「日本の右翼 開かれたナショナリズム

 

 本書は1970年に出版され、1973年には改訂版が出された。改訂版では「未来と右翼……三島由紀夫の夢……」が書き加えられ、紙数の都合か、「昭和維新の思想……大川周明の国家主義……」が載せられていなかった。また、終章の最後の一頁も書き替えられているので、それぞれ初版の部分はリンクを付けて掲載した。
                 (1998年8月 池田諭の会)

 

     まえがき

 今日ほど、右翼というものが誤解されている時はないであろう。もちろん、そこには誤解されてもしかたないものが、右翼を自称する人々のなかにあることも事実であるが、今日の思想状況政治状況ほど、他方で、何が右翼であり、右翼とは何を為すべきかを明かにすることを求めている時もないといえよう。
 要するに、左翼が今、思想的に最大に混乱をつづけているように、右翼も混乱をつづけている。彼等は、何が思想の原点であり、それをどのように継承し、発展させれば、新しい未来を創造する思想と精神になし得るかということでも、十二分に考えきっていない。それでは、現実を指導する力にならないだけでなく、彼等の欲する維新(革命)は実現しない。
 本書は、そういう状況の中にあって、右翼とは本来何であり、右翼の思想と精神といえるものは何であるかを歴史的に少しでも、明かにしようとしたものである。それは、今こそ、本当に右翼といわれる人達が抬頭する必要があると思われるからである。

 

 

     改訂版まえがき

 私の入院中、三島のあの衝撃的な死があった。その時私は生死の境をさまよっていて、まだ死にたくない、仕事をしたいと叫びつづけていた。彼はその時死んでいったのである。その後私はいつか機会があれば三島論を書いてみたいと思ったし、病床で何故彼は死んだのかとあれこれ考えてみた。
 結局彼は知識人に絶望していながら彼の書くものは知識人を始めとして疑似インテリに読まれていることに空しさを感じたためではないかと思うようになった。それに、三島は既に、彼の最近の最大関心事である日本の右翼に一つの方向をあたえてしまっていた。その方向とは神話の時代であり、そのための革命であった。彼によって今迄の右翼は更にはっきりと明瞭にされ、何故あんなにも執拗に西洋の近代主義、合理主義、科学主義に反対するのかも明らかになった。このままでは確かに人類は滅亡し地球は破滅するしかない。しかも三島は同時に世界の右翼にその所を与えたのである。今後おそらく世人が右翼を偏狭固のアナ”ロニズムと言うことはなくなるであろう。
 日本の右翼に未来を与えた三島を日本の右翼にいれないのはおかしい。頭山満を何故いれなかったのかという批判もあるが、彼には私のみる所では北一輝と同じような批判がないでもない。三島はその死によって、始めて右翼の仲間入りをした。右翼の道統を継承する位置を与えられたのである。たとえ「憂国」が「英霊の声」があろうともその死がなければ、この栄光の地位は与えられない。その意味では尊い死であった。どうしても三島論を書き加えたかった理由である。

 

 

     <目次>

序章 右翼はどこへ行くのか……新しい思想の創造のために……
右翼思想の根底を支えるもの/維新(革命)への志向/今、何が求められているか?

第一章 日本右翼の源流……西郷隆盛の思想と行動……

   革命者か反動家か?
西郷隆盛の意図したもの/先駆か反動か?……相対立する評価

   思想形成への道
がんじがらめの体制/つらぬく儒教的民本主義/はたして“反近代”なのか?/思想への目覚め……佐藤一斎から学んだもの/慈愛されるべき存在!?……西郷の人民観

   維新を推進するもの
混乱の時代が生んだ風雲児/流人生活で体得したもの/指導者として何を身につけるか?/全存在を賭けた維新革命

   “第二革命”の思想
“新しい軍隊”の構想/新政府への幻滅……“第二革命思想”の発生/西郷は“反動”ではない!?/西洋近代の否定……何を評価すべきか?

   何を継承すべきか
征韓論の起源と展開/敗論!政府打倒の決意/死に急ぐ戦い…/指導者はどうあるべきか?/日本政治の進むべき道とは?/西郷の夢と情熱……何を受けつぐか?

第二章 理論と実践……北一輝における革命思想の追求……

   社会主義への開眼 
死で証明したもの/法華経の中に何を発見したか?/思想への出発

   「国体論及び純正社会主義」の思想 
“国体論”の矛盾点は何か?/衝撃の理論“万世一系の皇室を奉戴せず”/明治維新への新しい視点/どうすれば世界連邦を実現できるか?/人間の“喜び”を奪うもの/革命への夢と期待

   中国革命と北 
宮崎滔天との出会い/辛亥革命……その理想と現実/中国革命同志会の挫折

   「支部革命外史」の意味するもの 
なぜ書かずにはおれなかったのか?/中国蔑視!?……日本人心理への鋭い批判

   中国の再発見 
排日運動……燃える中国/日本革命に向かう眼

   革命への志向 
“下からの革命”と“上からの革命”/“現実の人間”からの出発/人間自立の基盤をどこに求めるか?/“侵略の中から革命の嵐を!”

   二・二六事件と北 
軍隊による革命/何が青年将校との結びつきを可能にしたか?/二・二六蹶起!……北に知らされなかった事件/「日本改造法案大綱」の幻想性

第三章 昭和維新の思想……大川周明の国家主義……

第三章 戦争と平和の思想……世界最終戦の構想者・石原莞爾

   “平和”を追い求める精神
“世界最終戦”の後にくるもの/どんな国家を建設すべきか?/絶望と虚無からの目覚め

   革命思想の芽生え
通らぬ正義……名ばかりの“平等”ヘの怒り/人生を決定づけた出会い/中国に開かれる眼/軍人としての矛盾……どう克服したか?

   世界最終戦の構想
追求すべき戦略・戦術とは?/ドイツ軍略への挑戦/人間解放のための不可避の過程なのか?/正義への憧れと力に対する信頼/人種戦争としての世界最終戦争

   “侵略”と“解放”の間で
“満蒙進出”への視点/見失われた精神/危険な自覚か!?……“八紘一宇”の思想/満州事変への道

   協和会の目ざすもの
民族自決の理念とは?/橘撲の共同主義思想/“五族共和”……満州国誕生のかげに/理想の瓦解……植民地化への急傾斜

   大東亜戦争と石原
絶望と自己矛盾の中で/東条との対決……なぜ理想が挫折したのか?

第四章 現代と右翼……影山正治の“維新”思想……

   求め続ける“維新”
現代につらぬく姿勢……安保と影山/“自己維新”ヘの認識と志向

   日本主義文学への覚醒
培かわれた自主独立の思想/危機の時代の論理……日本主義への傾斜/資本主義への懐疑/思想は堕落したのか?/“明日の日本を戦いとれ”……日本革命の模索

   神兵隊事件と影山
血と情熱の行動者/影山の根底を支えるもの/“動”から“静”へ……獄中で育てた思想/対決と理解……魂の触れ合い/つらぬく“いのち”の哲学

   “みたみわれ”の思想
信ずるべき日本思想とは?/古典から何を学ぶか?/天皇への敬慕……“みたみわれ”の意識

   東条体制との対決
厳しい自省の精神/中国革命への期待/軍閥体制との対決/大東塾はどんな影響を与えたのか?

   右翼の中の“天皇”
“理念としての天皇”と“現身としての天皇”/自決!……つらぬき通す“志”/“天皇”をどうとらえるべきか?

第五章 未来と右翼……三島由紀夫の夢……

   革命者としての自決
戦後社会の否定/戦中派的思想の体現/日本ロマン派への接近/終末観に基く美意識/破滅のはじまり/創造へのあがき

   破壊そして創造へ
日本ロマン派との訣別/陶酔する感覚の追求/虚妄なる時代への不信

   理想的世界への布石
右翼的なるもの/「唯一絶対」の否定/未来へのかけ橋は築かれたか/日本の右翼から世界の右翼へ/栄光の死

終章 日本思想史における右翼思想……その位置づけと展望……
日本思想の“原点”とは何か?/“生命”への賛美と感動/“言論は力なり”……“コトムケヤワス”の精神/“伝統思想”の理想と現実/“二段革命論”の限界点とは?/日本精神を絶対化する危険/平和を志向する目覚め/“思想”を生かすもの

右翼関係略年譜

参考文献一覧

 

                  < 目 次 >

 

 

序章 右翼はどこへ行くのか……新しい思想の創造のために……

右翼思想の根底を支えるもの
 七〇年代を通じて、日本の右翼が安保その他の問題をどのようにうけとめ、さらには、どのように行動するかということは非常に重要であるばかりか、日本の運命と進路を決する鍵をにぎっているともいえよう。
 しかし、多くの人々は、右翼の思想と行動は自民党政府とその政府がおしすすめる安保を支持しており、今さらそういう問いを発してみることはナンセンスに近いと考えている。
 たしかに、今日、右翼を自称し、また、右翼といわれている人達の多くは、自民党政府を支持し、安保に賛成を表明している。とすれば、日本の右翼の思想と行動を改めて問いなおしてみることは一見、無駄のようにもみえる。
 しかし、そういう右翼が、はたして、明治以後の右翼の思想と行動を継承し、発展させようとしている人達であるかどうかということになると、強い疑問がわいてくる。
 それというのも、日本の右翼の道統は、国際的には、アジアを侵略し、植民地化をねらう欧米諸国の暴力と徹底的に戦うことにあったし、国内的には、腐敗した政党、国民の自由と平等を阻む官僚、利潤を独占する財閥と鋭く対決することにあったからである。いいかえれば、彼等の念願はアジア諸国の独立と平和にあったし、すべての人々に、自由と平等を満喫させることにあったし、そのためには、日本をふくめて、アジア諸国の現体制を変革し、アジアに維新=革命をおこすこと以外になかったのである。
 彼等は、明治維新の理想の炬火を日本のみでなく、アジア諸国に進展させ、その理想をより完全に実現していく連続革命を志向した。ただ、その維新=革命を、共産主義的革命、社会主義的革命と区別する意味で、彼等は、それを維新と呼んだ。維新と呼ばずにはいられなかったのである。影山正治は、その理由として、維新者には、涙と愛と詩と祈りがあり、革命家には、その反対に憎しみと理性しかないというようなことをいっている。
 それは、彼等が、明治維新を継承し、発展させる昭和維新であると考えると同時に、その維新は、あくまで、民族的歴史的な思想と精神をふまえ、それを今日的に発展させた思想と精神によって実現しなければならないと考えたことによる。彼等は、それによるしか、日本に維新は招来できないと考えた。さらには、彼等の心情と姿勢の中には、アジアを侵略する西欧諸国の思想とイデオロギーによって、日本の革命を実現しようとする態度にがまんならないものがあった。そんな革命は、奴隷の革命でしかないではないかという気持があった。

維新(革命)への志向
 日本の右翼のあるものを、民族社会主義・国家社会主義にし、あるもの日本主義、天皇主義にしたのもそのためである。だが、彼等は、天皇を除くかぎりの国民全部の自由と平等を実現しようとしたことでは共通していた。彼等が、欧米諸国を敵とし、政党、官僚、軍閥、財閥とあくまで戦おうとしたのも、国民の自由と平等を迫害し、抑圧する者としての認識によったのであった。それがまた、右翼の考える天皇の心であり、思想であったのである」
 その意味では、日本の右翼は、共産主義者、社会主義者と同様に、その意味は異なるにしても、維新(革命)を欲する。だから、日本の右翼は、維新(革命)をめぐって、社会主義者、共産主義者の左翼に対してのみ成立する言葉である。日本の右翼に関するかぎり、それは、保守でも反動でもなく、あくまで、維新(革命)を待望し、その実現を意図する人々のことである」
 革命を志向しない左翼は、もはや左翼ではないように、維新の実現を忘却した右翼はその位置から転落する。それが保守となり、反動となるのである。それゆえに、今日、右翼を自称し、右翼といわれるものは、このような右翼の道統を継承し、発展させようとするものでなくてはならない。
 まして、腐敗した自民党政府を支持し、アメリカに隷属することを国民に求めた安保に賛成するなど、右翼の道統とはまったく無関係であり、安保条約という不平等条約を肯定するなど、明治以後の右翼の道統に背くことである。まして、組合員の自立と地位の向上のために戦う労働争議のスト破りを資本家階級にたのまれてするなど、国民の自由と平等を求める右翼としてはおかしなことである。資本主義こそ、常に、右翼の最大の敵であったことを忘れることほどナンセンスなことはない。
 こういうところに、最近の右翼が暴力団と誤解される理由もある。しかし、右翼の道統を継承し、日本の維新を切望する者は決してそうであってはならないし、また、そういうものでないことも明白である。いってみれば、革命を欲する左翼と維新を実現しようとする右翼とは競合するものであり、左翼を敵視するということは、まったく小児病的である。反共運動にだけ狂奔するということは、右翼の本当の敵である自民党や資本家階級、さらには、アメリカそのものを見失うことであり、彼等を喜ばすことでしかない。

今、何が求められているか?
 もちろん、維新(革命)をめぐって、右翼と左翼とが徹底的に、理論闘争し、競争することは必要なことである。維新達成のためには、それも大いに必要である。ことに、右翼が左翼の革命にさきだって、維新を実現しようとすればなおさら大切である。言論弾圧や政治的弾圧では、右翼も左翼も死滅しない。お互に、そんないいかげんな思想でないことは知悉している筈である。そのためにも、今日の右翼は、謙虚に、明治以後の右翼の道統を学びなおす必要がある。右翼本来の思想と精神を発展させ、それで武装する必要がある。
 かつて、大川周明が大正年間にすでに、レーニンを高く評価し、スターリンを酷評したということを知っている人が何人いるであろうか。そういう鋭い思想伝統が右翼の中にはあったのである。
 私が本書を書いたのもそのためであるし、同時に、世の中の人々に日本における右翼というものを正確に理解してほしいと思ったからである。今日、左翼といわれる人々は、その革命理論の再検討と創造を求めて四分五裂し、さらには、苦闘をつづけている。それは、革命を求める人々の真剣な悩みであり、あがきであるということができよう。同じように、右翼といわれる人々の中でも、その維新理論を求めて、その発展を求めて苦闘している者もいる。それを現在の民族派といわれている学生達が始めているといってもいい。
 かれらは、三島由紀夫と羽仁五郎を一緒に読み、石原莞爾とレーニンをともに学習している。古い世代の主義者や知識人は、それを無節操と言い、系統的学習でないと批判するかもしれない。しかし、彼等は、自分自身を出発点において、自己をいかにして、維新的人間、革命的人間に形成するかを考えている。人々に、真に自由と平等をもたらせる思想は何かと考える。それを自ら創造しようと考える。彼等は、その思想を創造していく上で必要と考えるから、三島を学び、羽仁を学び、石原、レーニンを学ぶ。
 三島や羽仁は、彼等にとって、それだけの存在でしかない。彼等ひとりびとりが三島、羽仁、石原、レーニンに並存する存在である。恐らく、本書にあげた五人の人間とその思想も、彼等にはそれだけの意味しかもつまい。しかし、それ故に、これら五人の人間の思想と精神はじっくりと研究し、彼等のつくる思想と精神の中にそれらを吸収し、生かし、発展してほしいのである。
 それは、将来の維新がそれらの蓄積の上にのみ実現されると確信するからである。そして、維新を念ずる右翼運動も、層としては、これから本格的におこるにちがいないと思うからである。

 

                  <日本の右翼 目次>

 

第一章 日本右翼の源流……西郷隆盛の思想と行動……

   革命者か反動家か?

西郷隆盛の意図したもの
 昔も今も右翼人と称するほどの人々は、一様に、西郷隆盛を尊敬し、その精神と思想を継承し、実践していくことを痛切に考えている。それほどに、西郷は右翼人の心の中に強く、生きている。だから、日本の右翼を語ろうとすれば、当然、まず、西郷のことを語らなくてはならないし、彼の思想と行動を明かにすることから始めなくてはならない。それこそ、西郷は日本の右翼の原点であり、源流である。その意味で、私もまた、西郷の思想と行動、それらをひっくるめて、その精神を語ることから始めたい。
 御承知のように、西郷といえば、文政十年(1827)薩摩藩に生まれ、その薩摩の力を背景にして明治維新をなしとげた人物であり、その功績第一の人物である。しかし、彼を右翼人が尊敬し、彼等の思想と行動の先駆者とみるのは、そのためではない。そういう事実とはまったく関係がないといってもいい。
 もちろん、西郷が明治維新を招来した中心的人物であるということは大事なことであるが、むしろ、彼が明治維新を実現した後に、それに安住せず、明治維新のかかげた理想をより完全に、達成するために、第二、第三の維新をのぞみ、そのために倒れたということにある。明治維新の理想をおいつづけたという思想と行動にある。
 というのは、明治維新を実現した後に、大久保利通、伊藤博文などの明治の顕官といわれる人達が、一方に、日本国家の近代化をおしすすめながらも、他方に、自分達の地位と富との確立に腐心し、国民と彼等との間の差別と溝を拡大し、強化したということに対する西郷の怒りに共鳴したということである。たしかに、明治維新は、法制的には、国民の自由と平等を一応みとめたが、実際には、それはまったく紙に画いた餅でしかなかった。経済面から考えると、それはなおさら無縁のものであった。だから、維新の理想は、維新を実現した後にも、依然として必要であったし、その理想を実現するためには、連続革命を不可欠とした。
 右翼人は、それをやりぬこうとした人間として西郷をとらえる。それ故に、彼を偉大とみるし、時に、彼を神格化さえするのである。

先駆か反動か?……相対立する評価
 しかも、今日、歴史学者の多くは、西郷を否定的に評価しているばかりか、それは定説にさえなっている。それを代表しているのが圭室諦成の西郷論である。 彼は、その著「西郷隆盛」(岩波書店刊)で、次のように書いている。
「西郷は貧しい下級士族の長男として生まれ、その少青年時代、おくれた郷中教育によって排他的な郷党意識と、独善的な政治理念を骨のずいまで叩き込まれた。そうした生活環境がかれのがむしゃらな反抗精神と、つよい郷党意識と、そして執拗なクーデター癖をはぐくんでいる。このような反近代性のゆえに、かれは薩摩武士団の頭領と仰がれ、その野望の担い手として生涯をささげつくした。ところで、薩摩藩の担い手であるとともに、日本の担い手でもあった明治維新にいたる四年間は西郷伝においてもっとも精彩にとんだ部分である。……そしてそれとは対蹠的に維新後の征韓論争、西南戦争などにおけるかれの言動は、すべて反動である」
 田中惣五郎も、また、維新後の西郷を反動的と評価している。だから、こういう歴史学者の評価に対して右翼人は一様に、鋭く反発する。
 例えば、葦津珍彦は、「右翼精神の系譜と現状」という論文の中で、西郷を、
「岩倉、大久保等の政府実権者は、日本の富強をはかるためには、欧米列強への抵抗(攘夷)の精神を、きっぱり清算し、まず日本を近代化し、欧米の国際的信用を得て、欧米の支援のもとに国の発展を期せねばならぬと信ずるに至った。これに対して、あくまで日本精神の独自的権威を確保して、欧米の圧力に抵抗しつつ、日本国の強化をはからねばならぬとする西郷以下の勢力が相対決した。これが征韓論争の精神的対決の核ともいうべきものなのである。……
 民族運動と征韓論とは、現実政治史の上では表裏一体の関係にある。事実、西郷の征韓党が、西南の役の内乱をおこしたとき、その戦列に参加した者の中には、各地の先駆的な民権家が、すこぶる多かった。
 しかし、西南の役は、明治十年に西郷が城山で斃れて鎮圧された。だが、西郷党の残党の力は壊滅したわけでなく、翌年には、島田一郎等の一隊に急襲されて、大久保が暗殺された。その斬奸状は、征韓論と民権論との立場を明かにしめしている。この大久保暗殺によって動揺した政府に対して、征韓論の残党、板垣退助、後藤象二郎を首領とする土佐派が、民権の旗をかかげて、国会開設の全国的な運動をおこした」
 と評価し、影山正治は、さらに明瞭に、西郷を右翼思想史の中に位置づける。
「南州は幕府政治の根本的否定を目的とした。時の政府を、徳川幕府に代る新幕府とみなしたのである。……まさに幕末における尊皇討幕運動の延長、又は昭和維新の先駆運動と見るべきである」要するに、圭室や田中が維新後の西郷を反近代、反動というのに対して、葦津、影山は、これらの評価は多く皮相の見解であって、西郷そのものを深く理解していないところからくると反論する。西郷こそは、かえって、日本民族と歴史をふまえて、その発展のためにその生命を捧げつくした偉大な人物だといいきるのである。
 果して、西郷は、彼に対する歴史学者の評価をはねかえして、葦津、影山のいうように、日本民族と歴史の発展を企図した人物であり、彼の思想と行動は右翼人が讃美し、神格化するほどに卓越していたのであろうか。私の西郷論はそれを明かにすることにある。それがまた、西郷を日本右翼思想史のみでなく、日本思想史、日本精神史の中に、正確に位置づけることにもなると思われるのである。

 

                 <日本の右翼 目次> 

 

   思想形成への道

がんじがらめの体制
 西郷を考える場合、まず、彼がどんな政治情況、思想情況の中に生まれ、それを呼吸して育ったかということから始めなくてはならない。それは、人間が時代の子として、時代の制約を、その人間の内部と外部にがんじがらめにうけとめており、その人の一生は、ある意味で、その制約との戦いであるともいってよいし、とくに、その人間が革命家として生きようとする以上、彼をとりまく、内と外からせまってくる時代の課題にその全存在で対決し、苦悩するからである。
 では、西郷の生れた時代とはどういうものであったか。それを一言にして言えば、封建時代であり、土地と人民を藩侯が占有し、士、農、工、商の差別が厳然と存在し、そこには、いかなる意味の自由も平等もありえなかった。農、工、商に君臨する武士階級といっても、彼等の間には、農、工、商の間に存在する差別よりも厳しい差別が幾等級にも存在しただけでなく、彼等は藩侯への忠にしばられて、農、工、商よりもさらに不自由であった。しかも、彼等の生殺与奪の権は藩侯一人にあったのである。
 士、農、工、商などといっても、所詮は奴隷の間の差別でしかなく、差別を設けることにおいて、人々の不満、人々の怒りをそらしていたにすぎなかった。要するに、封建時代とは、そういう時代である。しかも、そういう時代情況の中に生きていて、それに疑惑をもち、それに怒りを感ずる手がかりになるような思想も書物も、人々の周囲には殆んどなかったという実情でもあった。人々がいかに無智であり、無能であったとしても不思議ではない。
 農民は時に一揆によって、封建体制の残酷きわまる搾取に抵抗したが、それとても、武士階級をそれにまきこむことがなかったために、力となることは決してなかった。その点、士、農、工、商の差別政策をもった封建体制は、みごとに、その分断政策によって成功していたのである。

つらぬく儒教的民本主義
 だから、西郷も、そういう時代情況のなかで、彼が農民にいだいた感情と思想は次のようなものでしかなかった。
「役目と申すものは何様の訳にて相たてられ候。自分勝手を致せと申す儀にてはこれなく、第一天より万民御扱ひなされ候儀出来させられざる故、天子を立てられて万民それぞれの業に安んじ候やう御扱い成され候へとの事に候へば、天子御一人にて御届きなされざる故、諸侯を御立て成され候て領分の人民を安堵いたさせ候やう御まかせ成されたることに候へども、諸侯御一人にて国中の人民御届きなさせざる故、諸有司を御もふけ成され候も、専ら万民の為に候へば、役人におひては万人の疾苦は自分の疾苦にいたし、万民の歓楽は自分の歓楽といたし、日々天意を欺かず」(与人役大体)。
 これは、天が天子をたて、天子が諸侯をたて、諸侯が役人をたて、役人が万民のために心を労するという儒教思想であり、儒教的民本主義そのものを西郷が彼の思想としていたことをしめしている。ことに、この意見が彼の三十七歳の時のものとすれば、それが彼の一生を貫いた考え方であったということもできよう。
 彼はこの儒教思想で、当時の幕府を批判したし、その存在を許すことが出来なかったのである。封建体制は儒教精神に相反するものにみえたのである。
 そこに、西郷が蹶然とたって徳川幕府を倒した理由がある。万民のための政治を実現することが、彼にとっての明治維新であったし、維新後も、彼は、その理想、その思想のために努力しなければならなかったのである。その意味で、彼には、維新後もその儒教思想は生きていたし、なお有効性があったのである。
 もしも、西郷の思想が維新後も客観的にみて有効であり、生かさねばならないものとするなら、維新後の彼を反動ということはできない。まして、維新前の彼をたたえ、維新後の彼を批難することなど、彼を正当に評価したものとはいえない。彼はただ、自分の思想に忠実に、維新前も維新後も生きたにすぎない。ことに、歴史家たちが、維新後の西郷の思想と行動が反動的というのは、明治政府に対して、さらには、歴史の発展に対してであろうか。このことについては、あとで述べるとして、彼の思想が反近代的であるというきめつけ方に対しても、疑問を提出せずにはいられない。

はたして“反近代”なのか?
 圭室のいう近代的という考え方には、西欧の近代を基準として、それに反するものには反近代という評価をあたえるという視点が働いている。近代という場合、西欧的近代のみがあって、一見、東洋的近代というものはないかのようであるし、西欧的近代を基準として、それに反するものは、反近代といって批難するばかりか、おくれていると考える傾向が圭室のみでなく、一般の学者にも共通している。
 西洋に、西洋独自の発展があり、西欧的近代があるように東洋にも、その歴史に即した、東洋独自の発展があると考えるのは間違っているのであろうか。それを右翼人は考えるし強調する。右翼人が西郷の思想を反近代的と評価する考え方に反発し、拒否するのもそのためである。このことに関する限り、右翼人の考えがまともであり、すじがとおっている。歴史というものを知っているということがいえるのではなかろうか。もちろん、西郷の思想は、儒教思想に制約されて、それから生涯、脱け出ることはできなかった。その点では、彼の思想は不十分であったということはいえるかもしれない。維新後の彼の思想と行動をより正確に理解するために、彼と儒教思想の関係、彼にあらわれた儒教思想のこと、さらには、彼自身の思想のことを明らかにしていきたいと思う。

思想への目覚め……佐藤一斎から学んだもの
 西郷は、三十六才の時に、二度目の流罪生活を沖永楽部島で送っているが、この一年半の遠島の間、彼は、日夜、「言志四録」「韓非子」「近思録」「通鑑綱目」などをくりかえし読んでいる。先の「与人役大体」もこの当時の意見書であり、それは、これらの書物から彼が読みとり、彼の思想としたものである。とくに、西郷は、「言志四録」から、百一則を抄録して、生涯、それを金科玉条として愛読したといわれている。
 その「言志四録」が江戸中期から末期にかけての朱子学者であり、陽明学者でもあった佐藤一斎の著書であることはいうまでもないが、そこには、
「人生暗弱にして人を知る能はず。而して、専ら小人を寵任す。固より亦た権を弄す。此れ則ち亡国の主なり」
「土地人民は天物なり、承けて之を養ひ、物をして各所を得しむ。是れ君職なり、人君或は謬りて、“土地人民は皆我物なり”と謂うて之を暴す。此を之れ君、天物を偸むと謂ふ」
「君の臣に於ける、賢を挙げ能を使ひ、ともに天禄を含み、元首、股肱、合して一体を成す。此を之れ義と謂ふ」などの文章がみられる。
 佐藤の儒教思想、政治思想、人民思想は、これらの文章につきている。要するに、彼は、君主の横暴をきびしく批判した。同時に、「宰臣は宜しく国法を執るべし」「官長を視るには、猶ほ父兄の如くして、宜しく敬順を主とすべし」という言葉にもあるように、臣としての在り方にも強い要求を出している。
 それは、君主と役人と人民との支配関係、上下関係が天から与えられ、決定されたものとしてうけとめたことを意味する。天物を偸む君主と役人は除くことができると考えたが、君主と役人と人民の支配関係、上下関係を疑ってみるということはなかった。
 そこに、佐藤が封建体制の支配の中に安住できる理由があったし、西郷が「与人役大体」に述べた意見も、佐藤のそれと少しも変わるものではなかった。佐藤と西郷の違いは、前者が江戸幕府を天物を偸む者とみなかったのに対して、後者はそれが天物を偸む者と見抜いたことにある。その認識の相違が西郷を討幕論者にし、討幕運動に挺身させ、更には、明治政府の打倒に走らせたのである。
 西郷が佐藤の考える君主、役人、人民の支配関係、上下関係を疑ってみようとしなかったということ、その関係を肯定したまま、自らの思想にしたということ、その意味では、彼は思想として儒教を発展させることがなかったし、そこに、彼の限界があった。だから、そのことを指して、反近代的というなら、反近代的といえないこともないが、それは、あくまで、歴史に対してのみいえることである。
 いずれにせよ、西郷は佐藤の思想の枠内におり、儒教から一歩もぬけだすことは出来なかった。彼にできたことは、儒教思想を徹底的に実現しようとつとめることであったし、それ故に、すぐれていたともいえる。それこそ、彼は、彼の思想を忠実に、生きぬこうとした。そのような彼をつかまえて、始め、讃美し、後に、批難するなど、まったく、まとはずれである。
 ただ、彼の思想の限界が、維新後の日本と日本人を大きく発展させる牽引者となることはできなかったということは、また別の問題で、むしろ、西郷ほど、自らの思想に忠実であり、誠実であろうとした人間は稀れである。それも生命をかけて、その思想を貫こうとした。彼を右翼人はもちろん、多くの人々が至誠の人として、尊敬する理由でもある。その点で、彼は、その死後もなお、生きつづける。そればかりか、右翼人の理想として、行動の原点として生きつづける役割をになうことにもなるのである。

慈愛されるべき存在!?……西郷の人民観
 次に、西郷が「言志四録」と一緒に、くりかえして読んだ「韓非子」のことについてふれたい。韓非は中国、春秋時代の法学者で、「韓非子」はその著作である。君主が臣下を如何にうまく統率し、その地位、権勢を確立するかということが、その中の主な内容である。
 例えば、次のような言葉、
「人主の患は、人を信ずるにあり」
「民はもとより勢いに服す。よく義に懐くは寡し」
「功なきを賞すれば、民偸幸して上に望む。過を誅せざれば民懲りずして非をなし易し」
 ここには、君主として、臣下や人民を如何に信じてはならないかが述べられている。それは、君主が臣下や人民をいかによく知りぬいて統御しなくてはならないか、を強調するとともに、信賞必罰によって、臣下や人民はよく統御できるということである。
 また、
「先王の政をもって当世の民を治めんと欲するは、みな株を守るの類なり」
「古今、俗を異にし、新故、備えを異にす」
 というのは、世の中が変わり、発展することを認めたものであると同時に、つねに、君主としての自己は絶対化できるということを述べたものである。
 その他、臣下に乗ぜられぬためにはどうすべきか、さらには、他人を説得するにはどうすべきかということなども書いている。「事は密をもって成り、語は泄るるをもって敗る」などは、策士の心構えを述べたものである。
 要するに、韓非は、その本の中で、君主のための人臣操縦の術を述べている。それは、陰謀的詐術とさえいっていい。しかも、彼は、学問を有害なものとして排撃し、軍人と農民による富国強兵策を考えたのである。それも、君主ただ一人の地位と富の確立を願って。それこそ、春秋戦国時代にふさわしい法学者の思想といえる。
 西郷は、こういう思想に、日夜親しんだのである。三十代後半に、一年半も、こんな思想だけを反芻していたとすれば、どうなるか。ことに、「言志四録」の思想と相俟って、いよいよ、彼が、人民とは愚なもの、信じられぬものと思いさだめるようになったとしても不思議ではない。
 そうなれば、人民は慈悲をうける存在であり、愛される存在でしかないし、人民のことを考える政治をやることだけが最上になってくる。人民のための政治をやることが君主のつとめであり、役人は君主の意図にそうた政治をするということが職分になってくる。
 こうして、西郷の中には、人民のための君主という思想と、君主のための人民という思想が共存したが、どちらかといえば、人民のための君主という思想の方に比重がかかっていたのである。

 

                <日本の右翼 目次> 

 

   維新を推進するもの

混乱の時代が生んだ風雲児
 島津斎彬が四十三歳で、薩摩藩主の地位についたとき、西郷は二十五歳であった。斉彬は薩摩の発展のためには、若い人達を抜擢し、教育し、彼等に、自らの政策を実現させる以外にないと考え、西郷を抜擢した。
 当時、斉彬は、自らの識見にもとづいた政策を推進していくには、もはや、藩の老臣達ではどうにもならないと考えたためであった。
 西郷が中小姓になって、斉彬出府に従ったのは二十八歳の時。ついで、彼は「庭方役」に抜擢されて、斉彬の秘書的な役目についたのである。各藩の情報を集めて、藩主の耳や目の役をするのであるから、彼に対する非常な信頼ということになる。しかし、実際には、西郷の知識をひろめ、養うということに主眼があった。
 こうして、西郷は、各藩に出入りし、各藩の人々と交わることによって、急速に、その識見をひろめるとともに、徐々に、各藩の人々にその存在を知られるようになっていった。薩摩藩の中で、青年組の中心の位置を得たのも、そのためである。
 しかも、このころは、嘉永六年六月、アメリカの使節ペリーが来航して以来、鎖国政策をめぐって、国中がゆれつづけていたときにあたり、さらには、将軍継嗣問題でも誰を将軍にするかをめぐって、関係者の間で論争がたえなかった。西郷でなくとも、ぐんぐん成長したであろうが、西郷の場合、すぐれた藩主を師として、その時代情況に全存在でぶつかっていったから、その成長もすばらしかった。ついに、開国問題、将軍継嗣問題が最後のつめに入った段階では、斉彬の代理として活躍するというところまで成長した。その時、西郷は三十二歳になっていた。
 しかし、開国問題、将軍継嗣問題のいずれも西郷の思う方向に進展しなかったばかりか、その時点で、藩主斉彬の死に遭遇した。彼は、すっかり失望落胆した。
 彼は、その時、死を考えた。殉死を考えるほどに、多情多感であった。だが、日本の混乱しきった現実が彼を死の決意からひきもどし、彼を次の仕事(朝廷から水戸藩への密書を運ぶ)に追いやった。もちろん、それは失敗し、終には、月照とともに、幕府の追捕をうける身となった。
 いわゆる、安政の大獄である。

流人生活で体得したもの
 西郷の月照を同伴しての逃避行が始まった。といっても、五尺の身をかくすところがない。鹿児島まで逃げ帰ったが、ここも安住の地ではなかった。とうとう、彼は月照と相懐いて、海にとびこむところにまで追いつめられてしまったのである。斎彬が死んだ時、一度は死のうと思いつめたが、今度は、時代情況が彼を死に追いたてた。しかし、幸いに、助けあげられて彼は息をふきかえした。薩摩藩は、彼を死人として扱い、大島に流した。
 斉彬と月照の死に遭遇した西郷の悲しみは底知れないものであった。しかも、彼のなすところはことごとく失敗する。その挫折感が非常に深かったことも想像できる。大島での流罪生活は、彼がたちなおるための休養であった。
 ことに、彼のように、情熱のおもむくままに、奔馬の如く行動する人間にとって、一切の行動の自由を奪われたことは、彼自身にとって、非常に必要なことでもあった。そういう生活の中ではいやおうなく自分が自分自身になりきるもの、存在が、彼自身の思想でつらぬかれ充実するものである。
 それも、こういう生活が満三ヶ年もつづいたのであるから、西郷はもう往年の彼ではない。彼自身の維新が革命が見事に実現したといっていい。
 だから、許されて鹿児島に帰ったときには、西郷は、何人も恐れず、また、何人にも支配されない男、自分自身の考えと判断でしか動かない男になっていた。それ故に、断乎たる決断力と旺盛な実行力を身につけていた。しかも一度死んで、生きかえった男である。徹底するなといっても、しない方がおかしい位である。
 歴史学者田中惣五郎は、その時、西郷が、「誠忠派と唱へ候人々は、これまで屈し居り候ものの伸び候て、只上気に相成り、先づ一口に申さば世の中に酔ひ候あんばい、逆上いたし候模様にて、口に勤王とさへ唱へ候へば忠良のものと心得、さらば勤王は当時如何の処に手をつけ候はば勤王にまかりなり候や、其道筋を問い詰め候得ば、訳もわからぬ事にて、国体の大体さへ、か様のものとあきらめも出来ず、日本の大体はここという事も全く存知これなく、幕の形勢も存ぜず、諸国の事情も更にわきまへこれなく、総じて天下の事を尽そうとは、実にめくら蛇におじずにて、仕方もない儀に御座候」
 といった言葉を思いあがった発言であり、西郷は三年間の流罪生活で、時代からとりのこされていた感があると書いている。
 田中は、西郷のこの発言が当時としてまことに鋭いものであり、薩摩藩士の実情をいいあてていることを理解できない。そればかりか、三年間の流罪生活の中で、時代の流れのうわっつらに眼を奪われることもなく、かえって時代の底にあるものが何であるかを見透すことができるようになった西郷の眼力を認識できない。彼は三年間、同じところにふみとどまっていた故に、かつての彼の先ばしり、せのびを克服して、時代の動きそのものが本当に見えるようになった。
 西郷が斉彬の弟久光を、斉彬を思うあまりに軽視しがちであったという歴史学者一般の評価にしても、大島でおこった彼自身の革命を考えないところから来ている。だから、下関で待機するようにという久光の命令を破って京都に先行したのも、彼自身の考えと判断にもとづいたものである。それは、西郷が薩摩藩士として行動しながら、その意識はすでに、藩士の立場をこえて、一人の人間、一人の日本人として行動していたということである。

