逢魔の刻を過ぎても - Mondlicht & Erinnerung -

 

「今晩は。七時のニュースです」

 

 テレビはいつもどおりのスタイルでありふれた出来事を流していた。情報の伝達が

圧倒的に加速された今でも、手際よく整理され、アクを抜かれたニュースをだれもが

受け入れていた。だが、スポーツ、天気予報、そして今日のヘッドラインが繰り返さ

れた後に流れた何気ない言葉は、奇妙なものだった。

 

「ここでお知らせです。これまで長らく皆様に親しんでいただきましたが、本日をもちまして−−」

 

 不思議な感じだった。七時のニュースに最終回などあるのか?

 

「諸般の事情により、人類の存続は打ち切りとさせていただきます。これまでご声援いただき、まことに有り難うございました」

 

 理知的な女性アナウンサーが正面から私を見つめている。彼女はいつもと全く変わ

らぬ笑顔を浮かべ、うやうやしく礼をする。番組は終わりだ。

 そうか、終わりか。私は冷蔵庫を開けて、ビールを取り出した。終わるのは、明日

の七時ということか、それとも今すぐなのか。何かを思い出そうとしたが、薄い被膜

に意識が包まれていた。

 

 夢か。被膜はまだ変わらず私を覆っていた。乾いた苦笑がこぼれる。聞くはずの者

はまだ寝息をたてている。世界の終わりが来ても、私にはすべきことがあるかどう

か。

 

***

 

 仕事の帰り、通り雨を避けてふだんとは違う道を通った。第三新東京市にアーケー

ドといえるほどのものはなかったが、まだ営業しているデパートの売り場をくぐりな

がら、私は進んだ。早めに仕事が済んだせいもある。四季は失われて久しいものの、

雨期が終わったことは何となく感じられた。

 この街は、新しい。そして老人をさほど見かけぬかわりに、小・中学生は歩いてい

てもよく出会った。遊んだ帰りか、雨宿りをしているらしい少年たちの声が耳にとま

る。

 

「そッれにしても、うちのクラスはろくな女子がおらんのう」

「まあそう言うなって、一瞬のきらめきを映像におさめる、それもオレの使命さ」

「そない言うてもな、きらめきようのない連中はどないなるんじゃ。特にあの委員長、生まれた時からいいんちょー、ゆう感じやで。可愛げのないったら−−」

「それじゃ、こないだの写真返せよ」

「いやっ、親友の好意を無にしてはいかん。んで、うちの一番人気は誰や」

「綾波だよ。ちなみにB組が榎本、C組が大鳥−−」

 

 可愛いものだ。どれどれ、おぢさんにも見せておくれと思わずツッコミそうにな

る。私もこんなだっただろうか。この子らが同じ二十代を経験するとは決して思えな

いが。

 デパートを出ると、私はラフなシャツの上に黒い合成革のベストをはおり、駅へと

歩いていた。

 

「こんにちわ、いえ、こんばんわかな」

 

 気がつくと、目の前に女の子が立っていた。雨はほとんど上がっている。日が長く

なったとはいっても、もう薄暗い。「誰ぞ彼ぞ」−−たそがれ刻だ。

 

「素敵なベストだね、マスター」

「え?オレが?」

 

 年は、中学生くらいだろうか。髪は長い。やや栗色がかっている。だが私の目を特

別ひいたのは、その大きな瞳だった。悪戯っぽさを浮かべているが、同時に年齢には

合わないような人寂しさが一瞬うかがえたのは奇妙だった。

 

「だって、そのカッコだとお店とかやってそうだし、よくわかんないから、マス

 ター」

「君は?」

「呼んだんでしょ、あたしを」

 

 頭の悪そうな子供には見えない。くりくりと臨機応変に動く深い色の瞳を見れば、

むしろ賢い方だろう。そういえば、本日をもちまして、人類の存続は打ち切り−−

だったな。

 

「そうだよ」

 

 すると少女は首をこころもち傾けて、絶妙な笑顔を作ると、私の腕にもたれかかっ

てきた。小さなふくらみを感じ、どきまぎする。

 

「それじゃ、どこに連れて行ってくれるの?」

 

 制服は、このへんのものではない。他の学区から遊びに来ているのだろうか。夢魔

にとりつかれたわけでもないだろう。それでは、何だ?小悪魔でも召喚したか。私に

そんな能力があるとも思えんが。

 見上げた目が、合う。近くで見ると、半端ではない可愛さだった。大人とはほど遠

いが、そこいらの女たちが束になってもかなわぬほどの、瑞々しく無邪気な微笑みを

私に向けていた。小さな顎に片えくぼがわかるかわからないか、というほどの翳を作

っている。つき始めた街灯の下では、最良の陶磁器のような、きめの細かい白い肌が

目にしみた。

 

