メルヘン(Marchen)
 童話、御伽話を指す単語として位置付けられています。神話や伝説のように真実を写実したものでは
なく、純粋なフィクションとして成立しているもののみを括ってこう表します。現在多く出回っている
有名な童話の数々を見ると、道徳観念を含んだいかにも少年少女育成向きの説話といった感じがします
が、必ずしも最初からそうした形ではなかったという事実を頭に留めておいて下さい。多くのメルヘン
の原形は結末が大変シビアかつ不条理であるものが多く、文化の成熟がもたらす情報規制の流れが現在
のような“健全な”メルヘンの形を捏造したという事です。人間社会の本質的な矛盾や、人間観念の根
本的な誤りを辛辣に描き出した物語。風刺云々以前に、抽象技術の極致として造り上げられた文芸とい
う、メルヘンの持つ本質を学び取るようにして下さい。
                           (ドイツ文学概論初級 講義ノートより)







 パチン!
「・・・・・・?」
 張り詰めた糸が一気に収縮する。そんな感じだった。装着しようとしていたブラジャーが突然緩む。
左手には背中の紐の感触がある。右手の指では金具の部分をしっかりとつまんでいる。にも関わらず、
右脇の下ほどに垂れ下がったブラジャーの紐が見える。妙に思って、背中に回していた右手を目の前に
持ってくる。その指には千切れたばかりのホックの部分のみが残っていた。
「・・・・・・」
 掌の上の千切れたホックをじっと見つめる。考えるまでもなかった。ブラジャーの中で一番負担がか
かる部分が、耐久度を越えてしまった。それだけの話だった。12歳の時から使い続けてきた物だった。
他の者がどれほどの期間で交換をするのかが分からなかったから何とも言えないが、自分としてはかな
り長期間使用したものだと思っていた。
「・・・・・・」
 取り敢えず、肩紐だけで支えられているブラジャーを取り、千切れたホック部分と一緒にベッドの上
へ置く。下半身の下着一枚だけ。殆ど全裸とも言える体型はとても美しい。先天的な体質か肌は抜ける
ように白い。無造作なショートカットの髪は淡い水色。端正な顔立ちの中で印象的に光る朱い瞳は、今
はベッドの上の下着の残骸に向けられている。
(・・・・・・)
(・・・替えは・・・)
 考える。連日の汎用人型兵器の運用試験で暇と呼べる時間は殆どないに等しいが、身体を清潔な状態
に保つ為に洗濯だけはこまめに行っていた。一昨日、教師研修の為学校が午前中で終わったので、ため
ていた洗濯物を一斉に片付けた。ところが昨日の大雨で洗濯物があまり乾かず、今朝まで持ち越してし
まっていたのだ。今日は快晴なのでまだ湿り気が残っている洗濯物も全て乾くだろうが、取り敢えずは
今直面している問題の方が先だった。
(・・・・・・)
(・・・ないのね・・・)
 頭の中で衣類の数を弾き出し、そう結論付けた。昨日着た分と今日の分を除いて、残りは全て洗って
しまっていた。即ち、まだ身に着けられる状態ではないという事だ。半分湿っている衣類を身に着ける
事による不快感は、彼女の最も嫌う類の感覚であったし、衛生的にも問題がある。同じような理由で、
昨日身に着けた下着を着用する事も控えた。何よりも彼女の体質管理を行う赤木リツコの命令に逆らう
事は避けたかった。
(・・・・・・)
 暫しじっとベッドの上の壊れたブラジャーを見つめていたが、すぐに傍らのワイシャツを手に取り、
裸の上半身にぱっと羽織った。頭の中で今日の学校の時間割りを思い返す。確か体育の時間はなかった
筈だ。人前で衣服を脱ぐような機会はない。彼女自身には別に何のこだわりもなかったが、学校という
画一化の世界で必要以上に他人と違う事をするのは得策でないという事だけは分かっていた。今日一日
くらいなら別に下着などなくても構わないだろうと思った。
(・・・・・・)
 ベッドに腰掛け、靴下を履く。特に上半身に違和感はない。眠る時と同じ格好だったから。それに窮
屈感がなくてかえってこちらの方が感触がいい。正直、あまり胸の下着は好きではなかった。最近、と
みにそれを感じるようになった。自分の胸が大きくなったからという事には全く気付かなかったが。
(・・・・・・)
 ピリッ。
「・・・・・・?」
 次の異変は、シャツのボタンを留めている時に起こった。布の裂ける音。視線を落とすと、3番目と
4番目のボタンの間で布地が縦に裂けていた。恐らく擦り切れていたのが、力の加わり具合によって耐
えきれなくなったのだろう。暫くその部分をじっと凝視する。やはり、中学入学時からずっと使い続け
てきたシャツだった。先程と同じ理由で、替えのシャツは全くない。少し考えて、すぐにボタン掛けを
再開した。今朝は色々な物が壊れる、とだけ思った。
(・・・・・・)
 上下繋ぎの制服を身に着け、最後に胸のリボンを結ぶ。このリボンの意味がよく分からなかったが、
制服の一部なので黙って着用していた。ハンカチやカードの入った財布等こまごまとした物をポケット
に詰め、小さな腕時計の文字盤に目を向ける。まだ学校の始まる時間には大分余裕がある。が、もう部
屋は出るようにする。登校途中に少しだけ回り道して公園に向かわなくてはならないから。別に決めて
いる訳ではなかった。理由を問われれば、何でもないと答えていただろう。それでも何となく足が向い
てしまう。毎朝その公園にいる筈の一人の少年の姿を思い浮かべる。微かに、心の中が和らぐような感
覚。何、この気持ち・・・?
(・・・・・・)
 小さなチェストの上に乗っている一冊の文庫本。それを手に取って暫しじっと凝視した後、通学鞄の
中にしまう。それも毎朝の日課の一つ。そうして一日同行した文庫本は、最後にまたこのチェストの上
に置かれる。よく絞った布で表面を綺麗に拭き取られた所に。それも何故と問われれば理由を答える事
の出来ない類の行動だった。ただ、ある日の記憶だけが鮮やかに映し出される。晴れた休日、一日をあ
るひとと共に過ごした想い出。ふと傍らの埃に覆われた眼鏡ケースに目を遣る。最近、それを手に取る
事が極端に少なくなった。す、と踵を返して部屋の出入口に向かう。そんな事よりも公園に向かわなく
てはならない。
(・・・・・・)
 極端に物の少ないその部屋を出て、廊下に続く扉を閉める。相変らず鍵は掛けない。それはもう習慣
になってしまっていたから。が、最近は眠る時だけ内鍵を掛けるようにしている。そうしろと言ってく
れたひとがいたから。扉を見つめながらそんな事をぼんやり考える。すぐに気持ちを切り換えて廊下を
進み始める。
 午前七時四十五分。いつもと変わらぬ登校時間。綾波レイの一日は、そんな風に始まった。


「・・・あれ、碇君。シャツが破れてるよ。」
「えっ、どこ?」
(・・・・・・!)
 目を開き、顔を上げる。昼休みの終わり近く。昼食を取る事もなく、うつ伏せて居眠りをしていた。
覚醒はもう大分前に訪れていて、暫くぼんやりと考え事をしていたのだ。朝方、ホックが切れてしまっ
た下着と、破れてしまったシャツのこと。追加のシャツと下着を購入しなくてはならない。消耗品等は
近くのコンビニエンスストアで事足りたが、衣類のことはよく分からなかった。中学校入学の時に今着
ている衣類を一括購入したが、それはNERVの購買部を通したものだったから。今日は珍しく運用試
験がないから、本部に向かう用事はない。取り敢えず洗濯物が乾けば当面の心配はない、と考えていた
時に、不意に“シャツ”という単語が耳に飛び込んできたのだ。
「ほら、肩のこの部分だよ。」
「あ、本当だ。参ったなあ、裁縫はあんまり得意じゃないし。」
「うーん、そうだね。この破れ方だと、縫ってもあまり綺麗には仕上がらないよ、きっと。」
「そうなんだ。まあ大分着たから擦り切れてたんだろうね。やれやれ、今日の帰りにでも買いに行こう
かな・・・。」
(・・・・・・!)
 レイの座席の斜め前の方に座る碇シンジ。傍らに立つ洞木ヒカリの指差す肩の部分を、二人してじっ
と見つめている。こちら側からでは分からないが、どうやら破れているのはシンジのシャツの右肩の部
分であるらしい。困ったような微笑みを浮かべるシンジの端正な横顔が見える。それよりも今先程その
口から洩れた一つの言葉がレイを強く捉えていた。“帰りにでも買いに行こうかな”。碇くんのシャツ
が破れた。碇くんは今日の放課後にシャツを買いに行こうとしている・・・。
「どうしたのよ、相変らずシケた面して。あっヒカリの事じゃないからね。バカシンジの事だから。」
「あ、アスカ。見て、碇君のシャツの肩の部分が破けてるの。」
「あら、ほんと。カッコわるーい。ほんっと、いかにもシンジって感じよねー。」
「・・・どういう意味だよ、それ。」
 視界の中に見知った顔が一人加わる。ウェーブがかった長い髪は鮮やかな赤毛。西洋人の血が入って
いるせいか、同年代の少女達と比べて背も高くスタイルも良い。明るい笑顔でシンジとヒカリに話し掛
ける。惣流・アスカ・ラングレーは、今日は少し機嫌が良いようだった。何故か少しだけ心が固くなる
自分を感じる。何故あの人はあんなに自然に碇くんに話し掛けられるのだろう・・・。
「しょうがないわねー。あたしが何とかしてあげるわよ。」
「え?」
「ええっ?」
「・・・ちょっと何大袈裟に驚いてんのよ、失礼ね。ま、いいわ。今日はあたし機嫌がいいの。帰ったら
加持さんに借りた映画のビデオが待ってるから。それにこう見えても裁縫ぐらいは出来んのよ、あたし
だって。料理はてんで駄目だけど。」
「へえ、そうなんだ。」
「・・・本当に?」
「いい加減に疑うのやめなさいよ、バカシンジ!ほらっ、早くシャツ脱いで!」
「え、ここで?」
 腰に両手を当てて、シンジに詰め寄るアスカ。シンジが少し引け腰になる。一連の会話シーンをじっ
と見つめながら、先程の言葉を思い返してより一層こわ張ってゆく自分の心を感じる。何故余計な事を
するの。碇くんは帰りにシャツを買いに行くのに。ここでシャツを縫ってしまったら、シャツを買いに
行かなくても良くなってしまう・・・。
「ほーら、早く脱ぐの!このままじゃ縫えないでしょ!」
「あ、あの、やっぱりいいよ、シャツの下裸だし・・・。」
「男がそんな事気にしなくてもいいの!誰があんたの裸なんて見て喜ぶって言うのよ。」
「いや、そういう事じゃなくてさ・・・。」
 一瞬、教室の中の空気が微かに変わったのを、レイは確かに感じていた。クラスの女子達の視線が瞬
時シンジに向けられたのだ。すぐに何でもないような様子を装ってそれぞれの会話の輪へ戻ってゆく。
それでも不自然な感じは残っている。明らかに動揺している感じだ。何故クラスの女子達は碇くんの裸
にそんなに興味を持つのだろう。私はいつも試験の時に見ているのに・・・。
「つべこべ言わずに脱ぐの!こうなったら無理にでも・・・!」
「あ・・・や、やめてよアスカ。」
「大人しく脱ぎなさいってば!」
「いやだって。」
「・・・何や、まっ昼間っから脱がしっこかいな、いやらしい。夫婦の営みは家に帰ってからやってな、
ほんま。」
 教室に入った瞬間、いつものようにからかいの言葉を投げる鈴原トウジ。瞬時振り返ったアスカが凄
い形相で睨みつける。その視線に押されてギョッとするトウジ。小さくなりながら、既に傍観者となり
つつあるヒカリの方へ近付く。なんや惣流の奴、ごっつうおっかないけど、ひょっとしてあの日か?冷
汗流しながら尋ねてくるトウジに、今度はヒカリが静かな怒りを燃え上がらせる。真面目な顔で馬鹿な
事言ってんじゃないわよっ。ヒカリのアッパーカットが命中し、トウジが吹っ飛ぶ。そうした一連の騒
ぎも耳に入らず、レイはただシンジとアスカのやり取りにのみ集中する。そう。シンジのシャツの行方
だけが彼女にとっての最大の問題だったから。
「脱ぎなさい!早く!」
「あっ、引っ張っちゃ駄目だよ!」
「いいから脱ぐの!」
「だから、駄目だって。」
「いつまでもそうやって逆らってると・・・!」
「あっ!」
 一瞬、教室内が沈黙で満たされた。それ程に通りのいい音だった。誰もが目を丸くしていた。起き上
がるトウジに第二撃を加えようと構えるヒカリも、意外な程のクリーンヒットだったのか顔を上げるの
がやっとだったトウジも、そして教室に入ってきたばかりの相田ケンスケも。全ての視線が一点に集中
していた。切れのいい音を立てて破れたその部分に。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 無言のまま硬直するシンジとアスカ。シンジの身体はアスカとは逆の方に大きく傾いていた。そして
アスカの手はシンジのシャツの袖をしっかりと握っていた。
「・・・・・・」
 それを見つめるレイの目にも、今度は何が起きたのかはっきりと見て取れた。袖と胴の間の部分で大
きく裂けた半袖シャツ。そこからシンジの裸の肩が出ていた。確かに破れている。そう思った。