指導者として何を身につけるか?
 だが、彼は、そのために、久光の怒りを買い、再び、流罪になる。この流罪生活の中で、先述した「言志四録」「韓非子」などを徹底的に心読し、身読する生活が始まるのである。
 島での西郷は、「時代が自分を必要とするなら、赦免の便りは必ずくる。それまで、ただこつこつ、自分をきたえておくだけである。万一、便りがこないときは、運命とあきらめて、誠を貫く生活を送るだけである」という心境で日々を送ったから、彼の人間と思想に一段と磨きがかかったことはいうまでもない。
 数年間におよぶ二度の流罪は、西郷という人間に、明治維新の指導者としての資質と能力を十二分に備えさせることになった。彼に即していえば、その流罪生活という逆境を完全に生かしきることによって、維新者の頭領としての風格をそなえることになった。ことに、維新者の頭領、革命家群の指導者という者は、変革すべき社会に先だって、彼自身の維新(革命)をやりおおせている者でなくてはならない。それを西郷は着々と進行させていたのである。
 西郷は、「言志四録」「韓非子」などを通じて、諸侯のための家臣団、諸侯の私物にすぎない人民という封建体制を拒否して、一人の君主、君主の意を体して政治する臣下、政治されるべき人民という新しい秩序関係を考え、そういう秩序関係でなくてはならないと思うようになった。
 だから、久光からの呼もどしがあり、薩摩藩の軍賦役に就任した西郷は、ただ一目散に、彼の考える維新の道を、新しい秩序を生みだすためにつきすすむしかなかった。そして、これ以後の西郷のなすことは、ことごとく成功した。それは、彼の細心な情勢分析、それにもとづく適切な対策によるものであったが、一年半、「韓非子」とむきあって、徹底的に、人心総攬術を身につけたためでもある。
 このへんに、西郷を謀略家であったという理由もある。しかし、維新者といい、革命家といわれるほどの者で、古来から、謀略家でなかった者はない。厳密には、謀略家でなく、すぐれた戦略家であったというべきであろう。
 ことに、彼のように、人間に対する燃えるような愛情を持った者には戦略家になり得ても、陰謀的な意味での謀略家にはなれない。それに、維新といい、革命というものは、勝つか敗けるかのどちらかしかなく、敗ければ、殺されるという情況の中では、維新者、革命家の条件は卓越した戦略家でなければならなかったということである。それ故に、維新といい、革命というものは、すぐれて非情なものであり、余程の時代情況でなければ、口にすべきものではない。現に、幕藩体制下では、幕府政治を批判したただけで、牢獄でなくて獄門首であった。
 それ故に、幕末の時代情況は維新(革命)を必至としたといえるし、西郷はその維新のために、断々乎としてたちあがった。自己の全存在を維新実現のために投入した。

全存在を賭けた維新革命
 彼がいかに、維新のために、その生命をかけていたかということは、文久三年の八月政変以後、長州藩は京都を追われ、そのために薩長間がうまくいっていないことを知った彼が、単身、長州にのりこんで、死を覚悟して、長州を説得しようとしたことでもあきらかである。八月政変など、彼のあずかり知らぬことであるにもかかわらず、維新のためには、薩長が分裂していることはマイナスであると判断したら、彼は進んで死地におもむこうとした。自分の生命をかける維新者(革命家)は、戦略家になりえても、陰謀家にはなれない。そこに、西郷が人をひきつけ、尊敬される理由がある。
 まして、敵対する他人を説得するなど、「韓非子」流の詐術では不可能である。その意味では、彼は「韓非子」を学び「韓非子」をこえたということもできる。詐術的説得が可能なのは、味方の陣営の中でのみということができる。敵対する他人には、至誠しか通用しない。西郷が明治維新の指導者として、維新を実現できたのも、彼の識見に加えて、その生命を投入した姿勢、さらには、彼自身が至誠そのものであったからである。それが、彼を維新者(革命家)の中核にそだてあげた。
 圭室諦成は、「維新前の西郷は、当時珍しく世界的視野をもった助言者勝海舟のしめした時局収拾の線にそって行動したから、精彩があった」というが、一維新者として行動するなら他人の助言に従うこともできようが、それでは、維新者の頭領として、維新を指導することはできない。そういう指導についてくるほど、人々はお人よしではない。単純でもない。
 維新者の行動は一人、一人もっと切実であり、血みどろである。勝海舟の識見をみとめるのもよいが、西郷をそのために、でくの棒みたいに評価するのは誤っている。更に、維新という、革命というものをそのように安直に考えることも許されない。こういうところに、ともすると、歴史学者の明治維新への過少評価もおきる。それがまた、今日、維新者や革命家を軽々しく批判し、維新や革命を比較的あまく考える風潮をつくりだしているということもできる。
 少くとも、明治維新を考えるとき、西郷を除いて考えることはできないし、勝といえどもその協力者でしかなかった。それこそ、明治維新は、数百の勝が存在しても、決して実現しなかったもの。そのことを、よくよく知る必要がある。

 

                 <日本の右翼 目次>

 

   “第二革命”の思想

“新しい軍隊”の構想
 明治維新を実現した後、西郷は鹿児島にかえると頭をまるめて隠棲してしまった。明治維新をやってのけたものの、維新に功労のあった諸藩が相互に勢力争いをするのを見ているのが不快になったためである。加えて、新政府に参加した人々は西郷をひきおろすことに躍起になったばかりか、その新政府も相変わらず、無智無能である、公卿や諸侯を中心として組織された。彼としては大いに不満であった。維新をやってのけたという自負もある。隠棲したくなったのも無理もない。
 しかし、鹿児島にかえった西郷を、周囲は、放置してくれなかった。藩主忠義はじきじきに彼を訪ね、参政の地位につくように要請した。彼は、それを拒否することは出来なかった。
 西郷は、まず、藩政と島津家の家政をきりはなすことによって、封建諸侯としての島津家を解体することから、その藩政改革の第一歩を始めた。しかし、彼の中には、「言志四録」を通じて得た、君主と政治する臣下と政治される人民との支配関係が成立するという牢固たる意識があった。そのために、彼は、島津家の一族や上士を中心とする門閥制度の廃止にふみきったが、同時に西郷をふくめての下士階級を政治を担当する臣下として、新しい階級に育てあげ、確立することに努力した。もちろんそこには、明治維新をともに実現したという同志的な信頼とそのことに報いたいという配慮もあった。維新を指導した西郷としての、当然の論功行賞でもあったであろう。
 こうして、維新後の薩摩藩は、下士階級を中心とする支配体制が確立することになった。圧倒的多数をしめる下士階級が西郷の政策を喜んだことはいうまでもないが、他方では、その下土階級の多くが新しい軍人階級として成立することになった。それは維新の原動力となった薩摩藩の避けることの出来なかった宿命であり、悩みでもあったが、西郷は、彼等を薩摩藩でなくて、明治政府のもとでの軍隊にすればよいと考えた。
 日本の軍隊をつくるために、積極的に努力したといってもいい。だから、明治政府は、西郷を中心とした新しい軍隊を利用し、それを背景として廃藩置県を断行し、統一国家の基礎を確立するとともに、彼の念願するように、政府から、名目だけの公卿や諸侯を放逐し、実力者である西郷、木戸孝允、板垣退助、大隈重信などで、政府をかためた。これこそ、彼が考える君主、臣下、人民の支配体系である。

新政府への幻滅……“第二革命思想”の発生
 だが、君主の意図を奉じて、人民のための政治を行うべき臣下である明治政府の顕官達は、必ずしも、西郷の考えるような者達ではなかった。彼等は、たしかに、役人としては有能ではあったが、人民のために政治する者達ではなかった。
 例えば、明治政府の顕官達が自分達を遇するにすこぶる厚かったのに反比例して、かつての武士階級をふくめて、人民達は、新しい時代の恩恵を殆んどうけなかった。そればかりか、彼等は豪壮な邸宅に住み、奢侈、華美におぼれるだけでなく、家には、多数の使用人を使い、とうていその多額な月給でも支払いかねないような生活をした。彼の盟友の大久保利通まで、その悪弊を率先しておこない、尊大にかまえ、家令をおき、数十人の使用人をつかうという有様であった。
 西郷は、それが賄賂に通ずることも見抜いた。日常、綿服をまとい、宮中に参内するときも、その慣例を無視して、粗服のままでおし通した彼としては、がまんがならなかった。これでは、何のために苦労して封建体制を倒したかわからない。彼等は、諸侯にこそならなかったが、実質的には、諸侯の地位についたようなものであった。
 政府の高官達が自らに厳しくしてこそ、維新後の困難な政策遂行に、人々の我慢と協力を求めることもできる。西郷の中に、第二の維新革命が必要であるという考えがおきたのはこの時からである。彼には、政治をする者の姿勢を正すということが根本であり、政策そのものは第二義的というより、正しい姿勢から生まれてくるものと考えられたし、その時に始めて、その政策も価値があったのである。彼のように、人民のための政治を考える者にとっては、それは当然であった。
 たとえ、その考える政策が、一時、不十分であり、発展的でなかったとしても、人民のための政治を考える場合、必ず、それは是正されるものと確信していたのが西郷である。それが西郷の思想であり、政治する姿勢であった。第二の維新は必至とならなければならなかった。

西郷は“反動”ではない!?
 維新後の西郷を反動だという圭室、田中の見解に対して、私が反対し、むしろ、右翼者の考える西郷観に共鳴するのも以上の理由による。もしも、反動ということを言うなら、それは、明治政府に対してでなく、未来の歴史に対してこそ言えることである。彼の歴史に対する反動とは、現実には農民をふくめた一般人民を愚かな者、信ずべからざる者と認識したところからきたものであるが、その反動は明治政府によって打倒さるべきものでなく、将来、めざめた人民、自らの自由と平等を求める人民によってのみ、克服されるべきものであった。それを第三の維新と呼んでもよかろうが、西郷の人民観はそれを必要とするものであった。
 しかも、維新後の西郷の思想と行動が、当時としては決して反動的でないという理由は二つある。その一つは、当時の明治政府自身が明治維新の理想に反して反動化し、反革命に転じていたということである。少くとも、明治維新には、下士階級をふくめて、農民、町人、工人などの封建体制からの解放がかかげられていた。それは、由利公正がつくった五ヶ条の誓文の庶民を中心に考える原案をみても明かである。なかには、横井小楠のように、共和政体を志向するものさえいた。その横井が、維新の思想的指導者であったことは御承知の通りである。だから、後の伊藤博文からは、想像もできないような言葉が明治初年の伊藤から聞くことが出来る。すなわち、彼は、「人々をして自由自在の権を得せしむべし」とか、「数千年来、専制政治のもとに、絶対服従せし間、わが人民は思想の自由を知らざり」といいきったのである。
 それが、明治五、六年以後になると、政府は、進んで人民の自由を抑圧する方向に出ただけでなく、新しい階級秩序を確立するために努力しはじめるのである。西郷に関する限り、その思想は維新前も維新後も変わらないが、逆に、明治政府こそ、反動化し、反革命に転じているといわなくてはならない。

西洋近代の否定……何を評価すべきか?
 今一つは、明治政府が西欧の近代を目標とし、それを基準にして、明治日本を考え、それに近ずけることを政策の第一にかかげたことである。
 しかし、西郷には、高官達の豪勢な生活同様、これも我慢のできないところであった。彼のみた西欧諸国は、日本の目標とするほどすぐれたものではなかった。
「文明とは道の普く行はるるを賛称せる言にして、宮室の壮厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふに非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら何が野蛮やらとも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと言ひしかば、否文明ぞと争ふ。否野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、種々説諭して、開明に導くべきに、左はなくして、未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し、己を利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける」(南州遺訓)
 と西郷が言っているように、西洋諸国は、彼にとって野蛮国でしかなかった。
 それにもかかわらず、明治政府の高官達がその野蛮国を目標として、一にも二にも西欧化を強調する。これほど、にがにがしいことはなかったし、そういう考え方や政策には反対せざるをえなかった。日本の進むべき道が西欧化にあるのでなく、吉田松陰がいい、横井小楠のかかげた道義国家の目標こそ、彼が考える日本のゆくべき道であった。それは、そのまま、非道徳で、自分達の利益と地位しか望まない明治政府の高官達を拒否することに通じていた。
 西欧諸国も、それをまねようとする明治政府の高官達も、人間の本質、国家の使命を忘れた利益と権力の亡者だというのが西郷の意見である。そこに彼が西欧化、即近代化を厳しく否定した理由がある。
 その意味で、西郷は反動化どころか、あくまで、日本民族と日本歴史の発展の道をつき進もうとした男であるといわなくてはならない。彼自身の思想の中に、先にも書いたように、たとえ多くの不十分なところ、未熟なところがあったにしても、その指摘は現代の時点からのみ言えることであり、明治初年の時点にたつかぎり、それは決して言えないということである。
 歴史的評価をする場合、このことはよくよく注意しなくてはならない。それを忘れると、歴史は生命を失い、現代への有効性をなくしてしまうことになる。

 

                <日本の右翼 目次> 

 

   何を継承すべきか

征韓論の起源と展開
 西郷という人間を考えようとするとき、征韓論を離れて考えることはできない。とくに、彼の征韓論をおしすすめた立場が、その後の右翼に継承されているからなおさらである。
 征韓論というのは、御承知のように、これまで、対島藩を通じて交わっていた韓国との修交を維新が実現し、統一国家になったことにより、韓国と日本政府との関係に日本政府が改めようとしたのに対して、これを韓国側が拒否したことに端を発している。しかし、真相は、帝国主義的膨脹政策を押しすすめている西欧諸国を目標とする明治政府がそれにならって、鎖国政策を進めている韓国の門戸を開かせようとしたのである。勿論、同時に、それによって、日本人の危機感をあおり、政府への国民の不満を抑えながら、政府の権力を確立することをねらったものでもある。
 鹿児島士族の期待を一身にせおった西郷も、征韓論をおしすすめることによって、維新後、不満をもちつづけている士族達に一つの気晴しを与えようと考えた。それに、その時の彼の中には、西欧諸国のまねではないが、日本の力をアジアにむかって進出させたいという心も強かった。
 それに、彼には、西欧諸国の帝国主義には、アジアが協力してあたらねばならないという戦略的意図があったということも事実であるが、それはあくまで、日本を中心とし、日本のためのものであり、侵略主義の一種であることに変りはなかった。
 だが、その時、西郷のかつての盟友横山安武が、「征韓論は条理を逸した単なる憤激論にすぎない。そういう戦争は天下万世の非難をうけるだろう」といいおいて、割腹して果てた。横山の言葉は、日頃道義を正面にたてている西郷の心を深くゆすぶらずにはおかなかった。
 横山の諫死のせいばかりとはいえないが、征韓論は一時、正面から姿を消した。しかし、日本と韓国の修交が正常化されないまま、韓国では、釜山にある日本の出先機関に食糧供給をやめたり、対島、釜山間を往復していた船の出入りを厳重に警戒するなど、韓国と日本の関係は一層悪くなっていった。
 韓国に対する交渉は、政府の課題になり、征韓論も再燃した。西郷、板垣退助、後藤象二郎、大木喬任、大隅重信、江藤新平の参加した閣議で、板垣が、「ただちに兵を釜山におくり、その上で修交条約を結ぶように努力したらよい」と主張したのに対して、西郷は、「いま出兵すれば韓国は侵略のためと思い、まとまる話もこわれる。まず、使節を送って、日本の真意をつたえ、それでもきかないばかりか、その使者に危害を加えたとき、始めて出兵をしたらいい」と強調し、その決死の役を「自分自身にやらせてくれ」といった。

敗論!政府打倒の決意
 盟友横山の思想を、この時の西郷はしっかりと継承し、自分の本然の姿にかえっていた。彼は誠心誠意、話しあえばわかってくれると確信したし、最悪の場合でも、自分が生命をなげだして、日本の礎、さらには、日本と韓国の礎になればよいと考えたのである。自分の生命を投げだすということである。
 このことをふまえた上でなければ、西郷の侵略主義を軽々しく論ずることはできない。おそらく、その時、彼は、明治維新が中国の伝統的な思想を導きとして、実現したことを考えていたであろうし、その中国は現に西欧諸国の侵略をうけているということも考えていたであろう。韓国もいつ、西欧諸国の侵略をうけるかもわからないと考えた時、アジアは一つになって西欧諸国にあたらねばならないと真底、思ったに違いない。
 彼が遣韓大使に内定したとき、こおどりして喜んだことでもわかる。しかし、西郷の夢と情熱は岩倉倶視や大久保利通が長い海外流行からかえってきたことで、あえなく崩れた。それも、遣韓使節に反対する岩倉が征韓論の是非を天皇に奉上し、天皇はそれをもとにして決断した結果である。明治天皇は西郷達にくみしなかったのである。西郷のみでなく、板垣、江藤、後藤、副島達も激怒し、彼等は、辞表をたたきつけた。
 西郷達の去った後の明治政府は、いよいよ欧化政策を強化した。西郷は改めて、第二維新の必要を痛感した。鹿児島にかえる彼に、板垣は、今後、行動をともにしようと書きおくったが、それに対し、彼は、次のような謎にみちた返事を出している。
「足下と余と一致協力せば、天下敵するものなけん。故に余は足下の余を助けざるを望むのみならず、余に反対するもまた怨むところにあらず、願はくは余のことを以て念となすことなく、余を放棄して、なすがままに一任せよ」と。
 板垣退助と協力すれば、明治政府を倒せるという見通しがもてたにもかかわらず、単独で、政府を倒す道をつきすすむと言った西郷。それは彼の自信と自負がいわせた言葉であろうか。それとも、彼は彼の道を、板垣は板垣の道をつきすすむことによって、日本の進む道を可能なかぎり正そうという配慮から出た言葉であろうか。

死に急ぐ戦い……
 明治政府のもつ力がいかほどか、戦略家であり、軍人であった彼が見誤まるはずもなかろう。しかも、討幕運動のときは、唯一つであった薩摩藩の力も、この時は完全に二分していたし、戦略家であり、軍人であった彼の能力、識見が次の世代においぬかれていることは、戊申戦争で痛いほどに知らされている。こういうことを考えたとき、彼の心は後者であったと考えられるし、それ故にこそ、故山にかえる彼の心は重く、悲しみと怒りで一杯であったと想像される。
 その意味で、西南戦争は、始めより敗れることのわかった戦いであったし、敗れることを承知して戦わざるを得なかったのが彼の心であった。西郷の戦いに先行した萩の乱、秋月の乱などのすべても、死に急ぐ戦いの中に自分達を投入したものであった。
 そこに、右翼者が彼等とくに西郷の夢と情熱をその全身で継承しようとするのかもしれない。

指導者はどうあるべきか?
 最後に、「南州遺訓」にあらわれた西郷の思想を整理してみよう。
 第一は、なんといっても、指導者の生きる姿勢と、人間の心構えを述べた点であろう。彼はいう。
「万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しく、驕奢戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民その勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し」
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末にこまるものなり。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は成し得られぬなり」
「人を相手にせず、天を相手とせよ。天を相手にして、己れを尽して人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「作略は平日致さぬものぞ。作略を以てやりたる事は、その跡を見れば善からざること判然にして、必ず悔いあるなり。唯戦にのぞんで作略なくばあるべからず。しかし、平日作略を用れば、戦にのぞみて作略は出来ぬものぞ」
「今の人、才識あれは事業は心次第に成さるるものと思へども、才にまかせて為す事は、危くして見て居られぬものぞ。体ありてこそ、用は行はるるなり」
「天下後世までも信仰悦服せらるるものは、只是一個の真誠なり」
「道に志す者は、偉業を貴ばぬものなり。……独を慎むの学推して知るべし。人の意表に出て一時の快適を好むは、未熟の事なり、戒むべし」
 西郷がこういう指導者、人間になろうとして、日夜つとめたことがわかる。歴史学者のいうような陰謀家でなく、また、自信家でもなく、日々これをつとめたことが、これらの言葉からもわかろう。

日本政治の進むべき道とは?
 つぎに、政治はいかにすべきかを次のように述べている。
「廟堂に立ちて大政を為すは、天道を行ふものなれば、些とも私を挟みてはすまぬものなり。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其の職に任ふる者を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり。それ故真に賢人と認むる以上は、真に我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程、国家に勲労あるとも、その職に任へぬ人を官職を似て賞するは善からぬことの第一なり。官はその人を選びてこれを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、これを愛し置くものぞ」
「租税を薄くして民を裕かにするは、即ち国力を養成するなり。故に国家多端にして、財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確立し、上を損じて下を虐たげぬものなり。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧の俗吏を用ひ、巧みに聚斂して一時の欠乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげる故、人民は苦悩に堪へかね、聚斂をのがれんと、自然譎詐狡猾におもむき、上下互に欺き、官民敵讐となり、終に分崩離析に至るにあらずや」
「常備の兵数も、また会計の制限による。決して無限の虚勢を張る可からず、兵気を鼓舞して精兵を仕立てなば、兵数は少くとも、折衝禦侮ともに事かく間敷なり」
 これらの言葉を読めば、西郷がいたずらに、鹿児島士族のみを大事にし、軍備を無制限、無計画にやろうとしたのではないことがわかる。すじ道の通った政治を、人民のための政治を何よりも痛切に望んだということがはっきりしてくる。
 最後に、国際社会に処する日本のあり方を、西郷は、
「正道を踏み、国を以て仆るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制をうくるに至らん」
「広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ、我国の本体をすえ、国教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。しからずして、猥りに彼に倣ひなば、国体は衰頽し、国教は萎靡して匡救すべからず、終に彼の制をうくるに至らんとす」
 と強調している。彼がどんなに強く、日本を道義国家として建設してゆこうと思ったか、また、それこそが、帝国主義的膨脹政策をつきすすむ西欧諸国の現状の中での日本の使命であると考えたか、以上の言葉は、それを明かにしている。西欧化への道は野蛮国への道であると感じとった彼の日本への限りない夢と情熱がここにある。強い期待があった。

西郷の夢と情熱……何を受けつぐか?
 西郷が、「誠あつければ、たとい当時知る人なくとも、後世必ず知己あるものなり」といったように、日本の進路を正そうと誠心誠意思い、生きた彼の思想と行動は、常に、多くの人々を共鳴させ、感奮興起させる。それは、彼が悲劇の英雄だから大衆的人気、庶民的渇望があるのでなく、庶民大衆を愛しつづけ、そのために死んだ人間だからである。
 たとえ、その愛が今日の庶民大衆からみると有難くない、拒否すべき庶民大衆観の上にたつものであったとしても、日本史上、庶民大衆への愛からその生命を捧げた者は多くない。
 右翼人が継承し、発展させようとするのも、こういう西郷の庶民大衆への献身的愛であり、日本への限りない夢と情熱である。日本への期待である。

 

                 <日本の右翼 目次>

 

第二章 理論と実践……北一輝における革命思想の追求

   社会主義への開眼

死で証明したもの
 戦中戦後を通じて、右翼人が北をその理論的指導者と仰ぐことではかわらない。とくに、最近では、北の思想を再検討し、再評価しようとする動きがめだって強くなっている。右翼人の思想の深化前進という今日的要求から起ったことであろうが、中には「北の思想は左翼と殆んど変わらないではないか」と驚いている者もいる。こういう驚きは、右翼本来の思想がどういうものであるかを知らないことに起因しているが、それは、冒頭にも述べたように、右翼は社会主義の右に位置しても、決して社会主義そのものと相いれないものではないということを意味している。
 ここで、私が明らかにしようとしていることも、北が社会主義というものを如何に日本の思想風土の中に定着化しようとしたか、そして、日本人自身のものにした社会主義によって、日本の革命を実現しようとしたかということである。いいかえれば、ヨーロッパの社会主義を日本の政治的思想的状況の中で、いかに真に有効なものとして作りかえ、発展させようとしていたかということである。それを最も象徴的にしめしたのが北の劇的な刑死の姿である。
 ご承知のように、北は二・二六事件の蹶起将校に思想的影響を決定的にあたえた者として、その事件に直接タッチしたかどうかには関係なく銃殺刑になった。それは、大逆事件の幸徳秋水の刑死に共通するものであり、ともに、自分の思想の影響に責任をとった者であった。
 北は、昭和十二年の八月十九日、即ち、銃殺される前夜、その養子大輝にあてて、法華経の裏に、
「大輝よ。此経典は汝の知れる如く、父の刑死する迄読誦せるものなり。汝の生るると符節を合する如く突然として父は霊魂をみ、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。即ち汝の生るより、父の臨終まで誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此の法華経のみを汝に残す。
 父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷える時、怨み怒り悩む時、又楽しき時嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ念ぜよ。然らば、神霊の父、直に汝の為に諸神諸仏に祈願して汝の求むる所を満足せしむべし。経典を読誦し解説するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に生き、而して諸神諸仏の加護指導の下に在るを得べし、父は汝に何物をも残さず。而も此の無比最尊の宝珠を止むる者なり」
 と書きのこして死んでいった。

法華経の中に何を発見したか?
 しかも、十余年来の盟友西田税が、「われわれも天皇陛下万歳をとなえて死にましょう」とさそいかけたのをことわって、
「私はやめにします」
 ときっぱり、ことわったという。
 北の弟
レイ吉は「兄は泰然としていうよりは淡然として刑死した」と書いているが、それは「法華経」一巻残し、天皇陛下万才を唱えなかった北の思いをなによりもよくあらわしているということができよう。この時の北には、刑死前の吉田松陰が、「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。ただ六尺のわが身体が必要」といったように、彼自身が問題であり、彼自身のよりどころである法華経だけが重要であったのである。
「法華経」といえば、日蓮が鎌倉時代に、それによって、日本人の仏教をつくりあげ、同時に、それによって、時の権力者と鋭く対決し、天皇も将軍もともに、「法華経」の思想と精神に従わねばならないといいきったその「法華経」である。北にとって、地上楽園の建設を強調する「法華経」の思想は尊いばかりでなく、天皇もまた、その思想を実現する一人でなければならなかったのである。その意味では、天皇も北も同じ目的をもつものであった。ということは、「天皇陛下万才」でなく、むしろ「法華経万才」であった。
 だからこそ、北は「淡然として」死についたのである。ただ、「法華経」を念ずる自分自身の心とむかいあって、死んでいくしかなかったのである。
 しかも、北にとっての「法華経」ということは、当時の時代情況の中では、すべての人の自由と平等の実現を目標とする社会主義そのものであった。
 では、北はどのようにして、ヨーロッパの社会主義の模倣と追随を排して社会主義の定着化を試み、日本の歴史に即した社会主義への道をつき進もうとしたのであろうか。その歴史的必然についても明かにしたいと思う。
 だが、北の思想を明かにする前に、まず、彼の生い立ちと思想的出発についてふれたい。

思想への出発
 北は明治十六年(1883)、佐渡の旧家の長男として生まれたということもあって、小学時代から、思う存分に読書できるという環境にあった。加えて、小学時代から眼病を患って、学校も休みがちであったから、読書に一段と熱中する生活をつづけることにもなった。もちろん、その読書は医者の警告を無視して為したものであったが、そういう生活が彼をものおもう人間、自分でものを考える人間にした。
 ことに、中学三年生の時に再発した眼病のために、東京の病院に入って治療したことが、彼自身に人生の意味と価値をとことん考えさせることになり、自分自身が現代の中でどう生きるかを本格的に問う人間にした。眼病は、少しも軽快にむかわなかったばかりか、この頃、北家の経済が悪くなったことも重なって、佐渡にかえるしかなくなったことが、いよいよ、徹底的に思いつめ、考えぬく姿勢を彼の身につけさせることにもなった。
 復学したものの、その時の北は、もはや、中学校の教育にも教科書にも魅力がもてなかった。中学校で教える内容のはるかに先に関心をもち、それを求めはじめた彼がそうなるのも当然であった。かつては中学一年から三年生に飛び級したほどの彼も、四年から五年になるときは落第してしまう。勉強しなかったのでなく、彼の勉強の対象が違っただけである。
 北はそれ以来、中学校をやめてしまったが、この頃から徐々に、社会主義への接近を始め、「平民新聞」が創刊になると、それをいちはやく十部ほど購入するぐらいに熱心であり、情熱と意欲にみちあふれていた。そういう彼には、佐渡は狭すぎた。
 早稲田大学に入学していた弟
レイ吉の後をおって東京にでたのが北の二十三歳の時。彼は早稲田大学の聴講生として、熱心にノートをとりながら、それと平行して上野図書館にも通いつづけ、此の間に、二千枚以上の抜き書きをつくりあげた。北自身の構想する社会主義論を発表するためであった。
 それは、日露戦争において、社会主義者達が国家を否定し、さらには、国家社会主義を主張する者達が天皇を中心とした家族主義的国家観を説くことに反対であったためである。
 とうとうその翌年には、「国体論及び純正社会主義」という一千頁にもおよぶ大著を書きあげた。しかし、どの出版社も出してくれない。筆者が学歴のない白面の青年であった上に、その内容が危険とあってはなおさらである。自費出版しようとしたが、今度は発行人になってくれる者がみつからないという有様であった。
 やっと自費出版にこぎつけたが、この本はすぐに発禁処分になった。なぜか。

 

                 <日本の右翼 目次>

 

   「国体論及び純正社会主義」の思想

“国体論”の矛盾点は何か?
 北は、
「ただ、この日本と名づけられたる国土に於て、社会主義が唱道せらるるに当りては特別に解釈せざるべからざる奇怪の或者が残る。即ち所謂“国体論”と称せらるる所のものにして、社会主義は国体に牴触するや否やと云ふ恐るべき問題なり。これ敢て社会主義のみに限らず、如何なる新思想の入りきたる時にも必ず常に審問さるる所にして、この“国体論”と云ふローマ法王の諱忌に触るることは即ちその思想が絞殺さるる宣告なり。
 政論家も是あるが為にその自由なる舌を縛せられて専制治下の奴隷農奴の如く、是あるが為に新聞記者は醜怪極まる便佞阿諛の幇間的文字を羅列して恥ぢず。是あるが為に大学教授より小学教師に至るまで凡ての倫理学説と道徳論とを毀傷汚辱し、是あるが為に基督教も仏教も各々堕落して偶像教となり、以て交々他を国体に危険なりとして誹謗し排撃す。
 斯くの如くなれば、今日社会主義が学者と政府とよりして国体に抵触すとして迫害さるるは固より事の当然なるべしと雖も、只歎ずべきは、社会主義者ともあらんものがこのローマ法王の面前に立ちて厳格なる答弁を為さざることなり。
 少くとも国体に抵触すと考ふるならば公言の危きを避くるに沈黙の途あり、然るに弁を巧みにして抵触せずと云ひ、甚しきは一致すと論じて逃るるが如きは日本に於てのみ見らるべき不面目なり。特に彼の国家社会主義を唱導すと云ふ者の如きに至りては、却てこの“国体論”の上に社会主義を築かんとするが如きの醜態、誠に以て社会主義の暗殺者なりとすべし」
 とまえおきをして、当時の国体論者のいう、いわゆる“国体論”が、明治の国体とは異なること、日本民族の歴史とも違っていることを証明しようとする。北にはいわゆる“国体論”は、全く奇怪なものであり、思想の独立をゆがめ、人類の発展を阻害するものにみえたのである。

衝撃の理論“万世一系の皇室を奉戴せず”
 すなわち、北は、日本民族が「万世一系の皇室を奉戴せりと云ふ日本歴史の結論は全く誤謬」で、逆に、国民大多数は乱臣賊であったということを、歴史的事実によって証明する。しかも、昔の天皇は「雄略がその臣下の妻を自己所有の権利に於て奪ひし如き、武烈がその所有の経済物たる人民を恣に殺戮せし如き、後白河がその所有の土地を一たび与へたる武士より奪ひ、その寵妾に与へし如く」、今日の天皇とは全く異なって、人民を人格として取り扱わず、土地と共に、天皇の経済物にすぎなかったと断言するのである。
 また、次のようにも言う。
「もとより吾人と雖も最古の歴史的記録たる古事記日本紀の重要なる経典たることは決して否まず。……しかしながら“豊葦原の瑞穂国は我が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫ゆきて治らせ、宝祚(天皇の位)の隆えまさんこと天壌と共に極まりなかるべし”の僅少なる一言を論拠として一学説の根本思想となすは明かに不謹慎極まる独断論なり。かかる十四世紀後の支那文字にて、“王”と云ひ、“治らす”と書かれたりとも、その文字の形態発音の似たるが為に今日の“統治権”にあてはめて、十四世紀前の太古と今日とを一縄に結びつけうるや。古事記、日本紀に至るまでの十四世紀間にわたる長き間は、少くとも外国文明に接触するまでの十世紀間は全く文字なく、前言往行存して忘れず、縄を結びて事を記したりと称せらる程の原始的生活時代なりしぞ」
 だから、北からみると、万世一系の天皇であったのは、国民の力によるのでなく、皇室自身の力であり、それは、そのまま、「わが国は天皇を家長とし、国民はその赤子である」とか、「万邦無比の国体」とかいうことがまったく根拠のないことにもなる。
 そこから、北の「明治維新」に対する独自の評価と説明が生まれてくる。

明治維新への新しい視点
 彼はいう。
「維新革命を以て王政復古と云ふことよりして已に野蛮人なり。野蛮人にあらざるならば、一千三百年後の進化せる歴史を一千三百年前の太古に逆倒して復古することが人力の能ふ所なりと考ふるか。歴史とは社会の進化せる跡と云ふことなり。歴史は循環するものにあらず。亦もとより復古するものにあらず。
 維新革命が大化王政の復古なりと云ふは、記録的歴史をも要求せざるほどの伝説的時代のそれに社会のすべての事、生活も、人情も、風俗も、思想も文字も言語も逆行して退化せざれば想像し得べからざることなり。維新革命は大化の王政に復古したものにあらず、大政の革命に於て理想たりし儒教の“公民国家”が一千三百年の長き進化の後に於て漸く実現せられたるものなり」と。
 さらにいう。
「徳川氏時代に至りての百姓町人はもはや奴隷賎民にあらず。……維新後忽ちに挙がれる憲法要求の呼声を呑みつつありし民主的国民なりしなり。……天皇に対する忠その事は志士艱難の目的にあらず、貴族階級に対する忠を否認すること其の事が目的なりき。貴族階級は已に忠を否認して独立したり、一般階級は更にそれに対する忠を否認して自由ならざるべからず。……
 維新革命は国家観の接触によりて覚醒せる国家意識と一千三百年の社会進化による平等観の普及とが、未だ社会民主主義の議論を得ずして先づ爆発したるものなり。……
 実に明らかに維新革命の本義を解せよ。
 維新革命の根本義が民主主義なることを解せざるが為めに日本民族は殆んど自己の歴史を意識せず、恣なる臆説独断を羅列して王政復古と云ひ、政権藩領の奉還と云ひ、以て吾人自身が今日の存在の意義を意識せざるなり。政権と土地とを尊王忠君の為に奉還するほどの貴族階級ならば、何が故に砲火により余儀なく奉還されざるべからざるほどに掠奪せしか」と。
 このように考えたからこそ、北にとって、明治天皇とは土地、人民の所有者としての古代的天皇でなく、維新革命の功労者として、民主的首領として、日本国家の特権ある一分子となったのであり、天皇その者は国民と等しく民主主義の一国民として、天智天皇の理想を追求するものでなければならなかったのである。いわゆる“国体論”はかえって現天皇を古代的天皇におしやるもので、却て、現天皇を敵とするものであるということになったのである。
 北にいわせると、現天皇は、民主主義・社会主義の戦士として、民主主義的社会主義的な国民の先頭にたつ者である。貴族階級を顛覆したとたん、みずから王侯諸将となり、民主主義者を圧伏することによって維新革命の破壊者になりさがった明治の元勲たちを排除する行動をする者でなくてはならないということになる。
 西郷はその儒教主義により、明治維新を貫徹しようとしたが、北は、社会主義によってその理想の完き実現を志し天皇はその先頭にたつ限りにおいて天皇であると考えた。彼は彼を含めて、天皇その者にも革命を求めたのである。
 しかし、北のこのような天皇観は明治政府の肯定するところではなかった。そういう天皇を肯定することは自らの全存在を否定することであった。そこに、この書物が発禁になった理由がある。

