第三章 昭和維新の思想……大川周明の国家主義……

 

  <目次>

   思想への目覚め
“インド”に開かれた眼/キリストからマルクスへ…大川の思想遍歴/日本思想への回帰

   日本および日本人
思想の奴隷を排す/日本人としての誇りをどう持つか?/個人尊重の国家思想/国家と人間はどうあるべきか?

   アジア建設への視点
アジア復興を可能にするもの/“復興”とはどういうことか?/近代西欧が内包する矛盾とは?/アジア思想によるアジアの復興

   五・一五事件と大川
北一輝との訣別…行地社の目ざすもの/侵略か、解放か?…満州への野望/クーデターによる政権奪取/昭和維新の炬火!?五・一五事件/退廃する思想/超国家主義とどう違うのか?       一

   思想は状況を超え得るか?
獄中によみがえる精神/再び思想闘争の中へ/裏切られた期待…極東裁判における大川/“救国”から“立国”へ…再生する思想

 

                <日本の右翼 目次>

 

 

   思想への目覚め

“インド”に開かれた眼
 明治十九年十二月六日、山形県鶴岡の医者の子として生まれた大川は、初め、平凡な学者の道を求めて、東京帝国大学文学部で、印度哲学を専攻し、卒論は、竜樹の哲学について書いた。平凡な学者という言葉が適切であるかどうかは別として、日本の学問の伝統には、学問は窮極には現実の課題ときり結び、現実に生きる人間の指針となるものであるという考えをもつ者が少なく、その殆んどは、逆に現実の世界の課題を軽視し、蔑視し、抽象の世界に逃避し、それを追究し、究明するところに喜びと誇りをいだく傾向がある。大川もまた、そういう学者の一人となることを求めていたにすぎなかった。
 だが、ある日、今日の印度についての知識を得たいという目的で、サー・ヘンリー・コットンの「新印度」という書物を購入したことから、大川の進路は大きく変わり始めた。「新印度」という本は、英国の圧制下に苦しむインドの実情をそのままに書いたもの。彼はこれを読んで、竜樹のようなすぐれた哲学を過去にもった印度の今日に、非常な驚きとともに深い悲しみと怒りを味わった。
 大川はこれ以後、現代のインドについての書物を手あたり次第に読みはじめた。そういう生活の中で、彼は徐々に、平凡な学者から、現代印度の当面する課題とまともにとりくむ学者、そういう学者をもし思想家と呼ぶとすれば、その思想家に変貌しはじめたのである。そして、昨日までの、二千年前の印度哲学への興味と関心は、現代印度を深く、正しく知るためのてがかりを求めるものでしかなくなった。
 しかも、現代印度にそそがれた大川の眼は、更に、アジア諸国の現状に開かれたのみでなく、アジア諸国を侵略してくる西欧諸国にも眼をむけ、それを研究するようになった。もちろん、研究が進むにつれて、次第に、アジアの中の一国、日本が彼の焦点になってきたことはいうまでない。
 三十二歳のとき、満鉄東亜経済調査局に就職した大川は、日本と中国とソビエトの接点にあたる満州にいることによって、彼自身、国際政治の渦中に入り、学問と現実のかかわりあいをいよいよ鋭くみつめることにもなった。彼にとって、学問とは、現実を鋭く、且正確に分析し、見透しをあたえてくれるものであり、現実とは、その学問の成果をますます深め、高めていくものであった。その意味で、大川の学問は、いつか、現実を指導し、発展させるところのものを求めようとする生きた学問に変わっていった。いまの学生運動家たちが求めているような学問であったといえよう。
 しかも、その学問は、徹頭徹尾、自分自身を出発とし、日本の当面する課題を前提とし、それらを統一的にとらえ、発展させようとするもので、決して他人の学説、とくに西欧先人の理論によりかかり、その解説に終わるものではなかった。大川自身、その理論を主体的に創造していっただけでなく、それを自ら実践し、実践の中で、その理論を発展させようとする学者であった。
 勿論、そういう学者に、大川が一朝にしてなれたのでもないし、また、なれるわけもなかった。そこには、彼なりの苦闘があり、道草があった。それをまず、彼自身の言葉で語らせてみよう。

キリストからマルクスへ…大川の思想遍歴
 大川は、「日本精神研究」のなかに、
「わが心の至深処に湧き、おもむろに全我を潤し去れる要求に動かされ、予の若き魂は、そのいっさいの矛盾と撞着と熱情とを抱きつつ、みだりに先賢古聖を思慕し、彼らの辿れる登高の一路を予もまた辿りて、みずから精神的高嶺の絶嶺を摩すべく、実に勇躍して郷関を辞した。
 この路の嶮難は、これを踏破したるもの等しく知る。そは深き疑あり、長き悶あり、多くの涙がある」とまえおきして、
 まず、「いかに微かなりとも、汝の心裡になほ一脈の光さへあれば、いかに困憊しても汝の精神に高きを思慕する心がいささかでもあれば、しかして最後の救ひの叫びを挙げさへすれば、神は汝のためにその余燼をして炎々と燃え立たしめ、沈み行く夕陽を転じて新しき生命の曙たらしめるというキリストの教に力を得て、幾多の難関を事もなくすぎた」と記している。
 大川は、その時に、
「キリストの神こそは、予のために寂しき時は友、傷く時は母、過つ時は師、弱き時は父、かくの如き高貴なる先達は他に求めて断じて得られない」と思うほどに感動したが、やがて、その不十分さを発見した。その虚偽を発見した。
「彼らが更に精神的高嶺を仰ぎもせず、したがって向上登高の志なきを悲しんだ。予はその重大なる原因が、彼らの貧苦にあるをみ、彼らの貧苦の重大なる原困が、制度の欠陥にあるを見た。予は教会の牧師が壇上より、肉に死して霊に生きよと説教しつつある間に、予の背後より醵金箱が順次に廻り来るを見て、いかにしてかかる矛盾に平然たり得るかを怪しんだ。
 予は総じて物質を偏軽する道徳の虚偽に憤りを発した。……現代における黄金の万能は、動かすべくもない事実であり、宗教といはず、政治といはず、文芸といはず、世にあるすべてが黄金のために左右されるのを目の前にみている者に、財宝を卑しむべしと教へたところで、何の効果を期待し得るか。……かくて、予は社会制度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いで、わが師とした」
 だが、大川のマルクスに学ぶ期間も長くはなかった。ことに、プラトンの国家理想を知ったとき、彼をキリストとマルクスとを一身にかねる人間とみ、マルクスに訣別する。

