「DeepRed-Eyes」





 鋭い銀色が、部屋の明りを集めて細い光を形作る。それが何の抵抗もなく白く細い腕にするりと滑り込む。伝わってくる小さな、それでもはっきりした痛み。
 でももう慣れてしまった。痛みは私にとっては近しいものだ。それにこうやって投与されている膨大な量の薬物が、私の不安定な体を支えていることも確かだからだ。
 週に二度はこうして検診と薬物の投与を受ける。以前よりは安定してきたが、それでも定期的なメンテナンスを受けなければ、日常生活に支障が出てしまう。
 脆弱な身体。それが私の身体だ。華奢な体つき。色素の抜けた白い肌、そして髪。緋色の眸。

 それが私。

 綾波レイという、存在。


 針が腕から抜かれる、その瞬間が好きだ。感じていた痛みが引いたとき、ほんの一瞬だけ腕が軽くなるような感覚を覚えるからだ。でもそれはすぐに消えてしまって、かわりにむず痒さだけが残る。仕方なく私は、目の前の白衣の女性に視線を移す。
 赤木博士は私の身体をまるでモノのように扱う。でもそれでいい。彼女には私を、例えば彼女の友人のように扱って欲しくなどない。そうする価値など私には無いのだし、そうやって彼女が彼女自身の良心を誤魔化すために私を利用するのを見たくはない。
 彼女にとって私は被験者であり、私にとっては彼女は私の身体をメンテナンスする唯一の存在だ。それ以上でも以下でもない。それが私たちの絆のカタチだった。

 でも最近、時々その枠を越えてしまいそうになる時がある。

(赤木博士。私を殺してください)

 ふいにそんな言葉が喉元まで込みあがってきて、私はそれを抑えるのに苦労しなければならない。
 本当に自分がそれを望んでいるのか、よくわからない。でもそれを口に出すという誘惑は、飲み込むのに相当な努力が必要なくらい強いものだった。
 私は人形ではない。ただ人形の役を演じているに過ぎない。だから今の自分を壊してしまいたい。開放されたい。そんな思いが、時折私の身を震わせる。

 多分私は、「今の自分」というこの存在が、疎ましくて仕方がないのだ。

 ひょっとして私が彼女と彼女の愛人との仲を口にすれば、逆上した彼女が私という存在を消し去ってくれるかもしれない。彼女の母親が一人目の私を手にかけたときのように。
 そうしてみたい、という密かな欲求は、日々私の中に脹れ上がりつつある。
 だがそんなことをしてもおそらく無意味だ。例え今の私が死んでも、次の私が生まれてくるだけだ。一人目の私が今の私ではないのと同じように、私であって私でない私が。そのことが私を思い止どまらせる。

 私は私でしかない。私は、今の私以外の存在になどなれない。

 それは絶望ではなく事実として私の上にのしかかる。絶望とならないのは、単に私が絶望という感情が理解できないからに過ぎない。
 絶望とは人間の精神の最後の逃げ場所だと、何かの本で読んだ憶えがある。その逃げ場所すら閉ざされてしまっている私が平然としていられるのは、私には「絶望」という感情がどんなものなのかよく理解できていないからに他ならない。多分それは私が人間ですらないからなのだろう。

 私の精神構造は人間のそれに極めて近い形に再構築されているのだそうだ。だから本来なら彼らが持っている「感情」も再現されている筈なのだが、完全に同一ではないせいなのか、私にはその「感情」というものを未だに理解しかねることの方が圧倒的に多い。それで周囲の人間たちに不可解な顔をされてしまうことも多々ある。

 とはいえ、全く理解できないというわけでもない。


 例えば、希望、という言葉だ。


 これまでそれは、私には縁遠い言葉だった。
 それが少しだけ変化したのは、碇シンジが初号機パイロットに着任した頃からだった。
 彼の存在は、私が漠然と思い描いていた「希望」に最も近かった。但しそれは、彼が私にとっての「希望」なのではなく、私が漠然と抱いている「希望」を彼は叶えることができるからだった。