どうすれば世界連邦を実現できるか?
 次に、北が説いたことは、
「今日、階級斗争の行はれつつある如く、階級間の隔絶より甚しく同化作用に困難なる今日の国家間に於ては国家的道徳、国家的智識、国家的容貌のために行はるる国家競争を避くる能はず。社会民主主義は階級競争と共に国家競争の絶滅すべきを理想としつつあるものなり。而しながら、現実の国家として物質的保護の平等と精神的開発の普及となきを以て、社会主義の名に於て階級斗争が戦はれつつある如く、経済的境遇の甚しき相違と精神的生活の絶大なる変異とが世界連邦の実現及び世界的言語とによりて掃蕩されざる間、社会主義の名に於て国家競争を無視する能はず。……即ち個人の世界に対する関係は階級と国家とを通じてならざるべからず。階級斗争が階級的隔絶による如く、国家競争は実にこの国家的対立に原因するなり」ということであった。
 日清戦争から日露戦争の時代情況の中に生れてきた北、そればかりか、世界的な規模での帝国主義的対立を見てきた北には、国家競争が速かに脱却しなければならないとしても、その現実に耳をふさいでいることは出来なかった。彼は、むしろ、世界連邦の実現を念ずるために、国家主義を肯定し、その過程を経ることなしには、世界連邦に到達することはないといいきったのである。そのことを、「個人の権威を主張する私有財産制の進化を承けずしては社会主義の経済的自由平等なきが如く、国家の権威を主張する国家主義の進化を承けずしては万国の自由平等を基礎とする世界連邦の社会主義なし」とも説明したのである。
 今日のチェコ問題や中ソ両国の対立をみても、国家間の対立は如何に、むつかしい問題であるかがわかるが、北は、当時において、それを指摘し、その解明に必然的にとりくんだということができる。
 しかし、北が社会主義の名において、国家主義を認めたというその国家主義は、国家の権威を絶対とする国家主義ではなく、絶対主義、君主主義と同義語に解される国家主義でもなかった。まして、政府や資本家が自らの威信と利潤のために、資本主義の弊害を国家権力の発動によって調整しようとする国家社会主義とも違っていた。
 だから、北は自らの社会主義を
「一私人の目的のために為さるる専制を讃美する者にあらず、又国家万能主義を以て今日の官史をして生産にかかわらしめんとする者にあらず。個人主義の覚醒を承けて僅少にして平等なる監督者を賢明なる選挙法によりて社会の機関たらしむる者なり」と称して、はっきりと国家社会主義と区別したのである。

人間の“喜び”を奪うもの
 北が、資本家階級の存在を絶対に許すことができなかったことは、彼が資本家階級というものを貧困と犯罪の元凶であり、人々を餓鬼道におとしいれている張本人とみたことで明かである。
 彼はまた、
「実に労働と云ふ語の中には軽蔑の意味が伴ふ。これ奴隷の職なればなり。奴隷は軽蔑せられ、自由民は尊敬せらる。………今日、労働は決して神聖にあらず。軽蔑すべき奴隷の職にして、神聖なるものは一の黄金のみなり。黄金ならば盗賊のものにても、賄賂のものにても、詐欺のものにても理由は問はずして価値に高下なし。……人をして懶惰ならしめ、労働を忌避せしむ」と書いて、資本家が労働者の労働の喜びを奪い、労働を神聖視する心をうしなわせ、黄金の奴隷にしていると怒る。
 人間であることをやめさせているのは資本家達であるともいいきる。しかも、北の社会主義は単に、経済的平等主義を実現するということの外に、労働者の意識革命、人間革命と同時に資本家階級の意識革命、人間革命を実現することにより、全く異なった人間が出現することを強調するのである。それを彼は天才の世の中といい更に、次のようにもいっている。
「社会の進化は増加せる人口の為に個性発展の競争を激烈ならしめ、人口の多きだけ、それだけ卓越せる個性の多きを以てその速力は想像しうべからざるものなるべし」
「社会主義が実現せられて、今の下層階級が上層階級に進みて、全人類が天地万有の上に君主となり貴族となるの時、恋の天地は九尺二間にあらず、待合にあらず、恋の理想は芸妓にあらず、ダイヤモンドに非ず、全人類の大を観客として釈尊とマリアとの恋なり。実に恋の理想は社会の理想なり」
 こういう社会の実現を念願する北にとって、資本家階級を肯定し、官僚統制を基調とする国家社会主義がその窮極の敵であったことはいうまでもない。

革命への夢と期待
 北が、この本の終わりに、「社会主義の啓蒙運動」と題して書いていることは、啓蒙運動に対する期待であり、信頼であった。とくに、「文字の普及は、日本国民のすべてが社会主義者になり、資本家階級、権力階級が国民によって包囲されたることと同じである」と記し、維新後の日本の政治状況、思想状況を自分に大変都合よく理解している。
「社会が今日まで進化し而して階級斗争の優劣を表白するに投票の方法を以てするに至れり。投票は最もよく社会的勢力を表白する革命の途にして、爆烈弾よりも同盟罷工よりも最も健確に理想の階上に昇るべき大道なり。
 これなきの国家に於ては他の径路として叛乱と爆烈弾の途が開かる。この叛乱と爆烈弾との途を経過して法律戦争の大道に入れるものは今の多くの文明国と称せらるるものにして、未だ径路を歩みつつあるは実にロシア国民なり。吾人をしてロシアに生れしとせよ。吾人は社会民主主義者の口舌を嘲笑して爆烈弾の主張者たるべし。
 ああ己の腕より地に投げられたる爆弾の硝煙中にツアールと共に仆るるニヒリストよ!天国の戸は僧の手に叩かれて開くべく、革命の舞台は血染の花道を通りて達せらるることあり。維新の民主主義者はこの故に血ぬられたる刃を懐に潜ましめたりき。只、今日の吾人は一歩の幸運に会して立法的方法にまで進化せる現今の日本国におかれたるが故に、たとへ、暴漢が如何に国家機関たる権限を逸出すとも、吾人は決して之に応じて正当防衛権を主張せよとすすむるものにあらず」
 と北がいうとき、彼の革命への期待、第二の維新の実現は非常に希望的である。オポチュニストの感さえある。
 それは、維新後の日本をあまりにも、美化しすぎて考えていたことに起因するが、この本が発禁になったということそのことによって、彼の夢と期待は、すぐにも、うちくだかれることになる。
 それはそれとして、二十四歳の当時北は爆烈弾を用いないで、日本の革命はできると考えていたことはたしかである。西郷とは違って、それほどに、日本国民を、労働者、農民の中の社会主義的民主主義的精神と姿勢を信じていたし、啓蒙運動というものを信じていたということになる。たとえ、それを北が裏切ることになったとしても、ここには西郷に比して、北の進化と成長があるし、第二の維新(革命)にむかって、一歩あゆみよったということがいえよう。

 

                 <日本の右翼 目次>

 

   中国革命と北

宮崎滔天との出会い
「国体論及び純正社会主義」を、故郷の山を売ってやっと出版したが、発禁処分となり、北は経済的にも相当参ってしまった。しかも、そこに彼自身の病気である。病いの床の中で、警官によってその書物をもっていかれる時の彼の苦衷ははかりしれないものがあった。
 だが、他方では、この本によって、北は多くの人に認められたばかりか、宮崎滔天たちの指導する革命評論社に関係し、更には幸徳秋水や大杉栄たちとも親交を結ぶようになった。
 革命評論社というのは、明治維新で日本の革命は一応できたから、今度は、西欧諸国の植民地に近いところまでおいつめられている中国の革命をやってのけ、アジア人によるアジアの世界を建設しようと考える人達の集まった結社である。
 北の日本の革命は一応明治維新で達成し、今後はその路線を徹底すればよいという思想に近いものであった。だが、幸徳秋水、大杉栄らの社会主義者の主張には、国家間の不平等不均衡をもとにして行なわれている国家競争の現実を無視しているという不満が北にあった。それは、彼等が、世界の現実、更には日本の現実を無視したョーロッパ的社会主義の直訳であり、教条主義でしかないということでもあった。
 そこに、北が幸徳や大杉よりも、宮崎の方に接近した理由があるし、その後まもなく、その宮崎を通して、彼もまた中国革命同盟会に入会することになる。
 こうして、北は、孫文を中心に、黄興、張継、宗教仁たちで組識する中国革命同盟会の一員として、彼等とともに、中国の革命を志向する生活を始める。当時、同盟会がかかげた目標は、
 一、現今の劣悪な政府を顛覆する
 一、共和政体の建立
 一、世界の真正の平和を維持すること
 一、土地国有
 一、中国と日本両国の国民連合を主張する
 一、世界列国が中国の革命事業に賛成することを要求する
の六項目であったから、北は当然それを肯定し、彼の思想は、これらの要素を含むことにもなった。例えば、中国と日本両国民の連合を考えるということは、革命を両国民の課題としてうけとめ、その中で一つになるということであった。それは、一つになるための革命を中国と、日本の中におこすということでもあり、改めて、日本の革命を熱望するということであった。
 だが、北の関心は日本の革命にむかうよりも、中国の革命に集中していった。ことに、中国革命の機運は熟し、革命の成功は間近いと思わせる情況であったから、彼の革命的情熱は、宋教仁と結びつくことによって、一段ともえあがった。

辛亥革命……その理想と現実
 北の日々は、日本にいて、中国革命のために可能なかぎりの努力を払うことであった。ある時は、そのための資金をつくることであり、ある時は、そのための武器を集めることであった。宋教仁の電報で、北が直接中国におもむいたのは、明治四十四年の十月で、彼の二十九歳の時である。
 北が上海に到着した時には、既に、武昌蜂起のあとであり、中国は革命の渦中にあったために、到着と同時に、多忙をきわめる生活が始まった。同時にそれは日々危険な生活でもあった。十二月末には、革命が一応の勝利をおさめ、清朝は倒れて、袁世凱を中心とする新しい時代、中華民国が成立した。
 しかし、これは、清朝を倒したものの、孫文、宋教仁たち革命派と北洋軍閥との妥協から生まれたものであった。北はそれに強く、反対した。あくまで、革命派による全中国の制覇を強調した。だが、孫、宋たちは軍資金の欠如、革命派内の分裂等により、北洋軍閥と和議をせざるを得ないところにおいこまれていた。彼としては、それ以上に自説を主張することができない。ことに、袁内閣に参加しようとする宋教仁を北がおしとどめようとした時に、「私がいかなければ、袁の力をおさえることは出来ない」といいきる宗の決心をきいては何もいえなくなった。
 革命の第一歩をふみだした中国であったが、そこには、明治維新をなしとげる上に功績のあった人々をどうするかという問題と同じものが横たわっていた。彼等にはともすれば暴力化する資質があったし、更には、それが対立する傾向にあった。もちろん、そういう人達でなければ、革命遂行のときの力にならないということがあったが。
 宋教仁たちは、彼等を国民党に改組しようとして、そのために意欲的に働いた。北が宋をいよいよ高く評価するようになったのもそのためである。
 だが、1913年になると、臨時大総統の袁は、議会の承認なしに、外国から大借款をしようとした。これを知った北は、それは外国への隷属の道であるといって、非常に怒った。宗教仁ももちろん、それに強く、反対した。だが、その宋は上海の駅頭で暗殺されてしまった。北より一歳上の三十二歳。
 当時、宋の暗殺をめぐって、いろんなことがうわさされ、袁世凱は黄興だといい、工商大臣の陳基美は、袁と黄興を疑った。孫文は日本の力を借りて袁を討とうとした。そういう中にあって、北は孫文と陳基美が主犯で、袁は従犯にすぎぬといいきって、彼等を弾劾しようとした。(それについては後にふれる)今日、宋暗殺は袁と内務大臣趙乗釣の命令でなしたものということになっているが、彼はあくまで、自説を強調した。
 中国側は、このために、北を中国から遠ざけようとして、日本政府に要望し、日本政府も彼に三年間の退去命令を下した。北も日本に帰るしかなかった。

中国革命同志会の挫折
 だが、日本に帰った北のところは、相変わらず、中国の革命家たちの出入が盛んであった。それというのも、彼の帰国後の中国では、七月に第二革命がおこり、それに失敗した者達が次々に日本に亡命してきたためである。張群や范鴻仙などは、北の近くにすみ、集まっては、中国革命について語りあうという日々であった。
 1914年は、第一次世界大戦が始まった年である。大隈内閣は、西欧諸国の中国に対する圧力が後退したときを利用して、中国への進出を計画し、対支二十一ヶ条をつきつけた。しかも、その交換に、日本での中国革命家たちの活動をおさえるというのである。
 北が怒ったのはいうまでもないが、中国の革命家たちは、その全身に怒りをこめて、日本を罵倒した。これより以後、中国の革命家達は親中的な日本人の協力をも拒絶し、中国人自身による革命運動に挺身するようになる。そういう動きを決定的にしたのが、この事件であったといっても過言ではない。
 中国革命同志会の夢と理想は完全についえ去ったのである。それは、中国に革命が決定的に必要なように、日本にもまた、革命がどうしても必要であるということであった。日本の革命なしには、中国と日本の国民が連合するということは絶対に実現しないことであった。
 北が、「支那革命外史」を書かずにはおれなかったのは、日本政府のすすめる対中国政策に強く反対であり、その政策変更を大隅内閣に求めたということ以上に、中国革命家達の不信が日本と日本人に対しておこったことに対する歎きであり、中国革命同志会の理想が現実的基盤をうしなったことに対する怒りであった。私にはそう思えてならない。

 

                   <日本の右翼 目次> 

 

   「支那革命外史」の意味するもの

なぜ書かずにはおれなかったのか?
 北が、その序論の中で、
「明治十年以後の日本はいささかも革命の建設ではなく、復辟の背信的逆転である。現代日本の何処に維新革命の魂と制度とを見ることが出来るか。……封建時代への反動的要求を挟んで、是又反動時代であった英仏独露の制度を輸入せる……朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世的国家が現代日本である。屍骸には蛆が湧く。維新革命の屍骸から湧いてムクムクと肥った蛆が所謂元老なる者、然り而して現代日本の制度である。……
 我自ら中世的国家の泥の中に住んでいる鰌が如き人々に、支那の革命を理解せしめんとした此の書は恥づべき努力であった」
 と記すのをみれば、彼が、日本の要路の人々にむかって、中国革命の必要、それにともなう日本の対中国政策の変更を説くことのやりきれなさと無意味さを痛感しながらも、なお、書かずにはいられなかった彼の気持がよくわかる。
「明治以後の四十年間、反動的大洪水の泥土の中にいる日本」と彼が書くとき、日本人としての彼の怒りがにじみでている。彼のこの怒りをよみとらないと、この「支那革命外史」は一行も理解することができまい。まさに、その意味で、この書は、彼の歎きで綴られたものといえる。そのことをふまえて、北の説く所をみてみよう。
 北が、「宋教仁を殺したのは孫文である」といったことは既に記したが、その理由を、彼は、間接的にこの書の中に書いている。即ち、孫文は中国の歴史とアメリカの歴史の相違を考えることなく、単純に、米国の政体を中国の理想としているが、これはあきらかに中国の歴史と現実を無視しているというのである。その点で、中国の歴史と現実に根ざした革命を遂行しようとした宗教仁と孫文は鋭く対立した。そこから、北は孫文が宗を殺したと断定したのである。
 そればかりでなく、彼は孫の革命に対する考え方、とくに、中国の革命に外国の援助を求めようとする姿勢を鋭く批判した。そのことを、
「革命とは疑ひなき一国内に於ける内乱にして、正邪いずれが援けらるるにせよ、内乱に対して外国の援助とは即ち明白なる干渉なり。一国の革命に於て外国の援助を求めたる恐怖はフランスの亡命貴族に見ざりしか」と書いている。
 純正社会主義を奉じる北としてはもっともな意見であるとともに、そのことは、明治維新の歴史を始めとして世界の歴史が最もよく、証明している。国家というものがあるかぎり、国家エゴイズムが働き、援助した国家を従属させようとする。それ故に、北は厳しく、そのことを警告したし、孫文の革命に対する甘さを拒否した。

中国蔑視!?……日本人心理への鋭い批判
 中国の革命は、北からみると、あくまで、中国人の覚醒であり、中国人の覚醒にもとづくもの、亡国階級にかわって、興国階級からおこすものでなくてはならなかった。彼は、それを、
「古今すべての革命運動が実に思想の戦争にして、兵火の勝敗にあらず」といい、「革命史は戦記にあらず」ともいった。
 だが、同時に、北は、中国の革命運動を通じて、戦争ではないが、革命は権力交代を求めるものであり、亡国階級の力と興国階級の力とがぶつかりあうものであるから、軍隊運動でなければならないということも知った。もちろん、その時の軍隊運動とは、革命党の指導下にある軍隊運動であり、更に、その軍隊運動として結託できる軍隊は大隊長以下であることも発見した。革命を必要としている国に於ては、大隊長以上はことごとく飽食暖食の徒にして冒険の気慨なき者であることも知らされたのである。
 北は、彼の考える中国の革命が進展するためには、日本と日本人の対中国政策を根本的に変えて、それに協力することが必要であることを力説した。それはまた、儒教思想によって明治維新をやってのけることの出来た日本人の中国へのおかえしでもあるというのである。
 では、日本と日本人の対中国政策はどう変わるべきだというのであろうか。
 第一には、中国保全主義の政策をかかげる日本の政策は、実は、英国外交に追随して、中国への利権を欧州各国と一緒に分割しようとするだけで、決して、中国それ自身の保全を欲したものでもなく、それは、中国保全主義への裏切り以外の何者でもない。保全の名にかくれて、中国分割の走狗になりさがった日本の外交は国辱そのものであると批判する。
 そういう日本の外交を即刻に改める必要があると北は強調し、それを、変えないかぎり、中国に、中国の民衆の中に、排日侮日運動がおこるのも当然であるという。すべては、日本の外交が中国人の不信と怒りをひきおこしたとみる。中国の革命的青年は日本と日本人に期待したるが故に、裏切られたときの怒りと憎しみも大きかったというのである。
 第二には、中国革命を援助すると大言壮語する支那浪人達が、実は、その心の奥底に、中国への軽侮感をいだくのみならず、中国への革命に少しの援助もしていない事実、それを根本的に内省すること、出直しすることを支那浪人達に北は強く求めるのである。
 北は次のようにもいう。
「愚の甚しき者は己の愚を知らず。頭山(満)、犬養(毅)氏等に代表せられたる数十百の日本浪人等は敢然として大丈夫の如く、本国の堕弱不義なる対支交策に抗争してこれを改めしめんと試むる者なく、只一に袁(世凱)を垢罵し、孫(文)黄(興)譲るべからずとなして、その行はれざるや終に嘲笑漫罵を革命党に加へ憤々として帰国せり。……ああ列強環境の前に恥を晒して帰れる愚人島、興行団の怨言憤語を聞きて、愚人島の朝野は益々その伝襲的対支軽侮観を深くせり、魔の導きによりて国歩邪路に迷ひ、友邦悉くひるがへって友たるものなし。実に三国干渉以来の国辱を蒙りつつ真個故国の前途を憂へ、隣邦の将来を悲む一義人の起って故国を戒むる者なく、廟堂と国論と互に相傷けて以て得たりとなせしことの何たる遺憾ぞや」
 北は、日本の外交といい、支那浪人というものの実態といい、少しも、中国の自立を念じていないとみた。しかも、彼自身、これら日本と日本人に改めることを欲しながら、それが不可能なことをしっていた。そこに彼の絶望があり、その絶望は底知れないものであったのである。それが、彼を日蓮により近づけ、法華経にそのよりどころを求めさせることになったのである。当時の彼の絶望はそれほどのものであった。しかし、北が、「支那革命外史」を
「妙法蓮華経に非ずんは支那は永遠の暗黒なり。印度終に独立せず、日本亦滅亡せん。国家の正邪を賞罰する者は妙法蓮華経八巻なり。法衣剣を杖いて末法の世誰か釈尊を証明する者ぞ」という語で結び、自らを法華経の一使徒と呼んだことには、彼自身のいつわらぬ気持の外に、もっと別の意味もあったと思われる。
 北は、「支那革命外史」を書いている中で、中国の革命をおしつぶしているのは日本と日本人の現実であるということを改めて痛感し、日本と中国の革命は同時に遂行しなくてならないと考えるようになったのではないか。しかも、日本と中国の革命だけでなく、印度の革命をも同時に考えた。その時、彼をとらえたのは、印度に発した仏教によって、法華経によって、アジア人を覚醒し、アジアの革命を実現しようと考えたのではないかということである。

 

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   中国の再発見

排日運動……燃える中国
 北は「支那革命外史」を書きおわるとともに、三年間の退去命令の期限もきれていたので、再び、中国にむかった。彼の革命への期待は、日本よりもむしろ中国にあったし、中国の革命から日本の革命を企図していたということもできよう。
 しかし、この時の北には、革命中国から三年間も遠ざかっていたということの上に、かつてのように、彼を信頼し、彼に期待する宋教仁や黄興はすでにいなかった。そのために、彼の活動は、中国革命の動向に、深くかかわるというほどのものでなく、せいぜい大総統から皇帝になろうとした袁世凱に反対する運動に参加したり、寺内内閣との間に、日本軍の駐留等の秘密協定を結んだ段祺瑞国務総理に反対する運動に参加する程度であった。
 ロシア革命がおこったのが、1917年。パリのヴェルサイユ宮殿で、第一次世界大戦の講和会議が開かれたのが1919年。山東問題をめぐって、日本と中国は正面衝突した。英国は赤道以北旧ドイツ領をオーストラリアに併合する案を条件に、日本案に賛成し、山東問題は日本の希望通りになった。
 これをきっかけに、中国全土に起こったのが、五・四運動といわれるもので、中国の軍閥政治と日本帝国主義に反対して、初めは、知識人、学生がたちあがり、後には、労働者、商人もまきこんでの全国的規模での大衆運動がおこったのである。
 北は、当然、それを予想していた。そういう決定的な段階が中国と日本との間に必ずくることを予想して書いたのが「支那革命外史」であったが、上海の陋屋で、もえあがる排日運動を目の前にしたとき、北はくるものがきた、くるところまできたという感慨を深めた。中国の革命と日本の革命が此の段階で完全にかかわりあい、中国の革命党と日本の革命党にとって、その敵は共通なものになったのである。
 その結果、北は法華経を読誦する四十余日の断食生活を始め、その凝集した頭脳で、日本の革命を可能にする道を模索していったのである。だからといって、中国の革命と日本の革命とは同時に遂行しなくてはならない、中国と日本の革命党にとって、その敵は一つであるという考えがすんなりと彼の頭に入ったわけではない。
 ことに、長年、中国の革命のために一緒に行動してきた中国人の友が、排日運動の先頭にたっているのを見たとき、その排日は革命すべき高官と資本家階級の政策にむけられたものであると理解しながらも、日本国民にむけられたものでないと知りつつも、彼自身の感情としてはひっかかるものがあった。
 日本における資本家と高官は、中国における袁世凱や段祺瑞に相当するし、北自身、その袁や段に反対する以上に、日頃、彼等を弾劾してきたではないかと思いながらも、中国人に弾劾されているのをみることは、それほどにうれしいことではない。
 それに、日本国民の中には、まだまだ、民主主義的社会主義的人々は少なく、国民のほとんどが日本の革命を求めもせず、政府のすすめる帝国主義的政策に共鳴して、対中国侵略を讃美していた。だから、北には、中国人から攻撃されているのは、資本家、高官とともに、日本の国民そのものであるという思いがあった。そこに北の苦痛があった。日本人としての悲しみがあった。

日本革命に向かう眼
 彼のこういう発見は、そのまま、中国の革命を応援するといって、のこのこと中国にやってきた自分自身の思いあがりを発見することでもあった。
 中国の革命を応援するということは、日本における革命を実現することでしかなかった。それなのに、日本の革命をまったく怠ってきた自分自身をそこに発見した北としては、四十余日の断食でもして、自分自身をとりかえす必要があった。彼は、そういう一切の思いをたたきつけて、断食にとりくみ、「日本の魂」のどん底から日本を覆えすことのできる、「日本改造法案大綱」の作成にとりかかった。まさに、北自身の日本人としての再生を求める思想と行動であり、日本の革命を念ずる彼の精一杯の思想と行動でもあった。
 その点、中国での体験は、長い廻り道であったが、北にとって貴重な道草であったといえる。

 

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   革命への志向

“下からの革命”と“上からの革命”
 北が「日本改造法案大綱」を書きあげたのは、大正八年、彼が三十七歳の時であるが、彼は、それを中国の上海で、排日を絶叫する民衆の声をききながら筆をすすめた。しかも、彼は、一章書きあげると、それを、日本に送り、日本ではそれを謄写刷りにして、各方面に配った。それほどに、この書は日本では、待ちこがれられたものであった。発売禁止になったのはいうまでもないが、人々はそれを秘密裡に書きうつして読んでいった。北の書いた「日本改造法案大綱」とはそういう本であった。
 本書は、国民の天皇、私有財産限度、土地処分三則、大資本の国家統一、労働者の権利、国民の生活権利、朝鮮基地現在及将来の領土の改造方針、国家の権利の八章からなっている。
「国民の天皇」と題して、北は、「天皇が全国民とともに、国家改造の根基を定めんがために天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令をしく」と書く。彼は「国体論及び純正社会主義」にも書いたように、天皇は民主主義的社会主義的国民の先頭にたって、あくまで、日本の革命を進めるものという考えを貫く。だから、ここでも、天皇とは国民の奏功によってそのように行動するもの、行動しなくてならないものという立場をとっている。
 北はそれを、「天皇とは、どこまでも、神武国祖の創業、明治大帝の革命にのっとって行動する者」と書く。かつて、神武国祖の創業を神話として、特記することを否定した彼が、ここでは、それを強調するし、明治維新の革命も明治天皇とはかかわりないとみたのに、今は、その革命を明治天皇のものとする立場をとっている。
 それは、北が、国民の自由、平等を実現するのが神武国祖、明治大帝の念願であり、今上陛下はそれを継承するもの、しなくてならないものということを明かにしたいためであったろう。
 しかし、北が本当に現身の天皇は国民の先頭にたって行動すると思ったかどうかはわからない。ことに、大正十二年に出した本書の改造社版の凡例には、「どの一行も日本の法律に違反した文字はない」と書いているように、憲法をふくめて、諸法律の枠内での革命をどこまでも考えようとしているし、更に、緒言には、「仏子の大道を宣布して」と書いているように、天皇もまた、国民同様に、仏子の大道を宣布する者、しなくてならない者と考えて、天皇を唯一絶対のものと考えていない。それこそ、日本の建国の事情から、自然に、国民の総代表としての天皇として、天皇は存在する。しかも、その天皇は大権を発動できる権利を保有している。
 北が大正、昭和という時代状況、思想状況の中で、更には、民主主義的社会主義的人間が絶対的小数である時代において、日本の革命を実現せんとすれば、天皇の大権の発動ということを考えるしかなかったということであろう。
 それに、北は、中国革命に参加して以来、軍隊運動による革命を志向するようになったからなおさらである。この点で、北は、「国体論及び純正社会主義」を書いた当時に比べて、民主主義的、社会主義的国民の多数出現をまちきれなくなり、下からの革命でなく上からの革命を待望し、それだけ、軍隊に希望を托す度合いは多くなったということが出来よう。彼は日本の革命をせっかちに求め、それ故に、彼自身の革命観は以前より後退した。即ち、国民の自由と平等は国民自らの覚醒と力によって戦いとる以外にない。それこそが国民の本当の自由と平等であり、決して、他から与えうるものでないと考えていた北が、それらを国民にあたえようとしたのである。ここには彼自身の思想の後退があった、といわなくてならないかもしれないが、それでも、なお、日本に維新を求めずにはいられなかった彼の思いがあったことも見のがすことは出来ない。

“現実の人間”からの出発
 さらに、「私有財産限度」「土地処分三則」「大資本の国家統一」の中で、北が、私有財産を三百万円とし、あるいは、土地所有を時価三万円、資本を一千万円に制限したということにも、「国体論及び純正社会主義」で、それらすべてを国有にすると主張したことと関連して、ここにも、彼の後退があるようにみえる。
 しかし、北は、その理由を次のように説明する。
「個人の自由なる活動又は享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず。貧富を無視したる画一的平等を考ふることは誠に社会万能説に出発するものにして、ある者はこの非難に対抗せんが為に個人の名誉的不平等を認むる制度を以てせんと言ふも、こは価値なき別問題なり。人は物質的享楽又は物質活動そのものにつきて画一的なる能はざればなり」
「すべてに平等ならざる個々人は、その経済的能力享楽及び経済的運命に於ても画一ならざるが故に小地主と小作人の存在することは神意ともいふべく、且社会の存立及び発達のために必然的に経由しつつある過程なり」
「熱心なる音楽家が借用の楽器にて満足せざる如く、勤勉なる農夫は借用地を耕してその勤勉を持続しうる者に非ず。人類を公共的動物とのみ考ふる革命論の偏向せることは私利的欲望を経済生活の動機なりと立論する旧派経済学と同じ。ともに両極の誤謬なり。人類は公共的と私利的との欲望を混有す」
 要するに、北は、かつてのように、経済的自立の後には、すべての人間が精神生活、文化生活に専念するというように、人間を直線的、単線的に美化することをやめて、現実に生きているナマの人間を出発点として、そこから、人類の理想にむかって歩みつづける人間をみようとしたのである。
 現実の人間が、私利と公利の両方の欲望をもつ者であり、私利的欲望を克服することには長い時間がかかると考えたことも、北の人間に対する新発見であった。同時に、かぎられた人間の企画力、創造力などにゆだねて、多くの人達の企画力、創造力などを殺してしまう可能性のある画一的指導にも疑問をもった。
 今日、社会主義国ソヴィエトで、親達が子供にむかって、「勉強しないと労働者になるわよ」という言葉が日常的につかわれて、労働者が相変わらず蔑視されたり、また、ノルマ制とか、利潤方式がとりいれられるということは、北のこの見解をうらずけるものということができる。
 その意味では、北のこの考え方は後退というよりは、進歩といえる。人間と社会の進化を信じた彼、それ故に、現実の人間を理想化することもなく、大胆率直に人間をみ、その人間が一歩一歩前進する見解を出したということが出来よう。
「国民の天皇」のところでは、自由と平等を国民にあたえようとする立場にたっていたが、ここでは、あくまで、自由と平等は国民がつかみとっていかなくてはならないという立場をとっている。

人間自立の基盤をどこに求めるか?
 次に、北が、「労働者の権利」で説いたことは、労働省を設置して労働者の権利を保護することであり、労働者の代表が事業計画、収支決算に関与することを保障することであった。とくに、その場合、労働者への利益配当として、私企業の場合、その純益の二分の一を各自の賃銀に比例して配分することをきめているが、雇傭者と労働者は自由契約であることを明言している。それというのも、北が、
「国民の自由をすべてに通ぜる原則として、国家の干渉を背理なりと認むるによる。等しく労働者と言ふも各人の能率に差等あり」と考えたためである。人間の能力の違いについても、「個々人の天才は労働の余暇を以て発揮し得べき者にあらず。何人が大経世家たるか、大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは彼等の立案する如く社会が認めて労働を免除すと云ふ事前に察知すべからずして悉く事後に認識せらるる者なればなり」
という北には、人間の自主性、自立性はどこまでも認めなくてならないものであった。
 つづいて、北は、「国民の生活権利」と題して、十五才以下の父母、または父のない児童ならびに、子供のない六十歳以上の貧困の男女、働けない者などは、一律に国家が扶養すべき義務があることを明記する。また、国民の教育権利としては、「国民教育の期間を満五才より満十五才までの十ヵ年間として男女同一に教育す。学制を根本的に改革して十年間を一貫せしめ、日本精華に基く世界的常識を養成し、国民個々の心身を充実具足せしめて、各その天賦を発揮しうべき基本を作る」という書きだしの下に、
「国民全部の大苦悩は日本の言語文字の甚だしく劣悪なることにあり。……国語問題は文字又は単語のみの問題にあらずして言語の組織根底よりの革命ならざるべからず。……国際語の合理的組織と簡明正確と短日月の修得とは世人の知る如し。児童は国際語を以て国民教育期間中に世界的常識を得べし」
「女学校特有の形式的課目女礼式、茶湯、生花の如き、また女子の専科とせる裁縫料理育児等の特殊課目は全然廃止すべきものとなる。前者を強制するは無用にして有害なり。後者は各家庭に於て父母の助手として自ら修得すべし。女子に礼式作用が必須課目ならば、男子にも男子のそれが然るべく、茶湯生花が然るならば男子に謡曲を課せざれば不可」と記している。
 十年間の義務教育といい、国際語を以て第二国語とせよ、女子教育の形式的教育を排除せよという意見などは、
「日本の官吏には、人権を蹂躙して却て得々とした者があるから体刑にせよ」という指摘とともに、いかにも北らしい独特の意見ということがいえよう。彼には、体刑にするぐらいの徹底さがなければ、傲慢で、国民を人間とも考えない役人根性など到底かわらないと思われた。その点では、資本家階級よりも役人の方がひどいと考えたのである。

“侵略の中から革命の嵐を!”
 最後に、北が「国家の権利」と題していったことは、「国家は自己防衛の外に、不義の強力に抑圧さるる他の国家又は民族の為に戦争を開始するの権利を有す。国家は又国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して、人類共存の天道を無視する者に対して、戦争を開始するの権利を有す」ということである。彼は、これによって、日本の革命を志向しただけでなく、当面、アジアを征服する西欧諸国の現秩序の変革をねらうとともに、それが西欧諸国の革命をひきおこす契機になると考えた。アジア侵略をやっている西欧諸国には、それぞれ、それを不可と考える革命党がいると確信した。
 そればかりか、日本の進出、侵略を肯定するということは、侵略、進出された国の中に独立への覚醒をうながし、その国民によって本当の独立が、革命が生まれることを期待したし、日本の進出、侵略はその呼び水になるということを考えたのである。
 北自身が中国革命に参加した結果、他国の革命には、自国の革命を遂行することでのみ協力しうると発見したことからみても、そう考えたことは当然であるし、だからこそ、彼は一国社会主義革命の考えをつらぬいたのである。
 北の考えからすれば、日本が中国の排日、侮日の運動をうけるのは、全く、当然ということになる。彼の革命観が、日本をふくめて、世界各国を革命の嵐の中につきおとそうとする考えが如何に徹底していたかということになる。彼が「仏子の天道」といわざるを得なかった理由も、更には、「戦なき平和は天国の道にあらず」という話で、この本をしめくった理由もそこにある。それは、生半可のことでは、世界革命とそれによる真の平和は訪れないと見定めた彼の悲痛そのものの雄叫であった。
 以上が、「日本改造法案大綱」の主な内容であるが、北はそれを書きあげて、日本にかえってきた。その歴史と伝統をかぎりなく愛する日本の土地で、その「大綱」にもとずいて、日本の革命をすすめるためにかえってきたというのがより適切な表現であろう。

 

                <日本の右翼 目次>

 