日本思想への回帰
 大川は、プラトンの国家を次のように書いている。
「プラトンの国家は、われらの精神の情欲に相当する農工商、意志に相当する武士、理性に相当する統治者の三者より成る。農工商は国家の経済的基礎をなし、その健全なる基礎の上に、国民は安らかに善の理想を辿り行く。武士は、外、剣を執って外敵を防ぎ、内、統治者の命令を奉じて国家の安寧に任ずる。彼らは常に武を練りて有事の日に備へるのみならず、心を哲学に潜めてその魂をきたへ、一点私利私欲の念をいだかず、全我をあげて公に奉ぜねばならぬ。
 しかして、統治者は、理性の体現者として、善と理想に従って国家を統率する任務をおぶ。彼らは渾身の力をあげて精神至高の努力に従ひ、実在常住の理想を把握せねばならぬ。その択ばれて治者となれば、願はしき事としてにあらず、国家のための必然の義務として主権を帯び、任満つれば去ってまた哲学的思索に沈潜する」と。
 この間、大川は、エマソンに学び、ダンテ、ダヴィンチ、スピノザにひかれ、ヘーゲル、フィヒテたちを知ることによって、一時は、「吾は実に日本に思想なし」と思ったほどに、西洋の思想に心酔した。しかし、再び、わけいった印度哲学によって、
「たとい劣機にてもあれ、自己の本然を尽すは、巧に他の本然に倣うに優る。自己の本然に死するは善い。他の本然に倣うは恐るべくある」ということを教えられたのを契機として、大川の魂は専ら祖国日本の思想を跋渉しはじめたというのである。
 果して、これが、大川のいう思想的遍歴、精神的遍歴といえるほどのものかどうかとなると怪しい。ことに、彼はキリストやマルクスを克服できたと思うことによって、彼等を簡単に捨てている。歴史という重みにたえぬいてきた一人の人間とその思想が、そのように単純に克服ができ、わりきれるものではない。歴史的思想となったものを克服するということは、そのように甘いものではない。
 だが、ここでは、そのことが主題ではなく、大川が彼なりに、ヨーロッパの諸思想を学び、魅了されて、一時は、「日本に思想なし」とまで絶望しながら、印度の教えをきっかけとして、劣機でしかないと思った日本の思想ととりくみ、それを研究し、発展させていこうとするように変わった彼自身の生きる姿勢、主体的、自主的な姿勢を、どのようにして自分のものにしたかということを明かにしたいと思っただけである。
 しかも、大川が、劣機と思っていた日本の思想を究明し始めてみると、キリストに匹敵する法然、親鸞を発見し、マルクスと同じく救世済民の改革者たる佐藤信淵があり、更には、プラトンの思想が熊沢蕃山、横井小楠のそれと殆んど同じことを知り、彼は非常に驚く。この驚きは、一転して、日本の思想への絶大なる信頼となる。
 ことに、大川には、まがりなりにも、ヨーロッパの諸思想を追求し、心酔してきたという自信があるから、日本の思想は、それに比して、決して劣らないと思いはじめ、はては、アジア諸国を侵略している西欧諸国というイメージと重なりあって、いつしか、彼の中に、日本の思想と精神は、ヨーロッパの思想と精神にまさるという考えが生まれた。
 かつて、「日本には思想なし」と思うほどの劣等感に悩まされていた大川として、ヨーロッパの思想に匹敵するものが日本にもあると発見したときには、なおさら、感激したであろうし、ともすれば、すべてヨーロッパの諸思想の模倣と追求にあけくれている現代日本の思想風土の中に、日本の思想と精神を、復興させねばならないと思ったとしても不思議ではない。
 こうして、大川は、日本の思想の復興を志すこととなる。そのためには、まず、日本の思想と精神の本質を正確に究明し、理解する必要があった。思想家大川が自分に課した課題であった。しかし、彼が、「ヨーロッパ思想にその心を動かしたのは、思想そのものでなくただ、その表現の清新、巧緻なる心にひかれたのである」というのをきくと、彼がことさらに、ヨーロッパの思想を無視し、軽視しようとする姿勢に無理があるのを感ずるし、同時に、日本思想への信頼と評価に自ずとゆきすぎが生じることになったことを認めないわけにはいかない。

 

                 <大川周明 目次>

 

   日本および日本人

思想の奴隷を排す
 日本の思想と精神の復興を志した大川は、その本質を明かにするために、石田梅巌について、
「国家の運命は常に国民の一人に宿る精神にある。くもりなき良心、独立せる判断、溌剌たる気慨が全国津々浦々の茅屋にもみなぎりわたり、健啖し、善眠し、勤勉する国民が都鄙にあまねくならざるかぎり、国運の発展は望むことが出来ない。石田梅巌は平民の教師として、何人もその教育を考へなかった平民の教育をやろうとした人である」といい、更に、
 佐藤信淵については、
「その政治学は、たとい、枝葉の点に於て、如何なる誤謬と欠点があるにせよ、その根本に於て、正しく且驚嘆すべき卓見にみつ」と評価したように、多くの人々を再評価していく仕事を始めていった。
 なかには、大川の郷里の人、清河八郎を評し、
「彼が一面に於て、眼中人無き自負の態度あり、感情の激するや往々にして暴怒に至ることありしに拘らず、同志のこれに背かざりし所以のものは、その純一にして、深更なる友情によるものであった。……その潜行中には、各地の同志皆満幅の好意を以て彼をまった。彼の困迫に対して一臂の力をおしめる者は、彼と相しれるもののうち、唯奥州の剣客熊谷あるのみである」というような言葉もある。
 大川が、日本および日本人の歴史に如何に愛着をもったかということである。
 しかも、大川は、日本の思想界がヨーロッパ思想の模倣と解説に終わっているばかりでなく、日本の革命そのものを考える青年達までが同じような姿勢と傾向にあることを知った。その時の怒りと悲しみを彼は次のように語る。
「吾等は他国の善なるものを借りきたりて、この国の悪と戦おうとは思はない。吾等の善は、これを外に求めずして内に求めねばなりませぬ。吾等は日本的生命のうちに、善なるものを把握し、これによって現前の悪を打倒しなければなりませぬ」
「社会の進化乃至改造を論ずる者も西洋の社会と日本の社会との異同をさへ明かにせんとせず、直に、西欧学者の唱ふる原理を日本に適用せんとする」
「吾等は決して異邦思想乃至文明の摂取を拒むものではありません。ただに拒まざるのみならず、声を高くして、これを主張するものであります」
 大川には、全国民の独立と自由と平和を志向する革命を念ずる青年達がヨーロッパ思想に追随し、果ては、その奴隷になりさがろうとしているのがやりきれない。彼には、アジアを侵略し、日本を制圧する西欧諸国ときりはなして、ヨーロッパの思想が独立して存在しているとは考えられなかったから、いよいよ、やりきれない。それこそ、思想の奴隷になっている者に、革命をいう資格はないと大川は思うのである。