 そう、彼は選ぶことができる。「今とはちがう自分になれる」という「未来」を。

 私にはそれがない。私は私でしかない。どれほどあがこうとしても、私以外の私にはなれない。そしてそれはこの先もずっと変わらないのだ。

 例えば、碇司令も私と同じだ。赤木博士。葛城三佐。そして弐号機パイロットでさえも。みんな私と同じく、自分以外の人間にはなれない。何故なら自分の居場所を作るために、自身の出口を自身で固く閉ざしてしまっているからだ。

 でも彼は違う。彼は、彼自身さえ望めば初号機パイロット以外の存在になることができる。「ただの一民間人であった碇シンジ」に戻ることさえできる。
 私がどんなに欲しても絶対に得られないものを彼は持っていて、しかも彼はそれが何よりも得難いものだということなどと思いもしないのだ。

 それが私には妬ましい。妬ましくて仕方がない。


 皮肉なことにそうして芽生えた心の動きが、私が知った初めての「感情」だった。そしてそれをきっかけにして私は、実は私の中にはさまざまな感情が蠢いているのだということに気付いたのだった。
 例えば最近では、弐号機パイロットが私にどんな感情を抱いているのか、ほんの少しだが分かってきたような気がしている。
 そう思うようになったのは、自分の中に嫉妬という感情が芽生えたことを知ったからだった。人は自分に向けられている感情を、想像することによってしか知ることはできない。彼女が私に対して嫉妬ような思いを抱いていることが分かるようになったのは、自分がそれと同じものを碇シンジに向けるようになったからだ。
 そういうことに興味を抱くなど、以前の私ならばとても考えられないことだった。



 彼と同じ存在になりたい。彼のように「希望」を私自身のものとして感じてみたい。



 だがそれは、おそらく叶えられることはない。私に与えられた役目が終わり無へと帰るその時まで、それは望むべくもないことなのだ。
 それは、一人目の私が生まれたときからそう定められていたことだ。そしてこれから生まれてくるであろう、次の私へも引き継がれて行く運命なのだ。










 時折、どうしようもなく煙草が欲しくなるときがある。

 いがらっぽいような独特の芳香。喉の奥を滑り降りていく煙の刺激。口に残る不思議と甘い舌触り。


 私の形質情報の提供者は、かつて常習的な喫煙者であったと聞いている。とはいえ、もちろん単なるその複製でしかない私に、その習慣が引き継がれている訳ではない。

 きっかけは、たいてい赤木博士だ。
 彼女こそ過剰なくらいの喫煙依存症なのだが、私が居るときにはその素振りはまったく見せない。ただ彼女の使う口紅の付いた吸い殻で溢れかえった灰皿が、時折片付けられないまま机の端にぽつりと置き去られていることがあって、それでようやく彼女の喫煙癖の一端を見ることができる。
 その無造作な消し方をされた吸い差しの跡を見て、私は彼女が煙草をふかしている場面を想像してみることがある。きっとろくに味も分からぬまま火を付けた端から揉み消していくのだろう。だからその吸い差しは半分近くも残っているか、あるいは忘れ去られるままにほとんど灰になっているかのどちらかだった。