   二・二六事件と北

軍隊による革命
 大正八年、北は日本に帰ると、大川周明と猶存社を結成して、早速活動を始めた。大川については、大川の章で書くが、彼とは、「支那革命外史」をきっかけにして深く結びついた間柄であり、北が日本にかえる契機を直接につくったのも大川である。
 北は、まず、大正九年に、皇太子に「法華経」を献ずるとともに、皇太子妃色盲事件にからんで、山県有朋に反対し、皇太子妃擁立事件に活躍した。ここには、彼の深謀遠慮がある。すなわち、「日本改造法案大綱」にも書いているように、日本の革命を天皇を中心になしていこうとした彼としては、天皇家に近づく必要があり、それには、皇太子の近辺に近づくとともに、皇太子を「法華経」を理解し、「法華経」の精神を行ずるものにかえておく必要があった。そのためには、皇太子紀にケチをつける山県達に反対することは、皇太子妃の周囲に近づくチャンスであった。
 現に、事件後は、皇太子紀家から感謝された。それと平行して、三井財閥のドル買い事件をあばくなどして、資本家階級の実態を国民の眼にやきつけることにも努力する。その過程でおこったのが、財閥からの金が彼に流れこむようになったことである。
 北は、そういう金を懐にいれただけでなく、積極的に、そういう金をひきだす方向にいく。この事実が、北は、革命をかかげながらも、結局は資本家の番犬でしかないという評価がでるとともに、いずれは、資本主義擁護に転向したであろうといわれる理由である。
 だが、この事実を解く鍵は「日本改造法案大綱」にある。それは、彼が日本の革命を民主主義的社会主義的国民の出現をまたずに、軍隊中心に行なおうとしたこと、更には、日本の他国への進出侵略を肯定することによって、その国々の革命を招来しようとするとともに、逆にそれらの国々の日本への攻撃を認めたということにあらわれている。
 要するに、北の考えた革命は、連続革命であり、彼が直接に参加する革命は、次に訪れる真の革命を準備するものでしかなかった。
「国体論及び純正社会主義」を書いたほどの北が、社会主義的国民のやる革命をやめて、軍隊によって革命をなそうとする以上、軍隊による革命は過渡的なものであると考えたとしか思いようがない。
 日本の政治状況、思想状況の現段階では、せいぜい、その程度の革命しかできないと北は見抜いたのである。そこに、日本の現実に対する北の絶望の深さがあるし、絶望した彼がニヒルになり、財閥から金をとり、そういう自分を財閥、軍閥、官僚とともに抹殺していこうと考えたのではないか。
 私には、財閥から金をむしりとった北には、ただ、日本に対する絶望の深さしか見ることができない。また、そういう革命しかやれない彼自身への絶望の深さと考える。

何が青年将校との結びつきを可能にしたか?
 大正十二年、ソ連代表ヨツフエが来日するのをきっかけとして、それに賛成する大川とそれに反対する北との間に溝ができた。彼の反対の理由は、ソヴィエトが帝政ロシアの領土だけを継承して、その負債は放棄するのはけしからんというものであったが、直接の理由は、来日前に、彼の仇敵視する孫文と会談したということであった。
 それが、北と大川を別れさせることになり、それ以後、北は「大行社」により、大川は「行地社」を根拠地にする。そして、北が尉官クラスの青年将校に近づいていったのに対し、大川は参謀本部の佐官クラスに関係するようになる。北を青年将校に結びつける役割を果したのは西田税で、西田は陸軍士官学校時代に「日本改造法案大綱」を読んで、それに非常に共鳴をおぼえたものの、その後、病気のために陸軍を退役した青年将校であった。
 北は、「支那革命外史」にも書いているように、革命を必要とする国の軍人のうち、大隊長以上は既に革命されなくてはならない側にあると考え、青年将校、下士官、兵にしか期待できないと思い定めていたから、西田と知りあったことを何よりも喜んだ。
 ことに、北が、下士官、兵に期待したのは、彼等が労働者、農民であったということである。彼等は下士官となり、兵となることによって愛国者になり、人間としてめざめたと考えるのである。こうして、北の活躍、宣伝工作は徐々に、青年将校の中に実を結んでいく。
 昭和六年、三月事件と十月事件があいついでおこる。三月事件は大川周明を中心に計画したもので、労働法案上程の日、一万の大衆動員による国会にデモをかけるとともに、第一師団の中隊で議場を包囲、内閣を総辞職にもっていき、宇垣一成大将に大命がおりることをねらったもの。十月事件というのは、橋本欣五郎中佐を中心に、大川派、北派も参加したもので、首相官邸、警視庁、陸軍省などを近衛師団の中隊で攻撃し、東郷平八郎元帥に大命を降下させようとしたもの。そのいずれも失敗に終わったが、当時の日本の政治状況、経済状況を彼等軍人ならびに大川、北がどのようにうけとめていたかは、橋本中佐を中心に結成された桜会趣意書に明かである。
「現今の社会層を見るに高級為政者の悖徳行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、靡爛文化の躍進的抬頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保全主義等々国家の為にまことに寒心に堪へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき重責を負ふ政権に何等之を解決すべき政策の見るべきものなく、又一片誠意の認むべきなし。従って、政権の威信は益々地に墜ち、経済思想政治上国民は実に不安なる情態におかれ、国民精神は逐次弛緩し、明治維新以来の元気は消磨し去らんとして、国勢は日に下降の道程にあり」

二・二六蹶起!……北に知らされなかった事件
 要するに、彼等は、こういう現実を前にして一刻もまてないという気持になった。それ故に、大川派も北派も更に井上日召派もこの蹶起に合流したということができる。北がこの蹶起にどれだけ信頼と期待をおいていたかは疑問である。とくに、彼は、革命後の政府責任者として誰も信頼できなかったからである。しかも、この十月事件は出発当初から北派の青年将校達と佐官クラスと結びついた大川一派とが統一行動をとろうとしたところにも無理があった。
 北派の青年将校達が純粋に労働者、農民の窮乏を怒って革命をおこそうとしたのに対して、橋本達は連日連夜、待合にあがり、美妓を抱く始末。その上に、橋本内相、大川蔵相などの閣僚名簿をつくって、自分達のためにやる革命しか考えなかったような側面をもっていた。
 北の明言するように、橋本中佐達は革命さるべき人間であった。青年将校達は、三月事件、十月事件を通じて、そのことをおそまきながら知った。そこに、大川派と北派の溝が更に、一層、深まったが、北の青年将校への影響力はそれを契機として、いよいよ深くなる。北を信奉する青年将校は、あらゆる兵料、あらゆる連隊の中に、徐々に増加していった。なかでも、第一師団が最も多かった。
 そういう状況を恐れた陸軍首脳は昭和十一年末に、第一師団を満州に派遣することを決定し、これら青年将校の行動を封じようとした。そうなっては、彼等青年将校の計画もいつ実現できるかわからない。彼等は焦操し、苦悩し、ついに、二月二六日に、蹶起することにきめた。
 青年将校の蹶起趣意書には次のようにかかれていた。
「……内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して、稜威(天皇の意志)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずんば、皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ、年来御維新翼賛を誓い、殉国捨身の奉公を期しきたりし帝都衛戌の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而も顧みて内の世状に憂心転々禁ずる能はず。
 君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば破滅沈論をひるがへすに由なし。
 茲に同憂同志機を一にして蹶起し、好賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳をつくし、以て神州赤子の微忠を献ぜんとす」
 北は、その蹶起を前もって知らされていなかったようであるが、若し、知っていたとしても同意はしなかったであろう。というのは、青年将校達がクーデター成功後の政権に何の構想ももっていなかったということである。彼等としては、その構想をもつことを不純と考え、クーデター後は、誰かが自分達の期待通りにやってくれるという期待をもったが、北はそういう人間はいないということを知っていた。それを知るということは、まだ、革命行動をおこす時期ではないということを意味していた。

「日本改造法案大綱」の幻想性
 実際に、青年将校達の期待した通りには、陸軍将官のうち誰一人行動した者はいなかった。そればかりか、彼等の心の中で最も信頼していた天皇まで、彼等を、
「朕の股肱の老臣を殺謬す。此の如き兇暴の将校等、その精神に於ても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼する老臣を悉く倒すは、真綿にて、朕が首をしむるに等しき行為なり」といってつっぱね、彼等を討伐することを求めたのである。
 その点では、青年将校の夢と期待は裏切られたし、北の「日本改造法案大綱」に書いた革命方式も根底から崩れ去ったということになる。しかし北にいわせれば、それは、準備不足の故で、あくまで天皇には、革命の先頭にたってもらえるという確信があったというかもしれない。それとも、そのことは、先刻承知していたというのであろうか。
 いずれにせよ、そこに、日本の革命の困難さがあるし、それ故に、たえず革命の意味と方法を問いつづけねばならない理由がある。

 

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第三章 戦争と平和の思想……世界最終戦の構想者・石原莞爾

   “平和”を追い求める精神

“世界最終戦”の後にくるもの
 石原莞爾は、職業軍人として、また、陸軍の中心的人間として、終始、世界最終戦を構想し、日本をその戦争に勝ちぬける国に育てあげることを念願しつづけた男である。しかも、彼の世界最終戦とは、戦争史の研究の結果、人類の平和は、その後にしかこないという彼自身の確信からきたもので、世界最終戦というも、結局は、人類の真の平和を待望するところから生れた考えでしかない。
 いいかえれば、石原は、その生涯を通じて、真の平和を熱望し、その実現のために戦いつづけた男ということになる。彼は、軍人こそ、平和の何たるかを真に理解できるし、それ故に、戦争を絶滅する戦いを積極果敢に進めうると信じていた。石原とは、そういう軍人である。
 しかも、石原の世界最終戦は、非常に強力な兵器が出現し、人類の殲滅戦が一挙に成立する時に行われる戦争であると規定しているが、実際に、原爆戦で、第二次世界大戦が終わったとき、即ち昭和二十年の十月、つぎのように断言した。
「ここに翻然として、目覚め、最終戦争に対する必勝態勢の整備は武力によるべきにあらずして、最高文化の建設にあることを悟ったのである。
 この狭少なる国土に生きる七千万の同胞が主として国内の資源を利用する。簡素にして健康な生活を営みつつ、最新科学文明の粋を活用して、人類次代文化の真姿を世界に示すと共に、身に寸鉄を帯びずして近隣と民族協和の実をあげるならば、一の理論闘争を用いず、むろん武力にたよることなく、闘争に悩む全人類に八紘一宇の真義を信解せしめ得るものと固く信ずる」
 ここには、世界最終戦争は、将来必ずくるという石原の考えは変わっていないが、既に、世界最終戦を可能にする兵器が誕生しておる以上、その兵器を活用しての殲滅戦を実施するかどうかと考えたとき、彼自身、そういう戦争はなすべきでないと思い始めたのである。
 それに、石原としても、第二次大戦を戦った人間がそれほどに愚かであると思いたくなかったし、世界最終戦必至をいい、その戦争に勝ちぬくことだけを強調し、別の方法で、真の平和を実現しようと彼自身考えようとしなかったことにも気づいたのである。
 マッカーサーにあてた石原の建白書にも、
「今日、私は、東亜連盟の主張がすべて正しかったとは勿論思わない。最終戦争が東亜と欧米との両国家群の間に行われるであろうと予想した見解は、甚だ自惚であり、事実上明らかに誤まりであったことを認める。また、人類の一員として、すでに世界が最終戦争時代に入っていることを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈っている。しかし、同時に、現実の世界の状勢をみるにつけ、ことに共産党の攻勢が激化の一途にある今日、真の平和的理想にみちびかれた東亜連盟運動の本質と足跡が正確に再検討せらるべき緊要の必要ありと信ずる。少なくともその着想の中に、日本今後の正しき進路が発見せらるべきことを確信するものである」という意見を述べている。
 石原は自信をもちながらも、変わらざるを得なかったことを率直に述べている。

どんな国家を建設すべきか?
 そこから、石原は、最高文化を建設することによって、戦争そのものを人類の中からなくしていくことを新たに考えるようになったのである。それは第二次大戦の中から生まれた石原の新生であり、同時に、日本の新生を念ずる彼の思いであった。
 では、石原は、新生日本の内容と方向を具体的にはどのように考えたのであろうか。彼はいう。
「専制から自由へ、自由から統制への歩みこそ、近代社会の発展において、否定すべからざる世界共通の傾向である。……
 統制とは専制と自由を総合開顕せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に発揚するため、必要最少限の専制を加えることである。……
 真のデモクラシーを呼号するソ連でさえ、自由から統制への前進をなしえず、ナチに最も似た形式の独裁的運営を行い、専制主義に後退した。……
 我等は、今や、超階級の政治が要望せらるべき時代を迎えたものである。ブルジョアでもプロレタリアでもない階級がいよいよ増大しつつあり、これが社会発展の今日の段階における決定趨勢である。それは、ある階級の利益のためにということから、理想のためにということに転換することを意味している。……組合国家こそ、日本にとって最適の国家体制である」と。
 石原のいった組合国家というものの内容は必ずしも明かでないが、一人一人の国民に主権があり、それらの国民によって作られ、連帯したものであることは間違いない。いうなれば、国家のための国民でなく、国民の必要から生まれた国民のための国家ということである。
 だから、文化国家といい、道義国家といっても、方便としてかかげるものでないことはいうまでもなく、一人一人が文化人になり、道義的人間となって形成する国家ということになる。組合国家といっても、一人一人の国民が組合員としての自覚と能力をもつようになるまで、そういう国家をつくることは出来ないと考えたのが石原である。
 まして、自由と専制を総合的に開顕する精神なんて、いうことはやさしいが、その精神が現実のものとして作用することは非常に至難である。

絶望と虚無からの目覚め
 石原は、地上に真の平和が訪れるためにはそれをやってのける以外にないと考えた。世界最終戦に勝ちのこる以上にむつかしいと思いながらも、それをやっていく以外にないと考えた。
 であるからこそ、戦後、虚無と絶望の中にひたっている日本人を前にして、石原は、
「その絶望が深くない。その虚無はほんものでない。この程度の絶望と虚無からは、平和を全身で熱望する姿勢は生まれてこない」といい、更には、「二十年ぐらいたつと、日本人はボツボツとめざめてくるであろう。本当の建設はそれからである」ともいったのである。
 しかも、彼は、その時こそ、日本と日本人が八紘一宇の精神を世界にむかって、実現する時であるというのである。彼にとっては、大東亜戦争に日本政府がかかげた八紘一宇など全くまやかしにすぎなかった。だが、彼自身もまた、その一人であったという自覚があった。戦前、石原の考えた八紘一宇とは、明治元年三月に出された「御宸翰」にある、「天下億兆一人もその処を得ざるは、皆朕が罪」という精神を基調にしての世界一家の実現であったが、所詮は、侵略主義、帝国主義をその中に含んでいた。
 しかも、石原は、満州建国の中で、それがだめであると感じはじめた。そこから、協和会が生れ、東亜連盟が育った。侵略主義的、帝国主義的日本が亡んだ後に、即ち戦後にこそ、本当の八紘一宇を理想にかかげた組合国家が何十年後かに出来る、いな、つくらなくてはならないと石原は考えはじめた。そういう理想を追求し、実現できるのが日本人であるとも考えたのである。「たとえ、日本は蹂躙されても、戦争放棄を書かなくてはならない」という彼の言葉は、彼の平和への意志、道義実現への意志のなみなみならぬものであることを示している。
 たしかに、今日、石原のいったように、日本人の中に、本当にめざめている者といいうる者が徐々に出はじめている。敗戦とともに、無条件、無批判的にうけいれた戦後民主主義の再検討がおこっているのもそのためである。日本の進むべき道がどこにあるかと主体的自主的に考えようとする姿勢も、最近ようやく、日本人の中に定着しようとしている。更には、戦争と平和の問題をめぐって、平和をどのように日本人の中に深め、強めていくかということも再検討をせまられている。それこそ、日本の建設はこれからである。こういうことを二十年前に洞察し、予言した石原。その石原がどういう過程をへて、そうなったかを考えてみようとするのがこの章のねらいである。

 

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   革命思想の芽生え

通らぬ正義……名ばかりの“平等”への怒り
 石原は、大川におくれること三年、明治二十二年、大川と同じ、山形県鶴岡に生まれた。父はもと、庄内藩の藩士であったが、維新後は巡査になった。
 石原がみていると、その父親が路で、昔の上役にであうと、「ごぶさたしております。皆さまおかわりなくて重畳でござります」と一定以上に、へりくだった挨拶をする。それが旧藩主の邸にいったときなど、末座にひかえて、顔をあげることも出来ない。もちろん、言葉など全く出てこない。彼は、子供ながら、不思議でならない。「父親はどこからみても、立派にみえるのに、なぜこんなにもへりくだっているのか。これでは卑屈とかわらないでないか」と思わずにはいられなかった。
 そんなある日、父親は、石原にいった。
「御維新になって、一応四民平等になり、士、農、工、商の差別はなくなった。なくなったといっても、まだまだ、その差別は濃厚にのこっている。お前達の時代になったら、名ばかりの四民平等をなくするように頑張ってもらいたい」と。
 それをきいた石原は、父の悲しみと怒りが痛いほどにわかった。その頃、彼が「南州遺訓」をよんだかどうかは明らかでないが、この「南州遺訓」は、彼の生まれた年に、かつて、西郷に親しく接した旧庄内藩士達が集まって、つくったもので、彼も当然、それを読んだということが考えられる。また、西郷のことをいろいろ聞いたということも考えうる。
 父の話や西郷について話をきけば、石原が「理非曲直の明かな世の中をつくりたい」と思うようになったのも、更には、「軍人の世界は正義がとおっているに違いない」と考えて軍人になろうとしたのも無理はない。いずれにせよ、石原が、「このままの世の中ではいけない」と思いつめるようになったのは少年の頃である。

人生を決定づけた出会い
 仙台の幼年学校に入学したのが石原の十五歳の時。そこで、彼の反抗精神、批判精神はいよいよ明確化し、根強いものになっていく。その頃、幼年学校には、毎週二枚以上の画をかくことを要求する教師がいた。これが、生徒達には何よりも苦痛であった。将来軍人になる者に、作画がそれ程に必要なのかとぼやく生徒もいる。だからといって、それに不平や批判を加えることはできない。
 まかりまちがえば、教官に対し、反抗をしたということで、きびしく処分される可能性がある。石原は、その教師に、父を苦しめた俗物をみる思いがした。しかも、その男が生徒達をいじめて、喜んでいるように見えた。軍隊にも正義が通用していないという思いが彼をとらえた。そう思うと我慢ができなくなった。彼は、写生画の一つに、自分の秘所を画いて出すことを思いつき、それを早速実行した。
 教師は烈火の如く怒り、石原を退役にすることを要求し、それをしない時には自分が退職するといい出した。そのために、彼は退校処分になりかけたが、校長が「その責任は私にもある。石原の教育は今後私が行い、本当に彼が品性下劣で、服従心がないとわかったとき、改めて、退学にします」といって、その身柄を預かってしまった。
 教育とは本来そういうものであり、校長はそれを実行してみせただけであるが、図画の教師もそうなると、それ以上に自説を主張することができない。結局、この事件は落着したが、石原は、自分の思うこと、考えることを堂々と実行し、その結果が自分にどうおよぶかということは全く考えなかったのである。徐々に、革命的資質と姿勢を身につけていったといえる。
 これに似た事件は、士官学校の時にもおこった。生徒をいじめるのを趣味のようにしている教師の急所を剣道の時間に力まかせにつかみ、気絶させてしまった事件である。そのために、彼は、卒業のとき、恩賜の銀時計をもらいそこねたが、彼には、銀時計などより、生徒をいじめるのを趣味にしているような男をこらしめるのが重要であり、先決であった。「理非曲直のあきらかな世の中をつくりたい」という少年の日の夢と希望は、単なる空想でなく、彼自身が自分に課した課題でもあったのである。
 しかも、石原のそういう資質と姿勢に、なお一層のみがきをかけたのは、士官学校の教官、士官学校の教育ではなくて、彼の級友の父親であった。人間の資質を助長し、その識見を独創的にきたえるのは、多くの場合、学校教育でなく、人間と人間との出会いであり、それも、直接教えをうけた教師でない場合が多い。彼の前にも、そういう人間が出現し、彼の心に灯をつけたのである。
 その男の名を南部次郎という。
 彼は、石原の級友南部襄吉の父親で、その南部とは、仙台の幼年学校以来親しく、士官学校に入学してから、南部に紹介されて、しりあい、後には、深く啓発されるようになったものである。その時、既に、南部次郎は七十二歳。だが、その老人は、眼をギョロつかせて、石原を迎えた。しかも、いきなり、たたきこむように、
「お前も中国人をチャンチャン坊主と思うか」ときりだしたのである。石原が「ハイ」と答えると、「それは間違っている」と前おきして、老人は、その理由を説きはじめた。
「清国はたしかに、今亡びようとしている。しかし、その清国とは、清王朝が支配する清国のことで、五千年の歴史と文化をもつ漢民族のことではない。世界の文化に貢献した中国の歴史は決して軽蔑できない。今の日本人は欧米人をやたらと尊敬し、中国人をあなどっているが、それは、清国と中国人を混同することからきている。
 日本と中国が、提携して、アジアを復興するのが、これからの日本人と中国人の課題である。そのためには、中国の革命党と手を結んで、腐敗している清朝を仆して、中国に革命をおこすことだ。反対に、日本と中国が仲違いをするようでは、日本と中国は、結局、とも倒れになるしかない」
 老人の熱のこもった言葉は、石原の胸をつよくうった。老人の確信にみちた言葉は、やがて、彼の胸の中に、革命の夢をきざみこんだ。おそらく、その時、彼の心には、中国の革命だけでなく、日本の革命を思う心がはっきりやきついたことであろう。
 それからの石原は、日曜毎に、南部老人に会うために、南部家を訪ねるようになった。彼は、南部老人の思想と行動を存分に吸収することによって、彼自身の思想を徐々に確立していった。そういう彼をみて、老人は、「わしは、この年まで生きて、何一つ、後にのこすものはないが、唯一つ、石原莞爾という男を後世に遺すことができることになった」と、手放しで喜ぶようになった。
 南部次郎とは、南部藩の一族で、絶新前は藩の執政などをやったが、維新後の明治七年、中国にわたって、そこに、理想国家をつくろうと志し、その一生をそのために投入した男であった。すなわち、漢民族を制圧する清朝は遅かれ、早かれ倒される。それに力をかして、そのあとに漢民族の理想国家をつくろうというのが彼の夢であった。

中国に開かれる眼
 明治十六年、芝罘に領事館が開設されると、自ら領事になり、事務の一切は部下にまかせて、日夜、中国の革命党員を集めて、清朝顛覆の謀議をこらし、ついには、革命党員を領事館にかくまうということまでした。それが問題となって、彼は内地に呼びもどされたが、船が長崎につくと、早速、辞表をかいて、再び、政府につかえるということがなかった。それからの彼が一民間人として、中国の革命をつねに考え、そのために、彼に出来る範囲での行動をなしつづけてきたことはいうまでもない。石原にたたきつけた言葉に情熱がこもり、確信にみちていたのもむりはない。南部老人が、石原という男に革命思想をふきこみ、彼を革命的軍人に育てたといっても過言ではあるまい。
 明治四十四年十二月、北一輝も参加した辛亥革命が成功し、いよいよ中華民国が成立するということをきいた石原は、当時陸軍中尉として、朝鮮の守備隊にいたが、部下をひきつれて、近くの丘陵にのぼり、そこで、中国革命の歴史を説き、最後に、「亡びたのは中国人民でなく、清朝である。中国国民は、今後、希望と勇気をもって、新しい国づくりを始めるであろう」という言葉で結んだ。それから、西方にむかい、威儀を正して、中国革命万歳を三唱したのである。石原の革命思想と革命的姿勢は、そこまで、深まっていた。

軍人としての矛盾……どう克服したか?
 石原に革命思想を開眼させたのが南部老人とすれば、彼に革命的情念と信念をたたきこんだのは、田中智学である。田中は、町医者の子として生まれたが、その父が熱心な日蓮信者であった関係で、十歳のとき出家し、十九歳の時には、既成の寺院にあきたらずに還俗し、その後、独自な日蓮解釈をもとに、日蓮宗の改革にとりくむとともに、彼自らの日蓮主義運動を強力におしすすめた人物である。
 田中の著書「宗門の維新」には、世界統一教としての国教を制定し、世界各国がきて拝む大戒壇の建立を強く主張している。日蓮を大元帥とし、法華経を剣として、破邪顕正の折伏にむかって進軍せよというような文句もある。
 石原は、その田中の講演をきいて非常に感動し、早速、彼の宿舎を訪ねた。当時の彼は、既に、陸士を卒業して、山形連隊に勤務しはじめていたが、結局、その軍隊も幼年学校でみたものの延長でしかなかった。愚劣な先輩がいばり、無法が無法のままに堂々と、通用している。だが、それにもまして、軍人が人殺し稼業であると気づいたことの驚きはもっと大きかった。彼は、その疑問を田中にぶっつけた。出来れば、転職したいともいった。
 田中は答えた。
「それは、貴方の敗北的な考えです。要は、人殺し稼業にするか、人を活かす仕事にするかは、貴方自身の覚悟と能力にある。今必要なのは殺人剣を活人剣にすることです。軍隊に道義がないというのなら、戦って、戦いぬいて、道義を奪いかえしたらいいではないか。戦わないで、退却するのは、名将、智将のすることではない。貴方には、その自信、その勇気がないといわれるのか」
 石原は、田中の話をきいて、勇気がでてきた。自信もわいてくる気持になった。活人剣をふるうためには、何が正しく、何が間違っているかを明確にみきわめることであると考えた。そして、殺人剣と活人剣は、どの職業にもついてまわるものだということを発見した。彼が日蓮への信仰を始めたのはその時からであるが、革命家に必要な情念と信念をこのようにして、石原は、自分のものとし、深めていった。

 

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   世界最終戦の構想

追求すべき戦略・戦術とは?
 朝鮮から日本にかえってきた石原は、すすめられて、陸軍大学校に入学し、そこで戦略、戦術の研究を始めた。
 石原は、まず、日露戦争を研究しはじめたが、すぐに、日露戦争は全くの僥倖であり、彼我の戦力からみると明かに、日本がまける戦争であったことを発見した。そればかりでなく、当時の日本には、戦争の全般にわたって明確な見通しも、またそれにもとづく作戦計画もなかったことを知って、彼は一驚した。ロシア軍を奉天に追いこみ、一大包囲戦をやった時など、最後のとどめをさすときに、弾薬がなかった。旅順攻防戦など、乃木希典将軍一人の作戦のまずさにされているが、その時の伊地知幸介参謀長が、実は対露作戦のすべてにわたって計画したのであった。石原は、そういう疑問を陸大教官に投げかけたが、かえってきたのは、「甚だ危険な質問である。十分に研究してから質問するように」という答えでしかなかった。
 彼が全陸軍の頭脳と姿勢に疑いをもち、戦略、戦術の研究を本格的にやる必要があるという気持を強めたのは、その時である。その頃、日本の陸軍には、モルトケの戦略、戦術を研究する者がいるだけであり、それも単なる模倣にすぎないということを発見したことも大きく関係していた。
 石原は、彼自身の戦略と戦術とを求めて、研究と思索をする生活を始めた。その意味では、陸大はそれの必要を彼に痛感させたということで、非常に価値があった。石原が陸大を卒業したのが大正七年。その年は、第一次世界大戦が終了し、日本がシベリアに出兵した年である。彼は一応軍隊にかえったが間もなく、教育総監部勤務に変わった。しかし、彼は、日本と中国の和平を樹立するためには、どうしても、中国を視ておくことが必要と考え、中国ゆきを願い出た。南部老人から教えられた中国、それを彼自身の眼で直接たしかめたかったのかもしれない。大正九年のことである。

ドイツ軍略への挑戦
 こうして、石原の中国ゆきは実現したが、それは、北一輝が日本の革命を願って、中国から日本に帰ってきたのと丁度いれかわりであった。中国に渡った彼は進んで、危険な各地を調査した。その結果、どういう中国観が出来たかということは、あとで述べる。
 大正十年には、陸大の教官になり、ついで、翌年には、軍事研究のため、ドイツ駐在を命じられた。石原は、ドイツ駐在二年間を利用して、フリードリヒ大王とナポレオンの研究に徹底的にとりくんだ。第一次大戦の研究は、それに参加したドイツの参謀将校から、直接講義をききながらすすめていった。
 石原は、ある時、「自分の研究では、ドイツは、今度の戦争(第一次大戦)で敗けるはずはなかったように思うが敗けている。それは、ドイツ軍のミスによるものではないか」と質問した。
 質問されたドイツの将校が、「ミスでない」と答えると、石原は、「貴方はそういわれるが、シュリーフェン参謀総長は、はじめからオランダの中立を侵して、フランスに進撃するつもりであったと考える。もし、その計画通りに実行されていたら、ドイツの殲滅作戦は成功している可能性があると思う」と逆襲した。
「そんな作戦は立てていない」と答えたのに対して、彼は「“シュリーフェンと世界戦争”という本に、参謀総長がアントワープ・ナムールの隘路を苦慮したとあって、その前にあるソエージュ・ナムールの隘路のことは全く問題にしていない。それは、オランダの中立をおかすことを計画していたためでないか」ときりこんだ。その時まで、ドイツ将校は全くそのことを知らなかったが、上司にきいて始めて、そういう事実のあったことを知るという有様であった。彼の綿密な研究が、ドイツの参謀総長の計画を見抜いた一幕である。

人間解放のための不可避の過程なのか?
 石原の研究と思索はどんどんと進み、ついに、彼独自の発案になる「世界最終戦争論」を考えるところまでつき進んだ。彼の著書「世界最終戦論」によると、次のように書いている。
「人類の歴史あって以来、戦争は絶えたことがない。しかし、今日以後もまた然りと断ずるのは早計である。
 明治維新までは、日本国内において戦争がなくなると誰が考えたであろうか。文明、とくに交通の急速な発達と兵器の大進歩とによって、今日日本国内においては、戦争の発生はまったく問題とならなくなった。
 文明の進歩により戦争力が増大し、その威力圏の拡大に伴って、政治的統一の範囲も広くなってきたのであるが、世界の一地方を根拠とする武力が全世界いたるところに対し、迅速にその威力を発揮し、抵抗するものを迅速に屈伏しうるようになれば、世界は自然に統一されることとなる。
 さらに問題になるのは、たとえ未曽有の大戦争があって、世界が統一されても、まもなく、その支配力に反抗する力が生じて戦争がおこり、再び国家の対立をみるであろうということである。しかし、それは、最終戦争が行われ得る文明の超飛躍的大進歩に考えおよばず、今日の文明を基準とした常識判断にすぎない。
 瞬間に敵国の中心地を消滅するごとき大威力は、戦争の惨害を極端ならしめて、人類が戦争を回避するのに大きな力となるのみならず、かくの如き大威力の文明は、一方、世界の交通状態を一変させる。数時間で世界の一周は可能となり、地球の広さは今日の日本よりも狭いように感ずる時代であることを考えるべきである。
 人類は自然に心より、国家の対立と戦争の愚を悟る。且つ最終戦争により、思想、信仰の統一をきたし、文明の進歩は生活資材を充足し、戦争までして物資の取得を争う時代はすぎ去り、人類はいつか戦争を考えなくなるであろう。
 人類の闘争心はここ数十年の間はもちろん、人類のある限りなくならないであろう。闘争心は一面文明発展の原動力である。しかし、最終戦争以後は、その闘争心を国家間の武力闘争に用いようとする本能的衝動は自然に解消し、他の競争、則ち平和裡に高い文明を建設する競争に転換するのである。
 現にわれわれが子供の時は大人のケンカを街頭でみることも決して稀ではなかったが、今日ではほとんどこれを見ることはできない。農民が品種の改善に、増産に、工業者はすぐれた製品の製作に、学者は新しき発明発見に、等々おのおの今日以上の熱をもって努力し、闘争本能を満足させるのである」と。
 石原は、まず、戦争が徐々に地域的なものから地球全域におよぶ戦争へと移行することを述べ、ついに、世界が一つに統一されるときがくるといい、その過程で、生産力も貧困と搾取から人類を解放するほど高まるから、土地や物資を求めることに中心がおかれた従来の闘争心、競争心もその質を変えてくると明言するのである。

正義への撞れと力に対する信頼
 北一輝が社会主義社会を実現した後には、人間は神類になり、すべての人間が形而上的理想を求めて生きるようになるといったが、石原もまた、人間を美しきもの、すばらしきものになるとみている。果して、人間がそのようになれるかどうか。たしかに、彼のいうように、自然科学の進歩により、生産力は圧倒的に増大するが、人間精神にとりくむ人文科学、社会のしくみにとりくむ社会科学の停滞と遅れはそれを非常に不安に感じさせる。
 しかし、そのことはともかく、彼が、世界が統一された後に、強い希望をいだいたことは事実である。更に、石原は、「戦争によってしか人類は平和に達せないのか、それは人類に対する冒涜ではないか」という設問には、
「生存競争と相互扶助とは共に人類の本能であり、正義に対する憧れと力に対する信頼はわれらの心の中に併存する。……絶対な支配力のない限り、政治経済等に関する現実問題は、単なる道義観や理論のみで争いを決することは通常至難である。世界統一のごとき、人類最大問題の解決は、結局人類に与えられたすべての力を集中した真剣な闘争の結果、神の審判をうけるほかに途はない。まことに悲しむべきことだが、何とも致しかたない」という。
 石原は、人間の中にある正義に対する憧れと力に対する信頼のうち、後者の心をたちきるためには、殲滅戦によって、全人類に戦争の惨酷さを徹底的に感じさせる以外にない、それしか、人間そのものを改造する道はないと考えていたのであろう。最終戦争の中で、始めて、人類は、平和を心の底から望み、そのために、人間の全智全能をしぼるようになると想像できたし、殺人剣を活人剣にするのは、そのことによってのみ、可能になると考えることができたのである。
 それは、第二次世界大戦で、戦死者二千二百万余、負傷者三千四百万余を出しながら、戦後依然として、大勢は、軍備拡充に狂奔していることをみても明かである。それでもなお、こりないのが人間である。石原が世界最終戦を経る以外、人類はめざめないといいきった言葉が強く胸にこたえてくる。
 もちろん、石原は、世界最終戦を戦争史よりみて必至だとみたのであるが、この考え方には、北一輝の仏魔一如のそれと共通するものを感じる。彼もまた、北と同じように、日蓮信者として、仏教思想を深く身にうけとめていた結果であろうか。

人種戦争としての“世界最終戦争”
 次に、石原は、最終戦争の内容について、
「今日のように陸海軍が存在している間は、最後の決戦戦争にはならないのです。それ動員だ、輸送だなどと生まぬるいことでは駄目です。……しかし、今の空軍でもだめです。……一番遠い太平洋をさしはさんで空軍による決戦が行われる時が、人類最後の一大決戦の時であります。……
 飛行機は無着陸で世界をぐるぐる廻る。しかも破壊兵器は最も新鋭なもの、例えば、きょう戦争になって次の朝、夜が明けてみると敵国の首府や主要都市は徹底的に破壊されている。そのかわり、大阪も東京も北京も上海も廃虚になっておりましょう。すべてが吹きとんでしまうでしょう」と書いている。
 そういう最終戦が、第一次大戦後、数十年以内にくると、石原は確信したのである。それは、一種の予言であった。彼は、「人類の三分の一か、二分の一ぐらい死んでしまわない」と地球上には、戦争はなくならないし、人類の三分一か二分の一を抹殺する戦争は必ずくると断言する。
 ここで見落としてならないことは、石原が、「世界最終戦に突入するのは、戦闘単位は個々人にうつり、個々人の能力を最大限に発揮できるときであり、米国が完全に西洋諸国の中心となり、東亜諸民族の団結が実現したときである」といったことである。彼は、人間一人一人が、政治的にも思想的にも独立と自立を達成し、その力を最大限に発揮するとともに、その最終戦争は人種戦争だという視点にたっていたということである。
 石原は、それほどに、東亜諸国への西欧諸国の重圧を感じていたし、それ故に、漢民族を支配していた清朝には、鋭い拒否を感じ、中国革命の勝利を心から喜んだのである。彼は人間間の不自由、不平等を絶対に否定したと同じく、民族間、国家間、人種間にも不自由と不平等は絶対にあってはならないと思ったのである。
 石原は、戦争とは、人間の、民族の、国家の、人種の自由と平等を求めるためにおこすものと考えたし、それが活人剣であると思うようになっていた。その点でも、人種間の戦争は決定的であると考えられたのである。
 このような戦争観に到達した石原の前に、大きく満州問題がおこってきた。それを、彼はどのように考え、どのように処理したのであろうか。