日本人としての誇りをどう持つか?
 その場合、大川はヨーロッパ思想の摂取を拒まないといいながら、北一輝のように、社会主義への日本の道を考え、ヨーロッパに生まれた社会主義を主体的自主的に学び、積極的に、摂取していこうとする姿勢はなかった。それは、既に述べたように、キリスト、マルクス、プラトンに当る人間をそれぞれ日本人の中に見出したことでもあきらかである。そればかりか、西洋諸国とともに、西洋思想も排除すべきものでしかなかったのである。
 それ故に、大川の日本思想と日本精神に対する研究は、いよいよ熱のこもったものになっていき、それが「日本二千六百年史」に結晶したのである。昭和十四年に出たこの本は、二年間に、版を24回もかさね、36万8千部も印刷されるほどに、当時の人々に貪ぼり読まれ、人々に深い感動と強い影響を与えた。大川は、この本の中で、まず、
「日本精神の数ある特徴のうち、その最も著しきものは、入りくるすべての思想と文明に方向を与へることであった」という説明として、支那思想と印度思想が、これまで、日本人の中で、その生命を護持し、長養されてきたことをあげる。アジア精神の両極である支那思想と印度思想が今日に生きつづけているのも日本人によってであると強調するのである。ここには、大川の日本と日本人に対する限りない信頼と高い評価があるが、彼はそれを現代の日本人も彼と同様に、信頼と評価をもってほしいという、また、もてる筈だと断言するのである。
 そのために、大川はなおも、日本と日本人が、むかしから、どんなに偉大であり、誠実であり、努力したかを歴史的事実をあげて証明してみせようとする。日本人を天の益人即ち理想の実現者という立場からとらえて説明もする。
 要するに、現代の日本人は、そういう歴史を負い、そういう歴史をつくってきた日本人の子孫だというのである。しかも、そういう歴史をつくってきた誇高き日本人の子孫でありながら、現在の日本人は、一体何だと、次のように書いていく。
「戦争の悲惨は、平民のみよくこれを知る。しかも彼等は与へられるところが無かった。又、与へられて十分ではなかった。……
 日本の平民は、日露戦争後、ようやく、国家における自己の地位、国家に対する自己の貢献を自覚して、自己の正当なる権利を要求した。この要求は、各種の政治運動乃至社会運動として現はれた。而して、政治家のこれに対する政策は、依然として、弾圧の一語につきた。
 彼等は国民にむかって“社会”という言葉の使用を禁ぜんとし、又は“民主”を口にする者は獄に投ぜんとし、選挙権の拡張を求むる者を叛逆者扱いにした。而して、曲学阿世の御用学者をして、国民の新しき思想と戦はしめ、その頭脳を江戸時代の素町人、土百姓時代に復帰せしめんとさへした。……
 試みに、日露戦争後の帝国議会をみよ。
 この議会において、第二次桂内閣は一面に於て、平民が負担すべき、而して、戦時特別税として、戦後の徹廃を約束せる通行税、織物税および、塩専売法を存続せしめんとし、他面、公債償還資金の増加、並に、国債利子所得税の免除を企てた。……
 平民は戦争につかれ果てたる上に、悪税を存続せられ、富家は、特別なる眷顧をうける。この議会の光景こそ、日本政治の典型である。この国民生活の不安を救ふためには、発多の欠陥を明らさまに暴露せる資本主義経済機構に対して、巨大なる斧を加へねばならぬ事が明白なるに拘らず、ついに徹底せる改革の断行をさまたげて、唯一日の安きをぬすむ政策が繰返されるだけである」
 大川は、現代日本は革命を必至としている、資本主義経済機構は打破せねばならぬと、誇高き日本人の子孫にむかっていう。奴隷の自由を与えられて、喜び、平々凡々の生活をしているのは、だらしがないではないかと叩きつけるようにいう。

個人尊重の国家思想
 北一輝といい、あるいは、大川周明といい、日本右翼の理論的指導者、昭和維新の指導者といわれる者達がともに、資本主義の強烈なる否定者、破壊者であったということは、ここで、もう一度確認しておくことが必要である。
 ただ、北が社会主義への日本の道を摸索したのに対して、大川はどこまでも、新しい日本への道を、日本歴史の中にさぐっていこうとしたという違いがあるだけである。そして、彼の考えたことは、「日本及び日本人の道」の中にある一文にうかがうことができる。
「社会主義を代表とする今の世の国家改造思想に共通する一つの傾向は、一切を外面的組織の改革にのみ求め、国民の精神的反省を蔑視または無視することである。彼らは、当然個人が負ふべき責任をも、挙げて社会の罪に帰する。世の罪悪、疾病、貧窮は、決して個人の責任にあらず、ことごとく、環境即ち社会組織の欠陥に由来するといふのが、彼らの異口同音の主張である。さりながら、個人をもって徹頭徹尾受動の存在なるが如く考へることは、疑ひもなく、“自然”と“精神”との混同である。……
 われらの一団は行地社の名を称する。実に古人のいわゆる則天行地より取れるものである。即天とは正しく理想を把握すること、行地とはこれを現実の国家生活に実現することである。かくて、行地同人は、維新日本の建設に一身を献げる。しかして、新日本の国民的理想を確立し、国家の精神的生活において自由を、政治生活において平等を、経済生活において友愛を実現せんことを期する。しかしてこの壮厳なる国家によって、まず、有色人種を不義の圧迫より解放し、進んで世界の道徳的統一を実現するために拮据する。われらの理想をもって徒らに大なりとすることなかれ。恥は及ばざるより恥ずべきはなく、弱きは自棄より弱きはない」
 大川の、社会主義は人間を受動的に解釈し、個人の負うべき責任のすべてをも環境に帰しているという理解は皮相といえるが、たしかに、俗流社会主義には、そういう一面がある。そこに、大川の誤解が生まれたということが考えられるが、それはとにかくとして、彼が人間を個人を偉大なるもの、すばらしき可能性をもつ者として、高い評価を与ええたことは特記しなくてはならない。
 ことに、大川が、人間と国家との関係を、
「既に造りあげられた国ではない。国家は一切の生命が燃ゆるが如く、一貫不断の創造的過程にある。故に独り日本といはず、国家の名に背かぬ国家は、皆恒に造られつつある国。その国家を創造しつつある者は、端的に各々の魂であり、汝の魂である」
 といいきったことは、ともすると、右翼者といわれるものが国家を至上とし、その前に、人間は虫けらのように考えておることを拒否するものであるし、また、右翼はそのように考えているという一般の常識をも否定するものである。