シャツとメルヘン




「・・・じゃ、あたし先に帰るから・・・。」
「・・・あ、うん。僕は買い物してから帰るから。今日はエヴァのテストもないし、ちょっと凝った夕飯
が作れそうだよ。」
「・・・そう・・・。」
「・・・あの、気にしちゃだめだよ。アスカだけのせいじゃないし。たまたま運が悪かっただけなんだか
ら。」
「・・・別に気にしてない・・・じゃあね・・・。」
「・・・うん・・・それじゃ。」
 小さくうな垂れた背中を見送る。どう見ても落ち込んでる。あまり慰め過ぎるのも良くないし、そう
は言っても何も言わない訳にはいかない。彼女の場合、ひとに迷惑をかけてしまった自分に対して落ち
込んでいるのだ。彼女自身の問題と言ってしまえばそれまでだが、割り切ってドライに接してしまうほ
ど、シンジも思い切りがいい方ではなかった。暫く教室を立ち去ったアスカの事をあれこれと考えてい
たが、結局いつもと同じ結論に落ち着く。まあ、帰る頃にはケロッとしているさ、きっと。それで気持
ちに決着をつける事にした。
「・・・さて、と。」
 ヒカリから貰った手書きの地図を確かめる。少し遠いが歩いて行けない場所ではない。つい一月前に
建てられた大規模ショッピングモールの位置が示されていた。既に潰れたボーリング場と廃工場の跡地
を大手商社が買い取り、多業種織り交ぜた出店を募って造り上げた、街では少し話題の場所だった。普
通の商店街のような店だけではなく、ブランドショップやかなりコアな専門店も揃っているらしく、シ
ンジも主夫として前々から興味を持っていたのだ。
「・・・その場で取り替えて貰えるといいな。」
 明らかに色の違う糸で縫い合わされたシャツの肩の部分を見つめながら、しみじみと呟いてしまう。
思わぬ大破損を被ったシャツの応急処置を行ってくれたのは、結局ヒカリだった。縫い方はかなりしっ
かりとしていたが、いかんせん灰色の糸しかないというのが痛かった。くっきりと灰色の線が入った肩
を見つめて、小さく溜息をつく。思ったよりも情けない。これはアスカでなくとも落ち込んでしまうだ
ろう。
「・・・ま、いいか。一日ぐらい。」
 その事もあり物見も兼ねてショッピングモールに行こうと思い立ったのだ。普段使っているスーパー
と衣料品店は方向的に全く逆で、シャツを買おうと思ったらとんだ回り道になってしまう。何度か訪れ
たというヒカリから話を聞き、一箇所で買い物が済せる事が出来ればそれに越した事はないという結論
に達したのだった。本当はトウジやケンスケ達と一緒に行ければ良かったが、二人とも用事があるらし
く先に帰ってしまっていた。仕方ない、一人で行こう。
「・・・碇くん・・・シャツ・・・」
「・・・へ・・・?」
 一番効率の良い道順を思い描いていると、不意に話し掛けてくる声が聞こえてびっくりした。もう親
しい友人達は帰宅してしまったと思っていたから。教室に残っているのは、シンジを含めて5、6人ぐ
らいしかいない筈だった。思わず間抜けな声を出して振り返る。そして視界に入った人物を見て再度驚
く。何の用事もないのにこの時間まで彼女が残っているという事は、今までにない事だったから。
「・・・あ、珍しいね。綾波がこんな時間まで残ってるなんて。」
「・・・・・・」
「・・・あ、あの・・・やっぱり目立つかな、肩・・・?」
「・・・・・・」
 無言のまま小さく頷くレイ。それを目にして、改めて落胆する。クラスの殆ど全員が決定的瞬間を目
にしていたという事は知っていた。が、普段他人に対して一切興味を示さないレイまでがわざわざそれ
を口にするという事で、衝撃の度合いは全く違ってくる。ああ、きっと道を歩いてたら笑われるんだろ
うなあ。段々気分が沈んできた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・あの・・・」
「・・・・・・」
 何か用かと聞きかけたが、その言葉が途中で消えた。ただじっとシンジの顔を見つめている。澄んだ
朱い瞳。全く変化のない無表情。そうして凝視されているとだんだん落ち着かなくなってくる。一体ど
うしたんだろう、綾波。ただシャツが変だという事だけを伝えに来たとは思えなかった。が、他に何の
用事があるのか分からなかった。出会ってからもう数ヶ月経つが、今だにこの少女の事は謎だった。性
格の特徴的な所は分かるようになっていたが、考えている事は全く分からなかった。
 それでも奇妙な“近さ”を感じる。何故か自分に最も近い存在であるような感覚。それと共に不思議
な柔らかさを感じる事がある。笑っている訳ではないのに、何処か穏やかな和んだような表情。二人だ
けでいる時はいつもそう感じた。自分しか分からない、微かな優しさのようなもの。
「・・・シャツ・・・どうするの・・・?」
「・・・え・・・?」
「・・・・・・」
「・・・あ。こ、これから買いに行こうかと思って、その・・・。」
 突然の問。やっぱりよく分からない。動揺を隠しきれないまま、取り敢えず当たり障りのない返事を
返したつもりだった。が、シンジのその言葉を耳にした瞬間、レイの表情に変化が生じた。関係のない
人間だったら分からなかっただろう。それぐらいに微かな変化。顔が変わった訳ではない。気配にも何
の変わりもない。ただほんの少し、瞳の輝きが増しただけ。それだけでも彼女にしては大きな変化だっ
た。少なくともシンジはそう思った。だから、少し戸惑った。
「・・・・・・」
「・・・あの・・・」
「・・・私も・・・」
「・・・え、何・・・?」
「・・・私も・・・シャツ破れたの・・・」
「・・・あ・・・そ、そうなの?」
 思わず見回してしまう。ぱっと見ではよく分からなかった。少なくともシンジのようなダイナミック
な破損ではないようだった。ふと気付いて、慌てて視線を落とす。何だか女の子の身体をじろじろと見
回しちゃって、いやらしいよな。そして焦燥と緊張でがちがちになった頭の中で考えを巡らす。取り敢
えず僕のシャツは破れている。それは事実だ。そして綾波のシャツも破れているらしい。それは今聞い
た。それを僕に伝えたという事は、つまり。暫し考え、何となく納得がいく。そうか、そういう事だよ
な。きっと綾波が言いたいことは。
「・・・じゃ、じゃあ丁度いいや。ついでに僕が、か・・・。」
「・・・・・・」
 買ってきてあげよう、と言いかけて一寸留まる。待てよ。男のワイシャツだったら大体分かるからい
いだろう。でも女性のワイシャツなんか買った事もない。基本的には変わらないだろうが、女性の衣類
はもっと細かく見る部分があるのかも知れない。まずサイズを聞かないとお話しにならない。綾波の事
だから何の躊躇いもなく教えてくれるだろう。それを伝えられる僕の身にもなってみろ。きっと自己嫌
悪に陥ってどうにもならなくなってしまう。余計な雑念が浮かんで明日からまともに綾波の顔を見られ
なくなってしまう。そこまでの事を僅か2秒ぐらいで考えた。シンジにしては高速回転した部類に入る
だろう。
「・・・あ、あの、もし暇だったら一緒に行かない?あ、忙しかったらいいんだけど。その、僕が買って
きてもいいんだけど、ほら、あの、女の人の服のサイズとかよく分からないし、その・・・。」
「・・・・・・」
 情けないことに声が半分裏返っていた。いつしかびっしょりと汗をかいていた。無論、冷汗。死に物
狂いの言葉は延々と続くかと思われたが、言葉半ばでレイが小さく頷いたので救われた。それは同意を
示しているのだろう。疑いようもなかったが、改めて認識してほっとする。取り敢えずの窮地を脱して
脱力する視界の中で、少しうつ向き加減になったレイの瞳がまた一段と輝きを増したように見えた。見
間違えかと思ったが、そうではないようだった。やっぱりよく分からない。変な疲労感を背負ったまま
ぼんやりとそう思った。
「・・・行かないの・・・?」
「・・・へ・・・?」
「・・・・・・」
「・・・あ、ご、ごめん。すぐに帰り支度するから。」
 脱力の時間はそれ程長かった訳ではなかった。レイの声が不意に飛び込んでくる。はっと我に返って
見てみると、レイは既に鞄を手にしていた。いや、恐らく最初から持っていたのだろう。机の陰になっ
て見えなかっただけだ。言葉を返しながら慌てて身の回りを片付ける。一瞬、今日のレイは何となく準
備が良過ぎると思ったが、すぐに考えを打ち消す。きっと今日もなりゆきでこうなったんだ。別に何の
意図もありはしないよ。そう、それだけの事なんだ。
「・・・・・・」
 鞄にサブノートを詰め込みながら、ふと思う。何のかんの言って、僕は結構綾波と一緒に出かける機
会が多いんじゃないのか。もしかして。きっかけはいつもこんな感じだ。どうしようもならなくなって
出かけようって言ってしまうんだ。本を買いに行った時もそうだった。迷子の犬を探しに行った時も。
そう言えば、酔い潰れた綾波を送って行った事もあったような気がする。あれも言ってみれば不可抗力
だった。
 もしかして誰かの意図がはたらいているんじゃないか・・・?


「はい、413円のお返しです。有難うございました。」
「はい、確かに。」
「あ、こちら福引き券になっております。各エリアに会場を設置しておりますので、どうぞお試し下さ
い。5枚で一回分となっております。」
「あ、どうも。」
 レジカウンターを離れながら、手渡された2枚の紙片を見てみる。創業感謝祭記念福引セールと印字
が打たれている。もう一ヶ月も経つのに創業記念とは大層なものだ。黒字で確かに5枚で一回分と書か
れている。夕飯の買い物も合わせれば5枚くらい集まるだろうか。ぼんやりとそう考えながら、フロア
の逆側にある婦人服売り場へ足を向ける。シャツ一枚だから、レイの方ももう買い物を終えているだろ
うと思った。
 ショッピングモール自体は、普通のデパートとはかなり違う造りになっていた。巨大な倉庫のような
建物の中に、一軒家の店がそのまま建っている様な感じ。どちらかと言うと小さな街が一つ建物の中に
入ったような構造になっていた。だから店によっては一軒で階層型の店舗を出していたし、モール全体
でも階層構造になっていたので、上がったり下りたりしているうちに、自分が何処にいるのか分からな
くなりそうだった。
 業種的に近いものは一つのフロアに固まっていたので、それ程迷うような事はなかった。一軒あたり
の品数も豊富で従業員の印象も良く、シンジ的にはかなり気に入った場所だった。学校から少し遠いの
が難点ではあるが、時間のある時にはここで買い物をするのがベストのように思われた。今度からここ
に買い物に来るようにしよう。酒の量販店も入っているから、ミサトさんも満足するだろう。
「・・・あ、いたいた。」
 広い場所だから見失ってしまうかも知れないと思ったが、店内はそれ程ごちゃごちゃとしていないの
で、人探しは決して困難ではない。所々に設置されている案内板の一つをじっと見つめているレイの姿
はすぐに目に留まった。その手には通学鞄とは別に、ショッピングモールの袋がある。既にシャツは買
い終えたのだろう。取り敢えずこれで僕の役目は終了だな。そう考えながらゆっくりと近付いて行く。
「・・・ごめん、遅くなっちゃって。もう買い物は終わったみたいだね。」
「・・・・・・」
「僕の方も終わったから。着替えさせて貰えたから良かったよ・・・。」
「・・・・・・」
 シンジの声に気付いて顔を向ける。変わらぬ、無表情。が、その瞳の中に微かな意志のような光が見
える。そう感じた後、一瞬思い返す。あれ、何故それが意志の顕れだと思ったんだろう。考えてみても
これという理由は出て来ない。ただ感じた。そしてそれは恐らく間違っていない。それだけのことだっ
たが、何故か不思議な感慨のようなものがあった。僕も少しは綾波の事が分かるようになったのかな。
「・・・碇くん・・・シャツだけじゃないの・・・」
「・・・え・・・?」
「・・・ごめんなさい・・・ちょっと離れた所なの・・・」
「あ、そうなんだ。じゃあ一緒に行くよ、ついでだから。綾波が良ければ、だけど。」
 一瞬、小さな驚きの表情になるレイ。すぐに視線を落として頷く。了承したという事なのだろう。そ
れはそれで少しばかり嬉しかった。数ヶ月前までだったら、即座に断られていただろう。いや、それは
今でも変わらないのではないだろうか。人との余計な触れ合いを極端に嫌う彼女だから。それだけに今
の了承の意には、かなりの意味があった。今日の綾波は少しだけ機嫌がいいのかな。そんな事を考えな
がら、肩を並べて歩き出す。周囲の店先に視線を向けながらゆっくりと歩くシンジ。その傍らで少しう
つ向き加減に歩くレイ。何故か分からないが、不思議な安堵感に包まれる自分の姿があった。そうして
いる二人の姿がとても自然であるような、奇妙な安心の気持ち。
「・・・・・・?」
「・・・・・・」
 が、数分後にその安堵感は大きな疑問符にすり変わっていた。何となく立ち並ぶ店舗が怪しくなって
いる。化粧品やスキンケア商品の専門店などがあるうちはまだ良かった。そのうち辺りはアンダーウェ
ア専門の店舗ばかりになっていく。ただの通り道だろうか。そう思っていた側から、そのうちの一番大
きな店に入って行こうとするレイ。さすがにその入口で思わず声を掛けていた。
「あ、あの、綾波!」
「・・・何・・・?」
「・・・あの、ここって女性の下着専門店だよね・・・?」
「・・・そうよ・・・」
「・・・綾波がここに入るって事は、その、僕も・・・?」
「・・・そうよ・・・」
 何でもないような口調で返答するレイ。だって碇くんが一緒に来てくれるって言ったもの。その目は
そう語っていた。それで何となく納得する。そうか、別に何でもない事だよな。買い物するのは綾波な
んだから。つかえてたものがきれいに抜けた様な感じ。軽い足取りでレイに続いて店内に入って行く。
が、2、3歩進んだ所で気付く。違う!そうじゃないだろう!そうして暫し自己嫌悪に落ちる。模範的
なのりつっこみをしてしまった。自分だけはそういうキャラにはならないつもりだったのに・・・。
「・・・あ、あの、綾波・・・。」
「・・・・・・」
 シンジの声は既に聞こえないのか、店の奥にどんどん進んで行くレイ。立ち止ることも出来ず、その
後を必死について行く。ここでレイと離れてしまったら、それこそ取り返しのつかないことになってし
まう。大型下着専門店で男子中学生一人。どう考えても破滅的なストーリーだった。右に左に山積みさ
れている下着類から必死に目を逸らしてレイの後について行く。ガーター姿のマネキンにぶつかりそう
になって体勢を崩し、スチール棚の低い段にすねをぶつけてしまった。泣くに泣けない状態だった。
「・・・・・・」
「・・・はあ・・・」
 ようやくレイの足が止まる。思わず深い溜息をついた。今のところ父親の前に出る事が自分にとって
の一番の恐怖だったが、この状況はそれを遥かに超えていた。アスカが同行者だったらこんな事は起き
なかっただろう。葛城ミサト然り。赤木リツコ、伊吹マヤ然り。同行者がレイだったからこそこのよう
な窮地に追い込まれる事となったのだ。傍らのレイに視線を向ける。唇に指を当て、何かをじっと凝視
していた。視線を追いかけて思わずぎょっとする。その視線の先には、サンプルとして壁に掛けられた
黒色のブラジャーがあったから。それはちょっと・・・その歳で・・・。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
 落ち着いた女性の声。背の高い紺色の制服姿の女性が、にこやかな表情でレイに話し掛けてくる。黒
髪のセミロング、歳はミサトぐらいだろうか。顔は笑顔だったが、シンジの姿を見る目はあからさまに
疑わしそうだった。あ、あの、連れです。思わずうろたえてレイを指差してしまう自分が、無性に悲し
かった。そしてそう言う事によって事態が何一つ改善される訳でもないという現実と、その現実に予め
気付いていた筈の自分も。
「・・・あの・・・ブラジャーを・・・」
「はい。黒がお好みですか?」
「・・・いえ・・・白の方が・・・」
「はい、承知致しました。それではこちらにどうぞ。」
 何気ない会話ではあったが、堪らなかった。今すぐにここを飛び出してしまいたかった。それでも力
無くレイの後をついて行く。今のシチュエーションを考えると仕方なかった。普通、同年代の男の子の
前で自分の着ける下着の話なんかしないもんだよ、綾波。尤も、それを言ったところで始まらないとい
う事は分かり過ぎるほど分かっていた事だが。
「失礼ですが、サイズの方はお幾つでしょうか?」
「・・・胸囲は82です・・・」
 未だ得体の知れないシンジの存在を留意して、小声で話し掛ける店員の女性。全く変わらないトーン
でそれに答えるレイ。聞きたくないと思っても、否応なく耳に入ってくる。82センチ。それが大きい
のか小さいのかは判断出来なかったが、シンジの胸囲よりは大きいのは確かだった。レイのあの体格で
その胸囲というのはかなりアンバランスだ。恐らく差分が全て胸の大きさという事になるのだろう。そ
こまで考えて頭を振る。一体何を考えているんだ僕は・・・!
「82・・・カップのサイズは分かりますか?」
「・・・使っていたのはずっとAでした・・・」
「・・・A、ですか?」
 思わず泣きたくなった。普通、同年代の男の子の前で自分の下着の詳細説明なんかしないもんだよ、
綾波。Aカップというのがどのようなサイズを指しているのかは分からなかったが、一番小さいものを
指すという事だけはニュアンス的に分かった。店員がしきりに首を捻っている。何か不都合でもあるの
だろうか。
「・・・失礼ですが、アンダーバストは分かりますか?」
「・・・・・・」
 レイがシンジの方を振り返る。少し困ったような目つき。いや、そんな目で見られても。彼女自身が
把握していない身体のサイズを、どうして自分が分かるものか。その向こう側に、やはり疑わしそうな
店員の視線。何となく追い詰められたような感じになる。どうしろって言うのさ。
「・・・あの、計って貰ったらどうかな。」
 ごく当たり前の事だった。が、それを口にすることが何故か恥ずかしくて堪らなかった。何で僕がこ
んな思いをしなければならないんだろう。取り敢えずそれは妥当な案だったようだ。レイが頷いて了承
し、ああそれがいいですね、と店員の女性も賛同した。ポケットから小さな巻尺を取り出して、手早く
レイの胸の部分に巻いていく。幾度か位置を変えて計り直しているのを見て、“アンダーバスト”とい
う単語が何を意味しているのかが把握出来た。尤も、このシチュエーションでそれを知りたくはなかっ
た。そう言っても始まらないのだが。
「・・・・・・」
 サイズを計っている途中、不意に店員の手が止まった。そして何とも言えないような複雑な表情でシ
ンジを見つめる。何が何だかさっぱり分からなかった。ただ、それは凄まじい目つきだった。不可解な
謎を抱きながら、その中で断定的に相手をけだものや畜生以下のように見るような目つき。いたたまれ
なくなって、視線を落としてしまう。あれは一体何を意味しているんだろう。一体僕が何をしたと言う
んだろう。腹立たしく思うより先に、言い様の知れない不安感が募る。あの人は何か誤解しているんだ
よ、きっと。
「・・・やっぱりそうですね。Aのブラで息苦しく思った事はありませんか?」
「・・・最近・・・少し・・・」
「お客様はCカップですよ。胸の大きさに合った下着を着けないといけませんよ。」
「・・・はい・・・」
 無論、Cカップというサイズが具体的にどの程度の大きさを指しているのかは分からなかった。取り
敢えず最少のAから数えて二段階上だという事だろう。そこそこの大きさ、という事なのだろうか。ふ
と思い出す。そう言えば以前、偶然にレイの裸の胸を触ってしまった事があった。細身の身体のわりに
は意外に質量があった事を覚えている。感触が蘇ってくる。それと同時に下半身の一部分に血が集まっ
て来る。ば、馬鹿!慌てて頭を振り、妄想もどきの記憶を消し去る。こんな所でそんな状態にでもなっ
たら、明日から学校に行けないようになってしまう。
「・・・どんな感じですか?」
「・・・丁度いいです・・・」
 店員に薦められた幾つかの商品を手に、レイの姿が試着室に消える。それぞれ着け具合を試している
ようだ。もう出来るだけ物事を考えないようにした。間違ってもあの小さな試着室の中の情景だけは思
い浮かべないようにした。そういう人を世の中では“変態”と言うんだ。外にいる店員が幾度か商品を
尋ね、その度に中からレイの返答が聞こえてくる。手持ち無沙汰な事この上なかったが、我慢してただ
阿呆のように立ち尽くしていた。視線を上げる事も出来ない。顔を上げると、シンジに注がれている店
員の視線をもろに受けてしまう事になるから。軽蔑と嫌悪と不信感が複雑に絡み合ったような視線。未
だにその理由がよく分からなかった。が、立場的に問い質す訳にもいかず、困惑しながらその視線に晒
され続けた。
「はい、322円のお返しです。有難うございました。」
「・・・はい・・・」
「それからこちら福引き券です。各エリアに会場を設置しておりますので、どうぞお試し下さい。5枚
で一回分となっております。」
「・・・はい・・・」
 手持ちのシャツも一緒に合わせて貰った紙袋を、店員から受け取るレイ。結局薦められた中で一番身
体に合ったものを3着購入した。こうして長く続いたシンジの苦行はようやく終わりを告げた。店の外
へ向かう足取りも自然に速くなる。もう周囲に積まれている商品も気にはならなかった。きっとこれか
らの長い一生の間で、ここへ足を向ける事は二度とないだろう。貴重な経験をした、そう思えばいい。
店先に出た所で大きく伸びをして深呼吸する。ああ、自由っていいなあ。後をついて来たレイが傍らに
現れる。当たり前だが、その表情には何の変化もなかった。
「・・・・・・!」
「・・・・・・」
 ふと振り返って、ぎょっとする。店先から少し入った所に、先程の店員が立っていた。こちらをじっ
と見つめている。延々とシンジに向けていた、あの視線だった。わざわざ店先にまで出て来るとは余程
の事だろうと思った。思わず背筋が寒くなる。
「・・・じゃ、じゃあ、その、行こうか・・・!」
「・・・・・・」
 わざとらしく声を張り上げて歩き出す。無言のまま歩調を合わせて歩き出すレイ。そのまま数十歩進
んだ所で、ちらっと背後を垣間見てみる。店員は先程と同じ場所で、まだシンジの方を凝視していた。
慌てて視線を戻し、更に歩みを進める。もうフロア一つ分くらい離れただろうと思われる所で、もう一
度だけ振り返ってみる。既にその姿は豆粒のようになっていたが、それでもシンジを睨みつけるその視
線は把握出来た。その執念深さに呆然とする。これは並大抵の事ではない。直接に口に出さないという
所が余計に不気味だ。
(・・・あの人に何かしたかな・・・いやそれはない・・・神に誓って・・・)
(・・・知らず知らずのうちに商品を落としてたとか・・・いやそんな簡単な事じゃないな・・・)
(・・・もしかして万引きしたと思ってるとか・・・いや注意すれば済むだろうし・・・)
(・・・不気味だ・・・)
 ふと気付いて、傍らのレイの方を見てみる。何も変わらない、いつもの無表情。いや、寧ろ何処とな
く和んだような普段よりも穏やかな感じ。それを目にして、思わず小さく溜息をつく。綾波は平和でい
いよな、ほんと・・・。


