桜の花は緑の葉に姿を変え、静謐な空気が丘に満ちている。 そんなこの丘で、一本の大きな桜の樹だけが未だに花をつけている。 まるで人の目を避けるように、ほかの桜から離れて立つこの樹は、毎年遅れて花をつける。 雲がきまぐれに月を隠す夜。僕は独りこの丘に立つ。
桜の樹にもたれかかりながら、月明かりを全身に浴びる。 それは、例えようもなく冷たく、そして純粋な抱擁。 身体ではなく、心を凍らせる冷たさ。 誰かが言ったそうだ。暖かい日差しは、傷ついた心を癒してくれると。 それはある意味正しいのだろう。 でも、その人は知っているのだろうか。 その光の温もりは、心の傷を癒すわけではないことを。 陽光は心の傷を融かしてしまうだけ。 傷の源である大切な想いと一緒に。 だから毎年、僕はここに独り立つ。 大切な想いを月の光で凍らせるために。 そして、今ももういない人々と出会うために。 なによりも、あの永すぎた夏の日から続く、彼女の夢を見続けるために。 夜空に舞う桜の花びらに、過ぎ去ったあの景色を重ねる。 僕は弱かった。 だれもが弱かった。 でも、みんな精一杯だった。 僕らは無様で卑怯であったと思う。 けど今なら、それで良かったのだと言える。 こうしていたらと後悔するほど、僕は傲慢ではない。 こうしてくれていたらと不満に思うほど、図々しくもない。 僕らは人でしかないのだから。 僕の思い出の中に生きる人々は、その気持ちを理解してくれているかのように、優しく微笑みかけてくれる。 僕も彼らへの思いを込めて、微笑みかける。 そして、伝えることのできなかった言葉を交わす。 静かに時が流れた。 すべてが終わったあの日。そこで走馬燈を止める。 地面に顔を出した桜の根に頬をのせる。 瞼を閉じると、再び走馬燈が動き出す。 微かに漂う樹香が、あの砂浜でしてくれた彼女の膝枕を思い出させる。 あの時の選択は、間違っていなかった。少なくともあの時は。 ただ、満足しているわけでもない。 年齢的には大人になった今、もしも同じ選択が許されたら、僕はなにを選ぶだろうか。 「その手は何のためにあるの」 あの頃のままの彼女の声が、唐突にでも静かに耳に届いた。 目を開けると、彼女が僕を見つめていた。 勿論、あの夏の日々の姿で。 悲しむでもなく、微笑むでもなく、ただ静かに僕を見つめる彼女。 そして、その紅い瞳が無言で答えを促す。 僕は横になったまま、でも視線は決して離さずに答える。 「君に触れるために」 僕の言葉に、彼女はなにも応えなかった。 なにも言わず、なんの表情も浮かべてはいない。 時間が停まったかのような世界に、桜の花びらだけが静かに舞い続ける。 胸に詰まった想いのなかから、彼女に伝えるべき言葉を選びだし、僕は立ち上がる。 すると突然風が吹き、桜吹雪が僕らを包み込んだ。 やがて風がやむと、彼女の姿はもうどこにもなかった。 しばらく待ってみたが、彼女の声も聞こえてはこなかった。 ふと夜空を見上げると、雲が月を隠している。 僕の手は彼女に届かない。 諦めにも似た感情が浮かび上がり、力を失った膝が勝手に地面に接する。 僕の想いは、彼女へ伝わらないのだろうか。 最も伝えたい想いを、最も伝えたいヒトに渡せない。 そんな風には、思いたくなかった。 でも、彼女への想いがきしむ音をたてながら、諦めと姿を変えていくことを感じる。 どうせ、彼女を僕の胸に抱きしめることなどできはしないだと。 いくら想っても、無駄なのだと。 なぜ人は自分の想いさえ、自由にすることができないのだろう。 彼女への想いさえ失わずにすむのなら、僕は他にはなにもいらないのに。 彼女への想いを失ったら、僕は本当になにもなくなってしまうのかもしれないのに。 雲が去り、月明かりが僕を照らし出した。 その光はとても痛かった。 身体は、例えようもなく寒かった。 頬をつたう涙は、とても冷たかった。 「綾波は僕のモノ」 寒さに震える身体に両手をまわしながら、自分に言い聞かせるように呟いた。 するとその時、一枚の桜の花が音もなく頬に触れた。 悲しいほどささやかなその感触は、哀しいまでの優しさに満ちていた。 彼女だ。 何の根拠もなくそう思った。 僕は顔を上げずに身を起こし、桜の幹に身を寄せた。 そして、静かに瞼を閉じた。 瞼から零れ落ちる新たな水滴が、桜の花を頬から拭う。 涙と共に流れ落ちる花びらは、静かに頬を撫でてくれる彼女の白い指先。 やがて桜の花は、唇に辿り着く。 唇に触れた花びらから、ささやかだが確かな温もりを感じた。 僕は彼女の想いを噛みしめた。 彼女の柔らかい口づけを受けて、春の夜の奇跡は終わりを告げた。 僕の想いは、彼女に届いたのだと信じたい。 「僕は綾波のモノ」 そうであって欲しい。 僕は祈りながら立ち上がり、明けかける空を見上げた。 白い月がどこか優しげに僕を見つめていた。 「ずっと、そばにいるから」 彼女の声が、聞こえたような気がした。 その言葉に応えるように、瞼に残った最後の一滴が流れ落ちる。 朝日が想いを融かさないうちに、僕は丘を降りた。
タイトルは 斉藤和義の同名曲から。
99/05/09 公開