【3月30日(日)】

 ますます混迷を深める「クズSF」問題(本来は、「SFクズ」と略すべきなんだけど、語呂が悪いのでとりあえず)に、さらに一石を投じる(笑)ような記事が毎日新聞3月28日付夕刊に載っている。
 現物のコピーはきのう内田昌之に見せてもらったんだけど、毎日ならデータベースが安いからいいやとNIFTY-Serveにつないでgo maiしてきました(日経のときもおなじことをやろうとしたら、月5000円払わないとバカ高い検索サービスの利用さえできないと知って愕然。日経は法人ユーザーのことしか考えてないのかね。経済関連記事以外についてパーソナルユース版を用意するとか、せめてそういう配慮がほしい)。

 特集タイトルは『この春話題の「SF」その周辺は?−−映像、市民権得る/文学、銘打たず』(松村由利子記者の署名記事)。タイトルにあるとおり、「映像」と「文学」で半々の構成で、「映像」のほうは「スター・ウォーズ」と火星の話。
 クズSF問題に関連するのは「文学」のパートで、まず「パラサイト・イヴ」「リング」「らせん」「ヒュウガ・ウイルス」「蒲生邸事件」を例に引き、


 いずれも「少し前ならSFと呼ばれたはず」とSF好きは声をそろえる。
 では、なぜこれらの小説が今「SF」と呼ばれないのか。出版社が新刊の帯に“SF”と書きたがらないのは「パソコンの普及など、現実のハード面が想像力を上回ってしまっている。ジャンル自体が衰退しているかどうかは別として、ラベルとして言葉が古くなったことは否めない」(大手出版社編集者)からだという。

 続いて紹介されるのが鈴木光司(「僕自身の作品はSFと呼んでほしくないですね。非常にオタク的な愛好家がいて、そこにしか通用しない用語、しきたりがあるというイメージ」)と塩澤SFM編集長(「確かに、SFファンにはおなじみでも、読み慣れていない人にはとっつきにくい用語や設定はある」)の談話。
 鈴木光司はSFマガジンのインタビューに呼んでじっくり説教したいと思うわけですが(でも体力で負けるからなあ)、ここまで活字の話をしてきたあと、記事は突然、エヴァに話題を振るんですね。そこで「若者文化に詳しい東大講師、岡田斗司夫さん」が登場。

「70年代までのSF漫画やアニメは、宇宙空間にマスクなしで浮遊したり、どこからか襲ってくる敵から地球を守るために戦うというウソくさい設定で、SFファンを満足させるものではなかった。しかし、80年代の『機動戦士ガンダム』以降、大人もある程度納得させるリアルな路線、人間ドラマが描かれるようになり、『エヴァ』に至った」という。
「20代半ばから30代半ばの層は、『エヴァ』以上にSF的要素のある小説は必要としていないし、それより下の層はゲームやネット通信に向かっている。SF小説という分野はもはや滅びているのでは……」と岡田さん。

 36歳のオレは、少なくとも、「『エヴァ』以上にSF的要素のある小説」を必要としてるんですけど。いやむしろ、その年代の人間にしか必要とされてないんじゃないかって疑惑がありますね(笑)

 記事の結びで登場するのは、「文芸評論家、鏡明さん」。驚いたのは鏡さんまでエヴァを語ってること。

「今のSF小説が、『エヴァ』がウケた部分、例えばアンビバレントな子供の気持ちや哲学、ポリシーを持たなくなったのが問題」と指摘。
「SFの“悲劇”は、科学がコアだと思われたことではないか。確かにSFが生まれ
たのは、科学が知らない世界への懸け橋であり、新しい世紀は科学の時代だという認
識があったころだが、最先端の科学を取り上げるのがSFの本質ではない」(中略)
「宇宙を舞台にしたビジュアルな活劇だけがSFの面白さと思われるのは寂しい。どれだけ時代にフィットし、新しい考え方を提示できるかがSF本来の面白さのはず」