「そうだね」

 

 私は空を仰いだ。雨雲は徐々に去り、濃紺の空が見渡せるようになりつつあった。

風は弱くないが、ビルの谷間にいては空のようすはわからない。

 

「とりあえず、つきあってくれるかな。20分くらい」

「20分したら、お別れなの、マスター?あ、ごめんなさい。他にお呼びする言い方

 あるかしら」

「何でもいいよ。でもまあ、君くらいの頃は、仲間からカッちゃんって呼ばれてた」

「カツヤさん、それともカツヒコさんかしら?でもマスターでいいよね」

 

 ちょっと違うが、まあいいか。洒落なら洒落で?改札を通りながらきいた。

 

「君は?」

「マスターは、何がいい?」

「変わった子だな」

「うふ。今日はマキでいいわ」

 

 やれやれ。他愛ないおしゃべりをする少女の口許に目をやりながら、私は表情がい

つしか和んでいくのに気づいた。

 

 気がつくと、私はなぞなぞ責めにあっていた。えたいの知れぬヲヤヂを笑わせるに

は、汎用性の高い手段なのだろうが、子供の考えていることは分からない。

 

「じゃあ、これね。キリンさんを冷蔵庫に入れるにはどうしたらいいでしょう」

「えっ?入らないから細切れにするとか」

「うわっ、酷いよマスター。答えはね、ドアを開けて、キリンさんを入れて、ドアを

 しめる。それだけだよ」

 

 私は絶句する。

 

「それじゃあ、これは?次に、ライオンさんを冷蔵庫に入れるにはどうしたらいいで

 しょう」

「細切れにはできないから、ドアを開けて、ライオンを入れて、ドアをしめる、じゃ

 だめ?」

「だめよ。ドアを開けて、まずキリンさんを取り出して、それからライオンさんを入

 れるの。そしてドアをしめるの」

 

 とほほ。だが私は逆襲の一撃を突然思いついた。

 

「じゃ、オレからもいくよ。今の子は知らないだろうから。いいかい、正義のヒー

 ローシリーズ−−」

 

 気合いを入れたところで、少女が悪戯っぽく言う。

 

「着いちゃった」

 

 そうして、私たちは列車を下りた。ついつい勢いとはいえ、ピンチの時にビルから

出てきたヒーローがいました、誰でしょうなどという幼稚園児なみのネタを披露しか

けた自分がおかしかった。つられて笑う少女を見ながら、車を拾って行き先を告げ

る。

 答えは、デビルマンだ。

 

***

 

 車の中で、少女はうつむいて私の腕に体をあずけていた。狭い座席の中で、腕が火

照る。真樹、麻紀、摩希、さまざまな組み合わせが浮かんでは消える。いや、それと

も、魔姫?

 タクシーの運転手に告げたのは、二子山だった。切り立っているわけではない。適

当なところで下り、少女を連れて、虚空を仰ぎながら、歩く。夜空は完全に上がって

いた。

 

「これなら、何とかなるか」

 

 闇が迫る。

 

「何とかって、何?」

 

 歩きながらあずけられた少女の体は、今も私の感覚のバランスを狂わせるに十分だ

った。空気が少し冷たい。相手は子供だ、愛撫と受け取られぬよう、よけいな気を遣

いつつ、ひんやりした小さな背中に腕を回した。

 

「星が、見えるってことさ」

 

***

 

 知っているわずかの星座を尽くし、自由の女神座、万里の長城座などとバレバレの

インチキを始めても、少女は面白そうに聞いていた。この子は、ニンゲンができてい

るのだなと愚にもつかぬことを考える。話すのもとりとめのないことばかり。

 

−−ゾウやキリンを一度でいいから見てみたいこと。

                          もういない親友のこと−−

−−校内で身につけるアクセサリーは合計3点までと

  校則で決められていること。

                       中学の頃、好きだったけれど−−

               思いを伝えることのできなかった女の子のこと。

 

「楽しいことを、数珠のようにつなげて生きていけるわけないしね」

「うっそー!みーんなそうしてるんだよぉ」

「へ?」

「やだ、マスターかっこよすぎ。それで、その女の子の名前は?」

 私はつられて、ひどく懐かしい名前を口にした。

 

***

 

 行こうか。どちらからともなく、そう言って私たちは車を呼び、街へと下りた。こ

の子も、気まぐれでヲヤヂをからかうのもそろそろ飽きた頃だろう。暗がりを歩く。

少女は言葉少なに、何かを促すように私の掌に指をからめていた。知らず、街はずれ

の寂れたエリアに入る。

 

 そして私は立ち尽くす。

 