国家と人間はどうあるべきか?
 大川は、日本の思想といい、日本の精神といっても、それは窮極には、日本人の思想であり、精神であり、日本人こそ、人間こそ尊いものであり、尊いものでなくてはならないと考えていたのである。一人一人の日本人、一人一人の人間を大事にしない右翼者は本当の右翼者でなく、日本人を、人間を大事にするから、その集団である国家そのもののあり方を重要視したものである。「現代において、国家否定の思想抬頭し、新社会の組織が力説されるのは、その主張の至深所に探り入れば、実は国家その者を否定するにあらず、唯、現在の組織と制度とを否定するものに他ならない」
 という大川の発言は、何よりもそのことをよくあらわしている。国家の精神生活において自由を、政治生活において平等を、経済生活において友愛をという彼の主張も、国家と人間の関係をいいあらわしたものである。
 その点では、北と同様に、今日、多くの国家があり、その国家が相互に対立し、抗争している現実、しかも、人々はそれぞれの国家に規制されて存在しているという現実を直視し、そこから、一つの国家をつくりあげていこうとする。
 今日、有色人種が不当の圧迫を白色人種より、国家の名においてうけている事実を等閑にできない。そこにこそ、大川が満身の怒りをぶっつけ、右翼者達が激憤する理由がある。それも、結局、一人一人の人間を大事にし、一人一人の人間に、真の自由と平等をもたらそうという願いから発している。ここで、改めて、大川が、人間を基調にして、国家を考え、「その魂こそ、国家を創るものである」と断言した言葉を確認し、更には、人間を奴隷視する国家至上主義は、人間を手段視する超国家主義は、大川の考え、北の考えた国家主義とは鋭く対立するということを確認しておく必要がある。

 

<大川周明 目次>

 

   アジア建設への視点

アジア復興を可能にするもの
 印度の古代文化を研究したことが契機となって、現代印度を知ることになり、それが更に、印度を含めたアジア全土が西欧諸国の侵略もしくは威嚇の下におかれていることを知った大川は、西欧諸国から、政治的にも思想的にも完全に独立した日本と日本人をつくりあげようという希望をいだくようになったが、それは同時に、アジアが西欧諸国の侵略と制圧を排除して独立するという希望をいだくことでもあった。
 大川にとって、印度文化、中国文化を享受することによって、今日、まがりなりにも、独立をたもっている日本が、印度と中国の現状を黙視することは許されないことでもあったし、日本そのものが、いつ何時、印度、中国のようになるかもわからないということが不安でもあった。
 西欧諸国のアジア植民政策を研究すればする程、彼は恐怖心を深めた。しかも、政治的にはどうにか独立しているとしても、現代日本は思想的、精神的には、殆んど、西欧諸国の植民地になっていた。彼が、現代日本に、伝統的な日本思想と日本精神を復興し、西欧諸国に対抗しようとしたのもそのためであった。日本が西欧諸国に独立してあたるということは、その文化の源流をなす印度、中国がともに、西欧諸国と対立して存在するということであった。現代日本の中に、伝統的な思想と精神を復活するということは、印度と中国に、それぞれの文化を復興させるということを意味していた。これが、大川の考えたアジア復興の構想である。その構想のもとに、アジアを復興させるとき、はじめて、アジアの思想と精神は、ヨーロッパの思想、精神と対等に、人類の思想と精神を建設してゆく力となることを発見したのである。
 大川は、アジアがそうなるきっかけを造りだすのは日本であり、それを日本の使命と考えた。だからとて、彼は、現代日本がそのままの姿でそういう使命を果せるとは決して思っていなかったし、現代日本に、その役割をになわせようとしたのでもなかった。
 そういう使命の果せる日本、そういう役割をになえる日本は、伝統的な日本思想と精神を日本人一人一人の中に復興させることによって、現代日本に維新をおこした時のみであると大川は考えていた。少くとも、そういう維新(革命)を日本人の中に進めようとする中においてのみ成立すると考えた。

“復興”とはどういうことか?
 そのことを、大川は次のようにいう。
「アジア復興の戦士は、いやおうなく、日本改造の戦士でなければならぬ。……大乗日本の建設こそ、とりもなおさず、真アジアの誕生である」
「国をあげて、道に殉ずるの覚悟を抱いて、而して、大義を四海に布かんことこそ、これ実に、明治維新の真精神を体現せる先輩の本領であった。……今日の日本が尚いまだ、大乗日本たるに至らず、百鬼夜行の塵界たることである。日本の現状、今日の如くなる限り、到底、アジア救済の重任にたえず、アジア諸国また、決して日本に信頼せぬであろう」
 西郷と同様に、彼は、日本を道義国家につくりかえようとした。道義国家でないかぎり、アジア解放の使命は果せないといいきったのである。
 そこに、大川が革命思想家であり、革命家であった理由、革命家以外のなに者でもなかった理由があるし、それ故に、彼の思想と精神を継承する右翼者は革命思想家であり革命家でなければならない理由もある。
 大川は、以上のような視点を確立した上で、復興アジアについて、種々構想する。しかし、その構想のなかで、「アジアの復興は往々にして、沙汰せらるる如く、アジアの近代化、または、西欧化を意味するものではない」と強調したことが最も印象的であろう。従来、進歩、発展といえば、必ず、近代化、西欧化を意味し、そういう風潮は戦後の今日までつづいている中で、彼は、四十年以前に、こう断言したのである。
 その理由として、大川は西欧の近代化といわれるものの実態を説明してみせる。
「第十九世紀におけるイギリスの発展は実に世界史的驚異である。そは政治的組織としては世界最大の国家であり、その領土は地球全陸土の四分の一にわたり、その人口は全人類の三分の一をしめる。……
 さりながら、イギリスの世界制覇は、なんら徹底雄渾なる理想遂行の賜ではない。……英国の興隆はその地理的位置と国民の絶倫なる功利的聡明と利己の機会をつかむに敏捷無比なることによれるもの。
 その尨大なる国家は経済組織において貪婪あくなき資本主義、政治組織において投票箱万能の民主主義、この両者をもって経緯せる一個無漸の地獄である。……
 この暴君に対して堂々叛旗をひるがえせるものは新興ドイツであった。されどドイツの挑戦は蛇に対する虎の挑戦であり、その鋭き爪はイギリスのそれと等しく、資本主義的帝国主義の爪であった。……
 ドイツはイギリスの本質そのものを否定したか。断じてこれをしない。その資本主義、民主主義を否定したか。断じてこれをしない。……したがって、ドイツはその敵の心を心とせる謀反者たるに止まった。英独のいずれが勝利を得るにせよ、世界は依然として、ヨーロッパの鉄鎖に縛られ、ただ、その鉄鎖の持主を代へるにすぎなかったのだ」と。
 近代化、西欧化ということがいかにナンセンスかということである。しかも、西欧諸国の中に、既に、その近代化、西欧化を否定する国があらわれているというのである。