 後半は鏡さんの持論で、これについてはおおむね賛成。しかし前半のエヴァがらみの部分はねえ。SFファンって基本的にそういうの嫌いでしょ。オースン・スコット・カードとか(笑)。
 FMVTHEMEの4番会議室(「未完成じゃダメだ『エヴァンゲリオン』」)の「SFいでおろぎー」ツリーに書かれた佐瀬 美帆さんの#117「さよなら、SF」(その大部分はhosokin's roomに引用されてたりする。いや、細田さんは気に入ると思った(笑))の中に、日本SFに対する批判的感想として、
「変に文学かぶれしてたり、テツガク気取ってたり、べたべたした心理描写があったり、学生運動のグチがだらだら書かれてたり。タルくてダサくてウダウダしてて、おまけに自分なりにつかんだSFの定義からは外れてるし。」
 と書かれてるんですが、これ読んだときは、
「それってそのまんまエヴァゲンリオンやんけ」(笑)
 と思ったぐらいで。エヴァのどろどろ心理劇を活字SFに持ち込んでもぜったいウケないと思いますね。って新聞のコメントに反論してもしょうがないんだけどさ。

 しかしこの記事に対するリアクションとして、岡田さんへの反論がSFサイドから山のように出てくるかというと、あんまりそんな気はしないですね。うーん、SFマガジンで岡田さんにインタビューするのが建設的な方向かも(笑)

 岡田さんと言えば、話題の『MEGU』終刊号の巻頭カラー「シト新生」特集に原稿(談話?)書いてて、わりと評論家的スタンスでここでも絶賛してるんですが(なんか昔はけっこうけなしてた気がするけどなあ。まあいいや)、その最後のほうに、
「実は、今のアニメ界には、35歳以下の作家がほとんどいないんですよ」というくだりがあり、なんだ、SF界といっしょじゃん、と思ったことである(笑)
 関係ないけど、MEGU版元の青磁ビブロスは4月から社名変更してビブロスになるそうで。この会社を創業した社長は、じつは大森の中学・高校時代の同級生のお兄さん(会ったことはありませんが、MEGUの編集長のひとだと思う)。何年か前の同窓会で、
「あたし今、兄貴のやってる出版社に勤めてるの」
「へー、なんてとこ?」
「知らないと思うけど……青磁ビブロスっていうとこ」
「げげ」
 というような会話があったことでした。世間はせまい。

 岡田さんの「シト新生」評価については、大森日記を見てHMVTHEMEに乗り込んだ細田氏(ハンドルはHOSODA)が、いきなり爆撃を加えている。あそこの会議室で細田さんに反論するのもいいかげん申し訳ないので、本人が見てればいいやってことでここで反論します。
 以下、細田発言(FMVTHEME MES4 #186)。

あの、オタクしか視野に入れていない劇場版エヴァを大絶賛した岡田斗司夫先
生、あなたも「つまらんものを世間のしがらみに縛られて褒めている馬鹿」と
いうSFゲットーの一員でっせ、私から見ると。(後略)

 岡田さんが本気でエヴァを誉めてるかどうかについてはよくわかんないので留保するとしても、「オタクしか視野に入れていない」ことで「シト新生」を批判するのは完全に見当違いでしょ。「シト新生」がすごいのは、あれが映画じゃないってこと。TVアニメの最終回のひとつ前の回(の途中まで(笑))を劇場にかけちゃって、しかもアニメ見てない人間に対する配慮を完璧に欠いている。DEATHのつくりかたからして、これは明らかに確信犯だし、エヴァに関するかぎり、一般人を相手にしないという選択は圧倒的に正しい。
 だいたい、TVアニメはおたく向けメディアで、劇場用アニメは一般向けメディアだってのは無根拠な思い込みでしょ。映画館でテレビドラマを見せられて怒る映画マニアはたくさんいるけど、細田さんはそういう立場から「シト新生」を批判してるわけじゃなさそうだし。
 ガイナックスがそういう映画しかつくれない会社じゃないことは、「王立宇宙軍」を見れば明らかなわけで。
「つまらんものを世間のしがらみに縛られて褒めている馬鹿」の仲間には当然大森も入ってるんでしょうが、エヴァに関してその種のしがらみは一切ないことは明言しときますね。ちなみにSCEのPSページ、LOVE&PlayStationに書いた大森の「シト新生」原稿はここにあります。SF on lineに書いたやつはこっち
 あと、なんか疑惑を持たれてるみたいですが(笑)『鬼女の都』も「しがらみ」で誉めたわけじゃないですよ。まあ、そう見られるのはしょうがないけどさ(参考資料として小説すばるに書いた書評をここに置いておきましょう)。

