10月12日(土)10時12分42秒

「知の方法論としての科学」と「信頼」について
推敲の時間が取れず、長くなっています。すみません。

これまでのご説明で、野尻さんのお考えやスタンスは理解できたと思います。私自身の考えはすでに述べましたが、「微妙にニュアンスが噛み合っていない気がする」とのことでしたので、もう一度野尻さんのお考えと対比させながら説明を試みてみます。まずご理解いただきたいのは、私が野尻さんのお考えそのものを否定しようとしているわけではないということです。また野尻さん(とその作品)に対し不信感は抱いていません。ただ、スタンスの違いから違和感を覚えることはままあり、それはこれまでにも表明してきました。違和感の対象は大まかにふたつあり、ひとつは野尻さんの発言のされ方で、上記1)にあたります。これについては今回ひとまず相互理解が取れそうですね。もうひとつが、野尻さんの仰る「科学」への信頼の態度です。

>私が問いたかったのは「知識を獲得する手段として科学の手法は信頼できるか」です。

信頼の対象を、わかりやすくするため3つに分けます。
A)自然界に存在し、自然界を司る法則や原理。以下、自然法則と呼ぶ
B)その自然法則を見出し、応用するための科学的な方法論。野尻さんのいう「知の方法論としての科学」。以下、「科学の方法論」と呼ぶ
C)科学の方法論を扱う人間の行為。以下、便宜的に「科学をすること」と呼ぶ

私が以前の返答で「信頼しています」と申し上げたのは、野尻さんの字義通り、B)に対してです。それ以前の文書で信頼しているとお伝えした対象はA)とB)でした。確かに読み直してみるとB)についてはニュアンスで読ませるかたちになっていましたことをお詫びします。
そして私が「信頼感の揺らぎを覚える」と申し上げた対象は、この3つのうちではC)のみです。以前に『航路』に関して、「おそらく野尻さんの意図するところとはまったく別の意味で」と書いたのはそういうことです。また「少なくとも私は野尻さんのように、科学をすることに過剰な信頼感は持っていません」という発言がこれにあたります。

>1)瀬名さんはなにか不可解なものに直面したとき、迷わず科学的手法で取り組もうとするでしょうか? 
2)たとえその時は解決できなくても、いつか必ず科学的手法で解決できるという信念をお持ちでしょうか?
3)たとえば、たまたま耳に残った音楽が気になって、「なぜこの曲は自分を惹きつけるのだろう?」と思ったときなどはどうでしょうか。

ということでこれにお答えしますと、
1)「迷わず」ではないが、充分な考察時間と判断材料が得られるならば、取り敢えず科学の方法論から採用してみるのがふつう。これは単に、私が科学の教育を受けたので自分にとって使いやすいから。
2)A)やB)への信頼を前提として、常識的にYES。私個人の問題ではなく、人類全体の営為としてYESになる。
3)これは微妙。「人はなぜ感動するのだろう?」といった大きな問いには科学的手法をぜひ使いたいとは思っているが、特定の曲のみを対象として科学の方法論を使うのは難しい。対象への興味の度合いや、現時点で科学の方法論を適用できそうかどうかによる。
となり、いずれの場合でも、科学の方法論に信頼を置くことに変わりはありません。この点は野尻さんと全く同様です。

つまり私と野尻さんとの最大の相違点は、科学の方法論を用いる人間自身に対しての信頼感だと思います(上記C))。野尻さんはその人間を、その行為を、おそらくあまり考察の対象にしていない。よく野尻さんが「人間には興味がない」と仰るのもこの文脈であり、野尻さんのハードSF観もここに関係している。私の場合、人間自身に対してはときと場合によって大きく揺れます。科学をする自分自身についても然り。野尻さんの場合、「科学の方法論」に信頼を置いている「自分」への無条件な信頼があるように見受けられます。「科学の力」を信じているようだ、と書いたのはこれです。

>私は応用科学が充分に発展すれば、主観的事象はすべて客観化できると考えているので、上の例においても科学的手法に信頼を置きます。

さて野尻さんは、上記のお考えを、ご自身の中で若干誤解なさっているのではないかと思います。「主観的事象はすべて客観化できる」から、「科学的手法に信頼を置く自分も客観化できる」としてしまう場合があるのではないでしょうか。すべての場合ではなく、議論が沸騰して自制心が利かなくなったときや、SFや宇宙開発やファースト・コンタクトなどご自身の嗜好の分野を話されるときなどに出てきているような気がします。私が申し上げた、自己批判性の欠如です。またときとして、B)を信頼する人なら必ず自分と同じ行動パターンを取るはずだ、と短絡化してしまう傾向があるように見受けられます。
B)に見るように、科学は人間が作り出した知の方法論である以上、常に自己批判に晒されながらその時点で最良のものを皆で構築してゆくのが本来の姿であろうと思っています。また方法論はそれ自体ツールであり、信頼のできるツールであっても、それを用い、そこから何かを判断しようとするのは人間の営みであると私は考えているので、B)とC)は心の中で区別しています。「自分は科学の方法論を理解している」と信じていても、実際には理解できていない可能性がある。また理解していても、ときに用法を間違うことがある。科学をすることに対する二重のチェック機構(自己と他者による)が機能してこそ、ツールである科学の方法論が信頼を勝ち得るので、C)に関しては特に気を配ります。野尻さんの一連の御発言に私が甘さを感じるのはここです。「あたかも自分が正義の味方であるかのように書くその手法」「自己批判の過程を見出すことができない」とはこれを指します。