近代西欧が内包する矛盾とは?
 大川の説明はつづく。
「英独争覇の世界戦は、その混沌の裡よりロシア革命を生んだ。しかしてロシア革命の成就者ボルシェヴイキは、ただに露国内の戦士としてのみにあらず、同時にヨーロッパ革命の戦士として起った。彼らは少数者が国民の物質的利益を壟断する資本主義を、その根底において否定し、全民の福祉を理想とする労働主義によって、経済生活の統一を実現せんとした。しかして、これとともに、資本主義の政治、いわゆる近世民主主義の政治を放擲した。……
 けだし、民主主義の政治的特質は、多数を絶対とすることに在る。しかも、政治におけるいわゆる多数とは、個々の主観の器械的合算でないか。真理は“質”にして“量”ではない。……加ふるに今日の民主的議会政治は国家を器械的、地理的に分割して代表者を選出するが故に、その代表はあたかも国家生活を有機的に代表するものではない。
 故に、革命ロシアは近世ヨーロッパの民主政治を一蹴し去った。しかして国民の経済的生活に即して、有機的なる政治的組織を断行し、選ばれたる少数者の魂によって、新ロシアを統一指導せんとした。……“ヨーロッパの民主主義という汚れた着物をぬぎすてる時が来た”とは、レーニンの冷静なる宣告であり、“資本階級のヨーロッパ減ぶか、さもなくばわれら滅ぶであろう”とは、トロッキーの熱烈なる怒号であった」
 このように、西欧化、近代化の言葉で代表される民主主義、資本主義を否定する国が誕生しただけでなく、イギリス、ドイツ、フランスなどの西欧諸国の中に、それを否定するものがあらわれ、ヨーロッパは、まさに、革命前夜にあるというのが大川の意見である。
 そういうことをふまえて、アジア諸国が近代化、西欧化への道を今後歩もうとすることほどナンセンスなことはないと大川はいう。
 まして、近代化した西欧諸国によって、長い間、アジアは蹂躙れてきたではないかともいうのである。西郷と同じ考え方である。

アジア思想によるアジアの復興
 大川は、長い間西欧諸国の侵略をうけてきたアジアが今ようやく覚醒しはじめたことを何よりも喜ぶ。それも、アジアが西欧化、近代化の道でなく、アジア自身になろうとする道を彼自身の言葉をまつまでもなく、既に歩みはじめていることを発見するのである。
 大川は、その事実を指摘して、次のように書く。
「青年トルコ党の初めて奮起せる時、彼らの則るところは西欧民主主義にほかならなかった。しかるに、世界戦中において、彼らが唱道せるトルコ国民主義は、トルコ精神の奥深く流るるツラン魂より湧き来れるもの。故にその求むるところは、決して西欧の主義ないし制度を輸入せんとするにあらず、純乎として純なるトルコ文化をみずからの力によって創造し、長養せんとするに在る。
 インドにおいてもわれわれは同様の事を見る。世界戦前におけるインド国民運動は、たとへば、アラビンダ・ゴーシュの鼓吹せる理想が薄伽梵歌の聖泉に汲めるインド本来の哲学的思索に根ざせりとはいへ、これに感激して革命に実際に活動せる青年は、少なくともその手段方法において、西欧革命運動を模倣していた。しかるに、今日、ガンデイに率いらるる革命運動は、ひとりその精神においてのみならず、いっさいの手段において徹底してインド的となった。しかして、回教諸国の復興運動が政治的になると同時に、精神的なることは回教そのものの本質よりみて、明白である。彼らのヨーロッパと戦ふは、その政治的支配、経済的掠奪をしりぞけんがためにあらず、実に彼ら自身の信仰をまもらんがためである。
 この二重の独立、精神的独立と政治的独立、これがめざめたるアジアの今求めつつあるところのものである」と。
 大川が、「アジアの復興運動は、めざめたるアジアの魂にその源を発している」といったのも当然であるが、彼は、それだけでなく、西欧諸国の強権と武力に対抗して、アジアの復興を可能にするものは、“思想の力”であるといった。
「アジアは、その力を発揮するために、正しき思想を発揮せねばならぬ。その力をして剛健偉大ならしむるためには、雄渾森厳なる思想を体得せねばならぬ。その敵を克服するためには、その敵よりもすぐれたる高貴なる思想に奉仕せねばならぬ」
 という大川の発言を思うとき、私達はここで、改めて、右翼者というものが単に力の信奉者、力の讃美者でなく、その反対に、すぐれて、思想の信奉者、讃美者であり、思想を力あるものにしようとつとめたことを考えざるをえない。そして、俗流右翼者への誤解が一般にあるとともに、右翼をなのる人達にも大きな誤解があることを認めないわけにはいかない。

 

<大川周明 目次>

 

   五・一五事件と大川

北一輝との訣別……行地社の目ざすもの
 大川がこのような思想をもつようになったということは、彼の中に、日本の革命が決定的な形をとりはじめたということであった。だから、その活動の一環として、彼が講義をもつようになった柘植大学の学生達を中心に研究会をつくったし、更に、それは、東大生、早大生、慶大生、京大生等にもおよんでいった。他方、北一輝と一緒に、「猶存社」(大正八年)をおこしたのもそのためである。
 そして、その綱領には、
 一 革命日本の建設
 一 日本国民の思想的充実
 一 日本国民の合理的組織
 一 民族解放運動
 一 道義的外交の遂行
 一 改造運動の連絡
 一 戦斗的同志の精神的鍛錬
という七項目をかかげて、国民の組織活動、思想運動を大きくうたっていた。
 しかし、不幸にして、北とは長く行動をともにできず、やがて、「行地社」(大正十四年)をつくって別行動をとるが、その頃から、急速に、大川は現実の中にのめりこんでいく。北一輝が国民の中に、社会主義的民主主義的意識を喚起し、普及する忍耐強い仕事を第二義的に考えるようになったのと同様に、大川もまた、日本とアジアの革命は、すぐれて、思想の戦いであり、その思想を日本とアジアの中につくり育てていくという立場を、ともすれば忘れがちになった。
 その理由の一つは、大川と北が別れたことにより、その革新運動を統一的持続的に進めうることができなくなったという彼等の自意識から生じたということが考えられる。彼等はそれ程に、お互を高く評価していたのであった。それぞれが単独では、最も困難な思想運動は出来難いと思ったといえばいいすぎになろうか。
 それは、「行地社」の綱領が、維新日本の建設とか、国民的思想の確立などをうたっていても、国民の組織活動、思想運動の面を全く省略していることにもあらわれている。数年後に出来た「行地社」がかえって、そういう面では後退していることが明かである。
 そうなると、満鉄職員としての大川には、最も政治的な舞台である満州に生きる者としての重圧がどんどんおしかぶさってくる。満州という国際政治の舞台が、一度は彼に学問と現実とのかかわりあいを鋭く教えることになって、そのプラスにもなったが、情熱そのもののような彼にとって、一歩あやまるとそれにおぼれていく要素にもなった。
 加えて、その当時の満州が、資本家や政党、官僚の力を排除して、全く、新しく造りうるという幻想を彼に与えたとしたら、彼がその幻想にとびついたのも無理はない。