 とまあ「シト新生」評価については真っ向から対立するわけだが、SFに対する細田さんの分析はうなずける部分もある。出色は、「SF夏の時代」の時期に対する定義。
「それは小松左京『日本沈没』が出て(1973年3月)から3か月以内にはじまり、映画『さよならジュピター』が劇場公開されて(1984年3月)から2週間以内に終わった。」
 うーん、なるほど。日本SF的にはそうかも。翻訳SF的には、「夏」のはじまりはスター・ウォーズなんですけどね。
 もうひとつ、細田さんは、
「活字SFで食っていける業界人、作家とか翻訳者とか編集者とか、の数がミステリーと比べるとはるかに少ない(推定10分の1ぐらい)というのは、実感として、ある。」
 と書いてるけど、この数字は過大評価でしょう。少なくとも翻訳者に関しては百分の一ぐらいでは(笑)
 あと「クズ」=「商業的に価値のないもの」ってのは「誤読」じゃなくて、それが正しい読み方だと思うんですけど。

 ……と、大森的にもだれとどう論争してるんだか全然わからない状況(笑) せめて「クズSF」関連については参考資料のポインタを表示したいんだけどなあ。

 えーと、基礎資料は、本の雑誌97年3月号、日本経済新聞2月9日付朝刊の記事、『国内SF、「氷河期」の様相』。それに対する反論がSFマガジン97年5月号の『緊急フォーラム 〈SFの現在〉を考える』と、『SFインターセクション』。
 WWW上で読める関連発言は、森下さんのSFガイドの日記のほか、前出hosokin's roomと、野尻抱介さんのフリートーク掲示板あたり。冬樹蛉も日記でちょっとだけ言及してるけど、SFマガジンさがしたわりには腰が引けてるぞ(笑)。
 この問題に関する議論をネット上で見つけた人は伝言板にご一報ください。

 ってことで、うちの伝言板にも、召喚に答えて岡田さんと野尻さんからご意見が寄せられている。
 岡田研一さんの「結局、SFはもう一度「ミステリのサブジャンル」というところから、始めるしかないんじゃないでしょうか? 」っていうのは、わたしも考えたんですけどね。
 問題は、もはやミステリの人が仲間に入れてくれないこと(笑) 「ホラーははっきりしたジャンルとして(商業的に)独立したことがなかったから、ミステリのサブジャンルとしての今日の繁栄がある」というようなことを言う人もミステリ畑にはいるわけですね。
 しかしミステリ業界の人から見ると、SFには、「昔ミステリが売れなかった時代にがんがん荒稼ぎしてたジャンル」的なイメージがあるみたい。いまからミステリに頭を下げるとなると、SF界でも反発の声があがりそうだしなあ(笑)
 一方、野尻さんは「ヤングアダルトとコアSFの間を埋めよう」説。これはもう野尻抱介氏にがんがん書いてもらうしか。小野不由美が十二国完結後、ハードコアなSFシリーズをスタートさせる――とか、そういうウルトラCにも期待したいですが。でも十二国は本格SFになって終わる気がするな。