科学を生業とする場合、C)は特に重要で、科学者は多かれ少なかれここにジレンマやコミュニケーションギャップを感じるのではないでしょうか。私自身、看護学や薬学といった実践知を求められる分野で仕事をしてきた関係上、ここに多くの挫折を経験しました。C)が噛み合わないためにB)すら共有できないことがよくありました。ですから小説を書こうとするとき、科学をすることに対する自分なりの考え方を盛り込もうと(無意識のうちに)考えます。また他者の小説に関しては、C)に配慮せずB)のみを持ち上げるような書き方を見ると、バランスの悪さを感じます。
ただ、C)とは本来夾雑物で、A)とB)のみが純粋に存在することが理想である、という一種のイデア論も、わからないわけではないのです。科学者であればふとそういう理想世界に憧れることもあるでしょう。その意味で、野尻さんのスタンスは非常に理想的なものであり、人気が高いことも頷けます。しかし我々が人間である以上、C)から逃れることはまず不可能です。また意識的に逃れたとしても、そこに自己批判機構が存在しない以上、信仰と同類になってしまう危険性があります。

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瀬名秀明 科学への信頼(1) 2002年10月12日(土)10時04分12秒

野尻様
まずは、野尻さんの今回の誠意あるご返答に対して、本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

>海法さんの整理に全面的に同意しますので、私から「情報操作」と言ったことを撤回いたします。大変失礼しました。

了解しました。こちらも撤回いたします。失礼いたしました。
さて、野尻さんは私の内面について興味が向かいつつあるようですが、私はむしろ
1)野尻さんの書き方について
2)『航路』について
話をしたいと思っていたので、まずはこちらを片付けてしまいたいんです。

1)については、海法さんに同意されるということでしたから、
瀬名にとって当初粗雑・悪質に見えた文章展開も、意図的なものではなかった。今後は瀬名宛の文章に限らず、わかりやすい書き方を心がけたい
2)については、
野尻と瀬名のハードSF観や科学観を披露し合うことでその代わりとしたい
というお考えだと受け止めてよろしいでしょうか?
なぜ私が1)についてこだわっているかというと、私自身の気持ちの問題でもあるのですが、偶然にウェブで野尻さんの御発言に目を留めた私の知人や親類が、SFに対して強い怯えを抱く傾向にあるためです。またときとして公正でないと思える御発言が目につきます。例えば野尻さんの掲示板の御発言、

>私も誰かを殴りたくなるときがあるな。「有人飛行なんかいらない、かわりにロボットを乗せて地上でバーチャル体験すればいい」なんて語っているやつを見ると。「おまえの宇宙は地球の衛星軌道だけか? タイムラグを考えろ」と言って、それでもわからないなら。(2002年09月14日)
>悪意があってしているなら、ある意味与し易いです。困るのは心の底から善意で「こうすべし」と語る不見識な人。そういう人に限って口当たりのいいことばかり言うので多数から支持されてますし。(2002年09月17日)

というのは、名前こそ出ていないものの明らかに拙エッセイ(日経プロムナード2002年7月30日付)を指しており、私には不正確な要約紹介であるように思えるのです。冷静なご批判ならともかく、不正確な要約の上に判断され、しかも「殴りたくなる」と書かれるのは非常に困惑するわけです。このようなことが繰り返されているように思えるので、1)について特にご意向を伺いたい次第です。
この2点に関しては、申し訳ありませんが確認のためご返答下さい。

以下、長いので切り分けて投稿します。

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古沢(よ) 朝日新聞『航路』広告 2002年10月11日(金)09時22分14秒

大阪版では、きょうの朝刊に掲載されていましたわ>『航路』広告

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野尻抱介 2002年10月10日(木)20時53分45秒

>瀬名さん
 海法さんの整理に全面的に同意しますので、私から「情報操作」と言ったことを撤回いたします。大変失礼しました。
 それから日経サイエンスの対談記事ですが、頭を冷やして再読すると最後に「(構成は荒川直樹)」とあるので、その意味でも瀬名さんに訴えるのは筋違いだったようです。

 知の方法論としての科学を信頼するとの回答をいただきましたが、微妙にニュアンスが噛み合っていない気がするので、すみませんが再々度確認させてください。
 「すでに申し述べたとおり」というのは「科学そのもの(自然法則とか)への揺らぎではなくて」の部分ですよね。
 私が問いたかったのは「知識を獲得する手段として科学の手法は信頼できるか」です。
 してみると、少し先にある「科学をすることに過剰な信頼感は持っていません」のほうが回答として近いようにも思えてきます。

 瀬名さんはなにか不可解なものに直面したとき、迷わず科学的手法で取り組もうとするでしょうか? たとえその時は解決できなくても、いつか必ず科学的手法で解決できるという信念をお持ちでしょうか?
 たとえば、たまたま耳に残った音楽が気になって、「なぜこの曲は自分を惹きつけるのだろう?」と思ったときなどはどうでしょうか。