「・・・あ・・・」
 食料品のフロアに向かおうとしている時、不意にその小さな屋台が目に入った。デパートの案内所の
ようなこじんまりとした緑色の建物。特徴のある勘亭流のような文字が記憶に新しかった。ふと思い出
してポケットを探ってみる。半分に折った二枚の福引き券。広げてみるとその文字と同じだった。
「・・・これか。」
 これ程大規模なショッピングモールのイベントだから、もっと大々的な物を思い描いていたのだが、
実際には遊園地のアーケードゲームの小屋のような大きさだった。人の姿もなく、緑の半天姿の青年が
一人佇んでいるだけだった。もう終わり間際なんだろうな、きっと。そう考えながら、ふと思う。自分
がシャツを買った時に貰った券が2枚。同じくらいの値段だろうから、レイも2枚くらいは貰っただろ
う。そして確か先程の下着の店でも福引き券を貰っていたような気がする。ざっと数えてみる。5枚で
一回分だったよな・・・。
「・・・あ。綾波、福引き券って何枚持ってる?」
「・・・・・・?」
 不思議そうな顔でシンジの顔を見返すレイ。ああ、よく分からないんだな、きっと。そう思って自分
の持っている券を差し出す。ほら、これだよ。それで分かったようだった。持っている紙袋の中を手探
りする。出てきた手には、4枚の福引き券があった。
「・・・僕のと合わせて6枚か。一回ぐらい出来そうだね、福引。」
「・・・ふくびき・・・?」
「・・・あ・・・もしかして、知らない?」
「・・・・・・」
 少し恥ずかしそうに小さく頷くレイ。その姿を見て、かえってシンジの方が戸惑ってしまう。いや、
別に福引を知らなくても生きてはいけるし。そして、持っている2枚の福引き券を手渡す。それなら丁
度いい機会だよね。
「じゃあ、綾波がやってごらんよ。ほら、行こう。」
「・・・・・・」
 そのまま緑の出店の方へ歩いて行く。暫し掌にある6枚の福引き券にじっと視線を落とすレイ。すぐ
に気が付いてシンジの後に続く。
「・・・あ、すみません。福引き券、5枚集まったんですが。」
「・・・あ、はい。いらっしゃいませ。それでは先に券の方、お預かりします。」
 半天を羽織ったワイシャツ、ネクタイ姿の青年がレイの差し出す福引き券を受け取る。黒縁眼鏡の彼
は近くで見るとかなり若かった。馬鹿丁寧な感じがして、見るからに緊張しているようだった。新入社
員だろうか。少しばかり頼りなさそうな風貌に、何故か妙な親近感を覚えた。
「・・・はい。確かに5枚お預かりします。余りの1枚はお返し致しましょうか?」
「あ、別にいいです。」
「はい、承知致しました。それではこちらが福引の方になりますが、操作等説明致しましょうか?」
「いえ、見れば分かりますので。」
「そうですか。それでは一回分ですのでどうぞ。」
 何だか普通の手順の倍以上かかっているような気がした。目の前には六角形の形をした木製の回転箱
が一つ。ビンゴカードでもなくスピードくじでもない、オーソドックスな福引だった。身をずらして場
所をレイに譲る。
「そのハンドルを持って回すんだ。それで出てきた球の色によって賞品が貰えるんだよ。」
「・・・・・・」
 それ程速いスピードではなかった。ゆっくりとした回転。半分も行かないうちに、がん、と音がして
箱の回転が止まる。思わず目を上げると、直立不動で唖然とした表情をしている青年の姿があった。慌
てて傍らのレイに声を掛ける。
「・・・逆だよ、綾波。時計方向。あと、一回転させたら必ず止めるようにね。」
「・・・・・・」
 小さく頷いて逆方向に回し直すレイ。その横顔を見て小さく溜息。あまりにも分かりやすいおおぼけ
に思わず言い様の知れない疲労感を覚える。そうか。綾波はわりと天然系なのか。もしかしたら自分の
ポジションは大変なのかも知れない、と心密かに思った。
「・・・あ・・・。」
「・・・・・・」
「・・・おめでとうございます!えーっと・・・。」
 ころ、と音を立てて落ちた一個の球。パチンコ玉のような鮮やかな銀色だった。それを見た瞬間、変
な不安感が胸をよぎった。どうせ残念賞のティッシュ程度だろうとたかを括っていたのだ。それだけで
もレイにはいい思い出になるだろう。5等か4等が出れば御の字といったぐらいの気持ちだった。それ
だけに今目の前にある銀色の球は、明らかに予想外の展開が控えている事を示していた。何だろう。何
が当たったんだろう。持って帰れない物だと困るな。“ハワイ旅行”とかもちょっと困るし。“最高級
松坂牛”とかだと綾波は食べられないし・・・。
「・・・えーと、あ、これだ。おめでとうございます、二等賞です!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「二等賞の賞品は・・・あれ?・・・いや、その・・・えっと、少々お待ちを・・・。」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・何て読むんだろう、これ・・・えっと・・・うーん・・・。」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 最初は勢いのよかった係員の青年が、途端におろおろとし始める。手元の賞品名記載の書類を見つめ
しきりに首を傾げる。シンジとレイは仕方なくその場に佇んで彼の動向を見守っていた。それが余計に
プレッシャーとなったのだろう。殆ど泣きそうな表情で手元の書類をしきりになで回す。こめかみから
汗が流れ落ちてくる。ずり落ちそうになる眼鏡を何度も指で押さえる。見ているうちに段々いたたまれ
ない思いになってきた。それはいつもシンジが陥る状況によく似ていたから。
「・・・悪い悪い、ちょっとトイレに行ってたから遅くなっちまった。休憩してきていいぞ。」
「あ、係長。すみません、こちらのお客様なんですが・・・。」
 不意に、三十代前半くらいの背の高い男性が姿を現す。瞬間、青年の表情が歓喜に溢れる。シンジも
思わず拳を握り締めてしまった。よかった。救いの手がやって来たんだね。いかにも仕事慣れしたよう
なその男性が、半分しどろもどろの青年の説明を聞く。そして、苦笑いしながら出店のカウンターに出
て来る。
「・・・あー、これかあ。そうだな、今までここから出た事なかったしな。まさか最終日で出るとは思い
もしなかったよな。しょうがねえよ。」
「・・・本当に申し訳ありません、係長。」
「ま、いいって。これも勉強だ。それで肝心のお客様は、と・・・ああ、すみません。大変お待たせしま
した。二等賞はTeranoの特別無料サービスになります。」
「・・・はあ・・・。」
「・・・・・・」
 いきなり話し掛けられて驚いたのもあったが、言われた言葉の内容もさっぱり分からなかった。それ
を察していないのか、にこにこと営業用のスマイルを浮かべ続ける“係長”。その後で今は頼りないな
がらも笑顔を浮かべている青年。よかった、体勢を立て直したんだ。一寸そう思ってから気持ちを切り
換える。それは置いといて。取り敢えずその賞品の内容を聞いてみないと始まらなかった。そうそう。
分からない事は聞かないと・・・。
「・・・あの、それは一体どんなものなんでしょう?」
「え?ああ、すみません。ちゃんと説明しなきゃ分かりませんよね。えーと、お客さん達は学生さんで
すよね?」
「・・・はい。中学生ですが。」
「ああ、じゃあまだちょっと分からないかな。えーと、Teranoというのはフランスの有名ブランドなん
ですよ。そちらのお嬢さんだったら名前くらいは聞いた事あるんじゃないかな?」
「・・・・・・」
 小さく首を振るレイ。それはそうだと思った。彼女ほどブランド物と縁遠い女性はいないだろう。正
直言ってレイよりも自分の方がまだ可能性があると思った。そうだなあ。多分アスカがいたらすぐに分
かったんだろうな・・・。
「ああ、そうですか。いや、いいんです。私だって名前を聞いた事があるだけで詳しい事はよく分から
ないんですから。取り敢えず、そう思ってて下さい。」
「・・・はあ・・・」
「で、このショッピングモールにブランドショップのエリアがある事は御存じですよね。そこに日本で
も数店しかなかったTeranoのショップが入ったんですよ。それだけでも凄い事なんですが、この店長さ
んというのがまたえらく出来た人でしてね。事業部の方で今回の創業福引セールを企画した時、それな
らば店の物を賞品として提供しましょう、て言って下さったんですよ。嬉しいじゃないですか、そうい
うの。大体ブランドショップの店主なんて自分達の事ばかり考えるような輩ばかりで、事業部の声なん
かに耳を傾ける人なんて殆どいないんですから。」
「・・・はあ・・・。」
 正直言って業務の内容を説明されてもよく分からなかったが、取り敢えず説明の一部だと思って黙っ
て聞いていた。途中で熱くなっている自分に気付いたのだろう。一旦言葉を切り軽く咳払い。暫しの間
をおいて再び言葉を繋げた。“係長”は少し照れ笑いを浮かべていた。
「あ、ごめんなさい。それでこの二等賞の賞品なんですがね、ざっくり言ってしまえばTeranoのショッ
プでお好きな服を上下選んで頂いて、それをプレゼントしてしまおうというものなんですよ。」
「・・・あ、それなら分かります。」
「大人の女性でも体格の小さな方はいっぱいいらっしゃいますから、きっとそちらのお嬢さんでも十分
に選択の余地があるんじゃないですかね。私は男なのでよくは分からないですが。」
「・・・はあ、そうですね。僕も男ですが・・・。」
「・・・・・・」
 ようやく話の流れを掴むことが出来た。それ程厄介な事でもないように思える。寧ろ、この程度で収
まった事を感謝すべきだろう。そこまで考えて、ふと気付く。いや、僕だけが納得しても意味がない。
この賞品の対象となるのは自分ではなくて、傍らに立つ何も知らない少女なのだから。目を向ける。案
の定だった。不思議そうな表情で瞬きを繰り返していた。
「・・・あの、綾波。この後って何か予定はあるかな?」
「・・・・・・」
 小さく首を振る。よし。取り敢えず時間的には余裕はあるようだった。問題はレイ自身の気持ちだっ
た。正直五分五分だと思った。煩わしい事はあまり好まない。その性格は把握していたが、時にとんで
もなく煩わしいものに飛び込む事もある。そういったレイの心境は全く分からなかったから。
「福引の賞品で服が貰えるんだって。折角だから何か選んで貰おうか。あの、着る服が増えるというの
はそれ程悪いことでもないだろうし。」
「・・・・・・」
「・・・あ。もちろん、綾波が良ければ、なんだけど・・・。」
「・・・分かったわ・・・」
 最初、聞き違いかと思った。幾度か反芻してようやくそれが了承の返事だという事を把握した。そう
か。取り敢えず新しい服を着ること自体にはそれ程抵抗はないんだ。そんな事を考えながら“係長”に
オーケーです、とだけ伝える。それと共に何となく高鳴る気持ちを感じる。何だろう・・・?
「じゃあ、これからTeranoのショップまでご案内します。それ程遠くないですから。」
「はい。よろしくお願いします。」
「あ、少々お待ち下さい・・・じゃ、そういう事でまた休憩遅くなっちまうけど済まんな。後よろしく頼
むわ。すぐに戻って来るからな。」
「はい、行ってらっしゃいませ!」
 出店を出て行く“係長”に綺麗なお辞儀をする眼鏡の青年。その姿を見て、何となく別れが惜しいよ
うな気持ちになった。妙に共感を覚えるところが多い青年だった。もしかしたら数年後の自分はあんな
感じになっているかも知れない。心の中で別れの言葉を述べる。頑張って下さい、と。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 男性の後について歩いて行く。肩を並べてすぐ横にレイの姿。その顔をそっと見る。やはり、何処と
なく和んだような穏やかな表情。胸の中でまた少し高鳴りを覚える。これから行く先で、また違った感
じのレイの姿を見ることが出来る。普段の服装のバリエーションが極端に少ないから、ごく稀に違う格
好をするととても新鮮に映る。それが印象に残る事が多いのは、普段はあまり意識しない彼女の容姿の
美しさによるのだろうか。
 ふと気付く。この賞品を嬉しく思っているのは実は自分の方ではないだろうか。もしかして僕は、あ
まり普段目にしない綾波の姿を見るのが楽しみなんじゃないだろうか。それは何故だろう・・・。