 

                 <日本の右翼 目次> 

 

   “侵略”と“解放”の間で

“満蒙進出”への視点
 大正十三年、帰国した石原は、再び、陸大の教官となり、学生に講義する必要上、「欧州古戦史」をまとめあげた。いうまでもなく、それは、彼のフリードリッヒ大王とナポレオンの研究をまとめたもので、その末尾に、「現在及び将来に於ける日本の国防」と題して、彼は強調する。
「世界大戦の襲来決して遠き未来の事にあらず。吾人は今より十分なる準備と覚悟を要するも同時に現状においては、その足許に注意を要す。而して現在の国防と世界大戦との間は決して無関係なものにあらずして、現今の国防に関する努力はやがて世界大戦の準備となるべし。
 しからば、現在日本は如何なる事情の下に、戦争の避くべからざるに至る恐ありや。勿論支那現在の不安その原因たるべし。我が国情は殆んど行詰り、人口糧食の重要問題皆解決の途なきが如し。唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認むる所なり、然るに満蒙問題の解決に対しては、支那軍閥は極力その妨害を試むるのみならず、列強の嫉視を招くを覚悟せざるべからざるのみならず、国内にも亦これを侵略的帝国主義として反対する一派あり。
 満蒙は漢民族の領土にあらずして、寧ろその関係我が国と密接なるものあり。民族自決を口にせんとするものは満蒙は満州及び蒙古人のものにして、満州蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことを認めざるべからず。現在の住民は漢民族を最大とするも、その経済的関係また支那本土に比し、我が国は遥かに密接なり。
 これら歴史的経済的関係を度外するも、日本の力によって、開発せられたる満蒙は日本の勢力による治安維持によりてのみ、その急激なる発達を続くるを得るなり。もし万一、我が勢力にして減退することあらんか、目下に於ける支那人唯一の安住地たる満州また支那本土と撰ぶなきに至るべし。しかも米英の前には、我が外交の力なきを観察せる支那人は今や事毎に我が国の施設を妨害せんとしつつあり。我が国正当なる既得権擁護のため、且は支那民衆のため、遂に断乎たる処置を強制せらるるの日あることを覚悟すべく、この決心は単に支那のみならず、欧米諸国をともに敵とするものと思わざるべからず」

見失われた精神
 更に、石原は、言葉をつづける。
「支那全体を観察せんか、永く武力を蔑視せる結果、漢民族より到底真の武力を編成し難き状況に於て主権の確立は全然これを望む能わず。
 彼等のやむを知らざる連年の戦争は吾等のいう戦争即ち武力の徹底せる運用にあらずして、消耗戦争の最も極端なる寧ろ一種の政争にすぎざるのみ。我等に於て、政党の争の終熄を予期し得ざるかぎり、支那の戦争また決してやむなきものといわざるべからず。
 かくの如き軍閥、学匪、政商等一部人種の利益のために、支那民衆は連続せる戦乱のため塗炭に苦しみ、良民また遂に土匪に悪化するに至らんとす。四億の民をこの苦境より救わんと欲せば、他の列強が進んで、支那の治安を維持する外絶対に策なし。即ち、国際管理か、某一国の支那領有は遂にきたらざるべからざる運命なり。単なる利害問題を超越して、吾等の遂に蹶起せざるべからざる日必ずしも遠しというべからず」
 この時の石原は、かつて、南部老人から懇切丁寧に、「中国人を軽視してはならない。韓国人を侮ってはいけない」とくりかえし、いわれたことを完全に忘却しきっていた。一年間の中国在住生活は、かえって、石原から、南部老人の見識を忘却するための役にたったようであり、かつて、中国革命万歳を三唱した姿勢はどこにもなかった。
 五・四運動が中国全土を席巻したのをその眼の前にみ、危険な地域にまで踏みこんだという彼は何をみていたのであろうか。
 要するに、石原は、中国人、韓国人を信頼し、その能力を発見することができなかったように、満州、蒙古人を信頼できず、その治安は日本の力によってのみ出来ると考えた。そればかりか、中国の内戦が、政争が新しい中国人を創造するための陣痛であるということを見抜くこともできなかった。
 人類の三分の一から二分の一を殺してしまうほどの残酷な戦争をへなければ、人類は本当に聡明にならないといいきった石原が、どうして、清朝の圧政に始まって、更に、西欧諸国の重圧という長い暗黒の中で、呻吟し、卑屈にさえなるしかなかった中国人を理解することができなかったのであろうか。
 しかも、ここには、理非曲直の明かでない日本、それ故に、日本にも革命が必要であるという視点が全く脱落している。子供心にも、父親の卑屈をやりきれないと思った石原なら、父親の卑屈を通じて、圧政の恐しさを知り、そのことから、中国人の今日も理解できた筈である。日本と日本人の革命を忘れたところから、中国人、韓国人、満州、蒙古人を正確に理解する能力と姿勢が石原から失われたのである。

危険な自覚か!?……“八紘一宇”の思想
 もちろん、石原が日本と日本人の現状に全く視点がいかなかったのではない。彼は、同じ、「現在及将来に於ける日本の国防」の中で、
「今や西欧思想甚しく国民の間に侵入し、“マルクス主義”は殆んど若き人々を征服せんとするが如き形勢なり。而も半面、日本民族固有の精神は深く民族の心底に潜在し、また一部真に日本国体の大精神にめざめつつあり。
 日本国体の大精神を了解せしむるは目下国家最大の大事業なり。而も国民をして徹底的にここに至らしむるは頗る難事なり。余は形勢黙々の裡に切迫しつつある支那問題を中心とする我が国の消耗戦争は、この大事業を完成せざるに先だちて勃発するに非ざるやをおそるるものなり。
 しかれども、また一方より考うれば、この戦争は遂に国民の奮起を促し、ために全国民の自覚思想の統一をきたすべきにあらざるか。即ち近くきたるべき消耗戦争により日本はまず国民的に日本国体の大精神に統一せしめ、かつ戦争により我が商工業に十分なる根底を養い、戦争により却て国家経済の急激なる進歩をきたし、以てきたるべき殲滅戦争たる世界大戦いわゆる“前代未聞の大斗争”を準備し、この最後的大決戦的戦争により遂に世界の強敵を屈伏して、日本国体の大精神を世界人類に徹底せしめ、天皇を中心とする平和の時代に入るものなるを確信して疑わざるものなり」と書いている。
 しかし、石原がここで問題にしているのは、日本の革命ではなく、また、理非曲直の通る日本の実現でもなく、日本国体の思想と精神に全国民がめざめることだけを問題にしているにすぎない。そして、石原のいう日本国体の思想と精神とは八紘一宇の思想と精神であり、それを世界人類に徹底させるという意味で、日本国民にめざめさせようとしたもので、「庶民志をとげ、人心をしてうまざらしむるを要す」というような国家をつくるということではなかった。
 それは、八紘一宇の思想と精神を世界人類に宣布する使命をもった日本と日本人ということであり、日本と日本人は、中国人より、韓国人、満州蒙古人より秀でているという自覚であった。

満州事変への道
 石原が関東軍の作戦主任参謀として、昭和三年十月、満州にのりこんだときは、大むね、こういう考え方をもっていた。それは、世界最終戦にそなえて、満州を中国よりきりはなして、日本の一環として、その政治力、経済力がおよぶ所にするということでもあった。
 その石原が着任したのは、丁度満州の実力者張作霖が、関東軍の高級参謀河本大作に殺されるという事件のおきた四ヵ月後である。作霖の死後、息子の学良が満州の実力者となったが、彼は父親の作霖以上に、反日的姿勢が強く、その暮には、中国の国民政府に合流し、その力で、満州における日本の勢力を抑えるという態度をしめした。石原は動乱の最中の満州にのりこんできたということになる。
 しかも、満州における排日運動は一段と強くなるとともに、中国自身の建設した鉄道によって、満鉄の利益は急速にへっていった。学良は満州にいる日本人の経済封鎖を考え、実行したのである。
 日本が日清間の条約をたてに抗議しても、中国は、昭和三年七月の不等条約廃棄の対外宣言を楯にとって、全くきこうとしない。そればかりか、日本が抗議すればする程、排日運動はたかまるばかりであった。
 その頃、石原は、「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」とそれにもとづく、「満蒙問題解決のための戦争計画大綱」に、鋭意とりくんでいた。
「一、満蒙問題の解決は日本の活くる唯一の道なり。
  1 国内の不安を除く為には対外進出によるを要す。
  2 満蒙の価値……満蒙の有する価値は偉大なるも日本人の多くに理解せられあらず。満蒙問題を解決し得ば支那本部の排日亦同時に終熄すべし。
  3 満蒙問題は正義のため、日本が進んで断行すべきものとす。
 二、満蒙問題解決の鍵は帝国陸軍之を握る。満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することにより始めて完全達成せらる。対支外交即対米外交なり。即ち前記目的を達成するために対米戦争の覚悟を要す。もし真に米国に対する能わずんば速に日本はその全武装を解くを有利とす。
 三、満蒙問題解決方針……対米戦争の準備ならば、直ぐに開戦を賭し、断乎として満蒙の政権を我が手に収む。満蒙の合理的開発により日本の景気は自然に恢復し、失業者また救済せらるべし」
 というのが、それである。
 これを読むと、石原の満蒙に対する考え方は完全に侵略主義的、帝国主義的であり、陸大教官時代にくらべて、その考えが非常にはっきりと出ている。八紘一宇の思想と精神を人類に普及し徹底させるということは、完全に、その侵略主義、帝国主義を糊塗するものでしかなくなっている。まして、「日本国内の不安を除くためには対外進出によるを要す」というにいたっては、かつて、日本と中国の革命を夢みた彼の情熱と姿勢は一体どこに消滅したかと問いたくなるほどである。
 しかも、「満蒙問題解決の鍵は陸軍がにぎっている」と明言した石原は、彼の考える解決にもっていくためには、軍の統帥権をたてに、がむしゃらに進めばよかった。それに都合のよいことは、陸軍きっての実行力をもつという板垣征四郎が河本の後任として赴任してきた。陸軍随一の智者といわれた石原と板垣のコンビが出来たところに、満州事変はおこり、満州国は建国したといえる。

 

                <日本の右翼 目次> 

 

   協和会の目ざすもの

民族自決の理念とは?
 しかし、石原の「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を貫く思想には、その後、変化が生じ、彼本来の革命的思想が徐々に、彼の中によみがえってきた。
 それは、満州青年連盟の小山真知、山口重次たちと交流し、更には、満鉄嘱託として、独自な思想活動をつづけていた橘撲を吸収したことによる彼の変化であったと考えられる。満州青年連盟というのは、昭和三年十一月、満州にいる青年有志がつくった会で、その宣言には、
「満蒙は、日支共存の地域にして、その文化をたかめ、富源を拓き、もって彼我相益し、両民族無窮の繁栄と東洋永遠の平和を確保することこそ、わが国家の一大使命なり。
 われらの先輩が薨天の犠牲を払い、永年の努力を傾倒し、満蒙の開発に努めたるは外来の暴力を排除して、中華民国の完全なる独立と自由の獲得に寄与貢献せんとする善隣の大義に外ならず」
 とあり、小山、山口たちはその中心メンバーであった。石原は、ある日、この山口から、彼の激しい情熱に支えられた満蒙開発の理想を耳にしたのである。
「私達は、治外法権も旅順大連租借地もみんな放棄して、日満共同の独立国をつくれと言っているのです。連盟の宣言では、中華民国の完全な独立に寄与せよといい、また決議では、民族の協和と独立国の建設を主張しています。日本政府の帝国主義と満州軍閥の腰ぬけ主義がなければ、私達の理想は必ず実現すると思っています。日本は政府も国民も、満州における権益だけを主張している。ばかばかしくてお話にもなりません。
 私達の考える民族協和とは、民族の偏見や差別をこえて、東洋道義に帰一し、和恵協同の社会をつくろうというのです。この民族協和、万邦協和という思想は、元来、中国の伝統思想です。この世界性、現代性を帯びた思想は、現在の満州に厳存しています。
 奉天軍閥に反対して、民間にいる人達は、いずれも、日本人と真の提携を望んでいます。事実、商売でつきあってみても、個人としての満州人は、日本人よりも、ずっと信義が厚く、いじけてもいない。奥地へいってみると、満漢両民族が百姓をしながら、実に仲よくやっている。日、満、漢の民族の平和な感情をぶちこわしているのは奉天軍閥と日本機関です」
 その言葉は、石原に反省を求めずにはおかなかった。ことに、権益のみを求めているという言葉は、胸にこたえた。これ以後、彼が小山、山口たち青年を大事にし、彼等と深く交わったことはいうまでもない。

橘撲の共同主義思想
 橘は、明治三十九年に中国にわたり、辛亥革命に接した後は、彼独自の方法で、中国再生の道を追求する生活を始めた。ことに、中国全土におよぶ調査を直接、自分の眼と足で始めるとともに、中国古典の研究をそれと平行させて進めていった。その結果、彼が得たものは、「中国社会の底に、自治能力をもった共同社会がある」ということであり、「その共同社会を支える共同主義こそ、ただに、これからの中国のみでなく、東亜民族から、世界人類にまでおよぶものでなければならない」ということであった。
 また、中国の古典を通して、橘は、「調和思想」を学びとり、それが、憎しみと怒りを基調とする階級闘争的革命でなく、資本家的地主的人々をも反省させ、変革していく指導原理であり、革命思想の基調にならなくてはならないといったのである。
 彼が大正十四年に書いた「支那研究」には、
「散漫な組織が緊密な組織とゆきあって武力的斗争を起すことになれば、その結果が比較的後者に有利であることは明かである。しかしある民族が武力斗争に不適当な政治組織しか持ち合わせないということは、必ずしもその民族が幼稚であることの証拠にならぬと思う」と書いて、中国人が幼稚でないことを強調した。
 石原が橘のこれらの思想に接したとき、南部老人の教えが強く思いだされた筈である。彼の、満州を独立させねばならないという考えは、彼等の思想に接することで、いよいよ確立していったが、それは、かつての彼が考えたように、日本のための満州、植民地国家としての満州の建設でなく、五族協和の理想国としての満州をつくりあげるというふうに変わっていった。むしろ、彼は、理想的な満州国を建国し、そこから、逆に、日本と中国の革命をなしとげようという気持にまでなっていたといってもよかろう。
 もちろん、それによって、橘のいった複合国家を東亜につくりあげ、世界最終戦にのぞもうとしたのである。革命家石原莞爾の誕生であった。そこに、断乎、満州事変をおこし、満州建国にもっていった彼の意図と姿勢があるし、何人もそれを阻むことが出来なかったということがある。
 そのことは、板垣、石原の動きを阻止しようとして、建川美次を始めとして、何人もの男が関東軍にのりこみながら、終に、どうすることも出来なかったことをみても明かである。しかも、板垣、石原は、時の勢いを察し、その上にのっかって、事をおこしたのである。
 その頃、「関東軍は独立しようとしている」というデマがとんだということであるが、板垣、石原達の決意のすさまじさから、自然におこったことであったかもしれない。石原自身、「日本政府があくまで、私を阻止しようとするなら、私は国籍を脱しても実行してみせる」といいきった。
 こうして、昭和六年九月十八日、満州事変は勃発した。

“五族共和”……満州国誕生のかげに
 石原は、九月二十五日に、于沖漢、袁元鏡たちを中心に、地方治安維新委員会を発足させ、それに、行政権、警察権を移した。後に、委員会は自治指導部と名をあらためたが、彼等は、
 一、満州に各民族を打って一丸とする独立国を建設する
 一、国体は共和国とする
 一、政権の主体は公選せる委員によって、右に合する人物を選定する。
 一、国号は“中和”と号す
という四大方針をきめて、民意調査会をつくって活動を開始した。
 始め、于沖漢をひきだそうとしたのは、関東軍の本庄軍司令官であったが、当時六十歳になる彼は全く、本庄を相手にしなかった。それでも、本庄はあきらめきれず、せめて、意見でもと尋ねた時、彼は、
「警察以外に軍隊をもたぬこと、民治、自治を中心にすること、政治の方針は古来より伝わる王道を以てする」等の意見をのべて、自分の意見がいれられるなら、協力してもいいと答えたのである。
 石原は始めて、于沖漢にあったとき、かつて山口から聞かされた意見をそのままのべた。
「五族は絶対に平等でなくてならない。それには、日本のもっている一切の権益を満州にかえす」という意見である。于沖漢は、それをきいて驚いた。果して、そんなことが出来るのかと。石原は、そのとき、きっばり、いいきった。
「あなたは、恐らく日本人を信じないでしょう。同時に、私も、日本人を信用していません。現在の日本人は、隣国に対して、ただ権益を主張する亡者です。私のこれからの仕事は、その亡者どもと戦うことです」と。
 于沖漢が満州建国のために、本気にとりくもうとしたのはこの時からである。于、袁たちが、「中和共和国」をつくろうとしたのに対し、張景恵、張海鵬たちの実力者は、清朝の廃帝、宣統帝を擁して、「明光帝国」をつくろうという動きを始めた。関東軍のなかにも、宣統帝かつぎ出しに暗躍するものも出てきた。
 袁、于はもちろん、先述した満州青年連盟の山口たちも宣統帝には、強く反対した。帝制がしかれ、帝国になってしまえば、民族協和、五族協和は画餅になる。その時、石原は、「諸君のような人たちがいるかぎり、絶対に、帝制はしかれまい」といった。だが、昭和七年三月、成立した満州国は、皇帝にこそならなかったが、溥儀が執政となり、「中和共和国」の出現とはならなかった。石原にも、関東軍を一本にまとめる力はなかったのである。
 そこで、山口たちは、于沖漢の息子静遠たちとともに、民族協和を目的とする団体を結成し、強力に思想運動を展開することになった。彼等が石原と密接な連絡をとったことはいうまでもない。同年七月、発令式をあげた協和会の宣言は、次のようなものであった。
「満蒙は古来東亜の天府と称せられ、土地広大にして住民また鮮なからず。もし、在住諸民にして資源開発に協力したらんには必ずやその文明は欧州にまさり、その富源は東洋に冠絶せるものありしならん。しかるに今日に至るまで文化なおいまだ興らず、富源なおいまだ啓けざるものは即ち過去において各民族協和を欠きたるがためなり。……
 今日、幸いに天与の機会をえて、新国家成立せり。これ実に三千万各民族の安危存在のつながるところなり。この時において、もし諸民族にして建国精神にもとづきて、王道主義に則り、協和に努力し、共同発展せば、農治産業の改革なり、資本主義の独占もなく、共産主義の横行もなく、三民主義の欺瞞もなく、従って人民の負担は軽減せられ、治安は維持せられ、幸福は増進せらる。産業はこれより興り、人民の生活はこれより富裕となる」

理想の瓦解……植民地化への急傾斜
 協和会に集まった青年たちは、文字通り、民族協和、王道楽土建設のために活動した。「満州国視察報告書」には、彼等の活動を、
「私は奉天協和会に総務料長、地方科長というような人々を訪ねたが、この歴々たる肩書ある当の主人公たるや二十六、七歳ぐらいに見えるいが栗頭の青年、上衣を脱ぎすて大童になって、時々電話の応待をしながら、滔々と満州建国の精神から協和会の使命をとくのであった。私は新興満州国を動かしているものはこれら青年の力であるとつくづく感じた。」と報告している。
 だが、まもなく、石原は、国際連盟臨時総会に出席するため、満州の地を去ることになった。そうなると、関東軍や満州国政府に決定的なにらみをきかせるものはいなくなる。そればかりか、協和会事務局次長であった山口とその仲間たちが追放され、かわりに、総務部長として、甘粕正彦がのりこんできた。甘粕は御承知のように、大杉栄たちを殺して、陸軍をやめた元軍人であるが、彼は、理想主義的青年を排除し、協和会を政府の中堅官僚でかため、満州国を日本の植民地化するのがねらいであった。
 ことに、東条英機が関東軍の参謀長になった頃より、民族協和の理想は全く崩れ去り、満州は完全に、日本からやってくる一旗組のくいものになったし、最初、日本の財閥、資本家が満州に入ることを反対していた関東軍も、満州を日本の植民地化することに、日本政府の政策がかわるとともに、積極的に、財閥の満州進出を歓迎するようになった。
 そうなると、石原の夢も山口・橘の理想もどこかに消える以外になかった。于沖漢との約束を果そうとしないまま、彼が満州を去ったということは、結局、彼が革命家でなかったということであり、満州建国にあたって、一時的に革命的行動をしたということであろう。

 

                  <日本の右翼 目次> 

 

   大東亜戦争と石原

絶望と自己矛盾の中で
 帰朝後、石原は、仙台の歩兵第四連隊長として着任したが、昭和十年八月には、参謀本部の作戦課長になり、翌十一年の秋、満州に出張を命じられた。四年の才月を経た満州を直接みて一篤した。
 その後の満州がうまくいっていないということは、うすうす知っていたが、こんなにもひどいものになっているとは思わなかった。彼はその足で、于沖漢(昭和十年死亡)の墓に詣で、「満州をこんなにして、申しわけありません」と深く頭をたれた。恐らく、その時、彼の頭の中に、「軍人をやめても、あの時、満州を去るべきではなかったのではないか。しかし、果して、自分に、これをくいとめる力があったであろうか」という考えがおこったと思われる。
 石原は、一応、植田謙吉関東軍軍司令官に、「満州国は独立国、関東軍の内政指導をやめて、満州人の政治的意志を尊重してほしい」と献言したが、勿論、それがきかれるわけもなかった。この頃、石原は、天皇への御進講録原本をつくるように命じられて、「欧州における戦争発達史」をまとめているが、彼はその中で、「世界平和の理想を実現する方法」と題して、
「世界の平和は全世界が一の理想により、統一せらるるに至り、初めて実現すべし。この状態が優秀民族若くは優秀国家の世界支配によりて実現せらるるや或は各民族、国家の理想が融合帰一するに至りて実現するや、之を予断し難しと雖も、その何れの場合も永年に亘る各民族、国家の不断真剣なる抗争が優勝劣敗切磋琢磨の窮極に達せるの結果に於て、此の如き境地に至るものにして、早急に口筆を以て、世界平和の大業を作為し得べきにあらず。各国家が理想とするところを内に完成し、外に宣布し」と書き、「戦争に対する皇国の責務」と題しては、
「現時、世界政策に邁進するものに、我が皇国、及び北米合衆国、並にソ連邦あり。……有史以来、五千年、未だ世界平和の曙光だに認むる能わざるは、各民族国家および権力者に真に世界人類に幸福をもたらさんとするの大理想を抱いて之を実現すべく努力せしものなく、その希望は単に自己の民族国家の利益欲望を満さんとする以上に出でざりしが故なり」
 と書いているが、そういう視点にたてば、満州国の実情をみた石原は、世界平和、人類の幸福のために戦う日本と日本人という看板を一応おろし、そういう世界的使命をになうにふさわしい日本と日本人をつくることが先決となったに違いない。
 しかし、日本と満州の現実に対するそのような発見は同時に、平和と幸福のための世界政策に邁進すると考えた米国、ソ連邦にも、それぞれ国内矛盾を大きくかかえているということにも通じていた。それが慧眼な石原には洞察できた筈である。
 ということは、どんな優秀民族、優秀国家でも、その国の世界支配によっては、理想の達成はむずかしく、結局、各民族、各国家の理想が融合帰一する以外に実現の見込みはないということを知ることであった。満州の現状に、それをやってのけた日本の現実に深い絶望感を味わいながら、その現実に眼をふさいで、彼の考えた世界最終戦にどこまでも執着し、日ソ戦、日米戦にそなえていった。そう思うことによって、石原は、わずかに、自分をなぐさめたのかもしれない。それに、日ソ戦、日米戦は、彼の思い、念願を無視して、どんどんと迫ってくると考えれば、そう思うしかなかったともいえる。

東条との対決……なぜ理想が挫折したのか?
 だから、石原は、昭和十二年に、日華事変がおこったとき、日本と中国との共倒れになると主張し、事件拡大に極力反対しつづけたのである。当時、事件拡大に反対したのは、石原であり、参謀次長多田駿、陸軍省の軍務課長柴山兼四郎であったが、それに対して、陸軍省の梅津美治郎次官、同軍事課長田中新一、参謀本部第三課長武藤章たちは、事件拡大派であった。
 石原達は、この論争に敗れ、石原自身は、事件のおきた二ヶ月後には、関東軍の参謀次長に左遷されてしまう。かって、時の勢いにのって、満州事変を強引におこした彼が、逆に、今度は留め男の役に廻わった。しかし、大勢は、事件拡大の方向にむかっていた。このムードは、石原自身がつくりだしたものであったといっても過言ではない。彼は彼自身に敗れたのである。
 再び、満州の土をふんだ石原は、満州国のたてなおしに取り組もうとしたが、その時は、彼のもとに集まってくるものは誰もいなかった。数年前に、満州を見捨てた彼が、今度は満州に見捨てられる番であった。彼の周囲には、憲兵までがチラチラする有様で、彼は、完全に孤立した状態におかれた。
 昭和十三年、東条が陸軍次官になるとともに、彼は、石原を、今度は、舞鶴要塞司令官という閑職においやり、つづいて、京都師団長にした。
 石原が、公開講演会で、
「敵は中国人でなくて、むしろ日本人である。野心と功名にかられて、東亜全局に戦争を拡大した東条英機と梅津美治郎こそ、日本の敵である」と演説したのは、この時である。やつあたりの感じがしないでもないが、おくればせながら、彼は、陸軍大臣東条に戦いをいどんだ。
 石原が、予備役になったのはいうまでもない。退役後の彼は、東亜連盟の運動に全力をそそぎこむが、それはもう、国民の中に、東条体制を批判する力をひきおこすものではなかった。日本の趨勢は、東条を頂点として、東亜連盟そのものをもまきこんで、真一文字に破滅にむかって直進していった。彼がもし、冷静且客観的に考えていたら、戦争中、すでに、戦後にいだいた思想、世界平和を平和的に実現する道を考えることは、それほど困難ではなかったろう。東条との対決に敗れた時、東条にひきいられる日本と日本人は、世界平和と人類の幸福のためにつきすすむものではないと考えることも容易に、できた筈である。
 そうすれば、戦後、石原の流れをひく人々が再軍備を論点として分かれることもなかった。彼に、世界最終戦を経ることなしに、人間が本当に覚醒することはないという確信があったとすれば、どうにもならなかったことであろうが。

 

               <日本の右翼 目次>

 

第四章 現代と右翼……影山正治の“維新”思想……

   求め続ける“維新”

現代につらぬく姿勢……安保と影山
 今日、日本における右翼を語り、右翼思想を究明しようとする時、影山正治を、更には、彼の主宰する大東塾を除くことはできない。たとえ、彼等が、今日、右翼といわれている人達の中心的存在でなく、また、主流を形成していなかったとしても、世の中の多くは、影山とその一統を右翼の中の正統派とみているし、思想的には全く相対立し、相いれない人達でも、彼に対しては敬意を払い、一目おいているのが実情である。それは、一言でいえば、彼とその一統が純粋すぎるほどに純粋であり、右翼の道統である維新を求めつづけている人達であり、それをその全存在で実現しようとしているからである。
 彼等は、資本家にたかることもなく、官僚によりかかることもなく、一貫して、彼等の道を歩みつづけている。人々が不気味を感じながら、敬意を払うのも当然である。
 昭和三十五年、当時、安保をめぐって、日本の世論が真二つに割れ、保守と革新が激突していた時、私は、「週刊新潮」の記者として、影山にインタビューしたことがある。その時、私の率直な意見に対して、彼が話してくれたことは、大要次のようなものであった。
「樺美智子さんの死に対しては、心から哀悼の言葉をのべたい。私は彼女こそ、日本のためになくなった愛国者だと思う。こういう人が私達右翼陣営から出なかったことを残念に思う。
 私は、安保条約に対しては、基本的に反対です。ことに、その不平等性に対しては断乎反対です。ただ、今日、安保条約を破棄できる状況にあるかどうかは別問題です。それに、岸の一方的やり方には非常に不満です。だから、毎日、何回となく電話をかけて、彼に辞職を勧告しました。意見書も出しました。
 お尋ねの右翼の現状は、君のいわれるように決して好ましい状態にあるとは考えていません。右翼の道統というより、維新者の道統といった方が正確なのですが、それはあくまで反財閥であり、反政党、反官僚です。そして、一君万民の世の中をつくるのが窮極の目標です。
 ただいえることは、せっかく私達の側に加わり、そういう国をつくりあげようとしている限り、不十分なところは、今後の活動、今後の行動のなかで、自己維新をしてもらうことです。自己維新を志さない者は、まだまだ、本当の維新者とは申せません。自己維新は一切に先行する重要な問題です」

“自己維新”への認識と志向
 影山の説くところは、全く堂々としていた。実は、私自身、大東亜戦争中、彼の維新思想に啓発され、その後、中国に出征していた彼のところに、学徒兵として出陣していた私は、日本陸軍の愚劣さを間接的に訴えたことがある。そして、影山から返事をもらったということから、憲兵隊の問題になり、中隊長からは国賊と罵倒され、一週間、演習を中止して、取調べられたこともある。そして、要注意人物として、時々、竹刀でなぐられるという軍隊生活をした経験があった。
 もちろん、私は、影山と昭和三十五年に初めて会ったのだが、必要でもなかったので、私の過去のことは語らなかった。唯、右翼とは、反財閥・反軍閥・反政党という意識が戦争中から今日まで、厳然としてあるにもかかわらず、自民党政府と癒着し、不平等条約を肯定する昭和三十五年当時の自称右翼には、強い疑問をいだかざるを得なかったので、私としては影山の意見をぜひ、きいてみたかったのである。
 私は改めて、「右翼の道統は生きているな」と思ったものである。約十年、経過した今日、影山とその一統はますます、健在である。最近、影山が、「日本と世界の転機」という論文の中で、
「このような、戦勝国アメリカ側の立場と必要と希望とを主体として、アメリカ側の圧倒的リードのもとに成立した日米安保条約が、その後、昭和三十五年六月に大幅に改訂されたとはいえ、条約そのものの基本的性格に多大に非自主的で半独立的な対米従属即ち不平等性を内包していることは明白な事実である。……
 昭和四十五年の時点においては、内外、主客あらゆる点から総合的に考案して、残念ながら、いまだ日米安保条約を解消し得る国家的諸条件の整って居らないことを率直に認め、心中深く他日を期しながら、これを確保すべきであると思う。
 しかし、その後においては、そのための条件整備に全力をあげて努力し、その進行と見合わせて、日米安保条約の速やかなる解消を期すべきであると信ずる」
と書いていることは、そのことを証明している。
 正統派右翼は、決して、自民党政府と一つでもないし、現体制を支持するものでもない。まして、暴力団でもない。そして、影山のいったように、今日、右翼陣営内部の、維新陣営内部の自己維新こそ、重要である。そのことを明かにするために、影山とその思想をここで究明しようと思う。
 同時に、昭和十年代の日本の政治状況、思想状況の中で、日本の右翼は、完全に、時の政府・軍閥と一つであったと考える大方の常識を、影山の思想と行動を通して、うち破りたかったのである。今日、自称右翼の中には、自民党政府と一体となり、資本家階級に迎合している人達もいると同じように、昭和十年代にも、そういう右翼はいたのである。
 それを混同するところには、明日の日本と世界に対して、正確な展望をもつことは出来ない。今日、必要なのは、正確な事実認識であり、そこからのみ始めて、維新のためのすぐれた戦略、戦術も生まれてこよう。

 

                  <日本の右翼 目次>

 

   日本主義文学への覚醒

培かわれた自主独立の思想
 影山は、明治四十三年六月、愛知県に生まれたが、その祖父も父親もともに神職であった。といっても、彼等はともに、初めは政治家であったり、司法官であったのが、後に、自ら択んで、神職になった人達である。だから、彼の家庭環境には、主体的自主的にものを考え、行動するという姿勢が伝統的にあった。
 いわゆる、親が神主・僧侶だからというので、何も考えずに漠然とその親の職をつぐというのでなく、自分で考え、自分で択ぶというのが彼の育った家の思想状況であった。そういう意味では、彼は非常に恵まれた家庭環境にあったということが出来るし、彼が早くから、思想的にめざめ、自分自身で考えていくという姿勢を身につけたのもごくあたりまえのことであった。
 こうして、影山は、他の中学生達が教師達のいうことや教科書に書いてあることを無批判に記憶することに血眼になり、ただ、一流の上級学校に入学することだけにわきめもふらない状態にあったとき、早くも、自分自身のための学習を始め、上級学校には何のために入学するのかを見定めていた。即ち、中学二年生の時、影山は、自分で、「青柳」のちに、「孤独」という同人雑誌をつくり始めたが、それには、「青柳詩会会規」として、
一、本会会員は、神国に生まれて神国に生くるが故に、神明を尊ぶべきこと、
一、本会会員は、詩歌によって精神修養の助けをなすこと、
一、本会会員は、人に対しては信と愛を以て交るべきこと、
一、趣味なきものは浅薄なり。趣味に貴賎あり。詩歌に趣味あるものは即ち涙あり。本会会員は大いに努むべきこと、
と記し、校友会雑誌には、「温故知新」と題して、
「古典に還れ、古事記、万葉に還れということは、徒らに保守的であれということではない。古典に還ることによって、よりまことに新たならんとするのである。より正しき進路、方向を自らの生命のうちに見出そうとするのである。……私は心から古典に還れと叫びたい。我等の栄ある祖先らが、日の本の信念に生きた尊い生活記録であり、聖書である古典に。そこからこそ我等の新日本の真の建設が出来上ることを確信する。……
 我等の祖先は、美しくも意味深き多くの神話をもっている。ギリシャの民はギリシャの神話に育まれた。ローマの民はローマの神話に育まれた。我等日本の民は日の本の神話に育まれなければならない。そこにこそ、うるわしき神の国日本の再生がある」
と書いている。
 こういう影山が、古典を学ぼうとして、国学院大学を志望したのは全く自然であった。彼は、その時のことを、後に「一つの戦史」の中に、次のように書いている。
「無産者の味方を以て任じたが、あくまで日本に立とうとした。日本的原理による無産者の解放というようなことを考えていた。資本家・地主を憎むこと甚しかったが、同時により甚しく祖国を愛した。資本主義は無産者の敵であることによってよりも、日本生命の毒害者であることによって倒されねばならぬと思った。漠然とではあるが、“維新”を考えていたのである。……早くから神道と国学をやろうと決意していた」

危機の時代の論理……日本主義への傾斜
 昭和四年、大学に入学した影山は、文芸雑誌「豊橋文学」を、かつての「青柳」「孤独」の同人と一緒に出すことにきめて活動を始め、翌年一月には、その創刊号を出し、その声明書には、
「私達は豊橋地方文壇の一部に存する退嬰的な、消極的な、デカダンな文学を弄ぶ所謂文学青年的な態度を断乎排撃する。そして、私達は、真剣で真面目で、強く明るい、生気に満ちた地方文壇の建設を理想としている」と書いた。
 他方、学内では、影山は、昭和四年十月に出た松永林教授の「日本主義の哲学」に、強い共鳴を感じていった。勿論、それには、入学と同時に、弁論部に入った彼が、新入部員歓迎の席上で述べた松永教授の話に強い感銘を受けていたからでもある。
 ことに、松永の、「日本こそ世界の真理であることを知った。日本を離れて我々の生命の存在しないことを自覚した。このことを理論づけることが日本主義の哲学の意味である。……我々は常に日本と共にあらねばならない。日本は今重大な危機に直面している。我々は日本を救わねばならない。それがまたアジアを救い、世界を救うことになる」という言葉は、既に、影山自身、中学時代から漠然と感じ、考えていたことと一致していた。だから、彼が松永に、彼自身の理論的指導者を見出し、「日本主義の哲学」が出ると、その本をむさぼるように、その心と身体で読んでいった。
 松永は、その序文に、
「余が今まで崇敬していた独逸の多くの偉大な哲学者は殆んどすべて、愛国的国民精神の衷情より筆をとった。……真にプラトンやカントを学ぶものは、ドイツ魂を讃美するよりも我が祖国をかえりみなくてはならぬ。著者は不敏不才ながらも忠実な哲学徒をもって自任するが故、日本主義の哲学に勇往した」
と書き、第一章 先哲の代表的日本観、第二章 歴史の見方、第三章 主義による世界の分類、第四章 精神主義の崩解、第五章 物質主義の興隆、第六章 唯物史観、第七章 日本の本質と日本主義 の各論を展開した。
 彼の説くところは、日本と日本人が、これまで、常に、外国文化を積極的にうけいれ、それを同化しながら、しかもそれをうのみにすることなく、自分自身にたちかえってきた過去の歴史からみて、将来、長生、大成するばかりでなく、今後、真にすぐれた文化を創造しうるということを説いたものである。