 質問ばかりだと誘導みたいですから、自分はどうかと申しますと。
 私は応用科学が充分に発展すれば、主観的事象はすべて客観化できると考えているので、上の例においても科学的手法に信頼を置きます。
 『航路』もBVも主観的事象をぎりぎりまで科学の手法で扱う点で共通している。しかし、私の場合、両作品の読後感にはかなりの隔たりがあった。作者の罠にはまっているなんて言われてますけど、私は意図されたとおりに読み取ったつもりです。

 私はハードSFを読むとき、科学の方法論が成功する話を期待します。クライマックスで科学的手法が成功して知の最前線を一歩進め、そこで新たに見えてきた未知を哲学的に洞察するのが王道で、「ああ、いいハードSFを読んだ。面白かった」と満足します。
 BVのクライマックスはそうじゃないですよね。BVに限らず、私が読んだ瀬名作品はすべてクライマックスで私の期待を外します。
 そこで「瀬名さんて人は、科学を賛美するのが嫌なのかな?」とまず思う。研究現場や応用面の問題とは別に、科学的手法そのものを信じていない気配も感じる。それが瀬名さんの仕事に対する不信感の根源にあるので、今回しつこく質問しています。
 返答は急がなくて結構ですので、よろしくお願いします。

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瀬名秀明 追伸 2002年10月09日(水)23時50分09秒

野尻様の日経サイエンス対談に対してのご意見は、編集長に伝えておくようにします。ちょうどいま二回目のゲラ直しをやっているので。

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瀬名秀明 2002年10月09日(水)23時43分08秒

海法様
いつもながらありがとうございます。私の主張に関しては、問題なくご理解いただいていると感じました。
「情報操作」についてですが、このような論点整理の上で話が進み、かつ野尻さんのご意向が海法さんの仰られる通りで、意図的なものでなかったと明言されるのであれば、この言葉は撤回したいと思います。それでよろしいですか?>野尻様
また同様に、野尻様も撤回していただけますか? 

野尻様
>そんなわけで、他の話は後回しにして、あらためて質問させてください。
(1)瀬名さんは、純粋な知の方法論としての科学を信頼しておられるでしょうか。
(2)信頼できないとしたら、それはどんな場合でしょうか。

これについては、すでに申し述べたように、信頼しています。

「それを描いた作品が能天気・漫画的と思われても気になりません」というのは全く逆で、私は野尻さんの御発言内容について申し上げています。むしろ野尻さんの場合、小説ではこういった単純化が功を奏していると思います。

これでわかりやすくなったでしょうか。ではご返答をお待ちしております。

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野尻抱介 科学の考え方 2002年10月09日(水)20時45分01秒

 海法さんがうまく整理してくださいましたが、以下の文章はその前に書いたものです。
 そのせいでちょっとくどいかもしれませんが――

>瀬名さん
 回答ありがとうございます。だんだんわかってきました。
 瀬名さんが「科学」と言うときは、純粋な「知の方法論のひとつ」としての科学というより、「アカデミズムや研究開発業界の現場とそこから出てくる成果」にウエイトがあるようですね。
 私が信頼しているのは知の方法論としての科学です。この科学は力でも免罪符でもありません。科学を力だと主張した記憶はありませんが、「科学は知の方法論として有効である」という趣旨なら、たびたび主張しています。
 科学が力を持つのは、技術として応用された場合や知的権威になる場合が考えられますが、それらは「応用科学」「知的権威」と呼びたいと思います。こうしたものについては特に信頼していません。

 私が知の方法論としての純粋な科学について考えるとき、現場の事情や応用については考慮しません。それらを「科学」「科学の力」と呼ぶこともありません。科学の現場については熟知しているわけでもなく、さして関心もありませんから、それを描いた作品が能天気・漫画的と思われても気になりません。そこでは勝負していませんので。

 そんなわけで、他の話は後回しにして、あらためて質問させてください。
(1)瀬名さんは、純粋な知の方法論としての科学を信頼しておられるでしょうか。
(2)信頼できないとしたら、それはどんな場合でしょうか。

 議論は他の場所でやってもいいのですが、大森さんは歓迎ムードですから、ここでいいんじゃないでしょうか。

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海法 紀光 瀬名様、野尻様 2002年10月09日(水)20時09分18秒

 お二人の議論の中で、単純な行き違いが大きな問題に発展してる箇所がいくつかあると思います。
 余計な差し出口とは思っておりますが、話が、すれ違ってるのを見ると我慢できなくなるタイプなのでお許しください。

・情報操作について

瀬名さんは、

1.野尻さんの最初の発言では、『BV』が、単にスーパーナチュラルな現象がおきるだけの、科学が欠けた小説に読める。
2.「非SFファン」という用語は、本の読者層を決めつけ、限定する言い方である。

という理由で、野尻氏の『BV』の言及は、公正でない、と言われたわけですよ
ね。

さて、野尻さんの発言は、確かに『BV』未読の方が読めば誤解する余地はあると思います。そこについて、例えば「『BV』の紹介が一方的なので、少しだけ補足させてほしい」とおっしゃるのは当然だと思います。

一方、作品の感想を書く際、引き合いに出した作品の紹介が部分的になるのは、よくあることで、「悪質な情報操作」という程ではないかと思います。

 以降、お互いに「情報操作」と言い出して、話がこじれてるわけですが、そうした発言は撤回すると見通しがよくなると思います。

・SFファンについて

 野尻さんの意図は、

前提1.SFファンは、科学的な落ちを好む傾向がある。
前提2.非SFファンには、理に落ちるだけの結末をアンチクライマックスと受け取る人もいる。
結論1.前提1,2より、非SFファンには、科学的な解決に揺らぎを残す『BV』のほうがドラマチックで期待に応えるかもしれない。
結論2.以上の結論が成り立つとすると、大森さんが述べたミステリ方面の意見は、理解できる。