「・・・あらー、可愛いお客様!」
 棚の位置、壁のデザイン、商品の配置の仕方。どれ一つ取っても秀逸なセンスを思わせる洗練された
店内空間に暫し心奪われていた一行を出迎えたのは、まだ二十代は越えていないだろうと思われる若々
しい容姿の女性だった。ショートの髪はカラーリングした薄茶色。黒のタンクトップと細身のパンツを
合わせて、落ち着いた形のヒールで足元を締めている。背はシンジと同じくらいだったが、スタイルは
とても美しかった。目が大きくてそのせいか少し童顔に見えたが、全体的に元気な大人の女性という感
じが顕れている。ふと、食卓の椅子にあぐらをかいて缶ビールを一気飲みするミサトの姿が頭の中に浮
かんだ。そうか。あれは大人の女性とは言わないんだ、普通・・・。
「えーと。すみません、例の福引の件です。こちらのお客様が当てられましてね。申し訳ありませんが
宜しくお願いします。」
「あー、いえいえこちらこそー。正直言うとちょっと太めのオバチャンとか来ちゃったらどうしようか
なって思ってたんですけど、良かったです。こんな可愛いお客様なら大歓迎ですよー。」
「あはは、それは良かった。あ、えーと。こちらがTeranoの店長の中森さんです。」
「どうぞ、よろしくー。店長やらせて貰ってます、中森ユミコです。“店長さん”とか呼ばずにユミコ
さん、で構わないからねー。」
 二人を連れて来た“係長”の紹介に応じて、気さくに握手を交わしてくれる。見るからに優しそうな
素敵な女性だった。ふと傍らのレイに目を向ける。表情は変わらなかったが視線が少し下がっていた。
そうだよな。綾波はこういう元気なひとがあんまり得意じゃないんだよ。記憶を辿りながらそう思う。
ミサトやアスカと接する時もこんな感じで、普段よりも少し引いているのだ。
「で、二人のうちどっちを着せ替えてあげればいいんですかね?」
「あはは、面白い事を言われますね。片方は男の子じゃないですか。じゃ、そういう事で後は宜しくお
願いします。」
「はーい。どうも有難うございました。また何かありましたら声かけて下さい。」
「こちらこそ。」
 会釈を残して立ち去る“係長”を笑顔で見送るユミコ。その端正な横顔を見つめながら、背筋に冷た
い感触を覚えていた。先程の何気ない一言。笑ってはいたがシンジを見る目は本気だった。下手な答え
方をしていたら、シンジの方が着せ替えられていただろう。このひとは結構、要注意かもしれない。今
まで散々年上の女性に苛められてきたシンジの防衛本能が警報を鳴らしていた。
「・・・さて、と。まずは名前から聞こうかな。えーと、お名前を教えて下さいっ。」
「・・・綾波・・・レイです・・・」
 おどけた表情で、手持ちマイクを向けるようなジェスチャーをする。一瞬驚いたように目を上げるレ
イ。すぐにまた視線を落とし、小さな声で質問に答える。そうしてる間に、ユミコの視線はレイの全身
を隈無く捉えている。
「そっかー、レイちゃんだね。レイちゃんはすっごく可愛いし肌も白いから何を着ても似合うね、きっ
と。お世辞で言ってるんじゃないよ。モデルさんとかいっぱい見てるから分かるんだ。下手なモデルさ
んよりもレイちゃんの方がよっぽど上だよ。それで、レイちゃん的には何かお目当てはある?」
「・・・・・・」
 困ったような視線を向けてくる。そんな目で見られても、こちらの方が余計に困る。何故か分からな
いが今日はそういう場面が多いように思われた。戸惑いの中ただ阿呆のように佇んでいると、苦笑いを
浮かべたユミコが助け船をおこした。
「そうだよねー、まだ中学生だしこういうお店はちょっと厳しいか。じゃ、適当に色々着てみて、気に
入ったものに決めようね。」
「・・・はい・・・」
「そうだなー、逆に彼氏クンは何か要望はあるかな?えっちな服は着せちゃだめ、とか。」
「・・・あ、あの、僕は別に・・・」
 別に彼氏じゃない、というシンジの言葉を遮って、おっけー、と明るく答えるユミコ。そのままレイ
の手を引いて、するすると店内に進んで行く。慌てて後に続くシンジ。どうもテンポが速すぎる相手は
苦手だ。それと共に思う。早いうちに誤解を解いておかないと後々面倒なことになりそうだ。
「・・・これと、これ。あ、これなんかもいいな。」
「・・・・・・」
 駆け足のような速度で店内を巡りながら、目に留まった服をあれこれと選んでゆく。服を手にしてい
る時の彼女は、目が輝いていて本当に生き生きとしていた。きっと仕事が本当に好きなんだなあ。少々
息切れしながら、ぼんやりとそう感じる。レイは人形のように手を掴まれて引き摺り回されている。瞬
時視線が合い、救いを求めるような目でシンジを見る。今日のレイはいつも以上に心細く見えた。そう
して広い店内を何周かし、最終的に辿り着いたのは店の奥の試着室だった。下着専門店にあった物の三
倍くらいの大きさで、堂々とした面構えだった。
「・・・じゃ、取り敢えず色々と試してみよっか。あ、彼氏クンはそこに座って、色々感想とか言って貰
うからね。何となくレイちゃんは彼氏クンの意見が頼りみたいだし。」
「・・・あ、あの、ですから僕は・・・」
「あ、ごっめーん、チエちゃーん!こっちのお客様に冷たいお茶を出して貰えるぅ!」
 彼氏とかじゃないんですよ。そう言いかけたシンジの言葉は、ユミコの明るい呼び掛け声にかき消さ
れる。向こうの方から、はーい、という若い女性の声が聞こえてくる。仕方なく、試着室の目の前に置
かれている小さなテーブルセットに腰を落ち着ける。
「そんな緊張しなくてもいいからね。こう見えてもユミコさんはスタイリストでずっと食べてきたんだ
から。今日はそれ程お客さんも多くないし、付きっ切りで見てあげられるよっ。」
「・・・はい・・・」
 相変らず視線を落としたままのレイ。その目にある種の諦めの色が見えたのは気のせいだろうか。ま
るで何かに覚悟しているみたいだよ、綾波・・・。
「彼氏クンも、お茶でも飲んでゆっくりしててね。ま、自分一人がお客さんのプライベートファッショ
ンショーだと思って、気楽にね。」
「・・・あ、だから、僕は・・・」
 付き合ってるとかそういう間柄じゃないんですよ。そう言おうとしたシンジの言葉を遮って、試着室
のアコーディオンカーテンが、ぴしゃっと閉まる。シンジ一人が取り残された。一瞬目の前に冷たい風
が吹き抜けた。がっくりと肩を降ろす。だめだ。とても太刀打ち出来ない。遂に誤解を解くことは出来
なかった。それに加えて、とんでもない責任を背負わされてしまったという事が、シンジの心をより一
層重くしていた。あーあ、何がプライベートファッションショーだよ。僕にどんな事を言えっていうん
だよ。日頃アスカからセンスの無さを徹底的に責められているせいか、女性の衣服の事は自分にとって
の鬼門であると思い込んでいた。今更ながら自分の軽率さを悔いる。やっぱりあの福引所の時点で断る
べきだったんだよ。綾波も何だか辛そうだし・・・。
「・・・お茶、どうぞ。」
「・・・あ、す、すみません。」
 若い女性の声がして、慌てて顔を上げる。ポニーテールの美しい女性が綺麗なお辞儀をして立ち去っ
て行った。ぽかん、とその後ろ姿を見送り、すぐに我に返って手元を見る。カップもソーサーも透明な
ガラス製で、とても涼しげだった。手に取って口を付ける。あ、アールグレー。上品な香りと冷たい感
覚が心地好かった。それで少しだけ気持ちが落ち着いてくる。そうだよな、もうここまで来ちゃったん
だし。少しだけ腹を据える。単純な事だよ。似合うものを似合うと言って、似合わないものを素直に似
合わないというだけなんだから。
 それにしても、と思う。この店の店員さんはみんな美人なひとばかりなんだな。オーディションでも
してるのかな・・・。
「・・・あ。レイちゃん、ノーブラじゃない。だめだよー、今が一番大事な時期なんだから。ほら、こん
なに綺麗なおっぱいしてるのに。形崩れちゃったら勿体ないよ。」
「・・・ごめんなさい・・・」
「あ、ごめんね。そんな謝ることじゃないし。あー、もしかしてあれ?ガッコ帰りに彼氏クンとえっち
して、そこに置き忘れて来ちゃったとか?」
「・・・はい・・・」
「それともあれ?彼氏クンがノーブラじゃないと許してくれないとか?服の上からでも触りたいんだ、
とか言っちゃったりして?」
「・・・はい・・・」
「もーっ!レイちゃんったらかわいいー!お姉さん、このまま食べちゃいたいくらいっ!」
「・・・・・・」
 ひときわ大きくなった声が試着室から洩れてくる。それを耳にしたままシンジは凍りついていた。頭
の中で様々な事象が入り乱れる。まずレイの相槌は無視しても構わないだろう。多分意味も分からない
ままに返答しているだけだろうから。意味が分かっていたらそれはそれで怖いのだが。戦慄するような
一連の会話を頭の中で反芻し、その根源となった一つの事実に辿り着く。ノーブラ。胸の下着を付けて
いないという事か。それは今日という日が始まってからずっとそうだったという事だろうか。朝一緒に
登校して来た時も、授業中も、放課後ここに向かう時も。
(・・・そりゃ・・・そうだよな・・・)
 今日は体育の授業もなかったから着替えのタイミングもない。最初から着けて来なかったのだ。では
何故そうなったのだろう。忘れたのだろうか。一瞬考え、あまりにも馬鹿馬鹿しくてすぐにその考えを
捨てた。自分の身に置き換えて考える。幾ら急いでいるからと言って、パンツを履き忘れたりするだろ
うか。
(・・・ああ・・・!)
 暫くあれこれと考えているうちに、最も深刻なことを思い出す。そうか、あれはそういう事だったの
か。思い出していたのは、先程の下着専門店の女性店員の事だった。軽蔑と嫌悪と不信感が入り交じっ
たあの微妙な視線。あの女性はつまり、今さらっと流されたような内容を延々と頭の中で思い描いてい
たのではないだろうか。そう言えばサイズを計る時にレイの胸には触っている筈だ。下着を着けている
か否か、同性ならばすぐに分かるだろう。きっと頭の中で恐ろしい想像を勝手に膨らませた挙げ句、シ
ンジに軽蔑の視線を投げていたのだろう。考えるうちにそら寒くなってくる。何で女の人は一律、そん
な想像を抱いてしまうのだろう。表現がフランクか否かという違いだけだった。一体どんな想像を作り
上げていたのだろう。あの不可解な状況から・・・。

 1.考え得るシチュエーション
   碇シンジが想像した場合:

 女:「ねー、やっぱ気持ち悪いよお。ブラがないとさー。」
 男:「だってしょーがねーじゃん、ラブホに忘れちゃったんだからよー。」
 女:「あーあ、ショック大きいよ。結構お気にだったんだからー。」
 男:「これはこれでいいじゃん。服の上から触れるしさー。ほら・・・」
 女:「あん・・・もう。そんなことばっかじゃない。」
 男:「だってお前も好きじゃん・・・いて、バカ、つねるなよ。」
 女:「あー、気持ち悪いよお。何かやだよー、これ。」
 男:「っせーな。じゃあ、あそこで買えばいいじゃんよー。」
 女:「じゃ、一緒に来てよ。」
 男:「何で俺が行くんだよ。」
 女:「責任あるから。取ったのシンくんだもん。」
 男:「人前でそーゆーこと言うなよ、バカ。」
 女:「しかも手じゃなくて口で取った。」
 男:「あー、分かった行くよ。だからもう言うなよ、な。ったく、たりーなー・・・。」


(・・・・・・)
(・・・うわ・・・最悪・・・)
 目の前が真っ暗になる。自分で想像した事に自分で押し潰されていた。自己嫌悪の泥沼にずぶずぶと
陥ってゆく感じ。救いようがなかった。これを他人に想像されていると思うと耐えられなかった。この
身を灰にしてそよ風に舞わせてしまいたいような気持ち。海の奥深くに沈めてしまいたいような思い。
暫くそうして自己嫌悪の底を這いずり回った後、急激に怒りの感情が吹き出てきた。大体、ちょっと考
えれば分かるだろう、普通。どう見たって二人とも中学生なんだから。そんな凄まじい状況になる訳が
ないじゃないか。違うだろう、どう考えても。おかしいよそんなの。そして不意に全身に虚脱感が襲っ
てくる。何やってるんだ、僕は・・・。
「・・・彼氏クン、いい?取り敢えず一発目、準備できたよー。」
「・・・あ。は、はいー。」
 突如、試着室の中から呼び声。それで我に返る。返事が間抜けになってしまった。頭に渦巻いていた
感情の塊を一気に押し退けて、意識を現実に戻す。そうだ。馬鹿な事考えてる場合じゃなかった。気持
ちを落ち着かせて、先程心に言い聞かせていた事を思い起こす。いいか、似合ってれば素直に似合うと
言えばいいんだ。ただそれだけだ。別に難しい事じゃない。何度かその言葉を呪文のように繰り返しな
がら、手に持ったカップを口に運ぶ。その瞬間、アコーディオンカーテンが一気に開かれた。
「じゃーん、イメチェンのレイちゃんだよぉ!どう?」
「・・・・・・!」

 ぐ、げほっ!げほっ!げほっ!げほん!げほげほっ!ぐぇっ!げほっ!げほっ・・・!