 ところで、SFの現状については、ひとつのケーススタディになるのが、鳥取大学SF研究会で検討された議題についてのレポート、「SF研究会という名称は古いか?」
 いやあ、これを読んだときは、茫然とするより笑っちゃいました。
「本年度大学祭において会誌の販売を行う/SF研究会という名前に嫌悪感を持つ客が多かったという意見より/これは一連のデメリットによるものと考え、変更案提起に至る」
 といういきさつで、「SF研究会」の看板はかけかえたほうがいいんじゃないかという議論になり、会議で検討されたそのレポートなんですが、改革派の論拠は、SFのイメージがが「オタク臭い」「活動的でない」、「SFというジャンルが閉鎖的である」など。
 一方、看板を変えないほうがいいという守旧派(笑)の論拠は、「OBに対して申し訳ない」とか、「部室の再配分などによって下手したら部室を追い出されるかもしれない」とか。
 うーん、SF研のイメージがそこまで地に落ちていたとは。
「SF研の看板を掲げながら、ゲームやアニメの話ばかり」という愚痴は、ぼくらのころからありましたけどね。もはや今の大学生のことは全然わかんないかも。
 しかし、今回のクズSF問題も、結局はこういうSF状況をどう考えるかってことだと思うんですけど。ここで言われてるように、TV以外のメディアが学生に大きな影響力を持ちえないとしたら、やっぱりエヴァやナデシコを積極的にSFに取り込むしかないのか。SFマガジンでみやむーのページつくるとか――ってちがうか。まあ堺三保にがんばってもらうことにしよう。とりあえず『星界の紋章』のアニメ化に期待。でもアニメはSFじゃないとか言われちゃうんだよな、きっと。




 隔離戦線(ミステリマガジン今月号参照)vsごった日記の書評論争に関しても言いたいことはあるんだけど、とてもそっちまで手がまわらない(笑) えーと、この件に関する大森の立場は、(意外かもしれないけど)原則的に「茶木則雄支持」です。
 単発の新聞書評とか週刊誌書評はべつですが、少なくとも連載コラムに関するかぎり、ライター個人のエッセイという性格が強くなるのは当然で、一冊の本に400字も割けないような時評コラムに関して、作品とがっぷり四つに組んだ誠実な「書評」を期待するのは無理でしょう。そもそも読者がそういう「書評」を望んでいるのかどうか――という根本的疑問もあるし。一本のコラムとして面白いかどうかが第一で、茶木さんとか鵜條芳流とかは読者にウケる人材なわけです。本の評価についてもおおむね信頼できると思うけどな。
「自分にはよくわからない小説」をきちんと理解しようとする努力を放棄しているという非難はたいていの書評コラムニストにあてはまるし、作家サイドがそこに腹をたてるのもわかるけど、時評コラムにそこまで要求するのは酷だと思いますね。いやほんと、雑文で食うのはたいへんなんすから。
 だからといって、書評家批判は勘弁してね、と言いたいわけじゃもちろんなくて、個々の原稿の事実誤認とか読み違いとかについてはどんどん文句を言ったほうがいいっす。ただし、書評ライターにもそれぞれライティング・スタイルはあるわけで、そのスタイルを批判してもしょうがないんじゃないかと。
「書評家には市場原理がおよばない」というごった日記の指摘はほぼ正しくて、わたしは昔、書評コラム開設にあたっては公開オーディションを実施すればいいんじゃないかと思ってましたけど。
 しかし、新人賞の下読みにまで言及して難詰するのはちょっと。だれがやっても主観が入るのはいっしょだし、完全に公正な審査はありえないでしょ。すくなくとも最終選考を担当する人の大部分よりはたくさん本を読んでいる人が下読みをしてるのはまちがいないわけで。あと、最終候補に当然残るべき作品が一次段階で落とされちゃうケースはめったにないと思いますね。ちなみに、最終に残す残さないの判断についていうと、茶木さんと大森は7割がた一致してます。一致しない部分についても、その理由はだいたい納得できるし。
 わたしが納得できない人はもっとほかにいるんだけど、まあそれはいいや(笑)。
 しかし、他誌への登場頻度だけを根拠に書評原稿を依頼する編集者が悪いというのはまったくその通り。まちがって頼まれてるとわかってる原稿でも引き受けなきゃいけなかったりするから、ライター稼業もつらいのである(笑)


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