 信号の向こう側、そこだけ月光を一身に集めたようなか細い人影。見慣れた第一中

学の制服、夜風がうっすら肌寒いのか、カバンを下げた手が蒼白い。だが、私が魅入

られたのは、青みがかった銀の髪、街灯の下、深い紅紫をたたえた瞳、いや、何にも

ましてその面立ちだった。

 

 時が、シャッフルされた。

 

 指をからませていた少女は、怪訝な表情をして、私の目を追う。

 

「マスター、あたしを抱かないの?」

 

 信号が変わる。思考が混乱に叩き込まれる。向こう側の少女と、こちら側の少女。

 

「いま、何て言った?」

「だって、そのために呼んだんでしょ」

 

 目線を行きつ戻らせつ、しかし私は向こう側の少女に引き込まれていった。

 

「やだ、あたしを見てよ」

 

 向こう側の少女は、道を渡り、私たちの傍らに立った。

 目が、会う。深い、静かな、しかしこの世の何かを見ているとは思えないまなざし

があった。体つきはこちら側の少女と同じ感じだった。そして顔立ちもどことなく、

輪郭が共通するものがある。逢魔の刻にあらわれ、マキと名乗った少女にひかれた理

由が、奇妙な形でだが、わかった。

 

「あの」

 

 かけた声に、青い銀の髪をした少女が一瞬だけ立ち止まる。見向きもせずに。私の

気分は、完全に小心な中学生に逆戻りしていた。

 

「ごめん、名前きいていいかな」

「どうして?」

「あ、ちょっとだけ話しがしたいんだ」

「必要ないわ」

 

 こちらを振り向いても、顔色一つ変えぬ少女に私は黙り込んだが、違和感はなかっ

た。むしろ、その現世離れした姿には、抑揚のない、しかし澄んだ声色こそがふさわ

しく思えた。

 

「ちょっと、あなた−−」

 

 長い髪の少女がつかみかかる。

 だが、私は視野の隅にザワリと揺れる人影を見た。わけあり、か。止めに入ろうと

踏み出した瞬間、黒い影が目の前に現れ、私たちを二人を抑え込んだ。勘違いされ

た、らしかった。小声で男はつぶやく。

 

「ファーストにイレギュラーコンタクト、抑止完了」

「名前は?IDを?」

 もう一人の男が無機質な口調で言う。

「小栗、小栗マキ」

 

***

 

「マキって、本名だったんだ」

「ときどきね、使うんだ」

「でも、待ち合わせの相手を間違えてたとはね」

 

 事情がわかってからも、私はあてもなくいい人ごっこを続けていた。

 

「この街は、わけありが多いらしいんだ。さっきの子も、特別にセキュリティーが高

 いんだろ」

「ん、あたしもわりと高いんだよ。なんでか分かんないけど」

「簡単に見のがしてくれたのは、そのせいかな」

「かもね、うふ」

「今晩は、どうするんだい」

「何も。イレギュラーコンタクトだったし。ひとりは寂しいし−−」

 

 私はほんの微かのためらいの後、首を振った。

 

「さっきの子、気になる?」

 

 少女は正確に私の思いを読んだ。夜空を見ながらつぶやいたことを憶えていたらし

い。見ると、冷えるのかわずかに肩が震えている。

 

「じゃあ、マスターに、おもりをしてくれたお礼ね」

「ん?」

 

 すると少女は流れる髪を優雅にかきあげ、後ろにたばねた。そうして見上げると、

夜の明かりの下ではショートカットと錯覚する。まっすぐに、私の顔を見つめる瞳

が、追憶の面影と重なった。

 

「勝アキラくん!」

「はいっ」

 

 私は直立不動の姿勢をとる。

 

「わたし、碇ユイは、勝くんのことが、ずっと好きでした!」

「あ、ありがとう」

 

 そして彼女は、さきほどの、月光の中に佇む少女が微笑んだらきっとこうなるだろ

うという、ひどく切なくはかなげな顔を見せて、振り向くこともなくタッタッタッと

夜に溶けていった。

 

 これからも、私はたそがれ時にあの場所を通りかかるだろう。「好き」のひとこと

が全てを解決する魔法の言葉にならない世界の住人には、二度と小悪魔を召喚できな

いと知っていても。

 

***

 

司令室−−

「プロトチルドレンか」

「分離した形質を固定させるためのテストケースに過ぎんよ。終了した計画だ」

(本人もわからぬまま、高いセキュリティーを与えたのは、おれの自己満足か)

「明日の初起動実験だが?」

「問題ない」

−−人類の存続をかけた闘いの始まりは、目前だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

21 Dezember, 2000


原典:大島弓子「たそがれは逢魔の時間」


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