侵略か、解放か?……満州への野望
 こうして、大川は、昭和初年より、満州問題に徹底的にとりくむようになる。だが、この時、彼が考えた満州とは、日本のための満州にするということであり、そのためには、国民の注目を満州に集め、いざというときには、武力解決をも辞さないということであった。
 しかし、大川のこの考え方は、彼がかつて西欧諸国の外交政策として鋭く否定したものであり、暴にかえるに暴を以てし、何等の解決にならないと強調したことでもあった。西欧諸国のまねをすることが如何に愚劣であるかといった大川が、今、西欧諸国のまねをして、満州を日本の満州にしようとすることを考える。
 そこには、どういう弁明があろうとも、弁明できないものがある。大川が西欧諸国を攻撃することは、日本の他国侵略を肯定するためのものであったのであろうか。そればかりか、日本の革命をなしとげた後でなければ、アジア解放の戦士に、日本と日本人は絶対になれないと明言した彼ではなかったか。満州をおこすのは、満州人自身であり、それには満州の内なる魂をゆりおこす以外にないと断言した彼ではなかったか。
 もしも、この時、大川が北と統一行動をしていれば、北の長い間の中国革命参加の体験、そこから学びとった意見を吸収することもできたであろう。その意見とは、他国民の革命に援助できることは、ただ、自国に革命を遂行するということだけであり、革命は決して輸出できないものということである。しかし、大川は、北に学ぶということもなく、彼自身、満州を日本の満州にするための第一歩として、まず、国民の関心をひきおこすという運動に挺身することになり、約二年間にわたって、日本全国をくまなく講演して歩いた。
 その情熱とファイトはあきらかに、革命家のものであった。しかもこの講演旅行を通じて、彼が、地方の経済的窮乏がいかに激しいかを直接見聞したということが、彼を再び、日本の革命を志向する人間にひきもどすことになった。

クーデターによる政権奪取
 だが、この時の大川は、満州問題を通じて、陸軍の中堅将校である小磯国昭、板垣征四郎、橋本欣五郎などに近づくことになっていたから、もう、往年の彼にかえることはなかった。彼の考える革命とは、陸軍の中堅将校と組んで、クーデターをおこし、彼等とともに、日本の権力をにぎるというものでしかなかった。
 日本のための満州をつくるという考えもかわっていないばかりか、彼等の政権の下では、それが速やかに出来るというものでしかなかった。
 そうなると、彼の考える日本の革命そのものも、伝統的な日本思想と日本精神を国民一人一人の中にひきおこすことから生まれる革命というものから程遠くなるしかない。国民一人一人のための革命でなくて、自らのためにする革命ということになる。そこに、昭和六年の三月事件、十月事件にみる如く、待合にいりびたったり、あるいは大川蔵相、橋本内相などという閣僚名簿をつくって、いたずらに豪語する姿勢も出てくる。
 しかし、いずれにしても、大川が自らの革命のために、その生命をなげだして、挺身しようとしたことは事実であり、それ故に、不十分、不完全な計画であったにせよ、昭和六年には、三月事件、十月事件と相つぎ、昭和七年には、ついに、五・一五事件をひきおこす。三月事件の時の一万人の労働者を動員し、議会にデモをかける計画など、さすがに、大川らしい計画といえよう。

昭和維新の炬火!?……五・一五事件
 五・一五事件は、大川の指導をうける古賀清志、中村義雄海軍中尉を中心とする陸海軍の青年将校が、橘孝三郎、本間憲一郎、頭山秀三などの民間の協力を得ておこしたクーデターで、その檄文には、次のような文句が書かれていた。
「日本国民に檄す
 日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ
 政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや
 政権党利に盲いたる政党と、これに結託して、民衆の膏血を搾る財閥と、更に  これを擁護して圧制日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と、腐敗せる軍部と悪化する思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級と、而して群拠せる口舌の徒と
 日本は今やかくの如き錯綜せる堕落の淵に死なんとしている
 革新の時機! 今にして立たずんば日本は滅亡せんのみ
 国民諸君!
 武器をとって立て!
 今や邦家救済の道は唯一つ、直接行動以外に何物もない
 国民よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を葬れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を 仆せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を打破せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ!
 祖国日本を守れ、
 而して、陛下聖明の下、建国の精神にかへり、国民自治の大精神に徹して人材を登用して、朗らかなる維新日本を建設せよ
 民衆よ!
 この建設を念願しつつ、先ず破壊だ
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶっ倒せ
盛大なる建設の前には徹底的破壊を要す
吾等は日本の現象を哭して赤手世にさきがけて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの、素より現存する左傾右傾何れの団体にも属せぬ
日本の興亡は吾等決行の成否にあらずして、吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何にかかる
起て! 起って真の日本を建設せよ!
昭和七年五月十五日 陸海軍青年将校」