 というものだと思います。前提1,2は(検証もなにもない上で)それなりに妥当である、と思います。

 元の文章は、(掲示板での気楽な会話ということもあり)ここまで、きっちり前提と結論に分けて書かれてるわけではありません。また、先の『BV』の不十分な説明もある。そのため、こうした仮定と結論ではなく、天下りに押しつけてるようにも取れる。

 だから、瀬名さんから見ると、「天下りな結論を一方的に主張されても困る。SFファン全員が野尻さんと常に同じ感想を持つわけではない」となるし、一方、野尻さんは、仮定を立てて傾向について語ったという意識があるので、「いやSFファン全員が、なんて最初から言ってない。私はSF界の代表ではない」ということで平行線を辿ってしまいます。

 瀬名さんのおっしゃるべきことは、「もう少し順序立てて書いて欲しい」あるいは「理屈はわからんでもないが、前提と検証が甘いので、断言調で書かれると困惑する」で良いのではないでしょうか?

・揺らぎについて

 瀬名さんが、科学に対する信頼感の揺らぎが『BV』の主要テーマである、とおっしゃった時、この場合の科学は、科学的な方法論のみならず、現在の社会における科学知識、科学技術の運用、科学者の活動など、多岐に渡っていたわけです。

 それを、野尻さんは、「科学的な方法論」に限定して受け取った(あるいはそう読める)ため、話がややこしくなったかと。

 結果、野尻さんは「もしかして、瀬名さんは科学的な方法論、考え方自体に疑いを持っているの?」と思い、瀬名さんは瀬名さんでそれを受け、「ということは野尻さんは、科学者の科学帝国を無条件に賛美してるわけ?」と思う。

 これは完全にすれ違いで、瀬名さんは科学的な方法論そのものに深刻な疑念を抱いてるわけでもなく、野尻さんとて、広い意味での科学が常に正しく、科学万歳だけで世界が良くなる、と思ってるわけでもないでしょう。

 元々の「科学への信頼感の揺らぎ」の科学は、文脈的にどちらにでも取れたと思います。単に確認不足だったということではないでしょうか?

 そんなわけで、私から見て、どの論点も、よくある単純な行き違いに見え、さして大袈裟に捉えるほどのものではないと思います。
 いかがでしょうか?

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瀬名秀明 RE:返答 2002年10月09日(水)17時55分12秒

大森様
日経の記事は、たぶん記事検索用のIDを取らないとウェブでは読めないです。権利問題があるので私が勝手にウェブにアップするのは難しそう。どうしてもという方は図書館で見て下さい。

野尻様
今回もまたいつもと同じパターンで、やはり野尻さんのほうが先にキレている。どのようにお返事しようか悩んでいますが……。しかし今回は若干ヒントがわかりました。

>個人の主観的見解であることは自明なのに、

私が申し上げた(毎回申し上げている)のはそういうことではなくて、あなたが主観的な意見の中に一般論を混ぜ入れ、あたかも自分が正義の味方であるかのように書くその手法がおかしいのではないか、それはあなたのクセなのですか、そうだとしたら何とかしてくれませんか、とご指摘しているのです。「「〜と思う」と加えろ」なんて、そんな些末なことを申しているのではありません。ですから、

>さらにSF方面内でも細分化せよというのですね? 

というようなつまらないことを申し上げているのではありません。

>いらぬ衝突を招くのは無駄ですから、今後瀬名さんの仕事に言及するときはそのように書くよう心がけます。

というのも私の指摘内容とはかけ離れています。
ただ、これはある種SFファンに特徴的な傾向なのかもしれない、と最近は思い始めてきました。このように大雑把な括りで申し上げるのは危険なのですが、あえていいますと、無自覚にこのようなことをされておられるので私の指摘がご理解いただけないのかもしれません。

>私が瀬名さんに対してやや乱暴な物言いになるのは、瀬名さんの打ち出す素っ頓狂で無神経な提言や意見に激怒したときだけです。

>それ以外でぞんざいな物言いになるのは、「だめだこりゃ」と思ったときです。

これに関しても、なぜ野尻さんが私の話を素っ頓狂で無神経だと思われるのか、きちんと説明しないので、私には「野尻さんがキレた」と見えるのです。当然、だめだこりゃ、と思った時点で野尻さんは議論を放棄されているわけですよね。今回については、どこが「素っ頓狂で無神経」、「だめだこりゃ」なのでしょうか? 心外だといわれても、ふつうこういうことをされたらそりゃ攻撃だと思うのでは。

>最近では日経サイエンスで連載が始まった瀬名さんの対談記事に辟易させられました。瀬名さんの対談記事はどれも一定のトーンがあって、相手が変わっても中身は同じように感じられます。