「・・・ちょっと、大丈夫?」
「・・・いえ・・・何でも・・・ありま・・・せん・・・。」
 死ぬかと思った。後にも先にもこれ程までに咽せたのはこれ一回限りだった。きっと難病の発作など
はこんな感じなのだろう。心臓と肺が波打っている。取り敢えずだましだまし空気を吸い込んでみる。
何とか回復の兆しは見えた。頭がくらくらする。星が飛んでいる視界の中、再度そちらの方に目を向け
てみる。・・・・・・見間違えじゃなかった。
「・・・・・・」
 不安そうな視線をシンジの方へ向けるレイがそこにいた。が、それを直視する事はとても出来なかっ
た。14歳の少年として、それはしてはいけない事だと思った。端正な表情の中で、印象的に光る朱い
瞳。それはいつもと同じだった。が、その両側に更に二つ、朱い光を発するものがある。金色の光と朱
い光。石を嵌め込んだイヤリングだった。それはそれで良かった。問題はその下だった。
「・・・どう?いい感じでしょ?燃えた?」
「・・・・・・」
 何かの間違いではないかと思った。うっかり服を着忘れたんじゃないだろうか。どう見てもそれは下
着だった。下着でなければおかしかった。細い肩紐だけで吊るされているその黒い布地が覆っている部
分は、あまりに狭すぎたから。胸の半分から腰の少し下まで。それだけだった。しかも、殆どが身体に
ぴったりと密着している。女性らしさを備え始めているレイの身体の線がそのまま露になっていた。
「うーん、やっぱ思った通りだよ。レイちゃんは肌が白いから、黒を着て肌が出てるとすっごく映える
よね。すっごい綺麗だよー。」
「・・・・・・」
 救いを求めるような視線を向けるレイ。羞恥心ではないのだろう。ただ、慣れない服装に戸惑ってい
るだけなのだ。その事は分かっていた。が、シンジはそれどころではなかった。見なければいけないの
だが、目を向ける所が何処にもないのだ。上半身に目を向ければ、露になった細い裸の肩と、上半分が
はみ出ている豊かな乳房が目に入ってしまう。そうかと言って下に目を向ければ、尻の部分からすぐ下
が全て剥き出しになった、形のいい脚が視界を占める事になる。足元の異様に高い黒のハイヒールも、
言い様の知れない淫靡さを醸し出していた。冷汗をかきながら視点を意識的にずらす事しかシンジには
出来なかった。
「よーし。じゃ、ちょっとポーズ付けてみようか、レイちゃん。どぎついやつね。きっとこれで彼氏ク
ンもいちころだよっ。」
「・・・はい・・・」
「うーんと。じゃあちょっと前屈みになってみて。あ、気を付けてね。ハイヒール、バランスが結構難
しいから。そうそう。そんで、こんな風に左脚を前に出してみて。うん。でね、そこにこうやって両手
を重ねてみるの。そう、膝のちょっと上ぐらい。あ、いいよー。可愛いよ、レイちゃん。じゃ、ちょっ
と右の脚も軽く曲げてみようか・・・。」
「・・・・・・!」
 最初はよく分からなかったが、形が出来上がってくるに従って、そのあからさまな姿があらわになっ
てきた。前屈みになっているから、衣服で寄せ上げられた胸の谷間が完全に見えるようになる。重ねら
れた両脚の映り方も何となく淫靡だ。それよりも、ただでさえ境界線ぎりぎりだったミニスカートの部
分が、身体の曲げ具合によってどんどん押し上げられてゆく。あ、やばい。そう思った時、右腿のかな
り上の辺りに白いものが見えたような気がした。妄想かも知れない。後から思い返してそう信じ込むこ
とにした。が、その時はもう完全に頭が空白になっていた。次の瞬間、思わず叫んでいた。
「・・・あ、ちょ、ちょ、ちょっと待って!ス、ス、ストップ!ストップ!」
「・・・どしたの?顔、真青だよ。」
 心配そうな顔でシンジを覗き込む店長のユミコ。そんなに酷い顔してるのだろうか。自分ではよく分
からなかったが、極度の緊張と大量の発汗は自分でも意識していた。不思議そうな表情でしきりに瞬き
を繰り返すレイ。その全身像から出来るだけ視界を遠ざけながら、声を搾り出す。
「・・・あ、あの。何か、こう言ったら失礼なんですが。その、何か綾波のイメージとは違い過ぎて、あ
の、ちょっと違うかなあって・・・。」
「あ、そーゆーこと?オッケー、分かったよ。何と言ってもクライアントの意見が第一だからね。早く
言ってよ、彼氏クン。そーゆー言葉を期待してるんだよ、こっちとしては。」
「・・・は、はあ・・・」
「じゃ、次行ってみよっか。レイちゃん、準備しよっ。」
「・・・・・・」
 あの、彼氏じゃないんですけど。その一言を口にする気力もなかった。再び目の前でアコーディオン
カーテンがぴしゃっと閉まる。椅子に座ったまま、暫く放心していた。言い様の知れない疲労感が身体
に染み渡っていた。今のは一体何だったのだろう。悪い夢であるとしか言えなかった。確かに綺麗では
あった。それは認められる。が、それよりも何よりもセックスアピールが強烈過ぎた。普段、同級生や
パイロット仲間として接している時、ふとした瞬間に女性らしさを感じてどきどきとするような事はあ
る。が、あそこまでに強烈に女を出されると、それが普段知っている彼女かどうかも分からなくなって
しまう。ただ分かるのはそこに女性の身体があるという事だけだった。
「・・・・・・?」
 ふと何か聞こえたような気がして、後を向く。沈黙。一瞬の間をおいて、ぱっと元に戻る。少し離れ
た場所に3、4人の女性が立っていて、こちらを見ながら何か話していた。店員ではないようだった。
この店の客だろうか。よくは分からなかったが、女性の服の店などでは結構そういう事があるのかも知
れない。他の女性の試着を見て参考にするような事が。きっとそのうちいなくなるだろう。そう思って
放っておくことにした。
「・・・はあ・・・」
 紅茶を一口飲み、深く息をつく。少しだけ気持ちが落ち着いた。重い疲労感は相変らずだったが。ふ
と思い返して考える。さっきのあの服は一体どういう状況で身に着けるのだろうか。あのスカートの丈
では椅子に座ることも出来ないだろう。座った瞬間に下着が丸出しになることは必至だった。それと共
に仮にあの時点で自分がOKを出していたら、一体どうなった事だろうと思う。いや、大丈夫だ。綾波
はきっとあんな服は着ない。それでも万が一着て外に出てしまったら。それが悪いことにエヴァのテス
トだったりしたら。想像は膨らむ。ミサトさんは固まってしまうだろう。アスカは気を失うだろう。リ
ツコさんに至っては気が狂ってしまうかも知れない。そして父さんは・・・。
“・・・シンジ、お前には失望した・・・”
 慌てて頭を振り、嫌な想像を振り払う。もう忘れる事にしよう。あれは悪い夢だったんだ。何かの間
違いだったんだ、きっと。気を紛らわす為に、冷たい紅茶に口を付ける。その瞬間、試着室の中から呼
び声が響いた。
「・・・じゃ、二発目行くからね。準備はいいかな、彼氏クン?」
「・・・あ、はい。」
 返事をしてしまってから思わず舌打ちする。しまった、自分で彼氏だって認めちゃったよ。苦々しい
思いのまま、早めに紅茶を口に含む。先程のように咽せてしまうのは避けたかったから。が、先程のタ
イミングを思い返しながら紅茶を飲んでいると、不意にアコーディオンカーテンが開かれた。明らかに
さっきよりもタイミングが早かった。
「じゃーん、今度はどうだ!ボーイッシュなレイちゃんだぞー!」
「・・・・・・!」
 今度は口に含んだ紅茶を吹き出してしまった。それ程多量ではなかったという事と、咄嗟に右手を口
に当てた事で何とか空中散布だけは免れたが。びしょ濡れになった右手をハンカチで拭きながら、改め
て見つめる。・・・・・・やはり見間違えではなかった。
「・・・・・・」
 自然に逸らされてゆく自分の視線を意識する。やはりそれは直視してはならないと理性が訴えかけて
いた。相変らず、不安そうな視線をシンジに向けるレイ。何度も無言のメッセージを送り続けてきたが
そんな目で見られても困るのだ。確かに可哀相なのはレイだが、苦痛を被ってる度合いは自分の方が高
いと思った。綾波は多分、今の自分の格好をあまりよく分かっていないんだろうな・・・。
「・・・どう?可愛いでしょ?萌えた?」
「・・・・・・」
 頭痛。思わず目を覆った。水色の髪はエスニック調のバンダナで軽くまとめられている。足元はスタ
ンダードな布のバスケットシューズ。それは良かった。確かに新鮮だと思った。その中間に位置する物
に問題があった。カットオフされたようなデニムの半ズボン。“半”という形容は正しくなかった。先
程と同様、尻と腿の境界線際まで短くカットされていたから。下手に腰を曲げたら、腰から腿にかけて
のラインが丸見えになってしまうだろう。
「オッケー、ユミコさんの狙い通りだよ。まだそんなに大きくないけど、レイちゃんのおっぱいってす
ごく形が綺麗だから、こんな風に少しだけ見えててもさまになるよねー。」
「・・・・・・」
 もはや目を上げる勇気もなかった。デニムパンツのすぐ上に見える、形のいいおへそ。それは許容範
囲だと思った。が、そのまま延々ときめ細かなレイの肌が続き、乳房の下の部分が見えた時点で、この
組み合わせは却下ものだった。丁度、白いタンクトップの胸から下が千切れて無くなったようなデザイ
ン。面積的にはビキニの水着とそうは変わらないだろうが、ちょっとでも強い風が吹いたらすぐにでも
捲れ上がってしまいそうな怖さが評価の分かれ目だった。これはどう考えても頂けない。先程の服と同
様、実用性のかけらも感じられなかった。
「じゃ、またポーズつけてみよっか。今度は可愛くいってみようね。可愛くて、ちょっとえっちな感じ
で・・・。」
「・・・あ、あの。す、すみません。これも何かちょっと違うような気がするんですが・・・。」
 少し驚いたような表情で振り返るユミコ。悪意のかけらもないその顔を見て、心底申し訳ないような
気持ちになる。が、それとこれとは話が別だ。自分は同級生を露出狂にする為にここへ来た訳ではない
のだから。
「あ、そーなんだ。こーゆーのも好みじゃないんだね。うん、全然オッケーだよ。また別のを選べばい
い事だし。レイちゃんはあまり自分から好きとか嫌いとか言わないから、彼氏クンの意見が大切なんだ
よね。よっし、じゃあ次いってみよっか、レイちゃん。」
「・・・・・・」
 せめてもう少しだけ露出度を抑えて。そう言おうとしたシンジの言葉を遮って、再びアコーディオン
カーテンがぴしゃりと閉まる。また一人残されるシンジ。寒い風。椅子に座り虚空を見つめながら、ぼ
んやりと考える。これはもしかしたら、下着専門店の時よりも遥かに辛い試練であるかも知れない。こ
の後もずっとあのような格好が続くのだろうか。その度に心臓が止まるような思いをして、その後に今
のような虚脱感を味わう事になる。それが延々と繰り返されるのだ。考えるだけでぞっとした。
「・・・・・・」
 思う。同じ服選びでも、アスカの買い物に付き合う時はまだいいのだ。シンジの意見が非常に貧弱で
あるという点では変わらないが、アスカは基本的に自分の意見を持っているから。シンジが何を言おう
と最終的に自分でものを選ぶ力があるのだ。が、今回はその点が一番駄目なところだった。服装に関し
ては、レイもシンジもこれという明確な指針を持ち合わせていない。このままでは何も決められないま
ま堂々巡りを繰り返すに過ぎない。
「・・・・・・?」
 ふと何か聞こえたような気がして、後を向く。沈黙。一瞬の間をおいて、ぱっと元に戻る。先程と同
じようにギャラリーの女性が立っていた。何故か分からないが人数が増えていて、位置も先程より近く
なっていた。先程は確か3、4人くらいだったのに、今見たところでは十人くらいに増えている。いず
れも若い女性ばかりだった。距離が縮まったせいか、会話の内容が耳に流れ込んでくる。
“えー、勿体ないよねー。今の可愛かったのにー。”
“彼氏クン、中学か高校生でしょ?きっと分かってないんだよ。”
“あたしだったら今のに決めちゃうなー。”
“でもあのコ、ほんとに可愛いよねー。モデルさんかなー?”
“うん、すっごい可愛い。お人形さんみたい。”
(・・・・・・)
 小さく溜息をつく。ひとの気も知らずに勝手な事言ってるよ。それと共に言い様の知れない怒りの感
情のようなものが湧いてくる。彼女らにしてみればいいだろう。ちょっと可愛い娘が色々な服を着て出
て来るのだから、それはそれで面白い出し物のような感覚で見ていられる。でも、当事者の綾波の立場
に立ってみろよ。何も分からないまま色々と着せ替えられて、人目に晒されて。何となく自分の身近な
人間が晒し物になっているようでいたたまれなくなった。綾波はただ外見が綺麗なだけの子じゃないん
だ、お人形さんなんかじゃないんだ。そこまで考えて、はっと気付く。
(・・・お人形さん・・・か・・・)
 もしかして、そのように捉えていたのは自分の方ではないだろうか。そう考えながら、ここへ来るま
での事をふと思い返してみる。普段見ることのない彼女を見てみたいという軽い気持ち。外見的なもの
に過ぎないのに、それを彼女の魅力の再発見のように思い込もうとしていた自分。彼女を“晒し物”に
おとしめていたのは自分なのではないのだろうか。果たして自分に背後の女性達の無責任な言動を責め
る資格があるのだろうか。
(・・・・・・)
(・・・悪いこと・・・しちゃったな・・・)
(・・・・・・)
(・・・でも・・・)
 自責の念にかられ、落ち込みゆく気持ち。その中でふと思う。でも先程思った事は嘘ではなかった。
本心から発した本当の自分の気持ちだった。自分の知っている彼女は、ただ容姿が良いだけの少女では
ないし、ただ従順で大人しいだけの少女ではない。そう。想いを凝らす。ただ優秀なパイロットである
だけではない。ただ無口で表情に乏しい少女であるだけではない。ただ孤独で心を閉ざしている少女で
あるだけではない。そこまで考えて自分に問うてみる。僕にとっての綾波はどんなひとなんだろう。
(・・・・・・)
(・・・・・・)
 言葉では言い表せない。ひとを表現する為には、言葉というものはあまりに限られているから。が、
確かにその感覚はある。或る空気のようなものが心に浮かび上がってくる。傍ら。彼女はいつも自分の
隣にいる。肩を並べて歩いている。言葉はない。楽しげな雰囲気がある訳でもない。それでも感じる。
笑顔でもなく、視線を落としてうつ向き加減に歩くだけの彼女に宿る、不思議な柔らかい空気。微かに
和んだような優しい感覚のようなもの。ふとした瞬間。確かにそれを感じる。それが彼女自身の本当の
姿なのだろうと思う。最も自然なかたちなのだろうと思う。
(・・・・・・)
(・・・そうだよな・・・)
(・・・それでいいんだよ・・・別に特別なことはいらないんだ・・・)
 霧が晴れる。そんな感じだった。先程まで身を包んでいた重い疲労感が霞むように消えていった。自
分が知っている彼女の姿。それがおぼろげにでも感じられてきたから。それが一番大切なことなんだ。
それが分かっていれば、目に見えるものなんてどうでも良かったんだ。改めて思う。馬鹿だったな、僕
は。綾波は綾波のままが一番いいのに。
(・・・終わろう・・・綾波・・・)
 閉じられている、ベージュのアコーディオンカーテンを見つめる。心の中でその向こう側にいる筈の
少女に呼び掛ける。ごめんね、綾波。嫌な思いさせちゃったよね。そして心密かに考えを固める。次に
あのカーテンが開いたら、どんな結果であろうとそれを最後にしよう、と。折角頑張って力を注いでく
れた店長のユミコには本当に申し訳ないが。それを申し出る事によって場の雰囲気が損なわれてしまう
かも知れない。嫌な思いをする人が何人もいるかも知れない。それでも気持ちは真っ直ぐに固まってい
た。もう必要ないから。綾波は綾波のままでいいんだから。
「・・・彼氏クン、準備いい?三回目いくよー。」
「・・・はい・・・。」
 今までにない、落ち着いた返答だった。中味が残り僅かになったガラス製のカップをテーブルの上に
置く。猫背気味になっていた背を真っ直ぐに伸ばし、ほんの少しだけ胸を張ってみる。次にどんな姿が
目の前に現れようと、決してうろたえないように。それは彼女の外見的な変化に過ぎないのだから。も
う彼女の本当の姿は自分の中にあるのだから。ただそれを信じていればいい。何も戸惑うことはない。
そう思いながら、じっとアコーディオンカーテンを見つめた。
「・・・じゃーん!今度はちょっとシックにまとめてみましたー!」
「・・・あ・・・」
 カーテンが開く。その瞬間までシンジの心は澄んだ泉のように静まっていた。が次の瞬間、小さな雫
がその表面に落ちた。不思議な感覚。心乱される訳ではなく、変な衝撃がある訳でもない。それでも心
の変化は確かに顕れる。まるで空洞になっていた心の一部に、ぴったりと合う形が不意に埋め込まれた
ような感じ。心の泉に落ちた雫が静かに波紋を広げてゆく。突然の、それでも静かに変わりゆく自分の
心を感じる。
「・・・お。今度は結構食いつきいいねー、彼氏クン。気に入った?」
「・・・・・・」
 今までとは違うシンジの顔付きを、面白そうに覗き込む店長のユミコ。その言葉もうわの空で聞き逃
してしまう。ただ一心に目の前の姿を見つめる。その先には、やはり少しばかり不安そうな表情で佇む
レイの姿。が前回や前々回と違い、その全身像から目を逸らすという事はしない。単純に、肌の露出度
が少ないという事もあったが、それは要素の一つでしかない。ひとことで言えば、その姿に心奪われて
いたのだ。
(・・・・・・)
(・・・僕の知ってる綾波の姿・・・)
(・・・僕の知らなかった綾波の姿・・・)
(・・・・・・)
(・・・いや、違う・・・)
(・・・僕の知ってる姿と同じなんだ・・・)
 全体的に明るく柔らかい配色だった。上は、ノースリーブの白地のニット。見るからに柔らかい生地
と緩やかにデザインされた丸首の部分が着やすさを表している。サマーニットとは言え網目は細かく、
デザイン的に考慮された網目模様だけで洗練された印象を造り出している点が、とても上品に見えた。
丈がそれ程長くないニットの裾が切れるか切れないかの所で、下のロングスカートが始まる。色は明る
いベージュ。ウエストの部分で細い皮のベルトで締め、後は自然に流されている。足元は裸足にデッキ
シューズ。耳元で控え目に輝く小さな銀のイヤリングが印象的だ。
「・・・こら、彼氏クン。ぼーっと見とれてないで、感想の一つも聞かせてよっ。」
「・・・え?あ、は、はい、すみません。」
 どのくらいの間だっただろうか。暫しぼんやりとその姿を見続けていた。つい先程まで深刻に考えて
いた内容を全て忘れてしまうくらいに、その姿は自然で美しかった。先立って見た二種類の服装とは明
らかに性質が異なる。今見ている組合せは、シンジの中にある彼女の印象とかなり近い位置で繋がって
いるように思われた。普段見ない彼女の姿ではあるが、決して彼女から離れ過ぎた印象ではない。寧ろ
自分の抱くイメージの延長線上にあるような感じ。まどろんだ感覚の中でそんな事を考えていると、不
意に店長のユミコの声で現実に引き戻された。我に返り、慌てて言われたことを反芻する。咄嗟のこと
で思うことがあまりまとまらない。これといった言葉の準備も出来ないまま、少し意地悪く笑うユミコ
の視線に追われるように口走ってしまう。
「・・・あ、あの、すごく綺麗だと思います・・・。」
「・・・ふーん・・・。」
 いかにも、という表情でニタ〜と笑うユミコ。その表情を目にしながら今自分が発してしまった言葉
を思い返し、思わず呆然とする。ば、ばか、何言ってるんだ僕は。顔の部分の温度が急速に増してくる
感覚。きっと赤くなっていると思う。羞恥にうつ向くシンジをよそに、ユミコが明るい声をレイに向け
る。
「よかったね、レイちゃん。彼氏クンのお墨付きだよ。そっかー。こういうお嬢様っぽいのが彼氏クン
の好みなんだねー。よしっ。少しポーズつけてみよっか。」
「・・・はい・・・」
 言葉につられるように視線を向け、あれ、と思う。気のせいだろうか。暫し見ているうちにそうでは
ないという事に気付く。小さな、それでも確かな変化。先程まで不安そうな色を浮かべていたレイの視
線が、今は穏やかな光で満ちている。何かに安堵したような和んだ表情。もちろん笑っている訳ではな
い。が、その印象は確かに伝わってくる。そうした目の前の変化は受け取れたが、理由はよく分からな
かった。ようやく厄介事が終わるから、ほっとしているのかな・・・?
「・・・っていう感じでね、軽く回ってみせて。ハイヒールじゃないから難しくないでしょ?」
「・・・はい・・・」
 考え事をしていたせいか、二人の会話はあまり耳に入ってこなかった。おかげで、これからどんな事
をするのか分からなかった。取り敢えず見ているしかない。そう思いながら目を向けていると、不意に
佇んでいたレイがその場でくるっと身を一回転させる。それだけだった。特に何ということもない動作
だった。が、回ったレイがまた元の姿勢に戻った瞬間、突如何とも言えない感覚が身に降りてきた。