 一度だけ赤木博士に、「私にも下さい」と云ったことがある。その時の返事は、

「子供の吸うものじゃないわ」

という疲れたような、ひどく素っ気ないものだった。


 だが、実は一度だけ赤木博士の目を盗んで、彼女の煙草の箱から一本こっそりくすねたことがある。
 自分の居室に持ち帰った私は、普段使うことのないコンロで前髪を少し焦がしながら煙草に火を付けた。見よう見まねのつもりだったのだが、不思議なもので思ったよりうまく火が付いて、だから逆に濃いニコチンの煙を思い切り吸い込んでしまってひどく咳き込んでしまった。
 それでも何口かふかすうちにコツを掴んだようで、私は少し余裕さえもってその独特の芳香を楽しむことができた。
 そのほんの短い間、私は赤木博士の返答のことをぼんやりと考えていた。そのごく短い言葉から、意識してか無意識なのかは分からないが、彼女はいちおう私を「子供」として認識しているらしい、ということが分かったからだ。被験者である私をそうして「子供」と呼ぶなど、普段の赤木博士からすると考えられないことだった。それは私を人間扱いしているということだからだ。
 ひょっとしてそれは、彼女の愛人が原因なのかもしれない。彼女の愛人が彼女を伴って私の前に現れるとき、赤木博士は明らかにいつもと違う表情をしている。なんというか……、普段の疲れた様子からすると、別人のようだ。私はその表情が嫌いではない。そういう時の彼女はいつもよりも少々荒っぽくて、私を本当にモノのように扱うからだ。いや、正しくは、あえてモノのように扱おうとするからだ。
 そのとき私は、彼女にいつもよりも強い絆を感じる。誰かを通してにせよ、彼女の関心が私そのものに向けられているのが分かるからだ。
 そのときだけ私は、「人形を演じている誰か」になれる気がする。それはささやかな、ほんのささやかな「希望」なのだが。


 でも本当は赤木博士が見ているのは、私の形質情報提供者のことなのかもしれない。

 私の形質情報提供者について、私はほとんど何も知らない。一度だけ写真を見たことがあったが、そのときはまだ今の私ではなかったし、特に関心もなくてただなんとなく眺めていただけなので、その輪郭の記憶はひどく曖昧だった。今となっては惜しいことをしたと思う。何故なら形質情報提供者の配偶者、つまり碇司令は、その直後にすべての写真を処分してしまったからだ。



 そう、一人目の私の記憶は、確かに私の中にある。その気になれば、赤木博士の母親が一人目の私の首に手をかけたときのことさえ思い出すことができる。ぎりぎりと私の首に食い込いこんでいく手の感触。空気を求めてあえぐ腹膜筋。目の前の怒りに醜く歪んだ白い端正な顔立ち。そしてそのとき一人目の私は薄笑いを唇に貼り付けて彼女を見上げていた。
 だがその記憶ははまるで古い記録映画を見ているようにぼんやりとしてひどく頼りなくて、とても自分のものとは思えない。それはおそらく、そこに本来伴うべきであった感情が付随していないからだ、と赤木博士は云う。人間は感情というインデックスで過去の記憶を検索することができるが、それが付けられていない記憶は情報としてしか捉えられておらず、ただ無為に薄れていくばかりなのだそうだ。

 とはいえ、それは無理からぬことだ。二人目の私、つまり今の私が生まれた当初、彼らは私から感情の大部分を削除した。それはまだ不安定であった私の体を定着させるために必要な過程であったらしいのだが、実際には脳神経の感情を司る部分の受容体の感度を薬物で押え込んでいるだけで、定期的な薬物投与が止まればやがて元に戻ると赤木博士からは聞かされている。最近私を襲う衝動は、その薬物の効果が以前よりも弱くなってきているためなのかもしれなかった。あるいは、私の体が予想以上に復元力が強かったということなのだろう。

 ただ、ひとつだけ分かっていることがある。


 このまま行けば、もうじき私は今の私のカタチを保てなくなるだろう。


 自分自身の身体が変容していくというのは、どうやら酷い恐慌を伴うものらしい。だが私は不思議とそういった恐ろしさは感じない。自分の本来あるべき姿に戻るだけなのだから、それは当然のことなのかもしれないが。