資本主義への懐疑
 影山が、そこから、多くのものを学びとったことはいうまでもない。だが、当時の彼が松永にあきたりないものを感じていたことも事実である。
 十月二十六日づけの彼の日記には、
「……半年間努力したマルクス主義の研究により、次第に現代の社会を批判的に見る目を養われた。みればみるほど、思えば思う程、矛盾だらけな世の中だ。どうしても資本主義を倒さなければ、日本と日本人を救うことは出来ないと思う。
 それだのに、今、先輩達のいっているところを静かに聞いていると、そのマルクス主義否定の根拠も単に感情からきているものが多くて、薄弱であるし、むしろ、資本主義そのものを肯定しようとさえしているようにみえる。
 自分は革新勢力は必ず田舎からのみ、無産者の中からのみ出てくることを信じている。無産の民こそが真に祖国を護らねばならない。資本家、地主は祖国を撹乱しているのだ。その罪は共産党と同じでないか。日本主義とは何であるか。それは無産の民を解放し、無名無産なれども、国思うまごころ篤き彼等を日本の栄光のための戦いの線上に動員し、君民一体昭和維新の一道に向わしむるものでなければならない」
とあり、更に、翌五年五月三十一日の日記には、
「我々の思想的立場は、あくまで日本の魂と歴史の上にある。共産主義者らは我々を資本家の御用分子だといい、資本主義者らは、我々を共産党と紙一重だという。我々の戦いは益々困難である。……
 松永先生は、自分が“日本主義者は何よりも鋭く資本主義と対立しなければならぬ”と主張することについて、あまり心よく思って居られぬようだ。松永先生は“資本家の中にも善い資本家と悪い資本家がいる。悪資本家は撃たねばならぬが善資本家は助長しなければならない。資本家をして善資本家ばかりにすることが日本主義の務めではないか。また、もし資本家がなければ、軍艦も飛行機も作れないではないか”こういうことを以て、資本主義容認の辞とされる。
 これは、資本主義の精神と機構に対する無知からくるものであるが、同時に、どこかまだ憂国慨世の思いにおいて燃えきっていないところがあるためではないだろうか。自分は最近中瀬氏等弁論部の先輩諸君にこの事を感ずる。真に日本を愛し、日本を憂うるものは、その本心が真面目で、真剣であればある程、資本主義を否定せずには居られない筈だ。個々の資本家の人間的善悪の問題ではない」とある。

思想は堕落したのか!?
 影山は、松永の主張する日本主義に共鳴を懐きながら、同時に、その限界を鋭く感じとり、その主張に不満を表明せずにはいられなかった。彼は、今後必死の力を傾けて、日本主義の理論体系をつくりあげなくてはならないと思った。松永が国学院大学の教授であるとともに、早稲田大学の教授として、当時、日本主義についての第一級の論客であったとすれば、なおさら、彼はその思いを深めたに違いない。
 しかも、影山は、コミュニズムが日本の魂と歴史を否定することによって日本の革命をなそうとしていることにおいて、絶対に、コミュニストになることは出来なかったのである。当時の彼が、コミュニズムとコミュニストをどのようにとらえていたかは、これまた、彼の日記にある程度でている。
「買ってから一度も手入れをしないので、泥だらけになって、からからになって、すりきれて、口をあいた靴をはいて、そこにプロレタリア的だと誇りを感じている男。買ってから始終手入れをし、いつも靴墨をくれて光らせ大切に大切にして、前の男が三足買うところを一足ですませる男。そして彼は光った靴をはいているためにプチブル的だと言われる。一体どちらが本当にプロレタリア的なんだ。……
 前の男のプロレタリア的はまさに似て非なるもの、後者の男の場合こそ、真にプロレタリア的のものが生活にまで深められているのではないか。今の左翼学生や一般左翼運動のインテリ指導者や、所謂プロレタリア作家と称する連中には、前の男のような奴が甚だ多いように思う。全く鼻もちならぬ。
 紅燈緑酒の間にマルクスを言い、レーニンを説く。あわれなるプロレタリアの味方どもよである。いわゆるブルジョア政党の連中と五十歩百歩ではないか」
「プロレタリア解放を叫んでいる連中の何とだらしないことだ。土地の新聞社に入って、盛んに共産主義を鼓吹している山下に会った。その浅薄さと不真面目さにあきれる。思想的にはマルキストの彼が、生活的には全くのダダイストであり、ニヒリストである。彼の仲間も多くそうらしい。生活そのものにまで深められない主義や思想など決してとるにたらないと自分は思うのだ。生活と一枚の思想」
「我々は無産の民の解放を念ずる。しかし我々は日本の労働者、農民の解放される道は絶対に、マルクス=レーニン主義にはないと信ずる。日本を否定するものに、何で日本の同胞が救えよう。我々は日本における無産者解放運動の真に正しき指導理論としての日本主義を確立しなければならない。過去の説明のみでなく、現前の社会悪を否定し、一新する生きた指導理論としての日本主義を確立しなければならない。
 我々は、ソ連の現実状を知る方法を殆んどもたない。しかし、現実のソビエート・ロシアが楽園でないことは事実らしい。何よりも農民の窮乏が甚だしいようだ。マルクシズムは都会と近代工業と工場労働者の上にたてられている。農民は愚なる同伴者としてしかみられていない。一億三千万人農民の血涙の上に肥え太った三百万労働貴族の国家ソビエート・ロシア。何でこれが楽園であろう。
 我々には、どうしても“我等の祖国ロシアを守れ”と叫んでやまない共産主義者らの心情がわからない」
 影山は、コミュニストの浅薄さ、観念的で、非主体的非自主的なコミュニズムの理解のしかたにあきれたのである。こういううけとめ方が、コミュニストのその後の集団転向を生みだした第一の理由であるが、彼は、そういう態度に、嫌悪と軽蔑すら感じないではいられなかったのである。しかも、彼等は、日本の魂と歴史を深く学び、知ろうとしないで、日本の魂と歴史を安直に否定する。影山はそういう彼等の姿に、怒りすら感じたのである。その時、おそらく、影山の心の中には、中国かぶれであった日本人、次に、印度かぶれであった日本人を思いおこし、今日では、また、西欧思想といえば、無条件に、すばらしいという態度をとる知識階級に、強い反発を感じていたに違いない。

“明日の日本を戦いとれ”……日本革命の模索
 こうして、影山は、先輩の鈴木款を中心に、昭和四年末には、「学生運動革正連盟」をつくった。「学生運動内の妄動的左翼共産分子並に観念的国家主義(反動右翼)の排撃を期す」というところに、彼等のねらっているものがでている。ついで、昭和六年二月三日には、国学院大学の中に、「日本主義芸術研究会」結成準備委員会を、彼が中心となってつくるところまで成長した。その時、彼は、大学予科の二年生で、二十二歳。
 その檄文には、
「資本主義経済機構下における金融寡頭政治の手から祖国日本を奪還せよ。あらゆる輝やかしき日本の民族的使命はここからのみ、その展開性を持ち得るのだ。
 産業大権を天皇のみ手に!!
 祖国日本を日本民族大衆の手に!!
 全学生は建国祭へおしかけろ!!
 非日本的左右両翼に対して断然デモを決行せよ!!
 光輝ある我等の新日本万歳!!」
 とあった。それを裏づけるように、その当時、彼は「同志よ、明日の日本を戦いとれ」という論文に、次のように書いている。
「小作争議、工場ストライキの数が毎年加速度的に増加しつつある日本、金輸出再禁止の叫ばれつつある日本、失業者実に百万と称せられている日本、米がとれすぎて、しかも、食えないという悲惨な農村を有する日本。我々はまず何よりも先に現実の情勢下における祖国日本をみつめなければならない。理解は力であり、認識は武器だからである。……
 本年一月十一日より実施された金解禁なるものが、結局は国内資本家階級のための救済策であり、必然的にそれに伴う緊縮政策、産業合理化によって生活をおびやかされるものが我が国無産者大衆であることを知っている。……
 民政党が三菱財閥に、政友会が三井財閥にというように大資本王国にあやつられている日本政党政治なるものは、我々全国民のための政治である前に、資本家階級のための政治であることを思う時、我々は現在の資本主義機構の非民族性、非人道性を痛感せざる得ない。
 しからば、このような幾多の矛盾と罪状を内包している資本主義制度を非難し、これを改革しようとすることは、日本の国体そのものを非難し、変革しようとすることであろうか。……
 しかも、コミュニストらの思想の試験であり、彼らが常に“我等の祖国”と呼ぶところのソビエート・ロシアが、ゲ・ペ・ウ(秘密警察)の流血的弾圧政策と、スパイと暗殺と追放によるバリケード的秘密主義政治と支那に対する赤色帝国主義的攻勢等によって、今や完全にその馬脚をあらわしつつある。
 ここにおいて、我々は、より正しき、より強き明日の新興日本を建設するためには、一君万民の国体原理に立って、現在の資本主義制度を急速に改変し、日本主義的社会政策をもって、昭和維新を断行する以外にないと確信して疑わないものである」
 影山の場合、ソビエトの現実を批判することでコミュニズムを批判していることに、不十分さをみとめずにはいられないが、彼が、それによって、日本主義者影山として一人歩きを始めたことだけはたしかである。

 

                   <日本の右翼 目次>

 

   神兵隊事件と影山

血と情熱の行動者
「日本主義芸術研究会」が発足して、二ヶ月後に、国学院大学弁論部を中心に、「全国大日本主義同盟」が生まれ、更に、その二ヶ月後には、横断組織として、「日本学生連合会」が設立された。満州事変がおこったのが九月。更に、北・大川・橋本などの計画した十月事件が未発におわったのは十月。影山は、いよいよ、その若い血と情熱をたぎらせていった。
 昭和七年五月十五日、五・一五事件勃発。影山を、渋谷警察署の特高課員が、要注意人物として監視するようになり、彼が尾行つきで大学に通いだしたのは、その直後である。そして、彼が大日本生産党に入党したのが、六月十三日。
 影山は入党と同時に、生産党とその前衛組織である大日本青年同盟の常任中央委員になっている。
 大日本生産党というのは、内田良平、頭山満、吉田益三を中心に、昭和六年六月二十六日に結成された団体で、その政綱には、
 一、欽定憲法にしたがひ、君民一致の善政を徹底せしむること
 一、国体と国家の進運に適せざる制度法律の改廃を行い、政治機関を簡易化せしむること
 一、自給自足立国経済の基礎を確立すること
 をうたっていた。つづいて、十一月になると、「昭和維新は青年の手で」、「戦線統一は青年分子の統一より」をスローガンに、日本主義陣営、維新陣営の統一をめざして、「大同倶楽部」を結成。影山は十六人の世話人の中の一人であった。

影山の根底を支えるもの
 昭和八年五月から六月にかけて、影山は、「維新国防論」をまとめてあげている。それは、次の神兵隊事件に突入する直前で、彼が、遺稿のつもりで書いたもの。当時、彼は二十四歳であった。
 この中で、影山は、ポール・リシャルの「日本の児等に」という詩、
  独り自由を失わざりしアジア唯一の民!
  汝こそ、自由をアジアに与うべきものなれ
  曽つて他国に隷属せざりし世界の唯一の民!
  一切の世の隷属の民のために立つは汝の任なり
  曽つて滅びざりし唯一の民!
  一切の人類幸福の敵を亡ぼすは汝の使命なり
  新らしき科学と旧き智慧とヨーロッパの思想とアジアの精神とを自己のうちに統一せる唯一の民!
  此等二つの世界、来るべき世の此等両部を統合するは汝の任なり
  流血の跡なき宗教を持てる唯一の民!
  一切の神々を統一して、更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし
  建国以来一系の天皇、永遠にわたる一人の天皇を奉戴せる唯一の民!
  汝は地上の万国に向って、人皆一天の子にして、之を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教えんがために生れたり
  万国にすぐれて統一ある民!
  汝はきたるべき一切の統一に貢献せんがために生れ、また汝は戦士なれば、人類の平和を促さんがために生れたり
をひいて、
「この大使命の自覚なきところに日本無く、この大使命実現に努力精進せざるところに日本民族は存在しない。
 さらば、被圧迫十億万アジアを解放せよ。さらば、皇道を世界にしき、真の平和と正義とを確立し、以て、高天が原を地上に壮厳せよ」と強調した。
 なお、影山は、ポール・リシャルが、昭和三十一年に、
  曽つてアジアの強国たりし日本は今や更に偉大なる夢を抱く
  日本の蘇生は新しきアジアの輝やく心たらんためなり
  かくて再びアジアより世界の光、輝かん
 と歌い、昭和三十四年には、
  道徳的破産は最後に物質的終局をもたらす
  問題ははるかに拡がる。西欧はもはや自らを救うことは出来ない
  東洋、新アジアは覚醒した、人類救済のために
 と歌い、更に、昭和三十五年には、
「日本の神話にみえる宗教・政治・及び生活原理は実に美しいものであった。……古代日本には、真の民主主義が行われていた」と書いていると報告している。
 影山にしてみれば、これほどに日本と日本人を讃美している外国人がいるのに、日本人でありながら、その日本の歴史を省みないのは全く悲しいかぎりということになる。

“動”から“静”へ……獄中で育てた思想
 神兵隊事件というのは、大日本生産党の鈴木善一、愛国勤労党の天野辰夫を中心に、安田銕之助陸軍中佐、山口三郎海軍中佐たちが参加したもの。はじめ、3600名を動員し、首相や重臣を襲撃して、維新政権を樹立しようとしたもので、影山は他の国大生とともに参加した。しかし、事件は未然に発覚し、十一日未明に、他の者と一緒に検挙されている。
 影山が書いたという軍律には、
 一、隊員は、一切を君国に捧げ、血盟を固うし、以て綱領実現のため、挺身維新の事に従うべし
 一、隊員は、国士たるの実を明確にし、沈着果断、命令に服従し、秘密を厳守し、いやしくも卑怯なる振舞を許さず
 一、隊員にして軍律を犯せるものは斬罪に処す
  と書かれていた。
 影山が豊多摩刑務所から出所したのは、昭和十年十一月二十日、検挙以来二年五ヶ月つかまっていた。その二年半の獄中生活のことを、彼自身、次のように語っている。
「この時の獄中生活が僕の一生の上に、前期と後期とを分つような一つの大きな一線となった。それまでは、もっぱら遠心的動的に外に向い、外に発することのみに急で、とかく足が大地につかず、つまさき立って、いつも駈け足をしているような状況であった僕が、始めて求心的静的にしみじみと我が生命の内に磨き、内に掘り下げ、どっしりと肚を定め、腰を据え、足を大地につけて、もっぱら根をつちかい、本をたてることに集中する機縁を与えられたのである。
 このことは、僕の人間・精神の形成の上においていえることであるとともに、したがって、また、その故にこそ、僕の文学及び文学運動の形成の上においてもいえることであると思う。この間において、僕の文学の根柢は、新国学を志向する歌道の上に不動に定められていった。この意味において、刑務所は僕にとって、大学以上の大学、塾以上の塾、道場以上の道場であった」

対決と理解……魂の触れ合い
 影山にとって、二年半の獄中生活が如何に貴重で、重要であったかは、この言葉によってもよく、わかるが、その事実を証明するようなことがいくつか報告されている。
 その一つは、父親との徹底的な対決である。影山の父が司法官生活から、後に、神職の道を択んだ人であることは既に述べたが、その父は、獄中の影山にむかって、書きおくった。
「特に、予が死力を堵し、永年穏健なる正道を以て尽しても、理想や熱心だけでは済度の出来ない迄に腐敗しきった今日の現状は、非常手段の犠牲も一方法と認めぬでもないが、そのことに出づる間の筋道が、真の日本精神に叶って居らなくては困る。命がけだが、真の日本精神でも日本魂でもない。……
 此の際、監獄で、大いに反省熟慮して、生命はおしまぬ其の魂で、父の正道に洗礼をうけ、いずれ偉大なる正しきお役に立ち、今回の大罪を償うべく、大いに覚醒すべきことを念願してやまぬ訳である」と。その時の彼の心中は、息子をいかっている。
 つづいて、
「実地に教導に当ってみると実に社会良心の腐敗堕落は意想外の甚だしきものがあり、特に大御心を執行する処の官公吏やまた国家社会に重大なる責任を有する地位あり身分あり莫大なる資産を有する上流社会、支配階級が利己一点張りで、全く国家観念も道徳も失せはてて言語道断なるをしみじみ体験するにつれて、五・一五事件や忰等の神兵隊事件の連中に、無理もないもっともだという感じと同情がおきざるを得なくなってきた」と書いたときには、その息子を積極的に理解しようとする姿勢がでている。
 おそらく、この間、獄中にいる息子を思い、その父親は、息子を理解しようと懸命になったと考えられる。そして、ついに、親と息子は、その関係を離れて、一人の日本人として、一人の人間として、深く心をふれあわせるところにまで到達していく。
「父の心も教も道も弁えないで、血気にはやり、認識不足で、馬鹿な事をと、不忠不孝を責めたが……彼の当時の心中がありありと察しられ、国家のために父の要求する魂そのままで、我が子ながらも嘉賞に堪えない。腐った根性や意気地のない奴ばかりの世の中に、父の好きな武士道根性、日本魂の一端を示した訳で、親子の間の私情の愛ではない。憂国慨世の父の奥底の天下の愛が獄中の彼の頭上に伸びゆくのを覚える」
 これらのものを読む影山がどんなに、心をたかぶらせ、また、満足していったことか。

つらぬく“いのち”の哲学
 次は、影山の友人神谷英三の「影山正治君の追憶」という文章を通じて、彼が非常に内省的になったことである。神谷は書く、
「たとえ、個人的に君に好意を持たぬにもせよ、理論的に乃至実践的に現代的愛国運動に関心した程の者で、たまたま、通路なきアポリヤに遭遇して、こんな時、影山がいたらと感じなかった人は、そんなにあるまいと思われる。ここに、君の常識的判断をこえた特異性があったようである……。
 若冠二十有余歳。人触るれば人を斬り、馬触るれば馬を斬る。蒼白の顔色、長く左右に切れた眼、秀でた顎骨、高き二段鼻、一文字に締った口許。所詮、シュプランガーの権力的、政治的類型をそのままに、断乎たる信条に基く独断専行、奇略縦横は、そぞろに維新史学徒として、長藩の東行高杉先生を彷彿せしむるに充分ではなかったのか」と。
 最後は、影山自身の内省から生まれた成長である。彼自身の語っているところをみてみよう。
「僕は壁に向って書を読み、物を考えた。壁は僕の魂の魂であったのかも解らない。だから、僕は自らの魂に直面しながら書を読み、物を考えていたのかもわからない。……
 壁は僕に自らを振りかえることを教えてくれた。そして、“静かにある” “黙して居ること”の尊さを教えてくれた。そして、僕は壁を透過して日本をみ、世界をみた。神をみた。僕は壁によって深められ、励まされ、そして慰められた」
「鉄とコンクリートの箱の中には“いのち”がない。ただ自分自身を除いては。恐らく獄中生活者ほど、“いのち”を求め、“いのち”を理解し、“いのち”を愛するものはそうはあるまい。だから、一本の草、一匹の虫、一羽の鳥にも、本当に温かく思いをよせる。……“むすび”ということの尊さ、深さ。我々の祖先達が原始の時代において、人と草と木と、そして虫と鳥と獣とを神の前に兄弟であるとして信仰していることの尊さ、深さ。……
 一本の草、一本の植木も生きている。僕と同じ“いのち”の持主だ。瞬間瞬間を僕と同じように息づいているのだ。僕は水をやる。水は露の玉となって、その花、その葉にやどる。そして、静かに光っている。僕はその前に坐って、いつまでもいつまでも“ものいわぬいのち”に心深く対している。僕の“いのち”は草の“いのち”に交う。僕の“いのち”は木の“いのち”に触れる。……僕は草と一緒に生きる」
 影山は、静かに、自分をふりかえり、自分自身になりきることを学び、生命の尊さを知った。生命のかけがえなさを知ったというのである。
 それが、影山の思想と行動に、祈りと詩と涙が基調となっている理由でもあろうか。

 

               <日本の右翼 目次>

 

   “みたみわれ”の思想

信ずるべき日本思想とは?
 影山の中に、早くからめざめた日本人への誇り、あるいは、日本古典にかえれと強調する雄叫びは、ある意味では、彼をとりまく家庭の思想環境からきたものといえるが、その後の彼は、日本の古典を、またそこから生まれたと思われる天皇への信仰と崇拝をどのようなものとして、主体的思想的にうけとめ発展させたのであろうか。
 昭和十五年に出した「古事記要講」には、次のような言葉がみえる。
「古事記は日本民族の宗教と哲学と文学と歴史である。古事記をよまずして、日本を語り、古事記を理解せずして皇道をいうは、“聖書”をよまずしてキリストを語り、“論語”を理解せずして孔子をいうが如きものである。……
 我々は、昭和維新を考える場合、その思想はあくまで純乎とし純なる古事記精神の上に立たねばならぬことを思う。それと共に徳川時代の国学に非常に欠けていた“剣の精神”“武の魂”を大いに振起し、最も熾烈な戦闘意識と現状打破精神を堅持した“新国学”を大いに起こさねばならぬと思う。我々が古事記に対する場合には、少くともこれだけの覚悟と決意をもっていなければならぬ。……
 昭和維新とは要するに“神話の復活”“神道の確立”“神国の完成”“神勅の実修”“神孫の自覚”に外ならない。……
 古典研究の目的は、古典の精神を今の世に実証せんためである。神話研究の理想は、神の道と神の国を今の世に実現せんがためである」
 ここに書かれていることは、至極まともである。古典には、上代人の夢と理想が情熱をもって書かれている。彼が他の個所で、いうように、現状維持のための古典研究、神話復活ほどナンセンスなことはない。
 ただ、影山が、そこに、“剣の精神”を読み、“武の魂”をより多く発見したのに対して、私は、“剣の精神”、“武の魂”と平行して、“ことむけやわす” の精神、“平和”の心を発見する。そして、影山が評価する明治維新においては、この“剣の精神”と“平和の精神”が同時平行に発現することによって生まれたと考えるのであるが。また、それこそが、獄中で、“いのち”の尊さを発見した影山の祈りと詩に通ずるのではあるまいか。

古典から何を学ぶか?
 次に、影山は、
「日本の古典を本当に理解しようと思ったら何よりも先づ、……“支那ごころ”や“西洋ごころ”を去って、ありのままの素直な“日本ごころ”に帰ることが必要である。日本の心と日本の眼でみなくては到底本当のことがわかるものではない」
 と書いている。
 これもまた、至極、あたりまえのことを書いている。だが、そこには誤解される面もある。ということは、彼は、一応、外国の思想とくにコミュニズムを徹底的に研究することをすすめているが、彼の日本観、日本人観、日本の思想と精神については、何か、日本の古典の中で、固定してしまっていると感じさせるものがあるということである。ことに、彼は、「古典の研究の上に、必要なことは、疑うことから出発せずに、信ずることから出発することである」というから、いよいよ、そう思われる。
 しかも、それが、“支那ごころ”“西洋ごころ”を去るということと結びついて考えられるときなお更そうなる。“支那ごころ”、“西洋ごころ”というのは、没主体的、没自主的に、支那思想に、西欧思想にいかれてしまっている心をさしていると思われるが、そして、そういう姿勢は、日本人のおちいりやすい姿勢であり、そこからは、日本の古典を正確に読みとれないことも事実である。
 だが、松永林が「自分をふりかえり、自分になりきれる日本人」といったように、松永のいう日本人は、中国思想・印度思想・更には、西洋思想を主体的、自主的に学び、吸収し、同化していったのである。
 いいかえれば、日本の古典の中にある思想と精神は、それらの思想と精神との格闘の中でこえふとり、発展したということである。それが、今日の逞しく、且、旺盛な日本思想であり、日本精神でもある。それが、また、影山の高く評価するポール・リシャルの日本と日本人観である筈だ。彼が、誰よりも高く買う西郷隆盛も中国思想を学び、自らのものにすることによって、明治維新の大業をなしたのである。更に、維新陣営の先輩である北一輝、大川周明にしても、社会主義への日本の道を模索し、中国思想、仏教思想によって、革命の道を達成しようとしたのである。
 その意味で、影山が、若き日、
「“階級闘争論”に立つマルキシズムよりも、僕は“相互扶助論”に立つアナーキズムにより深いものを覚える。それはクロポトキンがより東洋的、植物的、農民的である為かもわからない。僕はクロポトキンとのつながりにおいて老荘をも考えてみたいと思っている。
 しかし、日本でないという点ではマルクスもクロポトキンも同様だ。僕は両者をこえたところに光をみたい。そこに光源日本を仰ぎたいのだ」と書いていることを更めて考えてみる必要がありそうである。
 日本人でないということで、今日の日本人の思想の中に深く生きている老子・荘子を否定するのか。同様に、マルクスとクロポトキンを否定するのか。更には、マルクスとクロポトキンの両者をこえたものとは何であるかという色々の問いがおこってくる。
 影山が日本の古典に執することは非常によい。しかし、執することは、とらわれることとは違うし、まして、それにひきずりまわされることとは違う。とくに、現代人にとって、「疑うことをやめて信ずることから出発せよ」という言葉ほど無理な註文はない。むしろ、現代人は、より深く信じたいためにこそ、疑い、究明している。それが、現代の学問であり、また、それから、離れることの出来ないのが現代人というものではなかろうか。疑うための疑いにおわっている者は、まことに真理を求めて、学問しているといえない。

天皇への敬慕……“みたみわれ”の意識
 それはそれとして影山は、日本古典を深く信じ、深く信じたところから“みたみわれ”の意識が生れ、育っている。しかも、その意識はいよいよ、深まり、発展している。彼はそれを次のように歌っている。
  みたみわれおのれ驚く神代ゆも貫ぬき生きて来にしわれはや
  みたみわれおのれ恐むわがうちに天津日嗣は神づまります
  みたみわれおのれ死ぬともとこしへにいのちは生くるわが大君に
 まさに、影山の天皇を恋うる歌であり、惚れぬいた歌といえよう。北一輝によれば、天皇を恋い、惚れぬいた日本人は歴史上、ほんの一にぎりということになるが、彼は、その数少い日本人の一人である。
 また、それ故に、
一、我等は皇道による皇国維新を期す
一、我等は皇道による亜細亜維新を期す
一、我等は皇道による世界維新を期す
 とたからかに、内外にむかって宣言し、それを行ずることができたのである。

 

                 <日本の右翼 目次>

 

   東条体制との対決

厳しい自省の精神
 昭和十一年、維新寮を出発させ、それによって、地味で着実な活動をすすめてきた影山は、昭和十三年三月、「イタリー使節を迎えて悲涙エチオピアを思う」という文書を配布した。
 それは、昭和十年来、エチオピアを侵略するイタリーの動きに対して、エチオピアへの激励、イタリーヘの抗議などを積極的につづけてきたいわゆる維新陣営が、昭和十三年には、今度は、イタリー特派国民使節の来日を故に、それを歓迎しようとする維新陣営の非道義的事大主義的態度を影山が怒って配布したものである。
「ベニト・ムッソリーニが何と弁明し、呼号しようとも、イタリーの残虐きわまりなきエチオピア侵略の罪業は覆うべくもない。……
 皇道、日本主義を以てファシズムと混同するは断じて許すべからず。日本主義はファッシズムに非ず。日本は全有色人種に対し、絶対の信義をもたざるべからず。日本は全世界に真の道義を確立するの使命と光栄を有す。日本は何のためにパリー平和会議において、“人種平等案”を提出したるかを反省せざるべからず。
 しかるに、昨日はエチオピアを支援し、今日は満州国承認と引換にイタリーのエチオピア侵略を承認す。いづこに皇国日本の信義ありや。いづこに神国日本の道義ありや。……
 この態度こそ、全有色人種をして、今次支那事変を以て侵略戦争なりと誤認せしめつつあるものなり。日本は第二のイギリス、第二のイタリーたらんとするにあらずや。これ彼らの等しく抱く真実の懐疑にして恐怖なり。……
 宜しくまずムッソリーニをして反省せしむべし。宜しくまず国内の支配階級を覚醒せしむべし。宜しくまず維新陣営それ自体を粛正自戒せしむべし」
 ここには、影山の維新陣営の粛正を念ずる精神が脈々と流れているし、それは今日にまで続いている姿勢である。

中国革命への期待
 昭和十四年四月には、影山は、維新寮を発展させて、大東塾をつくる。そして、機関紙第一号には、彼の論文「我等の覚悟」と題して、
「現状の日本を支配しつつある覇道侵略的資本主義勢力をして恣意のままに大陸に侵入せしめたならば、直ちに聖戦の意義を失い、及ぼしては東洋民族千年の大患を招かんこと、火をみるよりもあきらかである。……
 日本自身が清められないで、どうして、満、支大陸を全アジアを清めることが出来よう」が載っている。
 ここには、先の「イタリー使節を迎えて悲涙エチオピアを思う」に書いた、「全有色人種をして、今次支那事変を以て侵略戦争なりと誤認せしめつつあるものなり」という言葉とともに、影山が日中戦争をどうみたかについて、一寸理解にくるしむものがある。ことに、覇道的侵略的資本主義勢力が日本を支配し、その連中がおこしたのが日中戦争である。だが、影山はそれを倒さなくては、聖戦でないと強調している。その意味では、日中戦争を聖戦にしなくてはならないと希望していたのではないか。それ故に、国内維新に邁進しようと思っていたのではないか。
 その年の八月から九月にかけての中国旅行の後、影山が、「日支を結ぶもの」の中で、
「今の支那において、松陰の如く、南州の如く、国臣の如く、晋作の如く、真に国を憂い、民族を思っているものは誰であるか。僕はそれを汪兆銘だとはいえない。蒋介石だともいわない。恐らくそれは、現に日本と最も苦難な流血の戦いを真の勇気と決意を以て戦いつつある支那の青年将校と学生らのうちにあるであろう。日本はかかる至誠を生かし、かかる精神と結ばなければならない。……
 アジアをおこすものは、日本と支那の結びの力である。ドイツでもなければ、イタリーでもない。いわんや英・米・ソ・仏ではない。支那の青年が真剣で勇敢で強烈であることは、アジアの明日にとって、まことに心頼もしい限りではないか」
 といっているのをみると、彼が日中戦争をきっかけとして、日本と中国にそれぞれの維新をおこすことを念願し、そうなる時においてのみ、日中戦争が聖戦であると考えていたことがよくわかる。影山にとって、日中戦争とは、日本と中国に維新を遂行すること以外になかった。
 だから、日本と組んでいる汪兆銘を蒋介石以下と考えたし、中国の青年による革命がおこることを期待したのである。影山が期待し、希望する新中国ではなかったかもしれないが、彼が中国に維新(革命)がおこることを期待したように、維新(革命)がおこったのである。新中国の革命は、日本の明治維新が、その国学と中国思想によって出来たように、中国の伝統思想と西洋思想の上に達成されたもの。しかも、明治維新の際の中国思想が借りものでなく、松陰や南州や国臣のものになりきっていたように、毛沢東や周恩来のなかで、その西洋思想は完全に中国化していた。土着的生命的な伝統思想と一体化していた西洋思想ということが出来る。また、それでなくては、明治維新も中国革命も実現せず成功しない。

軍閥体制との対決
 影山は、こうした聖戦観にたって、執拗に活動をつづけ、それを結晶させたのが、昭和十五年の七・五事件であった。さきの昭和八年の神兵隊事件の精神を継承し、実行せんとしたもので、襲撃目標は、内閣・重臣・財閥・政党・文化関係者の代表的人物だった。
 しかし、この事件も神兵隊事件同様未遂におわった。その「滅賊討奸の書」には、「我等の覚悟」と同じ趣旨が強調されていた。ただ、そこでは、「皇国維新が万行に先んず」と断言していたところに、影山の意図がより、はっきりでていた。拘置所では、病気の悪化のため、死線を彷徨するということを経験したが、それをもちなおした後は、影山は真直に、東条体制に対決していく。
 それは、昭和十六年十二月八日の大東亜戦争開始直後に、東条首相に、「対米英宣戦の大詔を拝し、挙国の同憂同志にうったう」という文書をつきつけたことに始まる。当時、日本中の殆んどが緒戦の戦果に、我を忘れてうかれていた時である。
 影山は強調した。
「もし、現内閣が尊皇攘夷の貫徹はただ尊皇討幕の上にのみ可能なる一大事を自覚せず、徒らに国民の眼を外にむけしめ、国内的には現状維持を策するが如きことあらば、必ず重大局面に立到り、聖戦遂行上非常の障害をまねくことは明白である」と。
 この時、影山は三十二歳。
 その結果、影山は、長谷川幸男とともに、反戦・反軍の文書をばらまいたとして、十二月二十日に東京警視庁に留置され、二十三日には、東京拘置所に移された。東条は厳罪になることを強く要望したかもしれないが、裁判所は、翌十七年三月二十七日、禁固三ヶ月、執行猶予二年の判決を下した。なお二人が出所したのは、一月二十三日であった。
 この後、影山は、塾生とともに、陸軍葬を批判し、ひきつづいて、海軍葬を批判する運動を展開するが、とくに、古賀元帥の海軍葬を実力を以て阻止しようとする挙にでた。それらにまさって、大きな事件であったのは、昭和十八年に、士官学校を舞台におきた一連の事件であった。

大東塾はどんな影響を与えたのか?
 大東塾と士官学校の生徒との交流は、昭和十七年の初夏頃であるらしいが、彼らは急速に、影山の思想を吸収していった。それは、彼らが、陸軍の現状を隊付生活を通して、直接に、知れば知る程、なんとかしなくてはならないということを発見したことによる。そうなると、国内維新を何にもまして先行させようとする影山の主張に強く共鳴を感じたとしても不思議ではない。
 当時、士官学校では、影山の書物は不許可に指定されていたが、不許可故に、彼等は、彼の書物をむさぼり読んだ。大東塾を訪れる者も次第にふえていった。彼等の考えは、次第に深化し、普及していった。
 影山によると、当時の士官学校生徒の気持は次のようなものであった。
 一、最近の日本軍では、形の上で、軍人勅諭をとなえながら、実質的には、いよいよそれから遠ざかり、……あらゆる部面にわたって末期的な動脈硬化症状を露呈している。
 一、上官と部下との関係が形式化し、相互の信頼感がない。
 一、将校・下士官・兵を通じて、要領が横行している。
 一、序列によって一切をきめるという軍のメカニズムが、若々しい弾力性を失わせている。
 一、命令者である幹部たちに自己修養がなく、増上慢におちいり、内実もないのにいばっている。
 一、まず、振武台の同期生会をこの線上に結集し、ついで、航空士官学校の同期生に働きかけて立ちあがらせ、さらに海軍兵学校の同期生に呼びかけ、同調させねばならぬ。
 彼らは、自ら勉強しながら、それを同級生に積極的に説く活動をはじめ、ついに、昭和十八年二月六日夜、第五十七期同期生会結成大会を開くところにまでこぎつけた。同期生だけの大会であったことはいうまでもない。委員の選出も生徒自身によってなされた。これは、まさに、士官学校始まって以来の大事件であり、革命であった。
 驚いた陸軍当局は、その中心的人物と見傲される七名の生徒を「重謹慎三十日に処するとともに、他方では、全陸軍に対して、「大東塾との関係を断絶し、爾今、彼等の書物をよませぬように」という通達を出した。八月のことである。
 影山たちに対しては、直接、軍の圧迫が強く出た。
 しかも、昭和十八年十二月には、大東塾生にきた徴用を拒否する挙に出た。その理由は、「現実の徴用が不都合きわまるものであるから、それを国体の本義にもとづいて、まさにあるべき本来の徴用の真姿にしてほしい。そうしたら、応ずる」というのである。
 勿論、徴用を拒否した大東塾の塾生五人は投獄されてしまう。
 このように、どこまでも東条体制と対決した影山とその一統の姿は、まことにあざやかなものであった。だから、私のように、影山から手紙をもらったというだけで国賊呼ばわりをされ、幹部候補生隊に入ってから、竹刀でなぐられることが何回となく、あったのであろう。
 影山が二等兵として、北支にいくことになったのは、これらの事件があった後、まもなくのことであった。軍隊に放りこんで、だまらせようという東条の意図であったのかもしれない。