いきなり話が変わって面食らいました。一定のトーンがあると仰いますが、同じ人間がやるのですから多少はそうなるのが当たり前。ころころトーンが変わるほうが不自然ですけど? それに辟易って、別に日経サイエンス編集部は野尻さんのためだけに雑誌をつくっているわけではない。私自身は楽しんでやっている仕事ですし、そういう楽しさが紙面に反映されることを願ってはいますが。新しい読者を取り込みたい、という編集長の熱意を受けて始めた仕事です。野尻さんがそう思われるなら、その旨を編集部に投書すればよいのでは。一考はしますが、こんな場で作者にいってもはじまらないでしょう。

>さて、BVでは科学に対する信頼感の揺らぎを描いたとのことですが、これは興味深い発言です。瀬名さんご自身にも科学に対する信頼感の揺らぎがあるのでしょうか。

やっぱり作者の掘った罠にはまっているというか。
以前は野尻さんがなぜ奇妙なことを仰るのか私自身よく理解できなかったのですが、ここ数年でわかってきました。『BRAIN VALLEY』にはどうも野尻さんのような方をトラップし、巻き込んでしまう渦があるようです。半分は作者が意図し、半分は意図しなかったことなのですが。先に記した日本とアメリカ、という意味もどうやらまったくご理解いただけていないようですね。

>この答えがYESなら、私が瀬名さんと再三対立する理由が明らかになりますし

その通りだと思いますので説明します。
『BRAIN VALLEY』と『航路』の根本思想にさほど違いがあるとは思わない、と記したとおり、私は基本的に科学のスタンスにおります(小説のテーマ=作者のスタンスではない)。しかし、信頼感の揺らぎを覚えることはありますね。ただし、科学そのもの(自然法則とか)への揺らぎではなくて、科学の置かれた位置、社会の中での科学の役割、現在の科学の手法、研究現場での人間関係、科学をしている自分自身や他の大勢、そういった大きなものに対する揺らぎといえばいいでしょうか。少なくとも私は野尻さんのように、科学をすることに過剰な信頼感は持っていません。上述したような揺らぎを持った上での信頼感であり、この両者のスタンスは全く違う。私にとって、野尻さんの脳天気な信頼感はマンガ的に思える。

なぜ私がそこに揺らぐかというと、科学といっても分野によって、国によって、明らかにイデオロギーが違うということを乏しい経験で理解したからです。研究現場では、同じ科学者同士でもわかりあえないことがよくある。学説の対立などといったわかりやすい対立だけではない。またそれ以上に、学問の現場から一歩離れたとき、科学のスタンスがまったく通用しなくなる。アメリカはまだわかりやすいほうだと思いますが(それが『航路』前半部の科学者対トンデモという構図に象徴されている。この図式が成り立つのは、トンデモも社会の中で力を持っているから)、私の感じる限り、日本の状況はもっと複雑です。科学が力だという図式が国民の間で強いコンセンサスを得ていないからです。あるいは科学の現場が自己矛盾をたくさん抱えている。そういったことをあまり意識せずに、科学は力だと主張するのが野尻さんのスタンスだと思うので、それはそれで構わないと思います。ただ、私にはそれが、いまの状況の中で、やや視野狭窄的に見えるということです。私の場合は、上述の経過を経た上で、それでもやはり科学に信頼を置くのだ、と自己確認している。科学に信頼を置くが科学を免罪符にはしない。

当然、これをナイーブだという人もいますよ。優れた研究者はすべからく上述の経過を踏まえた上で科学の力を明言されておられるのだから、もうこういった問題と関わる時期は終了しているのです。一方、科学の力を妄信する人なら、そんなもの科学からドロップアウトした人間の考え方だ、と批判するかもしれません。

ただ、上述のループを辿る前と辿った後ではまるで違う。私は野尻さんの御発言に、こういった自己批判の過程を見出すことができないんですよ。だから野尻さんが自由だとか科学だとかいっても軽く見えてしまうんです。野尻さんはよく私のことを天然といいますが、その意味で野尻さんも天然なんでは。

野尻さんにとっては回りくどくて辟易させられるところでしょう。学会にどっぷり浸かっている人なんかは、野尻さんの主張のほうがわかりやすいかもしれない。でも野尻さんは非常に恵まれたタイプだと思います。自己を主張すればそれで通ってきてしまった。挫折したら社会が悪い(自分以外の人が科学をわかっていない)ことにすればそれで済んだ、というか。野尻さんはご自身の掲示板をよく「自分の庭先」だと仰っていますが、では庭先から出たときどうなのか。批判の場を設けているといっても、それが所詮は自分の庭先だということを忘れていないか。いいたいことがあっても野尻さんの掲示板には書き込みにくい、と漏らす人は実際に存在するわけで、すでにあなた自身のスタンスによって批判を拒絶しているのではないか。

『BRAIN VALLEY』において、アメリカ人研究者は『航路』の主人公の役割を担い、日本人研究者の置かれた状況が私の小説のオリジナル部分となるわけです(もちろん、小説なのである程度戯画化していますけど)。『航路』の主人公と悪役は、無批判に自分のスタンスを受け入れているという点で共通している。ある意味、どっちもどっちなんです。主人公の説は根拠が薄いし(だからこそ本当はここを補強しなきゃならないのだが、ウィリスは科学以外の手法でこれを取り繕っている。ハードSFを標榜する人ならそこを批判しなきゃいけないのに……でも私が考えるハードSFは、野尻さんのそれと違うことはすでに明らかになった通り)。
ところが日本で力を持つトンデモは丹波哲郎ではなくテレビ番組なので、『BRAIN VALLEY』では臨死体験パートをアメリカ人が、×××パートを日本人が請け負う、ということです。

これ以上すれ違うようでしたら、どこかに場所を移しましょうか? 