青年将校たちは、自らの考える日本の革命のために殉じようとしたのである。当然、彼等を助けた大川も逮捕された。
その時の彼は四十七歳。

退廃する思想
 昭和八年四月十七日の第一回訊問で、取調官が、「日本を如何に改造せんと考えているか」という質問に対して、大川は、
「維新日本の具体的経綸については、世界戦争以後の諸国家における政治的経験が十分なる目安を与えております。私は国家の経済的組織に関する限りでは、ひとり日本といわず、多くの国々がソビエトの右、英独の左の範囲において改革されるものと信じます。革命直後のソビエト連邦と比べると、今のソビエト連邦は実に非常に右にきています。同様に英独は世界戦争後、年々左に進み、例えば英の保守をもってして相続税の最高率は四割、ドイツは六割と判定されております。
 一は白い旗、他は赤い旗を立て、互いに相争いながらも実際政治の上ではかえって互いに歩みよってきました。今少し双方歩みよって、主義は何であれ、必ずある所で落ちつきます。これは主義がどうこうというためでなく、実に人間の共同生活の必要のためであります。
 この必要ということが最後の決定であります。それは、ちょうどフランス革命後の政治形態化の跡と全く同一であります。
 フランスのように、共和国にはならなくとも、いな、君主制を奉じて共和制とは激しく相争いながらも、半世紀ならずして諸国の実際の政治は結局民主主義的議会政治に落ちつきました。
 日本のごとき特珠なる君主国家においてさえ、そのとるべき政治形態はついにこのほかになかった。即ち万世一系の天皇が君臨し給う特殊の光栄と幸福とを除き、日本の政治運用は英米仏らのそれぞれと、本質的差異がなくなったのであります。
 経済組織の場合もこれと同様と信じます。共産主義だの資本主義だのと争っている間に、その喧嘩の間から、しかもその喧嘩と関係なく国家の生存にもっとも必要なる、したがってもっとも効果的なる組織が採用され、かつ、実現されるのであります。
 その限度と範囲とは前に述べましたようにロシアの右、英独の左で、これは世界政治の極めて重要なる教訓であります。
 極めて抽象的ないい方でありますが、ロシアのごとき徹底せる計画経済も実行至難であり、英独の自由経済は行詰まったとすれば、落ちつくところは両者の中間たる統制経済の実施以外にないことになります」と答えている。
 ここには、相変わらず、国民自らの立場から、国民を中心にすえた日本の革命を考える視点が欠落しておるばかりか、かつて、西欧的民主主義が国民の自由と平等を実現することができなくなったことから、ソビエト連邦に否定されてしまったと考えた大川の考えも影をひそめ、そのために、共産主義や資本主義を、単に経済組織という観点からのみ考えて、思想としての共産主義、資本主義を考えないままに終わっている。

超国家主義とどう違うのか?
 しかし、大川の思想家、革命家の一面はなおつよく生きていて、民主主義的議会政治を世界史の発展においてとらえ、日本もまた、それを運用することでは本質的差異がないといっている。だから、その時の彼が考えた革命は、あくまで、西欧的民主主義を克服するものとして成立し、その頃より、日本の思想状況の中に強く抬頭してきたいわゆる超国家主義者のように、民主主義を日本の国情にあわないといって、感情的無批判的に拒否するものとはあきらかに違っていた。西欧的なものは、なにがなんでもいやだと強調し、それをうけいれる者は国賊とののしったいわゆる超日本主義者とも全く異なっていた。
 この点は、今日、大川の思想と精神を理解しようとする場合、注意しなくてはならないところである。普通、考えられているように、彼は決して、偏狭固陋な排外主義者ではなかった。そのことは、また、昭和十年代の大川を正しく理解する鍵でもある。

 

<大川周明 目次>

 

   思想は状況を超え得るか?

獄中によみがえる精神
 大川は、昭和十二年十月、仮出所で出てきたが、その間、刑務所では、「近世欧羅巴植民史」を完成している。この著述をとおして、アジアを侵略してきた西欧諸国への彼の怒りと憎しみはいよいよ確固とした。
 だが、同時に、大川の中で、日本の革命を達成しなくてはならないという思いがますます熾烈になったことも事実である。その意味では、彼はどちらかといえば、往年の彼の思想と精神に、嶽中生活の中でかえっていったということが出来よう。
 しかも、大川が出所したときには、既に、日支事変は始まっており、陸軍の杉本五郎大尉など、「日支事変は日本軍閥と資本家の中国侵略以外の何者でもない」といいきって戦死していた。彼の眼に、当時の日本権力がむしろ、国内の矛盾を他国侵略によって国民の眼からそらし、日本の革命をおさえようとしていたことは直ちにわかった。
 そればかりか、大川達が長年主張してきた日本の革命は全く挫折したまま、アジア民族の解放という言葉だけが、その侵略を合理化するためにまことしやかに利用されだしていた。さらに、それを、国民を戦争にかりだすための錦の御旗にしだしていた。彼は、そのことに苦痛を感じないではいられなかった。
 大川が獄中にいるとき、
「大川君、吾兄に書簡するのは幾年ぶりか。兄が市ヶ谷に往きしより、特にこの半年ほどは、日に幾度となく君のことばかり考えられる。何度かせめて手紙でも差上げようかと考えては思い返して来た。この頃の秋には、小生自身も身に覚えのある獄窓の独座瞑想、時々は暗然として独り君を想っている。この脳にみつる涙は、神仏の憐み給うものであろう。
 断じて忘れない、君が上海に迎えにきたこと、肥前の唐津で二夜同じ夢を見られたことなど、かかる場合にこそ、絶対の安心が大切ですぞ。小生殺されずに世に一分役立ち申すならば、その寸功にめでて吾兄を迎えに往くこと、吾兄の上海におけるごとくなるべき日あるを信じている。
 禍福はすべて長年月の後に回顧すれば、かえって顛倒するものである。今の百千の苦悩は小生深く了承している。しかも小生のこの念願は神仏の意に叶うべしと信ずる。
 法廷にて他の被告がいかに君を是非善悪するとも、眼中に置くなし。是と非とは簡単明瞭にて足る。万言尽きず、只その心と兄の心との感応道交を知りて、兄のために日夜の祈りを精進するばかりです」
 という手紙をよこして、激励してくれた北一輝ももういなかった。北こそ、今、日支事変を遂行している日本の権力者達がその革命をおそれて殺したもの、また、彼等のすすめる日支事変がそれ故に、侵略そのものであり、アジアの解放とはまったく無縁であることを証明していた。
 大川もまた、この時、北の如く、深い絶望におそわれたのではあるまいか。そして、北を魔王と呼んだごとく、彼も北のように、仏魔の両面をもつ魔王になるしかないと思いさだめたのではあるまいか。
 ということは、道義国家としての日本でなく、魔剣をふりかざした悪魔日本として、アジアを舞台にして、徹底的にあばれまわるということであり、それが結果的には、日本の中にも、アジア諸国の中にも、それぞれの革命勢力が育つということを期待したということである。

再び思想闘争の中へ
 だが、所詮、大川は大川であり、北のように魔王になることはできなかった。それは、昭和十年代の彼の活動が全く生彩がなかったことでもあきらかである。自分自身に忠実である彼が、日本の現実を無視して、アジア諸国を侵略する日本の権力者に協力できなかったのも無理はない。
 だから、大川は、むしろ、生真面目に、日支事変を早期に解決し、日本と中国の間に和平をもたらそうとして、努力したし、大東亜戦争が始まってもその姿勢は少しもかわることなく一質していた。
 また、赤松克磨、今村等、馬島
ユタカ、平野力三たちの日本国家社会党とかなり密接に結びついていたとしても、そのかかげる主張が、
一、我党は国民運動により金権支配を廃絶し皇道政治の徹底を期す。
一、我党は合法的手段により資本主義機構を打破し、国家統制経済の実現により、国民生活の保障を期す。
一、我党は人種平等、資源衡平の原則にもとづき、アジア民族の解放を期す。
 というものでは、大川の全力を投入するものではなかった。そこには、日本の権力者達がおしすすめる政策を消極的ながら肯定する姿勢がある。それに対して、彼は全面的に対決し、それを革命する以外にないと考えていた。だから、全力を投入して、日本国民の中に日本思想と精神を復活させようと筆をとりつづけた。
 そういう意味で、大川は結局、革命家であり、革命思想家であったということができる。