 

                <日本の右翼 目次>

 

   右翼の中の“天皇

“理念としての天皇”と“現身としての天皇”
 影山は、終戦の時の様子を次のように書いている。
「終戦の大詔であることは間もなく判明した。しかし、これを以て、まさしく君側奸党の陰謀に発するものであり、決して、陛下の御真意にあらざるべしと解した僕は、まなじりを決して、連隊の青年将校間に徹底抗戦論を強調した。……たちまち、僕を中心にして結束をかため、徹底抗戦の方向に一致した。
 まず、わが連隊を中核として北支方面軍司令部を動かし、大規模な徹底抗戦体制を作ろうとした。……
 たまたま北支方面軍司令部からの布達をみた。去る二十二日、天皇陛下の御名代として、朝香宮鳩彦王殿下が支那派遣軍総司令部に飛来され、今次“終戦の大詔”がまぎれもない真実の陛下の大号令であり、そこに述べられているものは、ことごとく、これ陛下の御真意にほかならない旨が伝達され、且つ、その具体的裏付として八月十四日“御前会議”の内容が伝えられていた。ここで始めて、僕は、陛下の御声をじかに心耳に拝聴して愕然とし、“敗戦またこれ神慮”と悟得して、わずかに“生きる決意”がついた」
 ここで問題になるのは、どこに、「終戦の大詔」を天皇の真意と判断し、あるいは、天皇の真意でなく、君側の奸どもの陰謀であるという基準をおくかということである。それの区別は、日本古典を真剣によみ、透徹した心になったときに出来るのであろうか。しかし、影山ほどに、十数年間、全心全霊をかたむけて心読していた者にも、「終戦の大詔」をめぐって、大きな混乱が生ずる。そればかりか、彼の所属する連隊のみか、北支方面軍すらも徹底的抗戦にもっていこうとした。
 もしも、布達をみずに、また、連隊を蹶起させることに成功していたとすればどういうことになるのであろうか。
 かつて、二・二六事件の青年将校が天皇をその全存在で恋慕しながら、天皇の怒りの対象となり、天皇の名によって処刑された事実もある。
 このように考えるとき、天皇には、修理固成、八紘一宇の精神を継承し、体現する所の天皇と君側の奸達にリードされる天皇との二面性があるということになる。理念としての天皇と現身の天皇との二面性がある。そう考えることなしには、影山のいうように、「終戦の大詔」を疑うということはできない。
 かつて、吉田松陰が前原一誠にむかって、
「己の心に生ききることこそが忠である」といい、更には、刑死前に、「朝廷も我が藩もいらない。唯我が心のみが大事だ」といったことは、結局、理念としての天皇と現身としての天皇を区別し、判断できるものは、自分自身の判断であり、直感力であり、それに生きるしかないということであろうか。
 そのことを、最も如実に証明しているのが、大東塾十四人の八月二十五日の自決である。

自決!……つらぬき通す“志”
 牧野晴堆のように、
「三十有一年に亘り、父上の厚く太き御志に依り育てられ、長じていささか御奉皇の道に繋がり居候も、至誠至らず、祈念足らずして今日の大罪を負い申候。万事唯々申訳無之候。此上は、この現身を清く奉還申上げ、高天原に参上り、此由復奉仕り、真の神の子として無窮に仕え奉らん存念に候。神の子として内外の仇敵を滅し、以て、高天原を地上に荘厳せんと祈念候」と書いて、敗戦の責任を我が大罪とうけとる者。
 藤原仁のように、                             「最も神に背き、神を離れし全世界が神罰をうくることなく、皇国がまず第一にかく徹底せる神譴にあいたるは、皇国まず覚醒して、しかる後全世界始めて覚醒すべき道のままなる深き御神意と拝察し奉る。
 岩戸開き即ち維新なくして絶対に聖戦の完徹なし。維新未成にして、例え戦いかつことありともそは聖戦の真義を益々晦冥ならしめ、神国日本の真姿を最もくもらすものである。かかるが故に、先ず、維新すべきを今日迄絶叫しきたりしなるも、事ならず遂に今日に至りしなり」といって、維新の大業が今後にこそ達成されることを念じつつ自決した者。
 鬼山保のように、「もはや、吾々の命はつきました。此の上は皇国護持の霊となって、無窮にみたみの御奉皇をつづけ、一日も早く皇国の真の姿を実現申上げたいと存じます」というような遺書をのこしたものもいた。
 それは、各自が敗戦をそれぞれの形でうけとめ、それぞれの心で、自決という、最も重い行動をおこしたことを意味する。最後的には、自分の判断・自分の心に生きるしかないことを十四人の決死行は語っている。

“天皇”をどうとらえるべきか?
 理念としての天皇だけを自分の心の中に懐きつづけるか、反対に、現身の天皇だけをみていくか、あるいは、理念としての天皇と現身の天皇の両方を自分の中に生かすかによって、それぞれの天皇観が異ってくる。影山は前者であり、北一輝のみた不忠不孝であった日本人の大部分は現身の天皇だけをみたということになる。
 海軍少年兵であった渡辺清は、戦後、
「やがて、敗戦のショックから立ちなおったぼくがまず最初に考えたのは天皇のことだった。天皇の身の上のことだった。……ぼくの考えでは、アメリカ軍の手で処刑される前に潔く自決されるだろう。天皇ともあろう立派な方が、おめおめとアメリカ軍の手にかかるまで生きておられる筈がない。……二百万もの同胞をむざむざと犠牲にしてしまった上に、国が亡びるのだ。天皇は死をもっても、その責任を償おうとされるだろう。天皇はそういうお方だとぼくはかたく信じていた。しかし、ぼくのこの天皇に対する考えは、復員直後もののみごとにくつがえされたのである」と書き、天皇とマッカーサーの会見の写真をみたときのショックを書きつらねる。彼は、「これが生命と引きかえてもいいくらいに崇拝している天皇だったのか」と悲歎する。苦悩する。
 渡辺の場合は、始め、理念としての天皇だけをみ、後に、現身の天皇だけしかみえない苦悩を書いたものである。これが戦中・戦後を生きぬいてきた者の多くの姿ではなかろうか。
 影山は、この人達に対して、今後どのように答えようとするのであろうか。それが、今後の影山の課題であるともいえるのではなかろうか。

 

                 <日本の右翼 目次> 

 

第五章 未来と右翼……三島由紀夫の夢……

   革命者としての自決

戦後社会の否定
 三島由紀夫のあの衝激的な死というか、謎に満ちた自殺は一体何を意味したのであろうか。彼は瞬時にしてこの世を去った。あたかも、その死を暗示するかのように、「豊饒の海」四巻で、輪廻転生をモチーフにした作品を書きおわって死んだ。その輪廻転生は彼自身のために書き、彼自身の自殺を予告するように書いている。一見すると、彼自身の自殺のためには、そういう結論が必要であったかのようである。
 三島の尊敬してやまない吉田松陰のように、自己の死によって、弟子達に最後の教育をなすことによって弟子達を断々固として進む人間にしあげた故事にならって、人々を彼の夢、彼の理想にめざめさせようとしたのであろうか。自殺によって、不可能を可能にし、それによって彼自身神となり、彼の夢みた神の国を創ろうとする決意を人々にもたらそうとしたのであろうか。
 要するに、三島は戦後一貫して、西洋の合理化、近代化に反対し、それを無批判にまねようとする日本に反対してきた。いわゆる知識人を軽蔑し、憎悪し、肉体的存在である知性を渇望した。その結果、彼の到達したものは、神人が渾然と一体化した世界、自然と文明の対立のない神代の時代であった。そこにかえるためには、人間天皇もすべての人々も、ともに自己革新が必要であると考えた。それこそ、体制的知識人であろうと、反体制的知識人であろうと、肉体を喪失していることによって、すべて間違っている存在であった。また知識人の方向をむいている人々もみんな誤っていると思った。
 三島が神代の時代を志向し、今日を革命せんとしたことによって、西郷以来影山にいたる日本の右翼の道統が何をめざしていたか分明になったのである。彼等は、単に西洋化、合理化に反対し、日本精神を頑固に強調しつづけた偏狭固陋の者達でなく、西洋の近代主義、肉体の喪失した悟性だけの理性に反対し、感性、感情、肉体を尊ぶ神人未分化の状態をつくろうとしていたのである。
 近代主義という名の合理主義、科学主義が今日の人類の危機、地球の危機をもたらすことを知って、それに頑強に反対したのである。三島を俗称右翼の中に位置づけ、彼を葬り去ろうとする者達は、近代主義、科学主義、合理主義の毒を毒と気づかないで、それに染まっているのである。
 三島こそ、真の革命児であり、俗称右翼の一人ではない。革命の志向者左翼以上の革命者である。彼は日本の神代だけ、神話だけを望んだのではない。世界の神代を神話を復活させたいと願ったのである。こうして、三島によって、日本の右翼は普遍性、一般性を得たのである。日本政府のいう神話とは政治神話であり、たんに神話を利用しようとしたことである。神話そのものから程遠い。
 三島ほど、はっきりと西洋の近代主義、科学主義、合理主義を否定したものはいない。今日、日本は相もかわらず、その跡を追い、多くの国々もその跡を追っている。その悲惨さはひどい。
 三島はせっかく、そのことに気づきながら、その道を一人歩みつづけるという勇気と忍耐がなかった。そこにいわゆるエリートの弱さがある。彼もまた彼の憎んだ近代主義、合理主義の申し子の一人であった。それからはみだそうとしてもがいたが、抜け出すことはできなかったのである。このようにみてくると、彼の自殺も、エリートの弱さからきたものとみてよい。弱い彼が死んで神になり、多くの人々に勇気と決断をあたえようとしたのもむりはない。それしか、なす術がなかったとしても、その死は偉大である。俗人なら、だまっているだけであろう。
 三島はどのようにして、この世界に到達したのであろうか。そして日本の右翼に世界に開かれた道を提供したのであろうか。彼の文学、思想を彼に即してみてみよう。それを明らかにすることが三島を明らかにし、右翼の未来を輝やくものにすることになろう。

戦中派的思想の体現
 まず、三島の文学、思想について論じようとすれば、彼のそれが戦中派の中の最も多くの人達を代表しているということから書かなくてはならない。それは三島ほどに、深く考え強く感じてはいないにしろ、それなりに無意識のうちに考え感じているということである。いいかえれば全体としての戦中派世代は三島的であるということである。彼に対して共鳴するのも、逆に反発するのも、すべて、自分の中にある三島的なものに無意識のうちに共鳴するか反発しているのである。それほどに三島は戦中派的なのである。
 戦中派の一人山田宗睦は、三島を戦中派の中の例外的存在とみているが、それは皮相の見方で、先述のように三島こそすぐれて戦中派を代表しているのである。勿論、私がそのように思うのは、彼が、
「自分が一時代の一つの世代のように扱われたとき、このありえようがない誤解に対して私の愕きは大きかった」(私の文学)と書いているように、三島に対する常識的評価に従ったからではない。実際に、戦中派の心情は戦中戦後を通じ三島的であり、三島の描く作品の中に生きている。だからとて、彼を俗流の革命観に即して、非革命的だというのでないし、彼こそ真に革命的なのである。そのように、戦中派も革命的なのである。ただ、俗流革命観によれば非革命的で保守的にみえるのである。彼は決して非革命的でもなく、保守的でもない。ただ近代主義、科学主義、合理主義に毒されている者には非革命的にみえ、保守的にうつるだけである。何が真に革命的かを今日は考えなおしてみなくてはならない。物質的平等を主として与えようとするものは、真の革命より遠い。それはいつかは、人類の破滅にゆく。
 私はそのことを、戦中、戦後の三島を明らかにしてゆく中で、少しでも明らかにしたい。戦中派は革命を欲している。一つの革命でなく、多様な革命を。それがなければ地球の終末がおとずれることを予感している。彼らは悟性で革命の必要を強調もできないし、説明もできない。しかし、その身の全身で感じている、求めている。それが必要なのである。だが近代主義、科学主義、合理主義に毒されている知識人や疑似知識人にはそのことはわからない。同じように、自称左翼の人にもわからない。それこそ革命が必要なのである。

日本ロマン派への接近
 普通、戦争中の三島が日本ロマン派に接近し、作家としての三島はそこから生まれたということを、彼を論ずる者は一様にいう。しかもそのことを、さも大変なことのようにいう。中には、日本ロマン派と三島との距離だけで彼の文学、思想を論じようとする者さえいる。しかし、こういうことで、一個の自立した作家、思想家としての三島を論じうることができると考えているとしたら全くおかしなことである。
 ここには、人間と思想、とくに青年と思想の関係を考えてみようとする視点が全く欠けている。現に三島自身が、
「少年期と青年期の境のナルシズムは自分のために何でも利用する。鏡は大きければ大きいほどいい。二十歳の私は自分を何とでも夢想することができた」とか、
「人間の政治的立場が形づくられるには確固たる思想や深刻な人生経験ばかりでなく、ふとした偶然や行きがかりがかなり作用しているようにも感じられる。私の現在の政治的立場なども思えばいい加減なものであるが、それは自分で択んだ立場というよりも、いろんな偶然が働いて何かの力で自然にこうなってきたのかもしれない」(私の遍歴時代)
と書いているように、それこそ青年期の思想というものは数多くの思想の中から自分で一つを択んだものでなく、周囲にいる教師とか友人とか先輩とか父親とか、あるいは偶然よんだ書物に魅せられてそれにひきこまれるというのが普通である。勿論そこにある程度の好みとか感動とかが働いていることはたしかであるとしても、その他の思想については全く無知であるということでは変わりがない。大人になってもこのまま青年の時の延長に終わっている者が多い。だから一つの思想から他の思想に向かって転向するというようなことが容易におこりうるのである。
 三島の場合も日本ロマン派を択んだのでなく、学校の教師のなかにそういう人がいたという偶然により、それに接近したにすぎず、それを深く吸収し摂取したのである。それこそ彼は何でも利用したいという気持で日本ロマン派を利用しようとしたのである。問題は青年として感覚的、感情的にのめりこんだものをその後の追求と思索の中でいかにして深め自分の思想として確立したかということである。今一度、その思想を他の思想に比して択びとり、深めていこうとする契機があったかどうかということである。三島に即していうなら日本ロマン派をもう一度択びなおし、自己の思想としてどのように主体的に発展させたかということである。思想創造のいとなみとはそれ以外にはないし、ただ一回の人生を誠実に生き価値あらしめるにはそれ以外ない。人はすべて生き、価値ある人生でなくてはならないのである。
 日本ロマン派に単に盲従することも、また単に否定することもともに思想を創造し発展させるいとなみとは全く無関係なばかりでなく、それに連なる人々の生を意義なし価値なしといって、その生を軽んずる人達である。

終末観に基く美意識
 そういう点では、三島は日本ロマン派の中から何を継承し、どう発展させようとしたのであろうか。だがそれを述べるまえに、まず彼の戦中戦後の生活を述べてみたい。それがそのまま彼と日本ロマン派の関係を述べることになるから。
「兵隊にとられれば生きて帰ることは期待できなかった」(私の遍歴時代)
「二十年の短生涯の記念をのこしたいという思いが一層つのっていた」(同)
「私一人の生死が占いがたいばかりでなく、日本の明日の運命が占いがたい。その一時期は自分一個の終末観と時代と社会全部の終末観とが完全に適合一致した」(同)
という考えにたって、三島は自然に日本ロマン派に接近していったが、それは橋川文三が日本ロマン派にひかれたというのと同じである。
 橋川が日本ロマン派の中の“頽廃への情熱”“破滅へのイロニー”“亡びの意識”にひかれたように、三島は日本ロマン派の中にある“日本美”に魅いられたのである。一見、二人は相異なるようにみえて三島のそれは、“亡びの意識”に通ずる“終末観の美”でしかなかったのである。
 その意味では、三島は橋川と同じく、戦争の中に生きる青年であり、死を絶対的なものとしてうけとめる以外になかった青年の一人であった。だからこそ、保田与重郎の日本美が次第に、あの戦争勢力と癒着していった過程で、三島の日本美ははっきりと違っていた。
 即ち、三島が保田に、「謡曲の文体をどう思われるか」と質問したとき、保田から答らしい答がなかったことを非常に失望して、
「私は当時中世文学に凝り始めていて特に謡曲の絢爛たる文体は裡に末世の意識をこめた、ぎりぎりの言語による美的抵抗であって、こういう極度に人工的な豪華な言語の駆使はかならず絶望感の裏打ちを必要とするはずだからそれについて保田氏のロマン主義者らしい警抜な一言を期待したのである」(私の遍歴時代)
と書いていることをみても明らかである。
 保田が自然な流露としての美を求め、またそれ故に戦争勢力の中にのみまれていったのに対して、三島のそれには青年のままに死ぬことをよぎなくされた戦中派の悲しみと抵抗と絶望があったのである。終末観があったのである。それに裏打ちされた美でもあった。自分をむりに死においやるためには自分を納得させるだけの意味と価値が必要であったのである。それこそ、三島が日本ロマン派に求めたものは、
「反時代的精神の隠れ家、御先真暗な人生の隠れ家……しかもそこには何等英雄的なものはなく、時代の非適格者たる自分を是認するための最後の隠れ家」(私の文学)
としてのそれであったのである。

破滅のはじまり
 それが戦争中三島に作品「中世」を書かせたのである。彼にとっては、中世だけが絶望の美であり終末の美であったのみでなく、今日只今が絶望であり終末であった。絶望であり終末であり抵抗でなければならなかった。しかも彼はそのような生を結構たのしんでいた。死をおそれながらも陶酔していた。
「こういう日々に私が幸福だったことは多分確かである。就職の心配もなければ、試験の心配もなく、わずかながら食物も与えられ、未来に関して自分の責任の及ぶ範囲が皆無であるから生活的に幸福であったことはもちろん文学的にも幸福であった」(私の遍歴時代)
 戦中派の多くは、多かれ少なかれ、こういう感情にひたっていた。こういう生活を楽しんでいた。死というものと交換に、彼らは中国や東南アジアに無銭旅行をし、死の彼方にぎりぎりの男の友情を味わい、ある者は能力や識見とは関係なく専門学校や大学に学んだというだけで五、六十名の部下を持つ将校としての誇りと生活を満喫することを許されたのである。彼らは時代や戦争について主体的に考えることもなく、また自分の責任において発言し行動することもなく、すべてを天皇と操典にまかせて生活すればよかったのである。それに戦争中、戦前派が彼らを非常に大事に扱かってくれた。どんな青年も無能力あつかいし、馬鹿にすることはなかった。死を約束されたものへの唯一の贈り物であったかもしれないが、まことに恵まれていた。青春そのものは、その中にも多分にあったのである。
 わずかに軍隊の中で往復ビンタをくらい、演習の苦痛を味わったが、それとても群衆の中の一人として味わえばすむことであった。それはすぐになれたし、甘受することも出来た。死という厳しい事実もよほど不運の者がめぐりあうことだと言いきかせることによってなれたのである。
 戦中派の多くは戦争中死を代償としてあまやかされ、それ故に奴隷の幸福にひたっていたのである。自分で生きるのでなく、誰かによって生かされる幸福にひたっていたのである。奴隷の幸福に陶酔する以外に、他にどんな生き方もなかったではないかというのが彼らの意見であった。しかも、こういう幸福感は思想的に自立しようとしない人々にはまことに魅力的でさえあった。戦後もそのまま思想的に自立しようとしない戦中流は自然戦争中の生活の延長線上にあったし、それをなつかしむことにもなった。
 戦中派の一人林尹夫が、「この世代には自己の生をきりひらくというもっとも本質的な誠実さを欠いている」と書かずにはいられなかったのもそのためである。
 三島の戦争中の幸福も結局これ以外のものではなかった。普通の戦中派の一人にすぎなかったのである。だからこそ、戦後「不幸は終戦とともに突然に私をおそってきた」と書くことにもなったのである。不幸がおそったばかりでなく、とまどいもまた訪れたのである。
 三島は、
「戦争中はかえってひそかな個人的嗜好がゆるされたのに、戦後の社会はたちまち荒々しい思想と芸術理念の市場を再開し、社会が自らの体質に合わないものは片っ端から捨ててかえりみない時代になった」
「見るからに新時代が躍動していた。戦争には敗けたけれどももう爆弾の落ちる心配はなく、自由な言論と企業的成功とが一緒にきた。しかし私は時々呆然たる感想におそわれた。これが一体現実なのだろうか。きのうまでの自分の現実はどこへ行ってしまったのか。こんな平和なオフィスのながめは永久に見られまいとつい此の間まで思っていたのにわずか半年でこうなろうとは!」(私の遍歴時代)
と書いてその驚きを率直に表明している。
 当然、三島の戦後の放浪が始まる。自分が本当に生きている、現代に存在していると実感できるものを求めての生活があった。それは戦争中の貴方まかせの生活を否定して、自分の責任において自分の足でしっかりと起とうとしはじめたと言っていい。思想的に自立しようとしたのである。

創造へのあがき
 三島は彼の友人達が自殺者となり、発狂者となり、病死者になるのをひややかに凝視しながら、原子爆弾が落ちたことも冷然とながめ得る心境になりながらただ生きてゆく。それこそ生きていても仕様がないと思いつつ、ただ惰性だけで生きていった。ひどい無力感とすばらしい昂揚感が交互にやってくるような生活をくりかえしながら生きていた。
 その間、戦争中一生懸命戦争の合理化をやっていた大人たちが、今度は真反対の民主主義の旗を一心にふるのをみる。そのとき、三島はあらためて思想とは何か、人間とは何かについて考えないではいられなかった。西洋人の強調する近代主義、合理主義、科学主義に今迄それに無縁な人々が直ちに同調できるということはどういうことか考えずにはいられなかった。
 単に知性的なもの、理性的という名の悟性的なもの、それを尊ぶ知識人、文化人という者に三島の軽蔑と嫌悪がぬきがたい程強くなったのもその時からである。彼がそれ故にもう一度、日本ロマン派を択びなおしたといってもよいのは、知識人、文化人というものに更めて嫌悪を感じたためである。少なくとも日本ロマン派の人々は、いわゆる知識人、文化人のように知識、言論を観念的に弄ぶことをすることなく、その全存在で追求していた。
 またそれ故に、「戦後十五年間、私はたえず旧文学にもあきたらず、新文学にもあきたりない」という発言が出てくるのである。彼は常に新しい文学を求めつづける人であったのである。
 多くの戦中派は三島の如く思想的に自立しようとし、常に新しい文学を求めることはできなかったが、それなりにこのままではいけないことを予感していたし、何かの革命が必要なことを感じていた。その点で彼らの心理は三島と共通していた。
 自殺者や発狂者をだしたのは三島の周囲とは限らなかった。たいていの戦中派がせっかく生き残りながらその尊い生命を自ら断った友人や知人をもっている。そこに戦中流の絶望の深さがあり暗い運命があるのである。自殺した青年は社会に復帰できないままに、生きているという実感をもてないままにその生命を断ったのである。
 その理由の一つに、大人たちの軽々しい生き方、それを許す近代主義、合理主義という名の知性というものがあったのである。戦中派の中には、大人の唱える民主主義、社会主義に生理的な嫌悪を感じた者さえいる。要するに、この大人達を安易に許すものががまんならなかったのである。
 ことに占領軍であるアメリカ軍を先頭にして入ってくる民主主義への不満は大きかった。近代主義、合理主義、民主主義を唱えるアメリカ、イギリス、フランスはその国内では人種差別し、階級差別をし、はてはアジア諸民族を奴隷としてきたことを思えば、その民主主義をまともに信ずる方がおかしい。それに既にソ連軍までが満州で強姦、略奪をほしいままにしてきた事実も伝わっていた。
 それらへの不信と怒りを代表していたのが三島である。だからこそ、三島はその一作一作に自分のみでなく、戦中派の陥っている、「やけのやんぱちの、ニヒリスティックな耽美主義の根拠を徹底的に分析してみよう」とした。「内心の怪物を何とか征服しよう」とした。「生きねばならぬという思いをもとう」とした。しかもそれは「未来の希望もなく過去の喚起はすべて醜かった。私は何とかして自分及び自分の人生をまるごとに肯定してしまわねばならぬ」ものであった。
 しかもすでに、知性に戦前派知識人に絶望しきっていた三島のことである。さらにこのような戦前派知識人に同調する戦中派知識人にも同じように絶望していた彼である。それは左翼的知識人であろうと同じである。とすれば、三島が執拗に心情や感覚、肉体にくいさがっていったとしても当然であった。それは三島が自分の生活体験、思想体験を大事にしながら自分を確立していこうとする姿でもあった。
 このことを正確に理解しないで、三島が心情、感覚、肉体に固執するのを日本ロマン派への傾斜とか伝統主義へののめりこみとか批評するのはおかしい。いいかえれば、虚無や絶望、存在の欠乏感など戦中派のかかえている問題はそこに思想的問題をふくみながらも、すぐれて心情的なもの感覚的なもの肉体的なものである。この心情、感覚、肉体の虚脱、絶望を解決しない限り、戦中派には永遠に自己を確立することも自己の思想を確立することもできないのである。
 三島が「肉体的存在をもった知性」といったのも、心情、感覚、肉体の裏づけのない知性や知識人は信用できないという考えである。事実彼らは困難にぶつかれば転向し、口舌の徒にみちている。
 その結果、三島が「明確な、理智的な、明るい古典主義」を択んだにしろ、あらためて日本ロマン派を択びなおしたにしろ、もはや問題ではなく、むしろ当然の帰結でさえあった。
 いずれにしても、三島がぎりぎりの所で択びとった以上、彼が生き彼が存在している証拠をしめすには三島が択びとったものを彼なりに創造し発展させなくてはならない。というのは、三島自身による創造と発展がないかぎり彼がその全存在をあげて欲する所の生きているという実感、現代に存在しているという実感は決して彼のものにならないからである。まして、三島は凡庸の作家でもないし、ごまかしの上に安住する作家でもない。とすれば彼はどこまでも創造と発展の中に彼自身の存在を実感しようとするに違いない。彼の中では、新しい古典主義も日本ロマン派も創造するものでしかない。それが彼の戦後である。彼ほど自らの心情、感覚、肉体を大事にし、それらに忠実であろうとしたものはない。

 

                     <日本の右翼 目次> 

 

   破壊そして創造へ

日本ロマン派との訣別
「純文学には、作者が何か危険なものを扱っている、ふつうの者なら怖気をふるって手も出さないような、取り扱いのきわめて危険なものを作者が扱っている、という感じがなければならないと思います。つまり純文学の作者には、原子力を扱う研究所員のようなところの危険を案じながら、それを読むのです。小説の中にピストルやドスや機関銃があらわれても何十人の連続殺人事件がおこっても作者自身が何ら身の危険を冒して“危険物”を扱っていないという感じの作品は純文学ではないでしよう。
 その危険物とは美でもいいし、家庭の平和でもいい、ありきたりの情事であってもいいし、又殺人であってもいい。子猫の話でもいいし、碁将棋の話でもいい。しかし、第一条件はそれが危険なことである」(私の遍歴時代)
という言葉が三島にはあるが、戦後まもなく中村真一郎に会ったとき、「この人は危険な美をみとめない人だな。それでどうして能楽や新古今集がわかるのだろう」と思ったとも書いている。
 “危険なもの”“危険な美”が作者には必要というだけあって、三島は一貫して“危険なもの”を題材にして書き、最後にはその身まで葬った。「仮面の告白」「愛の渇き」「青の時代」「金閣寺」「美徳のよろめき」「鏡子の家」「豊饒の海」のどの作品をとってもそのことは言える。「仮面の告白」は男色を、「青の時代」は既成の価値に対する不信を、「金閣寺」では戦中派の不条理を、「美徳のよろめき」では官能の美を、そして「鏡子の家」では戦後青年の亡びゆく姿を、「豊饒の海」では輪廻転生の恐しさを描いている。
 さすが「“お前の使命は何か”ときかれたとき、“人類に死と破壊をもたらすこと”とでも答えることができたらどんなに愉快なことだろう」と書く三島である。しかも一作一作に現代に生きているという実感をたしかめつつ、存在しているという証拠を求めつつ書いていく。あたかも書くことによって生き、書くことによって存在を確かめようとしているかのように書いている。それは戦争中の三島が他によって生かされただけで本当には自分自身で生きたことがなく、そのままではとても戦後の社会に生きている証しのないことを全身で感じとった彼の戦後の社会に自分の生きる道を求めようとする、必死のあがきでもあった。
 文字通り三島にはかりそめの生はなかったといっていいし、真剣そのものであった。うわっつらの彼をみて、軽々しく論ずる態度は許されない。
 だからこそ、「仮面の告白」を書きおわったとき、「内心の怪物を何とか征服した」といい、「何としても生きねばならぬ」と書いたのである。これは戦争中の三島への訣別であり、戦争中に無批判的に追随していた日本ロマン派への訣別でもあった。これほどすさまじい自己との闘いはない。自己否定はない。

陶酔する感覚の追求
 三島は「仮面の告白」で今一度自らのひかれたもの、自分をまきこんだものを醒めた意識で追求しなおしてみたのである。自分の感覚を感覚のよってきたるところを徹底的に究明してみようとしたのである。それがたとえ、他人ならば秘密にしておきたいものでも、例えば“男色”でも“異常性欲”でも、それを分析してみる。書くことによって、見究めることによって感覚を克服しようとする。単なる感覚とは訣別しようとする。
「やけのやんぱちの、ニヒリスティツクな耽美の根拠を自分で徹底的に分析してみたい」という願いから、三島は好んで、魔的なもの、呪術的なもの、右翼的なものを題材にする。陶酔する感覚をとことん追求していく。
 そこには、「疑いようのない肉体的存在をもった知性しか認めず、そういうものしか欲しいとは思わなかった」、「大多数の人間は思想の内容などについぞ注意を払わなかった」と書くように、醒めた感覚、感覚に根ざした知性しか認めようとしない、三島の徹底した立場がある。単なる感覚に訣別するということは無批判的に陶酔する過剰な感覚に訣別し、醒めた感覚を一層強く求めるということである。そういう意味では、「仮面の告白」は単に感性的な人間でなく、感性に根ざした知的なものをもった人間を描いているし、そこに、この作品の文学史的意味がある。「鏡子の家」ではそれが最も端的に描かれている。三島は自分の分身ともいうべき四人の男を鏡子という女主人公を中心にえがいているが、おそらくこの四人の要素は戦後の三島が戦中からひきずってきたものであり、彼自身四人の中の誰にもなることのできたものであろう。
 三島はその作品の中で、
「四人は四人とも、言わず語らずのうちに感じていた。われわれは壁の前に立っている四人なんだと。それが時代の壁であるか、社会の壁であるかはわからない。いずれにしろ、彼らの少年期にはこんな壁はすっかり瓦解して明るい外光のうちにどこまでも瓦礫がつづいていたのである。日は瓦礫の地平線から昇りそこへ沈んだ。ガラス瓶のかけらをかがやかせる日の出はおちちらばった無数の断片に美を与えた。この世界が瓦礫と断片から成り立っていると信じられたあの無限に快活な無限に自由な少年期は消えてしまった。今ただ一つたしかなことは巨きな壁があり、その壁に鼻をつきつけて四人が立っていることである」
と書いている。たしかに、戦争中の戦中派が陥っていた自由と陶酔はすばらしいものであり、無限なものにみえたが、それは錯覚でしかなく、他人の中の自由と陶酔でしかなかった。だが四人はそれが忘れられない。戦後の社会の中でもう一度自分のものにしてみたいと思う。それは三島の一つの願いであり、戦中派の憧れでもあった。だが、その壁を前にして四人はどう生きたか。
 その一人は、
「自分の脇腹に流れる血をみたときに、収は一度もしっかりとわがものにしたことのなかった存在の確信に目ざめたのである。ここに彼の若々しい肉があり、それを傷つけずにはやまない他人の強烈な関心があり……“これこそは世界のうちにおける存在のまぎれもない感覚なのだ”と収はおもった」
という思いをいだいて自殺していく。
 次の人間は、
「峻吉はようやくはっきりと、自分が自分を売りつつあるのを感じた。芒のいっぱい生えた分譲地を売るように俺の未来をこいつに売り渡そう。俺は永遠に考えず永遠に目をさまさない。永遠に眠っている力の持主になる。“それこそは力の保証する本当の幸福の意味だ。”こんなことを漠然と感じた」
とつぶやきながら右翼に入る。
 もう一人は世界の崩壊が確実に来ることを信じつつ、一歩一歩立身出世の階段をのぼっていく。
 最後の男は水仙の花をきっかけにして徐々に現実に恢復していく。
「僕は僕と同じ世界にすみ、水仙と世界を同じくするあらゆるものに挨拶した。永らく僕が等閑にしていたが、僕が今や分ちがたく感じるそれらの同胞は水仙の後から続々とあらわれた。街路をゆく人たち、買物袋をさげた主婦、女学生、……それらが次から次と異常なみづみづしさを以てあらわれた。僕は一日一日現実を恢復した。僕はそれまで送っていた閉鎖的な生活をすっかりやめてしまった。仕事も少しづつ出来るようになり、僕はもっと広大な世界、未知の国々を見たいという、普通の青年らしい欲望のとりこになった」
と晴々した表情で語りながら平常人になっていく。
 主人公鏡子も戦後が生んだ悲惨で破滅的青年、千々に破れた鏡のような青年を愛することを卒業して平凡な日常的な妻の生活にかえっていく。
 ここで三島は唯一つの存在をたしかめようと自殺していく収、永遠に考えず永遠にさめないままに右翼入りする峻吉、世界の崩壊を信じつつ時代状況に流されていくしかない清一郎をそれぞれに批判はしていないが好ましい人生を歩んだ者として描いていない。ただ一人夏雄の生を、鏡子の生とともに好ましいものとして描いている。しかし夏雄の生も鏡子の生も日常的にみて、私達がそこにみる普通人とは異なるのである。感情を多分に生かした人間であり、感情をひからびさせたいわゆる知識人ではないのである。しかも三島は収に峻吉に清一郎にそれぞれ強くひかれるのである。その生き方こそもっとも青年らしい生き方ではないかと思うのである。そして彼等自身危険な生を誰の助力もなしに生きた所に共鳴をしている。本当の再生は社会復帰はそのような生にしかないのではないかという三島の本音もある。その過程で亡びるものは亡びればいいと言っているようでもある。

虚妄なる時代への不信
 これは戦後の連帯とか団結についての軽々しい風潮に対する三島の皮肉であり、軽々しい連帯や団結からは何も生まれないという三島の警告でもある。その点では、彼は人間の自己確立というものが如何に困難かを知悉していた。三島はこの作品で、戦中派の自己確立と社会復帰のむつかしさを描いたのだと言ってもいい。この困難にたえる戦中派だけが真に自己確立し、社会復帰できるのである。彼を例外的な戦中派と評価することがいかに誤りであるかは、このことでも明らかであろう。
 もし戦後の平和と民主主義に三島が無縁であるというなら彼は喜んでそんな平和と民主主義には無縁であるというにちがいない。というのは、彼は戦後の平和と民主主義が虚妄であることを先刻承知していたからである。彼は戦後の平和や民主主義のみならず、戦後の日本の歩みを認めることができない。なぜなら、それらが近代主義、合理主義の申し子であったばかりでなく、それらは死の衝動をうすめ、ごまかすことができたとしても、その衝動を解放し、根絶する力はないとみたからである。むしろそれらには死の衝動をねむらせ、破壊の衝動をうすめるものがあると判断する。とすれば、それらを否定し、それらを唱えている人々を否定しなくてはならなくなる。
「天下泰平の思想というものが若しでてきて力をもつとすれば今までのような平和主義でないことはたしかである。それは一種危険な魅惑をもっていなければならない。トインビーのいわゆる“危険のうちに生きるという賜物”を提供しなければならない。生命を捧げるに足るものを提示しなければならない。といって、かつての国家主義哲学は現代の世界では古い」
という三島はあくまでそれが何であるかを追求したのである。誤解されやすい反革命宣言をなしたのも当然である。
 それが何であるかを見究めるためにせっせと“危険なもの”を書きつづけたのである。多くの者が戦後の建設を言っている時三島は一貫して破壊の必要を説き、破壊をつづけてきたのである。どうして、彼のような人間を体制的といい、反革命的といえよう。革命ののちに彼がつくりあげようとするものを一度でも真剣に考えたことがあろうか。
 これは戦中派の中の多くの人達の漠然たる感じであり、思いでもあった。その点で三島はすぐれて戦中派的といえる。だが彼はそれに十分答えないままこの世を去った。あまりにも早くこの世を去った。それには彼なりの理由がある。そのことを以下で明らかにしたいと思う。