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大森 望 ひさびさに 2002年10月09日(水)15時11分25秒

 盛り上がってきましたね。
 今回はちゃんと(?)個人対個人になってるあたり、過去の議論の反省が生きてるというか。
「ミステリ方面の読者」と「SFファン」を対置するかのように書きましたが、もちろんこれはおおざっぱな印象です。野尻さんと内田さんの感想を比較してもわかるとおり、SFファンの中でも読み方はいろいろなので。あとのほうで「科学ノンフィクションなんかまったく読まない小説読者」と言い換えてますが、つまり「臨死体験は脳内の幻覚に決まってるじゃん」とはかならずしも思ってない読者のことですね。
 ところで日経のコラムはウェブ上だと読めないんですよね>瀬名さん。あれをウェブで公開するのが可能なら、瀬名さんの問題意識がわかりやすくなるんじゃないかと思いますがどうでしょう。

 ちなみに「見方を変えれば、オレがハードSF的(科学的)思考に毒されているのか」と書いたのは、「オレは昔から、SFにおける科学的正確性にはまったくこだわらない文系SFファンのつもりだったし、反ハードSFの人のはずだったのに、それでも小説全般の世界で言うときわめて『科学寄り』の読み方になるんだなあ」との認識を余儀なくされて驚いたということです。具体的な話はネタバレ掲示板のほうを参照。

#2ちゃんねるSF板にもスレが立った模様。

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野尻抱介 RE:返答 2002年10月09日(水)13時14分35秒

>瀬名さん

|なぜ最初からこのように書いていただけないのでしょうか。

 理由は先に述べたとおりです。個人の主観的見解であることは自明なのに、そのうえいちいち「〜と思う」を加えなければならず、さもなくば「あまりにも粗雑かつ悪質な情報操作」と言われてしまうのは理解に苦しみます。
 これに関連して、ひとつ前の発言ですが、

|大森さんの「ミステリ方面」という言葉を単に受けただけ かもしれませんが、

 その通りです。「ミステリ方面」では差し障りがあるかと思って「非SF方面」としたのですが、さらにSF方面内でも細分化せよというのですね? 私は大森さんの、大まかに読者層を二分した考察に興味を持ってコメントしたので、ことさら細分化しては混乱するだけと判断して省略しました。
 しかし、いらぬ衝突を招くのは無駄ですから、今後瀬名さんの仕事に言及するときはそのように書くよう心がけます。

|私がカッカしているのは、野尻さんが再三にわたって私を個人攻撃しているからです

|野尻さんは私があなたの論点の矛盾を指摘するとき、遅かれ早かれ感情的になり、キレるのです。あなたのほうが常に先にキレています。

 私が瀬名さんに対してやや乱暴な物言いになるのは、瀬名さんの打ち出す素っ頓狂で無神経な提言や意見に激怒したときだけです。自分としてはよく自制したつもりだったのですが、怒りは伝わってしまうようですね。この対応を個人攻撃だと認識されるのはかなり心外です。
 それ以外でぞんざいな物言いになるのは、「だめだこりゃ」と思ったときです。たぶん瀬名さんの言う「私があなたの論点の矛盾を指摘する」ときと同じ時分だと思います。

 最近では日経サイエンスで連載が始まった瀬名さんの対談記事に辟易させられました。瀬名さんの対談記事はどれも一定のトーンがあって、相手が変わっても中身は同じように感じられます。私にとってこの雑誌を毎月買うのはかなりの負担なので、紙面がそのような薄い内容で削られるのが残念でなりません。一考願えればと思います。

 さて、BVでは科学に対する信頼感の揺らぎを描いたとのことですが、これは興味深い発言です。瀬名さんご自身にも科学に対する信頼感の揺らぎがあるのでしょうか。私などと議論を続けるのはさぞ不愉快かと思いますが、この点だけでもぜひお答えいただきたいと思います。この答えがYESなら、私が瀬名さんと再三対立する理由が明らかになりますし、以後瀬名さんに腹を立てることも激減するでしょう。
 また、YESの場合、科学に対する信頼感が揺らぐのはどのようなときか、具体的にお聞きしたいです。

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大森 望 今日の朝日新聞朝刊(関東版) 2002年10月09日(水)11時27分47秒

 3面の下に『航路』の全5段広告が載ってます。翻訳SF(だとすれば)としては画期的かも。となりは『海辺のカフカ』だし。
 瀬名さんはじめ、推薦文でご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

 amazonのトップ100リストには『アルジャーノンに花束を』がいきなり3位でランクイン。TV効果おそるべし。一瞬だけ『カフカ』と『モーニング娘。×つんく♂ 』を抜いた『航路』はまた抜きかえされてしまった……。

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大森 望 アルジャーノン最大の衝撃 2002年10月08日(火)23時23分02秒

「このドラマは原作をもとにしたサイエンス・フィクションです」

 みずから「サイエンス・フィクション」と名乗ったのは連ドラ史上初かも。ドラマ自体は、最初の5分で死にそうになりましたが、だんだん持ち直して、まあ次も見ていいかという感じ。

>>瀬名様
 わたしも断りなく何度も瀬名さんの文章を引用させていただいてますので。しかし日本ロボット学会の論文ですか。なんだかすごくえらくなった気が。

 ところで、川端裕人『恐竜とわれらの時代』(徳間書店近刊)を読みました。瀬名さんが日経の土曜プロムナードで『航路』と並べて紹介していた理由が非常によく納得できました。できれば世界最大の恐竜博に行く前に読みたかったなあ。
 でもあの小説だったら、ひたすら恐竜学説対決の話にしてほしかった気がしません?