 どきん

(・・・・・・!)
 自分でも驚くくらいの胸の高鳴り。何とも言えない、柔らかく強い感触。改めて一瞬前に目にしたそ
の姿を思い浮かべる。また強い高鳴りを感じる。洗練された服装で引き立てられた、全身のスタイルの
美しさ。微かに揺れる水色の髪と、耳元の銀のイヤリングが発する輝き。ほんの少しふわっと舞い上が
るロングスカートの裾。細く綺麗な足元。高鳴りは徐々に増してゆく。空白になった心の中。そこに一
つの言葉が落ちてくる。飾りもなく気遅れもない、たった一つの言葉。素直な気持ち。

 ・・・可愛い・・・

(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・ば、ばか・・・!)
 瞬時我に返り、激しく動揺する。顔がより一層紅潮する。いたたまれなくなって視線を落とす。鼓動
が速い。全身が熱で包まれてくる。何を考えているんだ僕は。綾波はただの同級生でただのパイロット
仲間なんだ。それ以上の関係は何もない筈なのに。別に僕の彼女でもないし、付き合ってる訳でもない
んだから。こんな事思うのはおかしいよ。どうかしてるよ僕は・・・。
(・・・・・・?)
 どのくらいその感情の高まりにとらわれていただろうか。少しだけ気持ちが落ち着いてきたところで
ふと気付く。背後がいやに騒がしい。恐る恐る目を向け、一瞬後すぐに顔を戻す。また違った戸惑いが
生じてくる。一体どうなっているんだろう。先程見た時には十人くらいだった野次馬が、いつの間にか
二十人以上の大所帯に膨れ上がっていた。店の格だろうかそれぞれ洗練された服装に身を包んだ若い女
性客達の、ずらりと並んだ姿はある種圧巻ではあった。ちょっとだけ興奮したように各々会話を交わし
ている。位置が近いせいか、否応なくその内容が耳に流れ込んできた。
「・・・ほんっと、可愛いよねー。」
「うん、前の二つもそれはそれで良かったけどねー。」
「やっぱ、最後のやつが一番似合ってるよね。」
「あ、あたしもそう思う。最後のが一番可愛いよー。」
「二つ目のは結構かわいかったけど、最後のには負けるよねー。」
「そーゆー意味では、やっぱり彼氏クンの目って確かだったんだよねー。」
「あ、そーだね。二つ目のやつボツにした時は、何で、て思ったけどね。」
「分かってたんだよ。さすが彼氏だよねー。」
「うん、自分の彼女に似合う服をちゃんと分かってるんだよ。いいよねー。」
「いいなー。あたしの彼氏なんててんで駄目だもん、そーゆーのさー。」
「あの彼氏クン結構可愛いし、さらっちゃおうか?なんか純粋そうでいいよね。」
「あ、駄目だよー。そんな事したらあの女の子泣いちゃうよ、きっと。」
「そうだよねー。何だかお似合いの二人だもんねー。」
(・・・・・・)
 思わず苦笑してしまう。本当に勝手な事言ってるなあ。が、それと共にほんの少しだけ心強さも感じ
る。よかった。僕だけの思い込みじゃなくて、誰が見ても似合う服装なんだ。それで徐々に気持ちが落
ち着いてくる。自分の心を冷静に受け止める余裕も出来てくる。そうだよ。別にむきになって考え込む
事なんてないんだ。僕自身が感じた事なんだから素直にそう思えばいいんだ。綾波らしさが顕れていて
いい服だねって、そんな風に思っていればいいんだよ。本当にそう思うんだから。ふと思い浮かべる。
この服を着て街を歩いているレイの姿。そよ風。揺れる髪。いつもと変わらない無表情。それでも確か
に感じるその印象。どこかしら柔らかく和んだような、穏やかな顔付きの彼女・・・。
「・・・・・・。」
「・・・あ・・・。」
 ふと気付く。にこにこと無邪気な笑みを浮かべながら、シンジの顔を覗き込んでいる店長のユミコの
姿に。何となく考えていた事を見通されているようで、恥ずかしくなって目を伏せた。一瞬、試着室の
中で佇んだままのレイの表情が目に入る。やはり変わらぬ無表情のまま。それでいてどこか和んだよう
な柔らかな印象・・・。


「・・・んー、そうだなー。サイズとか丈も問題ないし、丁度いいからこのまま着て帰って貰っちゃおっ
かなー。その方が楽でいいでしょ、ね、レイちゃん?」
「・・・・・・」
「あ、あの、そ、それは、そのちょっと・・・。」
「あはは。なーに顔赤くしてんの、彼氏クン。こんな可愛いカッコしたレイちゃんと並んで歩くと、ど
きどきしちゃう?それともナンパにーちゃんが寄って来そうでいや?」
「・・・・・・」
「い、いえ、そういう事では、その・・・。」
「ふふっ、どーよーしてるな。心配しないで、冗談よ。大体はぴったりなんだけど、ウェスト周りとか
ちょこっと詰めた方がいいしね。折角だからちゃんとした物渡したいし。そーゆー事で、後で発送する
から。それでいーよね、レイちゃん。」
「・・・はい・・・」
「・・・(ほっ)・・・」
「でも、今日はほんとにありがとねー。なんか久々にすごく楽しかった。レイちゃんみたいにとびきり
かわいー子に服合わせてあげるのって、ほんと楽しいんだよ。お陰で予想外にお客さんも盛り上がった
しねー。感謝してるんだ、レイちゃんにも彼氏クンにもねっ。」
「・・・・・・」
「・・・はあ・・・。」
「ね、もしレイちゃんさえ良ければこーゆーお仕事とかしてみない?きっとすごく人気出ると思うよ。
その気があるんだったら、あたしの知ってるモデルクラブとか紹介してあげてもいいし。どう、ちょっ
と考えてみない?」
「・・・・・・」
「あ、あの、そ、それは、そのちょっと・・・。」
「あはは。そんなにうろたえないのっ、彼氏クンも。じょーだんだよ。レイちゃんは今のままの方がい
いもんね。素直でちょっと内気で可愛くて。モデルさんとかあんま向かないよね。」
「・・・・・・」
「い、いや、そうではなくてですね、あの・・・。」
「ふふっ。いーんだよ、無理して隠さなくても。彼氏クンはほんとに大切なんだね、レイちゃんのこと
が。そーだよね。こんな優しい彼氏クンと離れたくないよね、レイちゃんも。」
「・・・・・・」
「・・・(いや、だからね)・・・」
 遂に最後まで誤解を解く事は出来なかった。


(・・・・・・)
(・・・・・・)
(・・・わからない・・・)
 夕暮れの道を歩く。それ程速い歩調ではない。広い歩道を淡々と歩んで行く。背後から差し込む夕方
の陽の光。少し眠い黄金色。影が長く前方に延びている。自分のものが一つ。そのすぐ隣に、同行者の
ものが一つ。レイは彼の歩く速度に歩調を合わせている。彼は自分よりも少し歩幅の狭いレイを気遣っ
てゆっくりと歩く。だから歩く速度は決して速くはない。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
(・・・・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・・・・)
 無言。買物をした場所を出てからずっと、会話もなく歩いていた。互いにただ黙って歩みを進めるだ
け。沈黙は別に気にならなかった。それは自分の感覚にとても近いものであったから。必要もないのに
無理をして人と口をきかなければならないという事はない。それはとても煩わしいこと。それは相手が
誰であろうと変わらない。
 が、それだけではないという事にレイは気付いている。この感覚は何?ショッピングモールを出る時
から。いや共に店を巡っている時も。元をただせば共に学校を出る時から延々と感じ続けてきた、不思
議な印象。何故そのような感触を覚えるのかはよく分からなかった。それでも確かに感じていた。柔ら
かく包み込むような、優しげな感覚。レイの好む水の感触によく似ている。が、全くそれと同じ訳でも
ない。暖かいものに触れて和んでいくような感じ。それが何であるのかは全く分からないまま、場に安
心する自分の姿がある。何、この気持ち。でも嫌じゃない・・・。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
(・・・・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・・・・)
 ずっと頭の中に引っ掛かっていた疑問。買い物の店を出て、延々とそれを考え続けていた。ループ状
に固定された思考回路。自分の中にその答えを見付けだすことが出来ない以上、何らかの方法で調べて
みなければならなかった。が、その方法すら掴めなかった。一体何を調べれば分かるのだろう。それと
共にふと根本的な問に気付く。何故私はそんな事が気になるのだろう。
「・・・あ、あのさ・・・。」
「・・・・・・?」
「何か、その、迷惑かけちゃったよね、色々と。僕が福引やろうなんて言わなければ良かったのに。だ
から、あの・・・ごめん・・・。」
(・・・・・・?)
 どのくらいの時間が過ぎただろうか。遠くにレイの住む古マンションの姿が見えてきた頃、ふと傍ら
の彼が口を開いた。声につられるように視線を上げる。夕陽に照らし出された彼の端正な横顔。少しば
かり困ったような笑みを浮かべていた。何故かそれはとても彼らしい表情だと思った。理由はないが。
それと共に少し戸惑う。何故謝りの言葉を口にするのだろう。福引と呼ばれるくじ引きを実際に行った
のは自分であるし、そういう意味では以後の全ての事柄はレイ自身が選び取った事なのだから。そう判
断した上で言葉を返す。
「・・・碇くんの・・・せいじゃないもの・・・」
「・・・え?あ、そ、そう・・・?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 それで会話は終わりだった。再び沈黙。二人並んでただ黙々と歩く中、ふと先程までの一連の出来事
を思い返す。本当に珍しい体験だった。一生のうちに一度あるかないかの事だった。そういう意味では
貴重な経験をしたと思っていた。
 最初から拒絶の道は断たれていた。強制的な力によって断たれた訳ではない。レイの手を引っ張り回
しながら次々と服を選んでゆく店長の表情が、あまりに純粋な喜びと善意に溢れていたので、レイにし
ては珍しく自分の意志を表すのが躊躇われたのだ。
 言われるがままに身に着けさせられた一着目。凄まじいまでの違和感を覚えた。露出度の多い構造に
実用性のなさを感じ、極端に短いスカートの裾の狭さに窮屈さを感じた。何よりも初めて体験したハイ
ヒールの感触がいけなかった。このように不安定な靴を履いて生活している人間がいるとは信じられな
かった。が、実際にレイの意志を固めたのはそれを目にしたシンジの様子だった。しきりに目を逸らし
困惑している彼の姿を見て、これは着てはならないものなのだと判断した。
 二着目に移っても、また別の違和感が身に湧いた。バスケットシューズになり足元の安定感は戻った
ものの、やはり妙に高い露出度が安全性という点でマイナスだった。それと共に気になった事。衣服の
下からはみ出ている自分の乳房を見て、以前にレイの裸体に凄まじい程の動揺を覚えていたシンジの姿
を思い出していた。あまり女性を意識させるような部分を露出させる事は、彼にとって好ましい事では
ないかも知れない。予想通り、頭を抱え込むシンジの姿があった。レイ自身は特に意識してはいなかっ
たが、この時既にシンジの反応がレイの中心的な判断基準になりつつあった。
 三着目。ふとそれまでとは違う感触を覚えた。不思議に身に馴染むような感じ。普段着ている学校の
制服やプラグスーツなどよりも、遥かに自分の身体に合っているような感覚。自然な印象。動いてみた
感じも特に窮屈さはなかった。まるで自分が着る為に用意されていたような感じ。それでも不安は残っ
た。シンジがどう思うか。だからそれまでとは全く違うシンジの反応を見た時、不思議な感覚の同一感
を覚えた。不思議なこと。私が身体に合うと思ったものを、碇くんも良いと判断したということ・・・。
「・・・あ、あのさ・・・こんな事言うのも変だけど・・・。」
「・・・・・・?」
「あの、いい服を選んで貰えて良かったよね。着るものが増えるのは悪いことじゃないし。」
「・・・いい服・・・」
 暫しの沈黙の後、不意にまた彼の声が響く。視線が自然に上がる。やはり少しだけ照れたような彼の
柔らかな笑顔。言われたことの内容を想い、言葉を反芻する。やはり自分の感じた事に間違いはなかっ
た。そう思いながらも改めて不思議な繋がりを感じる。何故碇くんはそう思ったのだろう。私がいいと
思ったものが分かったのだろう・・・。
「・・・あ。ぼ、僕がそう思っただけだから、気にしないで。綾波はそうは思わなかったかも知れないよ
ね。僕がただそう感じただけだから。」
「・・・・・・」
「でも、違和感がなくてとても自然な感じがしたんだ。何て言うか、綾波らしい服だなあって。そんな
に窮屈そうでもなかったし。」
「・・・・・・」
 そう言ってレイの方に顔を向ける。目が合い、次の瞬間彼が笑った。優しげな柔らかい笑顔が、夕陽
の黄金色の光の中に映える。自分に向けられた彼の優しい笑顔。初めてではない。それでもごく稀にし
か向けられないその表情。不思議な感覚。外気の暑気とは別に、身体の内部から暖かさが染み渡ってく
る感じ。それはとても心地好い感触。ふと微かに高鳴る胸の鼓動に気付く。意識の流れに微妙な変化が
加わる。
「・・・だから、ちょっと買い物に出る時とか着てみてもいいよね。」
「・・・・・・」
 それきり、また彼の視線が元に戻る。それと分かる笑みは消えたが、やはり柔らかく和んだ表情のま
ま前方を見つめている。暫しその横顔を見つめ、やがて視線を落とす。それと共に感じる身体的な変化
の顕れ。身体全体が、特に顔の部分が集中して熱くなる。胸の鼓動も先程より少しだけ速くなりつつあ
る。何故このような状態になるのだろう。移ろいゆく自分の心の変化がよく分からなかった。だから少
しだけ戸惑う。私は何を感じているのだろう。碇くんに何を感じているのだろう。
(・・・・・・)
(・・・・・・)
 斜めに差し込む夕陽の眠い光の中、また言葉もなく歩みを進める。二人肩を並べて。暫しの間感じて
いた不思議な高揚感は次第に収まっていった。もう顔も熱くない。心も澄んだ水の鏡のような落ち着き
を取り戻しつつあった。そしてまた先程まで考えていた問が頭の中に戻って来る。ループ状に固定され
た、返答値のない問。ふと一瞬、傍らに歩く彼に直接尋ねてみようか、と思う。が、何故かそうするこ
とが躊躇われる。特に理由がある訳ではない。それでも感覚的に何故か問うてはならないような感じを
受ける。だから問は延々と回り続ける。明確な返答も得られぬまま。
(・・・何故・・・?)
(・・・何故店のひとは・・・違う名前で碇くんに話し掛けていたの・・・?)
(・・・碇くんは“カレシくん”じゃないのに・・・何故・・・?)
(・・・わからない・・・)
(・・・何故碇くんも・・・その誤りを訂正しなかったの・・・?)
(・・・当たり前のように返答していた・・・何故・・・?)
(・・・わからない・・・)
(・・・“カレシ”というのは何かを表す単語なの・・・?)
(・・・それは誰に聞けば分かるの・・・何の本を調べれば分かるの・・・?)
(・・・わからない・・・)
(・・・わからない・・・)
 繰り返される問を胸に、ただ淡々と歩みを進めてゆく。恐らくレイは意識していなかっただろう。普
段よりもずっと和み、安心感を覚えている自分の姿に。それがまるで自然なことであるように受け止め
ていたのかも知れない。彼と肩を並べて歩く自分の姿を。