 

                  <日本の右翼 目次> 

 

   理想的世界への布石

右翼的なるもの
「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい。老年の知恵は永遠に迷蒙であり、青年の行動は永遠に透徹している。だから生きていればいるほど悪くなる」
とは三島の言葉であるが、それ故にか彼は好んで若くして死んだ人々を描き讃美する。
 新しい古典主義を模索し、日本ロマン派の発展を企図する三島としては、次第に日本の右翼を究明し、その行動と心情にひかれていく。そこに彼の求めていたものがあるかのように。こうしてできたのが作品「憂国」であり「英霊の声」である。
「憂国」の主人公は二・二六事件に参加せず、逆に明日は事件をおこした人々を討伐しなければならないと苦悶し進退きわまって妻と自殺する青年将校を描いているが、三島はその作品を次のように解説する。
「死処を択ぶことが同時に生の最上の喜びを選ぶことになる。このような稀の一夜こそ彼らの至福に他ならない。しかもそこには敗北の影すらなく夫婦の愛は浄化と陶酔の極に達し苦痛にみちた自刃はそのまま戦場における名誉の戦死と等しい。至誠につながる軍人の行為となる」(二・二六事件と私)と。
 たしかに、三島はその青年将校の死を讃美している。しかし同時に、その死を択んだ青年将校の判断については肯定できなかったのではないか。それは無批判的に陶酔する過剰な感覚と訣別し醒めた感覚を求めつづけた戦後の三島の立場をみれば明らかになるのでないか。というのは、その青年将校は軍人として一番大事な状況の誤認をやり、早まって死んだ男である。としても今日近代主義、合理主義に毒されて徒らに口舌の徒になりさがっている知識人に比し、まだしも果敢な死という行為を敢てした青年将校の行為に讃美をしたのであろう。三島は人間の行動の重さを知っていた。その知識にかける行動の切実さを知っていた。あるいは、これを書いた当時の三島としては彼自身これほどの果敢な行為にふみきれない自分に対する嫌悪の意味がふくまれていたのかもしれない。
 要するに、「憂国」はすぐれて思想的事件なのに、行動のみに魅せられて思想をぬきにして書いたために失敗した作品ということになる。それにしても行動の意味は大きい。単なる知識はそのまえで消えてなくなる。彼はこのことに気づいて、「英霊の声」を十二分に思想的意味をもたせて書いたということができる。
 三島は二・二六事件で蹶起し銃殺刑になった人々のことを「今なお心は怒りと憤りと耐えがたい慨きに引裂かれている。なぜならわれら裏切られた霊だからだ」という。さらに彼は「民の貧しさ民の苦しさを竜顔の前より遠ざけ、陛下を十重二十重にとりかこんでいるあれらの者たち、即ち奸臣佞臣、あるいは保身にだけ身をやつした者、不退転の決意をもたずに事に当った者、臆病者にしてそれと知らずに破局への道をひらいた者、あるいは冷血無残な陰謀家野心家が取り囲み奉った」状態を正すために蹶起したのに、かえって叛乱の汚名をきて殺されてしまったともいう。
 もし彼等が義軍をおこした時天皇が
「よし御苦労である。その方たちに心配をかけた。今より後は朕自ら政務をとり国の安泰を計るであろう」
と言ってくれれば彼らはそこで割腹し慟哭することもなかった。
 だが天皇は反対に、
「日本もロシヤのようになりましたね」といい、
「朕が股肱の臣を殺した青年将校を許せというのか。戒厳司令官をよんで、わが命を伝えよ。すみやかに事態を収拾せよ。もしこれ以上ためらわば朕自ら近衛師団をひきいて鎮圧に当るであろう」
といった。
 三島はこの事実をあげてこれをかぎりとし「天皇の軍隊はなくなり日本の大義は崩壊した」と書く。それというのも、天皇が神としてでなく人間として彼らを見捨てたからである。彼の考える文化天皇制とは、財閥・政党に利用され、それらと癒着する天皇を否定したところに成立すると考える。そんなものは現実に成立したことがない以上、あくまで彼の夢である。夢であるために切実に求める彼でもある。
 しかも大東亜戦争中戦中派や特攻隊は二・二六事件の人々のように、天皇を神と念じ、その神のために進んで死んでいったのである。だからこそ、三島は、
「兄神たち=二・二六事件の人々=はその死によって天皇の軍隊と軍人精神の死を体現した。われら=特攻隊員と戦中派=は死によって日本の滅亡と日本の精神の死を体現したのだ。兄神たちもわれらも一つのおそろしいむなしいみじんに砕ける大きな玻璃の終末を意味していた。われらが望んだ栄光のかわりに、われらは一の終末として記憶された。われらこそ暁、われらこそ曙光、われらこそ端緒であることを切望した」と書いたのである。
 またそれ故に、天皇に神であることを三島は求め、人間宣言の天皇を拒否した。それ以外に死んだ人々は永久に安住しないとみたのである。これほど痛切に思いきって、日本の挽歌をかなでたものはいない。鋭い天皇批判をしたものはいない。彼を体制的というものは如何なる理由によるのであろうか。こうして彼は一挙に右翼の道統にのめりこみ、右翼の思想を発展させようとしたのである。この断罪がない限り、真の再生は日本に訪れないと見究めた三島の祈りは切実である。

「唯一絶対」の否定
 文学座が一度上演をきめておりながら、思想上の理由で上演中止となった「喜びの琴」にしても、この「英霊の声」に通ずるものがある。三島の要約によると
「“喜びの琴”はある警察署の公安係の部屋を舞台とする三幕物で二十五人の警官が登場する。反共の信念にもえる若い警官が、その反共の信念を彼に吹きこんだもっとも信頼する上官であった巡査部長がじつは左翼政党の秘密党員であって、この物語の進行する未来の架空の時期に政党の過激派が策謀した列車転覆事件に一役かったのみか、自分自身も道具として利用されていたことを知り、悲嘆と絶望の底におちこむが、思想の絶対化を唯一のよりどころに生きてきた青年はすべての思想が相対化される地点の孤独にたえるために唯幻影の琴にすがりつく」という話である。
 この作品に躍起となった文学座もおかしいし、三島がこの作品で破産したというのもおかしい。彼は風刺劇として描いたといえる。この中には十分風刺をおりこんでいる。日本人の多くは思想やイデオロギーを信ずる者と無関心な者との両極端にわかれ、これまでの右翼も左翼も思想やイデオロギーを唯一絶対のものとしている者が非常に多い。三島はこの作品の中で、それを唯一絶対とする右翼も左翼も否定しているのである。そうとすれば「英霊の声」で戦前の日本を、「喜びの琴」で戦後の日本のあらゆる動きを否定しているようにみえる。
「絹と明察」にしても同じことで、日本的あまりに日本的な紡績工場の社長が亡んでいく姿を資本主義機構そのものの非情さを背景にして描いたものである。こうなると三島という作家兼思想家は日本の挽歌をかなでながらどこへいこうとしているのであろうか。単に彼が日本ロマン派の亜流でないことははっきりしたはずである。

未来へのかけ橋は築かれたか
 三島は「豊饒の海」で輪廻転生をモチーフにしたが、同時にそこで神人の渾然と一体になった世界、自然と文明の渾然と一体になった世界を見事に描いてみせた。
 それが三島の長い間求めた新しい古典主義であり、日本ロマン派を彼なりに発展させた姿であった。これまでは常に戦中派の先頭にたっていた彼であったが、「鏡子の家」「憂国」「英霊の声」「豊饒の海」で急速に日本の右翼にのめりこみ、右翼の人達のつくろうとした世界をはっきりとさし示し、若者の死を讃美する彼の心情に合うように彼自身その死を得ることによって、永世の死を彼自身のものとした。
 三島は右翼の人達のみでなく、全ての人のいくべき世界として、理想の世界を描いてみせ、その胸に戦中派をだきこもうとしたのである。戦中派一人一人を、その世界の中に生きるにふさわしい人間として育てるという至難の仕事をさけ、彼自身がその世界をつくる側に身をおいたのである。「鏡子の家」「憂国」「英霊の声」で右翼に魅入られて、右翼の発展のために努力した。「豊饒の海」の中で書いている飯沼の父親のような存在こそ、これまで右翼の本流であるかのように思われていた。しかし彼は飯沼の息子こそ、本当の右翼であり、純粋とみたし、彼のように死ぬことが本当であると考えた。死ぬことによって、その思想が行動し、その行動が純粋なままに終わると思ったのである。そうなると彼自身今迄書きに書いてきたものを本物であると証明するために死ぬ以外なくなってくる。
 三島はその死によって、彼自身は勿論彼の書いてきたもの全てを永生にし、本物にしたのである。それは普通の人のよくするところではない。見事というほかはない。たとえ、戦中派の先頭にたちつづけるという困難の仕事をさけたとしても至難の道をえらんだのである。

日本の右翼から世界の右翼へ
 三島は「豊饒の海」で日本の神話のみでなく、世界の神話を再興しようとした。それによって、これまで日本の右翼がどうして固陋にみえるほど西洋の近代主義、合理主義、科学主義に反対してきたかを明らかにしたのである。彼らは世界的規模で反対し、その一翼をになっていたにすぎないのである。
 世界各国に右翼といわれた人々がおり、その人達の生き方考え方はともすると保守的固陋的と思われているが、その実彼等は神話の世界を再建しようとしているにすぎない。
 今や三島によって、日本の右翼のみか、世界の右翼まで市民権を得たのである。飯沼の父親のような存在が右翼を誤解させるもとである。右翼を自称する者はまず自分に対して厳しくなければならない。
 三島は死んだが、右翼そのものは今後にこそはばたかねばならない。それが彼の死の意味である。ただ残念なことは森田という青年を道づれにしたことである。彼が生きていれば三島をのりこえて進んだと思う。三島の貴族趣味を克服して神話そのものとむきあうことができたはずである。

栄光の死
 三島は所詮学習院出であり、東大出である。彼は結局そこからはみでることはできなかった男である。エリートの宿命にしばられた男である。それが戦中派を見捨てて、最後にはただ一人で栄光の死を戦いとることにもなったのである。しかし世の中には凡人が多いし、生に未練たっぷりなのである。しかもその人達が生き方を求めてあがいているのである。ほんの一握りの生だけが尊いのではないことを彼にもっと知ってほしかった。
 三島は多くの点で誤解されたし、それは今もつづいている。その点で彼に誤解をまねくような点があったのを残念に思う。むしろ誤解をうけるような言論も多かったのである。それは彼の不徹底なところから出たことであろう。飯沼のような面もあったのである。右翼があくまで革命を求める一団であるということが本当に理解されるためには、それこそ森田のような青年が必要であったのである。その意味でも惜しい人間を殺したものである。

 

                <日本の右翼 目次>

 

終章 日本思想史における右翼思想……その位置づけと展望……

日本思想の“原点”とは何か?
 右翼者の思想と精神を考えようとする時、彼等が一様に、日本の思想と精神をいい、民族の歴史と伝統をいい、更には、修理固成と八紘一宇の精神をいうのをみるとき、どうしても、古事記・日本書紀の思想と精神にさかのぼって考えることが必要である。そこには、日本人の思考と想像力があるし、生き方が描かれていることによって、日本の思想と精神の、民族の歴史と伝統の原型があると思われるからである。
 古事記・日本書紀をよんで、まず第一に発見できることは、自然とその現象全部に神を認め、神として崇敬していることである。それは、石の神として「石土昆古神」を始めとして、「山の神」「風の神」「雷の神」であり、更には、「家屋を司どる神」としての「大屋昆古神」から、「田植を司どる神」「五穀を司どる神」が登場する。そればかりか、人間の行動やその結果にも、「波邇夜須昆古神」「邇都波能売神」のように、大便、小便から、風邪にいたるまで神を見出している。だから、鳥や獣などに神を認め、すべての人間に神を認めたとしても不思議ではい。
 このように、あらゆるものに神を認め、神として崇拝し、敬意を払うということは、あらゆるものの存在価値とその意義を認めたということである。
 しかも、人間をみる場合、「みとのまぐわい」とか「天の岩戸」「天の御柱」「ほと」というように、セックスや生殖を中心に考えている。当時は、まだ、人間の精神活動、文化活動が発展していなかったということもあるが、すべての人間を平等にみた結果であろう。
 これは、今日からみると、汎心論的考え方ということになるが、もっと重要なことは、日本に古くからある神道と一緒に、外国から移入してきた仏教、儒教、道教から、キリスト教、プラグマチズム、実存主義、共産主義をも同時にみとめるということであり、その存在価値を肯定するということに通ずる考え方であると考えられる。そういう考え方に発展する可能性をもっているといってもよかろう。
 勿論、それらの諸思想が思想として存在するということは、単に雑然と共存し、混在することでなく、そこに、競合があり、論争があって、それぞれの思想をきたえ、ふとらせ、発展させていくことであるが。
 たしかに、日本における汎神論的な考え方とは、人間も動物も自然もふくめて、宇宙的な規模で広く、深く、考えていくもので、人間だけを中心に考えて、動物や自然を人間に対立し、従属するものと考えるものではない。だから、支配的人間や優者を中心に、世の中は適者生存でいくというように考えないし、一つの宗教、一つの思想だけを認めて、他の人達、他の宗教・思想を異端視しない。
 だから、仏教も儒教も道教も、日本の思想風土中に発展したのである。そこに、ともすると、対立と統一の視点が欠けることによって、神・仏混合などという、統一、発展でなくて、一種の折衷的妥協的な解釈が生まれたということにもなる。
 しかし、宇宙的規模で、人間と動物と自然を、黒人と白人と黄人を、さらには、優者と劣者を、思想と宗教を考えるということは、まことにすばらしいことである。それ故に、建国の時には、「修理固成」や「八紘一宇」の思想と精神をかかげることができたであろうと、想像したし、更には、明治維新の時の宸翰「今般朝政の時にあたり、天下億兆一人もその所を得ざる時は、皆朕が罪なれば今日の事朕自身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、いにしえ、列祖の尽させ給いしあとをふみ、治績をすすめてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君たるところにそむかざるべし」という理想も出てきたのである。

生命”への讃美と感動
 第二は、生命に対する讃美、生命力に対する感動である。それは、あらゆるものに神を認め、崇拝したということと無関係ではなく、自然に内在する生命力、成長力を讃美し、感動するということである。天の神五神の中に、ウマシアシカビヒコジの神という名前の神を考えついたのも、自然の生命力、成長力を讃美し、想像したからである。
 そのことは同時に、生命を産むものに対する讃美と感動にもなっていった。即ち、天の神として、タカミムスビの神、カミムスビの神を想像し、その神々の生成力、形成力を尊崇しただけでなく、人間の生殖活動、生産活動にも驚異の眼をむけていくのである。そのために、女性の生殖器には、とくに強い憧憬をいだいた。
 だからこそ、生命あるもの、生命を産むものすべてに、人間のみでなく、動物にも植物にも神を認めたということになる。それはそのまま、生命を愛し、生命を尊ぶということであり、それが生命を愛し、生命の共存を願う思想に発展していく。今日的にいえば、人間は本来、平等であり、自由でなければならないという考えであり、人道主義的な考え方に発展するものである。
 しかも、この生命を讃美し、尊ぶという思想から、第三の思想がでてくる。それは、「ミソギバライ」の思想であり、「コトムケヤワス」の思想である。「ミソギバライ」というのは、それをするならば、どんなに穢れ、間違っていたとしても、清く、美しいものになれるという考え方である。反省し、改めるならば、どんな悪事をしていた者でも、もとどおりになるということである。明らかに、一度生れた生命を尊び、生命を可能なかぎり、共存させようというのである。もちろん、そのために、罪や責任を他人は勿論自分自身にも鋭く問わないという考えが日本人のどこかに育ってきたということもいえなくはないが、それ自身としてはすばらしい。
 また、「コトムケヤワス」というのは、武力や暴力によらないで、言論で説得し、平定していこうとする姿勢であり、思想である。だからとて、言論だけによる説得をすすめるということではなくて、常に、和、戦両方の方法をとりながらも、まず、言論による説得を理想とし、第一段階とし、どうしても駄目のとき、武力を用いるというものである。

“言論は力なり”……“コトムケヤワス”の精神
 明治維新は、この「コトムケヤワス」の精神と思想を継承し、和、戦両方の構えで実現したものといえる。だから、明治時代には、ペンは武器であり、言論は力であるという思想が盛んであった。しかし、次第に、言論は力を失い、無力であるというように変わってきた。それは、言論が人間の行動や感情、感覚から遊離し、一見、気のきいた、才走った観念的言論が横行しはじめたためである。そういう言論が人々を説得する力をもたないのも当然である。
「コトムケヤワス」の思想と精神は、人間に、社会に、国家に革命をおこしうる言論である。人間の生長力、発展力、社会の生成力、形成力を重んずるとともに、生命そのものを尊ぶところから、当然、生まれてきた思想である。
 明治維新の理論的指導者吉田松陰は、獄中で、「軍備なくとも仁政があれば大丈夫である。仁政の国を攻めてくるような国の支配者は、その国に仁政をしいていないから、国内は必ず動揺しよう」「上陸してきても、敵を少しも防ぐことはない。兵は農民、漁民の中に雑居せしめ、一見武備はないようにみせ、人々には思い思いに降伏させて生命を全うさせる。ただ、非常に乱暴する者がある時は、とらえて牢に入れ、敵将に諭させる。侵略者たちも、武備もないのに志強く、詞も強いとみれば、きっと反省する所があろう」「その間つとめて、その国の忠臣、義士を刺激して、彼等に、その国を正させるようにする。そうすれば最後には必ず勝利する」と考えた。彼は道義を基調にした平和国家を構想したのである。
 といっても、吉田は、常に平和国家、道義国家を強調したのではない。「この策は大決断、大堅忍の人でなければ、決してやりとげるこことはできない」といいきることによって、平和と道義のために死ぬ覚悟のいることを説き、武の精神、剣の精神を強調した。
 彼の果敢な行動がそのことを証明する。
 横井小楠もまた道義国家こそが日本のゆくべき道であるといった。
 古事記・日本書紀を通じて発見できる主なものは、以上の三点であろうかと思われる。ここに、日本と日本人の思想と精神の原点があるといっても過言ではないのではないか。そして、それが最も発揚されたのは明治維新であった。とすれば、右翼が日本思想、日本精神といい、民族の歴史と伝統といい、更には、明治維新の道統といって、非常に誇りとし、それを継承し、発展させようとするのも当然である。そのことは、世間で一般に、思われ、いわれるように、決して、独善でもないし、偏狭固陋でもない。
 だが、世の中の人々には、それが独善にみえ、偏狭固陋にうつるのは何故であろうか。その人々に、日本人の原点ともいえるこれらの思想と精神についての知識と関心が欠如していることもあろうが、ただ、それだけであろうか。

“伝統思想”の理想と現実
 西郷隆盛は、これら日本の伝統思想と中国の思想によって、幕藩体制を批判する眼をもち、明治維新をやってのけた。彼の中国思想は、日本の伝統思想を豊かにし、発展させた。それ故に、その当時の課題を適格にとらえることもできた。
 維新後の日本が依然として、政治的道義的に不十分であり、第二維新を必要とすると考えたのも、そのためであった。しかし、その西郷も横山安武が批判したように、一時は、日本のことだけを考える国家エゴイズムから韓国侵略を計画し、征韓論を主張した。それは、野蛮国とののしった西洋諸国の侵略主義、帝国主義のあとを追うものであった。そこには、平和と説得の精神もなく、また、韓国と韓国人を、韓国人の思想と精神を尊び、認めるという姿勢は全くない。
 それは、西郷のように、明治維新を中心的に指導した人も、日本の伝統思想と精神を完全に自分のものとし、その時点においての発展を企図するという点では、まことに不十分であったという証明であり、日本の伝統思想は理念として、理想としてあっても、現実の日本と日本人には、ほとんど手のとどかぬものであったということでもある。
 そこに、日本の伝統思想と精神を考える者がつねに、復古をいい、国内維新をいい、それも連続維新を強調する理由がある。彼等は、そこに、理想を夢を発見し、情熱をひきだすのである。
 西郷は、横山の死の批判を通して、再び、日本の思想と精神にたちかえったが、彼と行動を共にする人々の多くは必ずしもそうでなく、その多くは、日本の膨張、それにもとづく侵略だけを考えた。
 しかも、西郷自身、韓国と韓国人を通して、韓国人自らの発展を念じ、平和的説得によって、彼等の眼をさまさせようとしたとしても、それが、韓国人に対するおしつけであることにかわりはなかった。それが、西郷を独善家といわせる理由でもあろう。
 それに加えて、西郷のおこした西南戦争もその維新的性格が過少評価どころか無視されて、封建的遺習をのこした鹿児島武士団の頭領として、その利益を守るために、彼が行動したということのみが強調されることによって、彼を偏狭固陋と判断し、理解する。
 たしかに、西郷にそういう一面があったとしても、大事なことは、彼が彼なりに、常に、自己に忠実に、発展的であろうとしたことを認めることであるし、彼のような武人が、平和的説得にまず、自分の全存在をかけたということは、今日、どんなに思いだしても、思いだしすぎるということはなかろう。

“二段革命論”の限界点とは?
 北一輝になると、その姿勢が西郷よりももっと能動的になり、開放的になる。彼は、進んで、明治維新が日本の伝統思想と中国思想によって生まれたことをいったばかりでなく、彼自身、当時、日本に入ってきた社会主義を積極的に吸収し、摂取していった。ただ、彼の場合、当時の一般の社会主義者が無批判的にとりいれ、社会主義思想に埋没していったのと違って、彼は、どこまでも、日本の歴史をふまえて、日本の革命理論として、解釈しなおすことに努力した。日本の思想状況、政治状況に即して、それを変革し、発展するものとして、日本人自身の革命思想として定着させようとした。
 それは、社会主義への日本の道を模索したということであるが、こういう視点、姿勢がいわゆる左翼といわれる人達の中にでてくるのは、やっと、スターリン批判のでてきた戦後である。
 北のこの視点、この姿勢は、日本の伝統思想を継承して、どんな思想にもそれぞれの存在意義があり、その思想に存在価値を与えるために、その日本化を志し、日本人の中に定着するように努力したものということができよう。儒教も仏教も、先人のこのような努力の中で、日本人の中に定着し、今なお、発展しつづけているのである。しかも、北の中には、社会思想のみでなく、中国思想も印度思想も吸収され、その中で、所を得、生かされている。まさに、北こそ、日本の伝統思想そのもの、精神そのものであり、その思想と精神はすぐれて今日的であり、現代的である。
 ただ、北は、人間の平等と自由を社会主義思想によって発見し、それが資本主義批判へと発展したのであるが、最後的には、その人間の平等と自由を抑圧され、差別されている人々によって実現するということを考えずに、上からの維新、革命を考えるようになった。
 もちろん、北も一度は、社会主義的、民主主義的国民の出現を願い、そのための活動を考えたが、彼は、あまりにも、そういう人間の出にくいように締めつけている日本の支配体制を発見したとき、それを軍隊運動によって、まず、打破するということを考えるしかなかった。北は、下からの革命をする前に、その第一歩として、上からの革命を考えた。上からの革命をすすめる以外にないと考えた。
 多くの場合、北の『日本改造法案大綱』は、『国体論及び純正社会主義』より後退し、彼の転向と評価され、そして、社会ファシズムの理論的指導者になりさがったといわれているが、私は反対に、北の現実認識の進展により、社会主義への日本の道をもう一歩つき進めたものであり、彼の思想の発展と考えている。その意味で、日本共産党の二段革命論ではないが、彼もまた、二段革命を考えているということになる。

日本精神を絶対化する危険
 大川周明は、北一輝ほどには、開明的でも発展的でもなかった。彼はあまりにも、西欧的なものと東洋的なものとの対立をみ、西欧諸国に支配され、その植民地となってしまったアジア諸国をみた。
 そのために、資本主義を否定することでは北と同じであったが、民主主義をもその資本主義が生みだした政治制度として鋭く批判し、克服しようとした。大川にとって、西欧的なもの、西欧の生みだしたものは、ただそれだけで、拒否すべきものであった。アジア諸国を奴隷国として支配する西欧諸国は、その思想とともに許すべからざることであったのである。
 ことに、日本思想と日本精神が、西欧の生みだした思想と精神に全く見劣りしないと発見すると、大川は、それだけによりすがり、他の一切を否定するところまでいった。かつて、彼を育て、それ故に、日本思想と日本精神がすぐれていることを発見することの出来た西欧の思想を憎み、はては、日本思想と精神を絶対化し、固定化することにおいて、西欧思想を劣っているとさえ見做すようになったのである。
 本来、発展的であり、流動的である日本思想と精神を固定化させ、絶対化することによって、大川は、西欧の思想を拒否したのである。それが、どんなに日本思想と精神を矮小化させ、先細りさせるかも考えないで、否定していった。
 かつて、明治天皇は、その宸翰に、
「尊重のみを朝廷のこととなし、神州の危急を知らず、朕一たび足を挙げれば、非常に驚き、種々の疑惑を生じ、万国紛紛として、朕が志をなさざらしむ時は、これ朕をして君たるの道を失わしむ」
 と述べたが、大川の日本思想と精神に固執する姿勢は、そのまま、明治天皇のいましめたものに通じる。ただ、大川は、あくまで、西欧的なものをのりこえることによって排除したのであって、単に、それを無批判に除外したのではないが、彼の亜流は、彼の姿勢を単に排除と考えた。そこに、備狭なものが出てきたことは否定できない。
 そして、大川周明が、「アジア発展の道は、西欧的近代化を意味せず、それぞれの国の魂が歴史が決定し、模索するものである」といい、「アジア諸国に、日本の思想と精神をおしつけることではない」といったこと、あるいは、「汝こそ国家である」といったことは、今日、そのまま生きている。「自分こそ国家である」という自信と自覚ができたときに、人間は始めて、自由になり、平等になれる。

平和を志向する目覚め
 石原莞爾が世界最終戦の視点から、人類の平和と幸福を考えつづけたということは、見事というしかない。ことに、そのような殲滅戦、殺戮戦を経ることなしには、真に平和を求める人間として、人間は変革されることがないという洞察は、悲しいことではあるが、本当であるかもしれない。
 しかも、石原は、世界最終戦の過程で、個々人すべてが真にその能力の極限を開発し、政治的にも思想的にも自立することによって、政治家や指導者にリードされないようになることを洞察した。それは、世界最終戦を経ることなしには、人間はそれ程に聡明にならないということでもあった。
 しかし、石原の日本を中心とした世界最終戦の構想が崩れたとき、はじめて、彼は、日本と日本人のゆくべき道が平和国家であり、道義国家でしかないことを発見した。平和的説得で、地球に、平和と幸福をきずくことを考えはじめた。
 この時、始めて、石原は、日本の伝統的な思想と精神に全的にめざめたということができる。
 五族協和の共和国を満州にうちたてようとした時は、ほんの少ししか、日本思想と精神にめざめていなかったということがいえる。日本の伝統精神である「コトムケヤワス」の精神は、今、原爆の被爆国として、始めて、日本人の中に定着しはじめているのかもしれない。
 私なども、広島での原爆を体験したとき、全身で、戦争をのろい、憎み、日本の伝統精神である平和の思想と吉田松陰の平和国家の理念が本当にわかったように思われたし、そして、広島や長崎の子供の中から真の平和の闘士が生まれるに違いないと考えたものである。

“思想”を生かすもの
 影山正治の思想と行動は、現代に直接作用し、生きている。将来も生きつづけるであろう。そして、ここには、世界維新を実現する思想もある。すなわち、彼だけは、今日、大東亜戦争を日本をふくめたアジア解放戦として戦いぬき、世界維新の第一歩を印しようとした男である。
 彼は大東亜戦争そのものは、侵略戦争であり、帝国主義戦争であったことを知っていた。だからこそ、日本に、中国に維新、革命がおきることを心から欲した。日本に東条政権が確立することを欲しなかったと同じように、中国にも汪兆銘政権が確立することを欲しなかった。
 影山の論法からすると、今度は、逆に、中国が、日本の維新実現に対して、日本を刺激しつづけるということをうけとめ、それを覚悟しなくてはならないかもしれない。
 それはともかくとして、影山の思想と精神の中に、大川のように、日本の思想と精神を絶対化し、固定化する傾向はないか。また、人々に、彼の思想と精神を強引におしつけようとする姿勢はないか。
「武の思想」「剣の精神」を継承し、強調する影山は、今日、特に、「コトムケヤワス」の思想と精神とをうけついで、人々に、日本の伝統的思想と精神を今日的に解釈し、発展させて、人々に、捨身の説得をする時にきているのではないか。かつて、右翼理論をつくりあげるために全力を投入したように、今一度、それが必要なのでないか。それは、そのまま、今日の右翼の当面の課題ではあるまいか。
(初版の文章へ〜)
 三島はその作品によって、日本の右翼を世界の右翼にまでたかめ、日本の右翼に世界の市民権をもたらした。彼らが何故に西洋の近代主義、合理主義、科学主義に反対するかをはっきりさせたのである。今日の西欧化に対して世界の神話を再興しようとしたのである。
 今の世界的公害も地球の危機も全て、西洋の近代主義、合理主義、科学主義のうみだしたものである。近代主義、合理主義、科学主義が資本主義を生み、帝国主義を育んだ。
 今日共産主義、社会主義の名の下に、この資本主義、帝国主義を克服しようとしている。それだけが革命の名でよばれている。資本主義、帝国主義を克服しようとするのはよいが、同じ近代主義、合理主義、科学主義の無批判的な踏襲ではこまる。
 いずれにしても、右翼、左翼の共同の敵は資本主義であり、近代主義、合理主義、科学主義である。なにはおいても、人類の共同の敵である資本主義を倒さなくてはならない。それが人類の悲願である。それが一日おくれると、それだけ地球の危機は深まる。
 この共同の敵を倒すために、戦いを一時休戦するのもよい。ともに原始の時代に憧れている。敵を倒したあと、革命のすじをとおすために闘ったらいい。問題は共同の敵を倒すことである。既にこの百年間、日本も資本主義、帝国主義の道を歩み、近代主義、合理主義、科学主義の毒に気づかないことは恐しい。これらを倒すことが急務である。右翼と左翼の戦いを一番喜んでいるのは資本主義そのものである。

 

                 <日本の右翼 目次> 

 

右翼関係略年譜

西暦

年号

右翼関係事項

国内事項

1867

慶応 3

王政復古の宣言

1868

明治 1

五ケ条の誓文
江戸城開城

1869

   2

横井小楠暗殺さる
東京招魂社設立される
大村益次郎襲わる(11月死亡)

版籍奉還

1870

   3

兵制統一布告

1872

  

徴兵令制定される

1873

   6

閣議に於て西郷隆盛の朝鮮派遣を決定(八月)
右を無期延期とする(十月)

1874

   7

佐賀の乱起こる

板垣退助ら愛国党をおこす

1876

   9

神風連の乱おこる
萩の乱おこる
秋月の乱おこる

日鮮修好条約調印す

1877

  10

西南戦争始まる(二月)
西南戦争終る(九月)

木戸孝允死す

1878

  11

大久保利通暗殺される

陸軍士官学校開校

1879

  12

東京招魂社、靖国神社と改称する

植木枝盛「民権自由論」出版

1880

  13

片岡健吉ら国会開設上願書を提出する

集会条令を定める

1881

  14

頭山満ら福岡に玄洋社創立

自由党結成される

1882

  15

板垣退助襲われる

福島事件おこる

1883

  16

北一輝生まれる

立憲党解党

1884

  17

加波山事件おこる
自由党解党

1886

  19

大川周明生まれる

1887

  20

徳富蘇峰「国民の友」創刊

保安条令公布

1889

  22

文相・森有礼襲われ死亡
石原莞爾生まれる

大日本帝国憲法公布
衆議院議員選挙法公布

1890

  23

板垣退助ら愛国公党を創立

第一回総選挙
中江兆民ら自由党再興
教育勅語発布

1891

  24

大津事件

足尾鉱毒事件

1893

  26

大日本協会設立される

1894

  27

清国に宣戦布告(日清戦争)

1895

  28

日清講和条約調印
三国干渉

1896

  29

進歩党結成される

1898

  31

東亜同文会設立

自由党、進歩党合して憲政党となる

1900

  33

内田良平・黒竜会創立

治安警察法公布
清国義和団鎮圧のため陸軍派兵

1902

  34

宮崎滔天、「三十三之年夢」発表

日英同盟協約調印

1903

  36

頭山満ら対露同志会を結成

堺利彦ら平民社を創立

1904

  37

日露戦争おこる

1905

  38

日比谷焼討事件おこる
中国同盟会・東京に出来る

日露講和条約調印

1906

  39

北一輝「国体論及び純正社会主義」を自費出版

韓国に統監府を置き、伊藤博文が初代統監となる

1909

  42

韓国併合の方針決定
伊藤博文、ハルピンで暗殺される

1910

  43

帝国在郷軍人会発会
影山正治生まれる

大逆事件の検挙始まる
韓国を併合

1911

  44

中国に辛亥革命勃発、北一輝ら革命派に協力する

大逆事件判決下る
閣議は辛亥革命に対し清朝援助の方針を決定

1912

大正 1

護憲運動の群衆・議会へデモ

明治天皇没す

1914

   3

ドイツに宣戦布告(第一次世界大戦に参加)

1915

   4

北一輝「支那革命外史」を書く

対華二十一ヶ条の要求を出す

1919

   8

大川周明・猶存社を組織する
北一輝「日本改造法案大綱」を書き上げる

ヴェルサイユ条約調印
中国に五・四運動おこる

1920

   9

北一輝「日本改造法案」を謄写刷りで頒布する

憲政会「普選法」を衆議院に提出

1921

  10

北一輝「支那革命外史」出版

首相原敬暗殺される

1922

  11

大日本赤化防止団創立

日本共産党創立

1923

  12

大川周明、北一輝、猶存社を解散する

関東大震災起る
大杉栄・伊藤野枝・憲兵大尉甘粕正彦に殺される

1924

  13

大川周明、行地社を設立
恢弘社、大行社、国本社などが結成される

皇太子(現天皇)成婚

1925

  14

白狼会、七生社、大日本主義団などが発足

治安維持法成る
普選法成る

 

                <日本の右翼 目次> 

 

参考文献

<書名>

<編著者>

<出版社>

<発行年>

大 西 郷 全 集

平 凡 社

(昭和 二年)

北 一 輝著作集

みすず書房

(昭和三四年)

大 川 周 明全集

岩 崎 書 店

(昭和三六年)

石原莞爾資料

原 書 房

(昭和四三年)

現代史資料(4)(5)

みすず書房

(昭和三八年)

西 郷 隆 盛

田中惣五郎

吉川弘文館

(昭和三三年)

西 郷 隆 盛

圭 室 諦 成

岩 波 書 店

(昭和三五年)

北  一  輝

田中惣五郎

未  来  社

(昭和三四年)

叛  逆  者

青 地 晨

弘  文  堂

(昭和四一年)

最終戦争は回避できるか

石 川 正 敏

佼成出版社

(昭和四一年)

土 着 の 思 想

判 沢 弘

紀伊国屋書店

(昭和四二年)

昭 和 維 新

田々宮英太郎

サイマル出版会

(昭和四三年)

一 つ の 戦 史

影 山 正 治

大東塾出版部

(昭和三二年)

民族派の文学運動

影 山 正 治

大東塾出版部

(昭和四十年)

日本民族派の運動

影 山 正 治

光風社書店

(昭和四四年)

武   士   道

葦 津 珍 彦

徳 間 書 店

(昭和四四年)

三島由紀夫全集

新 潮 社

(昭和四八年)

三島由紀夫の神話

酒井角三郎

三 一 書 房

(昭和四六年)

 

                <日本の右翼 目次>

 

   (1970年 初版・1973年 改訂版  大和書房刊)

  

   < 目 次 >

 

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