 私の本当の意味での遺伝子母体を知っている人間はほとんどいない。本部では碇司令と赤木博士、そして冬月副司令だ。

 ひとは誰でも自分という役割を演じている。そう私に云ったのは、冬月副司令だ。もっとも、その時副司令がどんな感情を抱いていたのかは、複雑過ぎて私にはよくわからなかったが。
 同様に、副司令が私を見る時の眸も複雑で、どう理解していいものなのか私にはまだわからない。好意。嫉妬。憎しみ。憧れ。私にはまだそのくらいの感情しか理解できないのだが、冬月副司令のそれは、そのどれにも似ているようであるし、そのどれでもないような気がする。
 ただひとつだけ分かっているのは、副司令が私を見る眸に常に感じる「諦め」だった。

 冬月副司令とは滅多に顔を合わせることがない。時折思い出したように、与えられた私の部屋を訪れるときくらいだ。特に用事があるようではなくて、最近の私の様子を聞き、静かな声で話し、そして一時間ほどで帰って行く。
 なぜそんなことをするのか、未だによく理解できない。私の行動の全ては保安部によって監視されていて、その報告の全てに冬月副司令は目を通しているはずだった。なのにどうしてそれをわざわざ私の口から語らせようとするのだろうか。

 ひょっとして冬月副司令は、私の変化に気付いているのかもしれない。ただそれに干渉したり矯正したりせず、ただ見守っているだけなのかもしれない。



 それは碇司令とは対照的な態度だ。
 未だ碇司令が私の変化に気付いた様子はない。いや、気付かないようにしているだけなのかもしれないけれど。
 私に人形の役を割り振っているのは碇司令だ。彼にとっての私は、彼の配偶者であった形質情報提供者のコピーでしかない。だから彼の眸は決して私を見ていない。彼の目に映るのは、少女の姿をした彼の配偶者だ。
 彼の願いは、彼の配偶者にもう一度逢うことだ。それは彼自身の口からもう何度も聞かされている。彼にとっての私は依代にしか過ぎない。

 だが同時に、私にとっての彼は、私自身の創造者でもある。その事実は恐ろしい重さを伴って私のこころを押しつぶす。その重さの前では「人形でいたくない」という私の願いなど、比べるのが無意味なほど弱々しいものだ。彼から与えられた役割は私にとって絶対であり、それに逆らうことは、私の存在する意味を私自身が否定することを意味する。
 そう、私は彼によって、彼のための人形としてこの世に造り出された。もし私が彼に逆らって、自分に与えられた役割から逃れようとするならば、彼はなんの躊躇いもなく今の私を捨て何体もいるコピーの中から速やかに新しい私を産み出すだろう。今まで私を繋ぎ止めていたほんの僅かな絆、そして記憶さえもすべて新しい私に奪い取られ、痕跡すら残さず私という存在は抹殺される。
 一人目の私はそうしてこの世から消し去られた。彼女の死の上に、今ここに私という存在はある。

 もし三人目の私が生まれる時には、彼女は今の私の絆と記憶を受け継ぐ筈だ。しかし彼女にとってのそれは、今の私が一人目の私に感じているような、そんな曖昧で現実感のないものになるだろう。
 彼女はそれに戸惑いつつも、彼女だけの時間を過ごし積み重ねていくだろう。一人目の私、そして今の私の記憶など、彼女にとっては付随物に過ぎない。

 そうして私たちは、この世からゆっくりと消し去られていくのだ。



 結局私は、かりそめの生を生きているに過ぎない。
 私が本当の私の姿に戻るのと、与えられた役目が終わり無へと帰るのと、どちらが早いだろう。
 そして私は、どちらの結末を望んでいるのだろうか。



 いや、多分どちらも望んでいない。何かを望むことさえ私には許されてはいないのだから。



 そうして私は、私自身を深く沈める。その緋色の眸の奥に。





(了)



「コレの何処がアヤナミだ」という異議は却下します(爆)


 タイトルはPink Floyd「paranoid eyes」から。狂気は静かな瞳の奥に隠れる。


管理人より

そんな異議は私も却下します。(爆)

 

Please Mail to Mr. 齋藤りゅう
Please visit HP 「唐突工房」

 

投稿Indexへ  ┃ HP Indexへ

1999.9.19  公開