「・・・“カレシ”ってどんな意味・・・?」
「・・・・・・!」

 ぐ、げほっ!げほっ!げほっ!げほん!げほげほっ!ぐぇっ!げほっ!げほっ・・・!

(・・・し・・・死んじゃう・・・!)
 今日はいつもよりも大分暑かった。空調が完備されている本部内では特にそれを意識する事はなかっ
たが、外気を記憶した身体は自然に暑気に備えた状態になる。休憩時間を考えてパイロット3人で飲も
うと持ってきたペットボトルのアイスティーも、もう3分の1が無くなっていた。少し増えた体重を気
にして無糖のストレートティー。それを紙コップに注いで飲み込もうとした瞬間に、その突然の異変が
身を襲った。
「・・・はあ・・・はあ・・・。」
「・・・・・・」
 荒く息をつくアスカをじっと凝視するプラグスーツ姿のレイ。いつものように無表情。先程まで緩や
かな沈黙に包まれていたこの小さな休憩部屋に、突如騒然とした空気が満ちる。それは、レイの発した
たった一つの言葉から始まった。それがアスカの凄まじい混乱を引き起こしたのだ。一生の間にこれ程
激しく咽せることはそうそうないだろうと思った。
「・・・何よ、あたしに聞いたの?」
「・・・この部屋にはあなたしかいないわ・・・」
「・・・・・・。」
 視線を少しだけ落としたまま答えるレイ。普段通り。その身も蓋もない答え方が、少しばかり癪に触
る。んなこたー、分かってるわよ。何となくいい印象を覚えない。根本的に自分と彼女は相入れないと
つくづく思う。初めて顔を合わせた時からそうだった。それは仕方ない事だと思った。いちいち気にし
てたらきりがないわよ、全く。自分は大人なんだから、そう思って苛立ちかかった気持ちを何とか抑え
込んだ。
「・・・で、何処でそんな言葉覚えたのよ?アンタらしくないじゃない。」
 とどの詰まり、それに全てが集約される。どう逆立ちしてもこの少女の口からは一生出て来ないよう
な単語が突如飛び出したので、あれ程までに激しく咽せてしまったのだ。どーせ本を読んでて聞き慣れ
ない単語が出てきたからってぐらいでしょ。何でそんな事あたしに聞くのよ。ミサトにでも聞けばいい
じゃないの。そんな風に悪態をつきながら、ペットボトルの紅茶を紙コップに注ごうとする。
「・・・昨日、碇くんとシャツを買いに行って・・・」
「・・・・・・!」
 その手がぴたりと止まる。同時に思考の流れもぴたりと止まる。何気なく飛び込んで来た人名。それ
が瞬時アスカの心を捉える。何?優等生とシンジが一緒にシャツを買いに行った?ふと昨日の出来事を
思い出す。そう言えば放課後の別れる時にそんな事を言っていたような気がする。てっきり一人で行っ
たと思い込んでいた。帰宅した時も特に何も言わなかった。それはもしかして隠してたって事?このあ
たしに?
「・・・それで・・・福引をして・・・」
「・・・・・・」
 アスカの様子には何も気付かぬように、淡々とエピソードを語り続けるレイ。内容的には必要最低限
の事しか盛り込まれていなかったが、凡その事は想像出来た。途中からその内容が耳に入らなくなる。
胸の中で言い様の知れない怒りがふつふつと湧いてきた。最近、その手の話があまりに多過ぎる。以前
二人だけで本を買いに行った事があった。何故か分からないが、一緒に昼食をとった後丘に風景を眺め
に行き、しまいには映画まで一緒に見ていた。その時はかなりの怒りをシンジにぶつけた筈だったが、
その後も性懲りもなく、近所の犬を連れて散歩したり酔い潰れたのをいいことに夜遅くレイを自宅まで
送り届けたり、と色々な事をやっているようだった。これで二人の間に何もないと言う方がおかしい。
しかも、必ずその事をアスカに隠そうとするのが許せなかった。
(それだけじゃないわよ)
(なんで優等生の服をシンジが選んでやるのよ・・・)
(あたしが服を見に行くから付き合ってって言っても、すぐにやな顔するくせに・・・)
(きっと、でれ〜っとしながら見てたに決まってるわ・・・)
(・・・・・・)
(・・・何で相手が優等生だと、ほいほいついてっちゃうわけ・・・?)
(・・・何か、すんごいムカつく)
(・・・・・・)
(・・・折檻が必要ね・・・)
(・・・自業自得だわ、バカシンジ・・・!)
 怒りを募らせる中、ふと一瞬我に返る。何故ここまで腹を立てる必要があるのだろう。少し考えて、
すぐにその疑問をかき消す。同僚の二人がよしんばそのような関係になって、もしもエヴァの操縦に何
か影響するような事にでもなれば、その分の被害を被るのは自分である。だから自分にはそれを未然に
防ぐ義務がある。そんな理屈で無理矢理感情の高まりをねじ曲げた。そーよ、エヴァの操縦にはメンタ
ル面が深く影響するんだから。
(・・・違うわよ、別にシンジがどうだとかって訳じゃないんだから・・・)
(・・・あたしは、ただ自分の責任を果たすだけなんだから・・・)
 同居している少年の心がもう一方の少女に傾いているということについての、苛立ちや寂しさや不満
のようなものを全てねじ曲げて、自分の心を納得させる。が、それだけでは済まされない微妙な想いの
かけらのようなものが残る。何となく自分を安らかにさせる少年の空気。彼と接していると普段の気負
いが不思議に薄れていくような感覚。それに気付いては戸惑い、しまいには全てを怒りの感情に集約さ
せていく。今夜自宅で彼に与える罰の内容を頭の中で描いてゆく。具体的な手順ひとつひとつまで細か
く想像する。シンジ、あんたが自分で招いた結果なんだからね・・・。
「・・・それで・・・“カレシ”ってどういう意味なの・・・?」
「・・・へ・・・?」
 頭の中でパイルドライバーのイメージを描いていたところで、不意にその声に気付く。急に現実の時
間に引き戻される感じ。顔を上げると、変わらぬ無表情のままのレイの姿。それでようやく我に返る。
聞かれた内容を慌てて反芻し、咄嗟に考えを凝らす。えーと、何だっけ?彼氏がどうだって?
(・・・・・・)
(・・・ほんとに知らないのね・・・)
 ほんの少しだけ目を伏せたレイの澄んだ瞳を見つめ、改めてそう思う。最初に耳にした時は、からか
われているのかと思った。そうでないという事を確信し、少しばかり驚きを感じる。この少女には本当
に奇妙なところがある。かなり大人びて悟っている部分があると思いきや、何でもないような事を知ら
なかったりする。一体どういう育てられ方してきたのよ・・・。
(・・・うーん・・・)
(・・・どうしよっかな・・・?)
 言葉の意味そのままを口に出そうとして、一瞬思い止まる。それを伝えた結果、どのような事態が発
生するだろうか。この少女の事だから別にそこに何の感想を抱くこともないだろう。寧ろ煩わしさを感
じて今まで以上に人を避けるようになるかも知れない。そんな事は大体予測できた。十中八九はそうな
るだろう、きっと。
(・・・でも・・・)
 悪い予感。根拠のない不安に突如駆られる。もしも残りの“一”が起きたりしたら。言葉の意味を知
る事によって互いに意識し始め、遂にはそういう関係にまで発展してしまったら。そんな事は有り得な
い。慌てて想像を打ち消す。が、依然として言い様の知れない不安は残る。そうなってしまうような素
地は十分にあるのではないか。アスカの知らない領域で、何となく近い感覚を互いに持ち合わせている
彼らなのだから。一旦そう考えると、想像はどんどん悪い方へ進んで行く。
(・・・・・・)
(・・・やっぱだめ、ほんとの事は言えない・・・)
 それが結論だった。そう考えた後で、慌てて無理矢理に理屈を繋げる。だって、そんな事わざわざ教
えてやらなきゃいけない理由なんて何処にもないじゃない。あたしは別に優等生の姉貴でもなんでもな
いんだから。そうよ。大体、エヴァとは何も関係ない事だし・・・。
「・・・あ、そうそう“彼氏”の意味だっけ。えっとねー、あたしもこっち来てそんなに長くないから詳
しくは分かんないけど。まあ、あれよ、代名詞の一種。ちょっと特殊な使い方のね。」
「・・・・・・」
「女の子と一緒にいる男の子をそうやって呼ぶの。もちろん本人がいない時でもオッケー。“あいつ”
とかと同じ用途で使えるから。それと大事なことが一つあって、相手がその男の子の事をよく知らない
時に使う呼び方なのよ、“彼氏”は。だからネルフの人は誰もシンジの事を“彼氏”だなんて呼ばない
でしょ?」
「・・・・・・」
 無言のまま小さく頷くレイ。その瞳には疑いのかけらも見て取れない。どうやら本気でアスカの言っ
ている事を信じているようだった。その姿を見て、心密かに後ろめたさを感じる。何かあたし、もしか
してすごく酷い事をしてるかも知れない。が、それで流れる言葉が止められる事はなかった。
「別に組合せはどうでもいいの。あんたとシンジが一緒にいればシンジはあんたにとっての“彼氏”だ
し、あたしと一緒にいればあたしの“彼氏”なの。ま、こんなとこかしら。あたしの知ってる“彼氏”
の意味合いって。」
「・・・そう・・・」
 言葉を発しながら段々と惨めになっていった。何でシンジがあたしの彼氏なのよ。自分のついている
嘘に半ば呆れ返っていた。何故こんな馬鹿げた作り話までして、この場を乗り切らなければならないの
だろうか。ただ知らないことを無心に聞いてきた相手に嘘をついているという罪悪感と、説明しきれな
い感情の末にそんな嘘を突き通してしまった情けなさで、奈落の底まで突き落とされてしまったような
気分だった。
(・・・もう、最悪な気分・・・!)
(・・・バカシンジのせいなんだから・・・絶対許さない・・・!)
 やりきれない気持ちを全てシンジへの怒りに向ける。そうでもしなければ収まらなかった。再び怒り
をふつふつと湧き上がらせる。今夜はもう容赦しないことに決めた。全部説明して謝ったって許してや
らないんだから。足腰立てないようにしてやる。そうして無表情のまま椅子に腰掛けるレイを前に独り
怒りを身を震わせていると、不意に休憩室の扉が開いた。青色を基調としたプラグスーツ姿。爽やかな
笑顔。
「・・・はあ、やっと終わったよ。ほんと参っちゃった。システム終了寸前でログデータのディスクが障
害になっちゃってさ。調査が終わるまでずっと外に出られなかったんだよ。」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 シンジが入って来る。何も知らずに無邪気な笑みを浮かべている。ちらっと目の前のレイを見ると、
もうそれきり口を開くような様子はない。シンジのいる所では会話を出したくないという事だろうか。
何故かそうした気遣いの姿勢が気に入らなかった。そう考えていると、歩いて来たシンジが頭部に装着
するオペレーションセンサーをレイの座る長椅子の端に置いた。という事はレイの隣に座るつもりなの
だろうか。そんな些細な事にさえ苛立ちを感じる。そうしてるうちに、シンジと目が合った。
「あ、紅茶買ってきたの、アスカ?一杯貰ってもいい?ずっと中に閉じ込められっぱなしだったから、
もう喉がカラカラなんだよ。」
「うん、いいわよー。一杯と言わずに2、3杯どう?冷えてるから美味しいわよー。」
 元気のいい猫撫で声気味の返事。明るく可憐な笑顔。ありがとう、と言いながらテーブルに積まれた
紙コップの一つを取って、紅茶を注ぎ始めるシンジ。どうやら気付きはしなかったようだった。満面の
笑顔の中で、冷ややかに輝く目の表情には。そこには凄まじい程の怒りの光が満ちていた。それでいて
実に美しいアスカの笑顔。これ程恐ろしいものはなかった。

 繰り返し言っておこう。シンジはアスカの“笑顔”に気付くことはなかった。哀れな小羊は、自分を
待ち受ける凄惨な運命を知るよしもなかったのだ。その夜に執り行われる生贄の儀式を。


「・・・それではこちら、お荷物と控えになりますので。」
「・・・はい・・・」
 狐につままれたような表情で、宅急便のドライバーが去ってゆく。恐らく彼の経験の中でも初めての
事だっただろう。廃墟かと思われたこのマンションに、届けものの指定があったという事は。閉じられ
た玄関の扉を背に、部屋へと進む。60センチ四方、幅10センチくらいの白い箱を持って。
「・・・・・・」
 第二土曜日で学校は休み。今日はエヴァのテストは夕刻からだった。特にする事もなく制服姿でベッ
ドに腰掛けて本を読んでいると、ノックの音と聞き慣れない男性の呼び声が聞こえてきた。そうして受
け取ったのが、今手にしている荷物。発送人の名前に聞き覚えがあったので、そのまま受け取ることに
したのだ。
「・・・・・・」
 端を止めている透明のテープをゆっくりと剥がし、蓋の部分を開ける。中には見覚えのある白いニッ
ト地があった。涼しげな丸首の部分。畳まれて入れてあるのだろう。端の方にベージュの生地がはみ出
ているのが見える。スカートは下に入っているのだろうか。そしてニット地にピンで留められている、
一枚の紙に気付く。便箋のようだった。紙の下の部分にはやはり同じピンで二つの銀のイヤリングが留
められていた。注意深くそれらのピンを外して、便箋を手に取る。少し右上がりの綺麗な手書き文字が
並んでいた。