>>湯川様
  『たそがれ清兵衛』の記述は訂正しておきました。遅れましたがありがとうございました。

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瀬名秀明 追加 2002年10月08日(火)23時05分55秒

>よって両作品の読後感はまったく異なります。『航路』はSF性は弱いが、ハードSFに通じる科学への信頼感がある。BVのSF性は『航路』より高いが、科学への信頼感が薄い。

そうだ、ひとついいわすれましたが、このご指摘は(おそらく野尻さんの意図するところとは全く別の意味で)実に正しいと思います。科学への信頼感の揺らぎは『BRAIN VALLEY』の主要テーマですから。その点、『航路』の主人公は科学に全幅の信頼を置き、科学の力を信じている(自己批判しない)ので、悪役(全面的にオカルトを信奉している)と好対照をなしています。これが日本での小説ととアメリカでの小説の違い、という話は、さわりだけ日経新聞に書きました。

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瀬名秀明 返答 2002年10月08日(火)22時40分31秒

野尻様

>よって両作品の読後感はまったく異なります。『航路』はSF性は弱いが、ハードSFに通じる科学への信頼感がある。BVのSF性は『航路』より高いが、科学への信頼感が薄い。

このような書き方でしたらまったく問題ありません。野尻さんご自身の読後感を表明されているのですから。作者から「あなたの読み方は間違っている」とはいえませんからね。
むろん、野尻さんとは別の読後感を持たれる方もいる。感想は個々人によって違う。なぜ最初からこのように書いていただけないのでしょうか。


>「私の解釈では」「傾向としては」等の前置きを省略したまでのこと。
 それをいつも、私がSF界の代表であるかのように解釈してカッカするのは瀬名さんのほうです。いま思い出せる限り、そういう読み方をする人は瀬名さんしかいません。

そうでしょうか? 私がカッカしているのは、野尻さんが再三にわたって私を個人攻撃しているからです(一度や二度なら笑って済ませられますが)。そして私を攻撃する際に、上述したような書き方を好んで採用されている。ですから野尻さん側からの観測としては、「私がSF界の代表であるかのように解釈してカッカする」と見えるのでしょう。話がすり替わっているのでは? 


> 自分の非を問う意見を封じたことはなかったはずです。
 いっぽう瀬名さんはといえば、ネットで議論になると「返答はこれきりにします」といってすぐ議論を打ち切ってしまう。その態度のほうが問題だと思うのですが、どうでしょうか。

そうは思いません。野尻さんは私があなたの論点の矛盾を指摘するとき、遅かれ早かれ感情的になり、キレるのです。あなたのほうが常に先にキレています。そうでなければ、これは個人的な意見に過ぎないとして尊大に開き直ってしまわれるのです。ここ一年ほどの議論は常にそういう経過を辿ったと私は感じてました。キレた相手や尊大な相手と議論できないのは当然のことでは。

今回もまったく同じで、野尻さんは議論が始まるとさっそく私の人格をなじり始める。いや、人格はもとから悪いですから別にそこを指摘されてもいいですけどね、でもそれじゃ議論にならないでしょう。


大森様
まったく関係ない話ですが、大森さんの小説すばるでのロボット小説解説原稿の一部を、日本ロボット学会の論文で引用させていただきました。ありがとうございます。後日コピーをお送りします。

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大森 望 中国撃破 2002年10月08日(火)22時09分27秒

 うーん、てっきり負けると思ったのに。押されっぱなしに耐えて勝つのは得意パターンなのか。それにしても中国はツキがない。
 北朝鮮がタイに勝ってれば……っていうのはだれでも思うでしょうが。
 韓国と決勝になれば盛り上がりそう。

 ところで近代デジタルライブラリーは久々にめちゃめちゃ感動しました。日本の役所もやればできるじゃん。すげえ。『日本SFこてん古典』紹介作の現物が自宅でほいほい読める!

 そしてこれからCXでは『アルジャーノンに花束を』。朝は『まんてん』だし、SFの時代かも(笑)。
 というわけで『航路』をamazonで買ってギフト包装つきで彼氏/彼女にプレゼントすると吉。あと一歩でベストテン入りなのよ。

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♪きむらかずし IT キーパーソン キャッチアップ 2002年10月08日(火)22時02分58秒

割り込んですみません。

会社帰りに、なんとなく『夕刊フジ』を買って電車で読んでいたら
(←我ながらオヤジくさい)、なんと、“山形浩生さん(38)”との
文字が目に飛び込んできてビックリ!! 『コンピュータのきもち』
の紹介記事なんですが、なんと著者近影入り。意外にも(失礼)、
さわやかなサラリーマン風の方なんですね(←「風」じゃないって)。

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野尻抱介 RE:『BRAIN VALLEY』と『航路』の根本思想 2002年10月08日(火)08時05分02秒