裏切られた期待……極東裁判における大川
 戦争終了後、大川は、東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章など27名とともに、A級戦犯として、戦勝国によって、東京裁判に起訴された。起訴の理由は、戦時中、東亜経済調査局の理事長であり、奉天事件の組織者、更には「日本歴史読本」などの著者であったということであった。
 当時、日本国民の多くは、この裁判は勝者が敗者を裁くものであり、不当なものであるが、甘受する以外にないと考えていた。勿論彼等の戦争責任は追求されなくてはならないと考える者が相当数いたが、その彼等も、殆んど、戦争裁判は妥当なものとは思わなかった。
 それ故に、大川の思想を支持する者も支持しない者も、彼が全検事を相手にして、堂々と論争することに強い期待をいだいた。アジア諸国は別として、西欧諸国が彼等を本当に裁きうるのかどうかということを主張してもらいたいという希望を彼に懐いたことも事実である。
 その時、全検事を相手に堂々と論陣をはれるのは思想家であり、革命家でもある大川唯一人であった。彼以外のものは、誰一人も、そういう人物でないことを国民は感じとっていた。
 それがまた、敗戦国日本の堂々たる最後ではないかと、心ひそかに期待する国民もいたのである。
 しかし、思わぬところから、国民のそういう期待はもろくも崩れ去っていった。大川がある日突然に、東京法廷に出席している最中に、すぐ前にいる東条英機の頭をピシャリと叩き、わけのわからぬことをしゃべりはじめたのである。その結果、彼は精神異常と診断され、法廷から分離されたのである。これでは、国民が期待した大川と検事団との大論争は実現する可能性はなくなってしまった。
 大川は果して精神異常をきたしたのかどうか。この疑問は、今日もなおつづいているといってよい。大川が東条の頭をなぐった日、彼は午前中から様子がおかしかった。水色のパジャマに下駄ばきという姿で出廷した上に、終始、落ちつきがなく、まわりをキョロキョロ見廻わすかと思うと、何かブツブツとつぶやくという有様であった。午後は、一応ツメエリ服をきて出廷したが、上衣をぬぎ、シャツのボタンをはずして、胸や腹を出すといった有様。あげくのはてが、東条をなぐるといった始末。
 あきらかに、狂人の姿であり、狂人とみなされたのも当然である。しかし、法廷からつれ去られた後、大川に、東条の頭を叩いた理由を尋ねた記者にニヤリと笑ってみせたり、その翌日、新聞にのせたいから、もう一度叩いてみせてくれといって、東条に似た男をつれてくると、その頭を叩いてみせたという。
 これからみると、大川は、狂人をよそおったということになる。彼自身も、病院から退院したあと、次のように書いている。
「裁判は、私から見れば、手の込んだ喜劇であるのに、満場の空気は甚だしかつめらしく、満堂の人々は皆最も厳粛神聖な儀式に列っている様子をしていた。水をうったような静けさのうちに響くキーナン検事の声を聞いているうちに、私はこの虚偽の厳粛をうち破りたくなり、まず上衣を脱いで椅子の上にあぐらをかいた。それから丁度私の前に坐っていた東条君の頭を平手で軽く打ってみた。暫くたってもう一度打った」

“救国”から“立国”へ……再生する思想
 大川自身、茶番劇である戦争裁判に、皆が真面目くさっているのがおかしくなり、狂人をよそおってからかってみたというのである。それが意外にも狂人という診断をされ、裁判から外されることになった。彼としては、どうせ、インチキ裁判、その裁判でどうどうと検事と論争しても無意味なこと、それなら狂人になりおおせて、この裁判からはずされるのもいいじゃないかと考えたともいえる。
 検事側も、大川が狂人を装うなら、大川との論戦を省略できると考えて、それにのっかかったと考えられるふしもある。
 私自身の意見では、大川を一時的狂人にした。それは、東条らと一緒に、大川をA級戦犯に指定したものの、昭和十年代の大川が明らかに東条達と違うばかりでなく、彼に思う存分しゃべらせていると、東条達の責任も多分、うやむやになる恐れを感じたためではないかと思う。この裁判に判事として参加したインドのパールが「法律でなく、私刑である」といって、全員の無罪を主張した位であるから、大川の論述がどういう結果をひきださないともかぎらない。大川の著書を読めば、何人も、大東亜戦争の遠因が西欧諸国のアジア侵略にあったことを否定できないと考えたとき、どんなことをしても、彼を法廷にたたせたくなかったであろう。
 しかし、いずれにしても、大川と検事団との論戦はついに実現しなかった。もしも大川が狂人をよそおったとすれば、そして、論戦をさけたとすれば、世界革命を実現していく一つの契機を自ら放棄したということになる。大川の名誉のために、狂人をよそおったと思いたくない。
 松沢病院には、大川は前後二年半入院していたが、ここで、マホメット教の経典コーランを直接原典から翻訳した。これは、日本人として最初のものであった。
 昭和二十三年十二月、退院した大川は、神奈川県中津村にひきこもり、改めて、これからの日本のゆく道を構想していった。彼は若き日に、考えた立国のことを思った。そして、北一輝と別れた頃から、いつか、立国でなくて、救国を考え、救国のために挺身したために、権力の亡者どもと癒着してしまったが、そういう過去の一切を清算し、新しく、自分も日本も生まれかわらなくてはならないと考えた。それは、農村の土の中から、身も心も新生することであり、それ以外に、これからの自分も日本もないと思うのであった。
 それは、若き日の大川にかえることであった。
 大川は、晩年に書いた、「安楽の間」にも、
「私が自分で物を考えるようになってから、私のために人生に関する思索の基礎たるべきものを与えてくれたのは、大西郷の“道は天地自然の道なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己をもってせよ”という南州遺訓の中の一節である。これは大西郷が自分自身の切実なる経験によって把握し、生涯を通じて真剣に実践してきた人格的生活の三原則を簡単明瞭に述ベたもの」
と書いているが、結局は、人間の生活も自然の法則に従って、自然にかえる生活がもっとも安楽であるという意味である。彼が農村に活路と新生を求めていったのもむりはない。それは同時に、人間の生命力、成長力、生産力をそのままみとめるということである。自由と平等を認めるということでもあったのである。

 

                <大川周明 目次>

 

    <日本の右翼 目次>

 

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