 可愛いレイちゃんへ

  サイズ直しが出来上がったので、服を送付致します。待たせちゃってごめんね。一応、モールの
 事業部さんとは服だけのプレゼントっていう約束だったけど、レイちゃんは可愛かったのでイヤリ
 ングと靴も付ける事にしました。私からのサービスだから、気兼ねなく使って下さい。
  もう少し大きくなったら、また二人一緒にお店の方に来てみて下さい。今度は何かお買いものし
 てくれたら嬉しいな、なんてね。大人になってもっともっと美人になったレイちゃんに会う日を楽
 しみに待ってます。

                  Terano第三新東京ニュータウンモール支店長 中森ユミコ

「・・・・・・」
 幾度か読み返した後、視線を箱の中の服の方に移す。暫しの沈黙。窓から午前の涼しげな風が吹き込
んでくる。遠くに聞こえる車の音。それ程騒がしくはなっていない蝉の声。陽の光が差し込む静寂の部
屋の中、独り送られてきたばかりの衣服に視線を注ぐ。少しずつ戻って来るあの日の感覚。制服よりも
プラグスーツよりも身にぴったりと馴染んだ、不思議な肌触り。
(・・・・・・)
(・・・私の服・・・)
(・・・私に与えられた服・・・)
(・・・それは分かる・・・でも・・・)
(・・・・・・)
(・・・どうすればいいの・・・?)
(・・・着るの・・・着てもいいの・・・?)
(・・・・・・)
 手元にあるという事。それは理解していた。ここにあるものが自分の衣服だという事も。が、それを
どのように生活に展開させれば良いかが分からなかった。元々自分の生活の中では、衣服というものは
それ程大きな部分を占めている訳ではない。命じられて着ているもの。弱い皮膚を守るために身に着け
ているもの。それ以上の意味は持っていない。現に今こうして身に着けている学校の制服。それに不満
を抱いた事など一度もない。特に都合が悪いという事もなく、現在の生活を保っている。この生活の何
処に新しい衣服が入り込む余地があるだろうか。その点がよく分からなかった。答えの出ない問が頭の
中で繰り返される。暫しそうやってじっと箱の中の服を見つめながら考え続けていた。
“・・・だから、ちょっと買い物に出る時とか着てみてもいいよね”
「・・・・・・!」
 不意にその声が心の中に響く。よく知っている、一人の少年が口にした言葉。この服に密接に関係す
る彼の言葉が急に思い出されたのは、ある意味偶然ではなかったのだろう。ちょっと買い物に出る時。
何度かその言葉を頭の中で繰り返す。この服はそういう用途で使えば良いのだろうか。でも、と一瞬考
え直す。自分はそれ程頻繁に買い物にでる訳でもないが。そこまで考えて、ふと連鎖的に思い出す。
「・・・・・・」
「・・・買い物・・・」
「・・・・・・」
 思わず呟く。そう言えば昨晩遅く部屋に着いた時、冷蔵庫の中のミネラルウォーターが切れかかって
いるのに気付いたのだった。明日にでも購入しなければ。その時そう思ったのを思い出した。消耗品の
類は気付いた時に買わなければ、後々困ることになる。そう考えながら、意識を目の前の箱に戻す。思
わぬ偶然だが、丁度買い物に出る用事が出来てしまった。
“・・・だから、ちょっと買い物に出る時とか着てみてもいいよね。”
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 また彼の声が頭の中で響く。それと共にその時の光景も蘇ってくる。夕陽の黄金色の光の中、優しく
笑う彼の表情。自分一人にだけ向けられた彼の笑顔。身体を包む不思議な感触。何処となく暖かく、静
かな安心感に満ちたような。それを感じ、また言葉を思い返す。幾度も幾度も。
「・・・・・・」
 簡素な家具たちが静かに眠る、時の止まったようなその明るい部屋の中、彼女はただじっと目の前の
箱を凝視している。夏の午前の風が静かに吹き込んで来て、彼女の柔らかな水色の髪を優しく撫でて通
り過ぎてゆく。


「・・・えっと、合計で894円になります。」
「・・・はい・・・」
「あ、はい。カードお預かりします。」
「・・・・・・」
 暫し沈黙の時間が流れる。いつも思うことだが、このコンビニエンスストアのカード処理は妙に時間
がかかる。システム上の問題だろうか。それとも端末の形式が古いのだろうか。いずれにせよ改善の余
地が十分に見られる。取り敢えずそれで煩わしさを感じた事はないが。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 レイの住むマンションから一番近いこのコンビニエンスストアを使うことは多かった。消耗品の類は
殆どここで入手していた。ふと気付いて目の前でじっとPOS端末を見つめる店員の少女を見る。長い
黒髪はポニーテールで結われている。どちらかと言うとおっとりとした感じの風貌で、あまり忙しい時
間をこなせそうには見えない。時間的な都合なのだろうか。レイが来るといつもこの少女が店に入って
いた。レイが今の場所で生活を始めてからもう一年以上が経つので、そういう意味では顔馴染みと言え
なくもなかったが、無論会話を交わした事などなかった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 目の前にあるビニールの包みに目を遣る。店に来てから思い出し、石鹸を2、3個と包帯の追加も合
わせて買い求めた。消耗品というのは気付かなければ中々購入するタイミングが見つからない。今日買
い求めたものはどのくらい持つだろうか。そんな事を考えていると、不意に声が耳に入った。
「・・・あの・・・素敵な服ですね。」
「・・・・・・?」
 誰が誰に向けて言った言葉だろうか。この店には今のところ店員の少女と自分しかいない筈だが。そ
う思いながら視線を上げると、柔らかな微笑みを浮かべた店員の少女の姿があった。それでようやく自
分に向けられて発せられた言葉だという事に気付いた。それと共に戸惑い。今まで互いに顔は知ってい
ただろうが、レジ業務以外の言葉など掛けられるのは初めてだった。何故彼女は急に話し掛けたりした
のだろう。
(・・・・・・)
(・・・“素敵な服”・・・私が着ている服の事・・・?)
(・・・いつもの制服じゃないから・・・きっと・・・)
(・・・・・・)
(・・・誉めてくれている・・・“素敵”というのはそういう言葉・・・)
(・・・このひとは・・・私の服を誉めている・・・)
(・・・・・・)
(・・・こんな時・・・どんな風に答えればいいの・・・?)
(・・・どんな言葉を返せばいいの・・・?)
 戸惑い。今までに体験したことのない事だった。見ず知らずの他人が自分の着ている服を誉めてくれ
たという事。体験から引き出すことの出来ない対処法を求めて考えを凝らす。幾ら考えても答えは出て
来そうにない。それ程焦りの気持ちはない。別に返答を強いられている訳ではないから。そのままカー
ドを受け取って店を出てしまえばいい。そう思いかけた瞬間、ふとある一つの事柄が頭の中に浮かび上
がる。
(・・・知らない相手・・・私の人間関係も知らない・・・)
(・・・・・・)
(・・・試してみても・・・いいかも知れない・・・)
 つい先日教わったひとの形容の仕方を頭の中で思い返す。その時はあまりよく把握出来なかったが、
ふと今のこの状況は良い機会かも知れないと思った。自分で実際に用いてみれば分かるだろう。間違っ
た使い方をすれば、相手の反応ですぐ分かるだろうから。心に決めたら後は速かった。目の前の少女に
伝えるべき内容を頭の中で組み立てる。そう。知らないひとに彼の存在を伝えるには、このように表現
すれば良いのだろう。
「・・・“カレシ”が・・・選んでくれたんです・・・」
 口にしてすぐに少女の表情を見る。何処か変なところはあっただろうか。そんな心配だけが心の中に
あった。だから、次の瞬間顕れたその表情の変化に小さな驚きを感じた。店員の少女はレイの返答を受
けて、にっこりと笑ったのだ。明るく優しい笑顔。何かを心から喜ぶような笑み。
「まあ、とっても素敵な彼氏ですね。すごく似合ってますよ。」
「・・・・・・?」
 全く予想してなかった反応だった。自分はただ実際の出来事を伝えただけだったのに。丁度支払い処
理が終わったのか、カードが返される。ありがとうございました、また起こし下さいませ、という営業
の定型文が続き、最後にまた店員の少女がにこっと笑う。今度こそ対応の仕方が分からなかった。戸惑
い。品物の入ったビニール袋とカードを受け取り、小さく頭を下げて踵を返した。出入口に向かいなが
ら考える。言葉の使い方は間違っていなかったようだ。が、まだまだ“カレシ”という言葉には謎が多
いと思った。何かもっと深い意味でもあるのだろうか。今度機会があったらまた調べよう。
(・・・・・・)
(・・・何故あのひとはそう思ったの・・・?)
(・・・碇くんの事を・・・“素敵”だと思ったの・・・?)
(・・・碇くんの事は知らない筈なのに・・・)
(・・・顔も見た事がない筈なのに・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・わからない・・・)
(・・・・・・)


(・・・・・・)
(・・・・・・)
 広い歩道を歩いてゆく。裸足の足に感じるデッキシューズの中の感触。普段履いている革靴よりも軽
い感じが心地好い。両手でコンビニエンスストアの袋を持って歩く。土曜の午前中の街の風景。今日は
昨日に比べて大分涼しいように思われる。ここ数日では珍しい事だった。透き通った爽やかな風が抜け
てゆく。その度に肩まで出ている両の腕に感じる涼しさが心地好い。サマーニットがこれ程にすごしや
すい衣類だとは知らなかった。
(・・・・・・)
 今日は、先日買い求めたCカップの下着を着けているから、いつも感じるような妙な圧迫感はまるで
ない。このブラジャーを使うようになってから、胸の下着に対する認識が大きく変わった。そのうち機
会を見付けて、残りのブラジャーも全て取り替えてしまおうと思っている。
(・・・・・・)
 それ程強くはない涼風が抜けていく度、身体の色々な部分が微かに揺れる。今日はそういう事が一つ
一つ心地好かった。例えばそれは、軽い生地のロングスカートの裾であったり、それ程長くはない水色
の髪であったり、手に持ったコンビニエンスストアの袋であったり、両の耳たぶに付けた小さな銀のイ
ヤリングであったり。きっと普段身に着けている学校の制服では、このように感じたりはしなかっただ
ろう。そんな自分の心境の変化を不思議に思いつつも、自然に受け止めていた。
(・・・・・・)
 少し大きな交差点。今まで歩いて来た一車線道路脇の大きな歩道と、二車線の国道脇の広い歩道が重
なり合った、ちょっとした広場ぐらいの広さを持つ角に差しかかる。丁度信号の切り替わりで進行方向
が赤になる。国道側の青信号なので少し待たなければならないだろう。持っていた袋を地面に置く。二
本のペットボトルはそこそこの重さだったから。その代わり地面に置く時にはいい支えになる。
(・・・・・・)
(・・・・・・?)
 ふと気付く。微妙な自分の心の変化に。行きの道と帰りの道で、これ程までに心の中の感じが変わっ
ている。これという明確な言葉で指し示すことは出来ない。それでも確かに感じている。何となく普段
よりも生き生きとした感覚で満たされている自分の心。こんな事は初めてだった。それがどういう気持
ちかも分からなかった。ただその発端は何となく察していた。あのコンビニエンスストアを一歩出た瞬
間から。今まで止まっていた身体のある一部分の時計が不意に時を刻み始めた、そんな感じ。
(・・・・・・)
(・・・“カレシ”・・・“カレシ”は素敵なひと・・・)
(・・・“カレシ”は碇くん・・・)
(・・・碇くんが選んでくれた服・・・)
(・・・私と同じ心で選んだ服・・・)
(・・・・・・)
(・・・何・・・この気持ち・・・?)
(・・・でも嫌じゃない・・・)
(・・・心地好い・・・)
(・・・・・・)
 自分の気持ちをあまりよく言い表わすことは出来ない。だから、もしかしたらレイ自身それ程に意識
していない事なのかも知れない。何故かは分からないが、シンジが誉められたという事。シンジがレイ
の為に選んだ服が誉められたという事。それがレイの心に不思議な明るさと静かな活気を与えていた。
そしてレイ自身が意識していない事がもう一つ。これが他の誰であってもそんな気持ちにはならなかっ
ただろうという事。リツコが選んだのでもなくゲンドウが選んだのでもない。ミサトでもアスカでもな
い。シンジがそれを選んだという事。それが一番大きな要因であるのだということ。
(・・・・・・)
(・・・何・・・?)
(・・・・・・)
(・・・でも・・・)
 ふと何かの悪戯のように心に落ちてきた考え。何ということもない、少しばかり馬鹿げたこと。普段
のレイならば瞬時に忘れ去っているような意識の断片。それが急速に心の中に広がってゆく。不思議に
高揚した気持ちがそれに拍車をかける。今日の自分はどうかしてしまったのかも知れない。そう思いな
がらも心の片側でその小さな企てを固めていく。意味のないこと。おかしいこと。でも今の自分はそれ
をやってみようとしている。
(・・・・・・)
 きょろきょろと辺りを見回してみる。信号だけが馬鹿正直に規制を続けているだけで、車の通りは驚
くほど少ない。遥か向こうを見渡しても向かって来る車は一台もない。加えて、人の姿も全くない。周
りがオフィス街で土曜日の午前中ということもあり、人っ子一人歩いていないような感じだった。それ
だけの事を確認すると、小さく心を決める。別に誰が見ていても構いはしなかったのだが、僅かに残る
理性のかけらがほんの少しだけ羞恥の感覚を保っていたのかも知れない。普段と違うこと。いつもとは
少しだけ違う自分。小さく息を吸い込む。
(・・・碇くんが選んでくれた服・・・)
(・・・碇くんは私の“カレシ”・・・)
(・・・とても素敵な“カレシ”・・・)

 くるっ

 いつぞや高級ブランドショップの試着室の中で言われた通りにやってみた小さなターン。誰もいない
街の片隅で、広い交差点の角の小さなステージで、そのちょっとした戯れが行われた。誰も見ていない
小さな余興。でも彼女自身が見ていた。ほんの少し上気したような自分の心を。自分の身体から発せら
れる微かな喜びの顕れを。自分でやってみようと思ったこと。いつもとは少しだけ違う自分。それを何
の躊躇いもなく受け止めていた。とても自然に。
(・・・・・・)
 ほんの少しだけふわっと浮き上がったロングスカートの裾。微かに揺れる水色の髪と、耳元のイヤリ
ング。身体全体を通り抜けていく涼しげな風。一瞬だけくるりと回った周囲の風景。それら全てが一つ
になって不思議な感覚を彼女に与えた。彼女はただ素直にそれを“心地好い”と感じた。彼女が想う、
ただ一人のひとの印象と共に。
(・・・・・・)
 数十秒後、信号が青に変わる。足元のコンビニエンスストアの袋を持ち上げ、何事もなかったかのよ
うに彼女は歩き出す。歩調にも特に変化はない。いつもと同じ。淡々とした歩み。涼しげな風が彼女の
身体を柔らかく撫でてゆく。また少しだけ揺れる水色の髪と銀のイヤリング、柔らかな生地のロングス
カートと、両手で持っているコンビニ袋。




自分でもよくは分からない

この気持ちが何処から来るのか



気まぐれのようなものかも知れない

ちょっとした心変わりかも知れない



それでも一つだけ言える

それはわたしの中にあるということ



きっかけは与えられたものかも知れない

でもこの気持ちはわたしのもの



わたしから生まれて

わたしが感じて



それがわたしを少しだけ変えて

そしてまたわたしの中に帰って行く



よくは分からない

上手く言い表わすことは出来ない



でも

確かに感じている






そう、弾む気持ち
















to Contents


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です

Written by "Kame" for "Piece of Dream".

Please Mail to Mr.Kame

POD管理人よりちょっとだけお節介(^_^)