>瀬名さん
 BVでスーパーナチュラルな部分というと、たとえば最後のほうの「これは未来の記憶だ!」という部分。時間を遡行したスーパーナチュラルな情報伝達だと思うのですが、誤読でしょうか? 作中人物の思い込みではなく、作品全体としてあれを肯定している、少なくとも否定していないと解釈しました。
 瀬名さんも「その揺らぎは最後まで保たれる」と述べていますね。結果として、読者の多くはスーパーナチュラルとして読んでしまう。そう読まれることを許し、結果として読者の非科学的な期待に応えてしまう。これは「スーパーナチュラルな現象が起きる」と等価ではありませんか? ここがBVの、私に言わせれば困った部分です。言葉を返すなら「天然だが悪質な情報操作」になりますか。

 対して『航路』は作品全体でスーパーナチュラルを否定している。大森さんによれば誤読する人もいるようですが、私は明確に否定していると読みました。よって両作品の読後感はまったく異なります。『航路』はSF性は弱いが、ハードSFに通じる科学への信頼感がある。BVのSF性は『航路』より高いが、科学への信頼感が薄い。

| SFファン全員が野尻さんと常に同じ感想を持つわけではないと思います。

 当然です。このての話は個人の主観的な解釈で進めるのがデフォルトですから、「私の解釈では」「傾向としては」等の前置きを省略したまでのこと。
 それをいつも、私がSF界の代表であるかのように解釈してカッカするのは瀬名さんのほうです。いま思い出せる限り、そういう読み方をする人は瀬名さんしかいません。

 毎度のこととして私の意見には間違いもありますが、自分の掲示板を開設して常時反論を受け付けています。そうすることによって間違うことを自分に許しているわけです。礼儀知らずな書き込みは無視したり削除することもありますが、自分の非を問う意見を封じたことはなかったはずです。
 いっぽう瀬名さんはといえば、ネットで議論になると「返答はこれきりにします」といってすぐ議論を打ち切ってしまう。その態度のほうが問題だと思うのですが、どうでしょうか。

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大森 望 『航路』ネタバレ掲示板 2002年10月08日(火)01時57分22秒

 とりあえずつくってみました。
http://bbs5.cgiboy.com/p/64/00311/
 第二部以降の主舞台になる××××××とか、第三部の展開とかについて書きたい人はこちらをご利用ください。→『航路』ネタバレ掲示板
 って、刊本で読み終わってる人はまだほとんどいないと思いますが。
 ウィリス日本語サイトからもリンクを張る予定。

 内田昌之氏の『航路』感想についてのコメントとかも、ネタバレしないと書きにくいのでこっちに書くかも。

 スレッド式(たぶん)なので、関連した話題はどんどん新しいスレッド立ててください。

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大森 望 re:『航路』と『BRAIN VALLEY』 2002年10月08日(火)01時16分30秒

 『航路』についても、脳内で起きる幻覚(臨死体験の内容)がスーパーナチュラルなので、小説全体がスーパーナチュラルな話だと受けとる人も多いみたいですね。ラスト1章に関しては「結局スーパーナチュラルに逃げた」みたいな受けとめ方もありうると思いますが、「客観的に(科学的に)把握できないことには科学の枷をはめない」ってことで、個人的にはぎりぎりOK。
 その点も含めて、『BRAIN VALLEY』と(構造的には)非常によく似ていると思いました。違いといえば、『BRAIN VALLEY』のクライマックスのほうが圧倒的に派手だということでは。その意味で、「『ブレイン・ヴァレー』のほうがその方面の期待に応えている」ような気はします。

 思うに『航路』はアメリカだとタブーブレイキングな小説としての衝撃があるんだけど、日本だとすんなり読めすぎてしまう(主人公の考え方に反感を持つ読者が少ない)ってことでしょうか。

「主人公の至る科学的結論の理屈付けが弱い」というのはその通りで、そこをほとんど放棄しているのも『BRAIN VALLEY』との大きな違いでしょう。なにしろリチャードは二週間ぐらいひとりで研究室にこもってるだけで、出てきたときには研究がほぼ完成してるという。しかし、科学的なタームが乱舞するのはよくても、細かく説明されるとうざったいという読者も多いみたいで、ウィリスはそれに配慮して(あるいは書きたくなくて)アカウンタビリティを放棄したと。グレッグ・ベアなんかと比べてもそのへんは全然書いてません(『航路』はまだ書いてるほうかも)。
 まだ続きそうならネタバレ掲示板を用意したほうがいいかな。

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冬樹蛉 あ、ずいぶん突っ込んだ話になってる 2002年10月08日(火)00時57分20秒

 そのあたりまで突っ込んでいいのなら(^ ^;)、私も茶々入れしよっと。

 いやまっこと野尻さんのおっしゃるように、私もスーパーナチュラルな
ところがなーんにもないのが泣けたす。論理的に進んで論理的に終わる。
〈週刊読書人〉にも書いたんですが、なにもかも論理的に説明できてしま
うからこそ最終章は泣けます(私は最終章でキたクチで)。あれはウィリ
ス流『アルジャーノンに花束を』だよなあと大納得したのであります。なん
で『アルジャーノンに花束を』なのか説明すると未読の方に殴られるかも
しれないので、どこぞのコンベンションででも既読者同士の駄弁りで意見
交換したいものであります。

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管理者: 大森望 <ohmori@st.rim.or.jp>
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