ルーマニア紀行(2005年/9月)

05/09ルーマニア紀行(T)

【孫を迎えに】

「今年もルーマニアへ行くぞ!」と宣言したのは、4月に入ってからである。
若い住職とその家族にとって、その妻の母国であるルーマニア訪問は年中行事であって、その計画は、費用捻出も含めて一年がかりの大事業である。

 特に費用捻出のための節約振りを間近に見ると、世界は狭くなり、円は高くなったとは言え、田舎の寺の経済の中で、家族を引き連れての外国の親族訪問がいかに大変か、よくわかる。
(だから、外国人と結婚などするなと言っているのではない)

 ただ、かれらには大義名分はある。夫の両親も親であれば、同じく妻の両親も親である。
しかも、男女の違いはあっても、いずれも親を養うべき?立場の長男長女。
 そのうえ、決まった休暇など望むべくもない寺の嫁?として、外国人の権利意識?としても、年間30日くらい休暇があってもおかしくない。
 それに、父親は病気長期入院中、母親も一人住まいで病院通いとくれば、ごもっともである。
せめてこの期間だけでも親孝行のまねごと?。

 ところで、ぼくの方は特に大義名分はない。しかし、なにか大義名分がないと良き前住職との身が立たない。
もともと我が儘勝っ手な我が身でも(だいたい観光旅行は本来我が儘なものなのに)、人前に出して言うときは、我が身を善しとして言う。
それで大義名分を探すのだ。「孫を迎えに」。これである。探し出された孫こそいい迷惑。
 これで大義名分ができたので、善(前)?住職となって一人旅に旅立てる。

 帰国準備の荷造りをした9月18日、2個のトランクにパリンカ酒・ツイカ酒・ワインと詰め込んだ重さは70キロ、手荷物(機内持ち込み)は、ぼくのリック・バッグ、ユリアと孫のバッグ各1個、孫の乳母車である。

 ルーマニア出発は空港までクリステーが車で送ってくれるので、荷物検査から預けるまでの短い距離だから、なんとかなる。重量オーバーも3人で10キロくらいならだいたい目をつむってもらえる。

 問題は成田から自宅まで、計8個の荷物と乳母車と孫をどうやって2人で運ぶか。
成田⇒上野、上野⇒燕三条と乗り換え、車内への運び込み。

疲れ果てて、燕三条で迎えを待っている間、来年はよほど体力を維持しておかないと、
「孫の迎え」という大義名分は使えないなあと思う。

 次回の一人旅はもう一回り荷物を小さくして、デパック1個で2週間の旅を考えてみよう。必要最小限の荷物での旅、それならいけるかもしれない。

勝手なものである。もう来年の計画に入っている。鬼が笑う。

 


ルーマニア紀行U

【機中泊】
9月4日午後、新幹線で上野⇒成田第一ターミナル。
ここでユーロの両替(両替をするならここがよい、出発当日は行列が出来ていて時間がかかる)をして、昨年と同じスカイコート成田に泊まる。
迎えの運転手とも顔なじみ、「いいですね、今年もお出かけですか」。 もうここから外国、と自らに言い聞かせてチエックイン。夕食は自室で弁当とお酒。外には出ないで、荷物を点検・整理。
日本円・ルーマニアのレイ・ドル・ユーロとカードの確認。夕食前の荷物の整理・点検とお金の確認は一人旅には欠かせない行事。

 9月5日(月)、7時40分発の空港行きに乗る。10時40分発のウイーン行きだが、
はやくチイックインして、望みの席を確保したいからだ。団体さんとは違うのだ、自分で席を交渉しなければならない。

 席は機中泊には大変重要である。オーストリア航空は両窓際2席中央4席の8座席が横に並んでいる。
通路側せきは4座席。最も良いのはエコノミー最前列の通路側。
これは望むべきもないが、なるべく前の通路側。

 リックを預けて、パスポートと航空券を出して、ウイーンまでは是非通路側をという。
ウイーン⇒プラハ間は50分ほどだから、どこでもいいという。
前から4番目の通路側、これで一安心。この機中の睡眠が大変重要。
なんだったら医師から睡眠導入剤をもらっても、食事を一つくらい飛ばしても、眠るにしくはない。

 眠る、特に熟睡できる。これは一人旅でなくとも、旅するものにとっては大変重要である。

体力・気力・判断力の源であるから。

 


ルーマニア紀行[V]

【プラハ中央駅】
ウィーン・シュヴェヒャート空港着、現地時間午後3時40分、乗り継ぎでプラハ・ルズイニエ空港へ、待ち合わせ時間約1時間、待合いロビーはブダペスト行きといっしょだが、自然とプラハ組とブダペスト組に分かれるから面白い。
 ほとんどが団体さん、あちらでも、こちらでも成田でできなかった自己紹介が始まった。
こうなると一人旅はなんとなく居場所がない。
5〜6人の外国人とぼくは自然に寄り添うようになって、「君はひとりなの?」と声をかけられる。
こういうときに声をかけくれるのは、たいてい女性か若者である。
女性や若者の方が適応力があるということか?
「どこへ?」、「決めてない、ホテルはある。あなたがたは?」たいてい2人組である。
「へー!」か「ほうー!」である。60を超えた爺様の一人旅はめずらしい、そのうえ予定のない旅。
不審に思う方が当たり前である。
 
 空港で両替して、バス・地下鉄を乗り継いでプラハ中央駅へ。
まだ午後6時を少し回っただけなので、オロモウツ・ブラチスラヴァ・ブダペスト行キップを予約。キップの予約はできるときにしておく。座席指定ではないので、各駅からの乗車日さえ決めればよい。

「あのー、日本人ですか」「夜行でブダペストへ行くんですが、どこに待合室があるか知っていますか」ぼくも夜行客と間違えられたらしい。待合所は駅構内のコンクリートの台があるだけの殺風景なもの、とても若い女性が一人でおられるような場所ではない。
 「何時なの、11時、ここで4時間も待つのはやめた方がいいようだ。
どうしてもこの駅で待ちたいなら、3階にカフェがある。できればどこかのレストランで時間をつぶして、1時間前にまたここへくればよい。
用心するに越したことはない、日本ではないのだから」 女性の一人旅もたまにはみかけるが、2人組、4人組が多い。まして女性一人の夜行列車はほとんどいない。
それなら少し窮屈でも夜行バスをすすめる。乗り降りがほとんどなく、目的地までの停車も少ない。安全性は高い。

 ぼくもプラハははじめてである。はじめてであるが、予備知識は持っているし、ここはどの程度危険かという予知本能も持っているつもりである。
用心して危険なものには近づかない。自分の身は自分で守る。それしかないのだ。

 実際、2日後の早朝、列車に乗るためにプラハ中央駅(07;05発オロモウツ行)に
行った時、酒臭い男達がその待合所から鉄道公安警察に追い出されているのを目撃した。
 多分世界中の鉄道駅の夜は日本のように安全ではない。

ところによっては夜間に駅舎を閉めてしまう場合もある。

 


ルーマニア紀行[W]

【プラハ街歩き】
ヨーロッパの街は似ている。
ゴシック・バロック・ルネッサンス・ロマネスク・アールヌーヴォーの建築様式がどの街にも重層的にあるせいもあるが、街の立地のせいもあるようだ。
 似ているのである。ハンガリーのブダペスト・チェコのプラハ・ソロヴァキアのブラチスラヴァ、ドナウ川とヴルタヴァ川・城の位置や造りの違いはあっても、城と旧市街の関係は、多分日本の城下町と城の関係のように、著しい類似性を持っているようだ。
 まだ見ぬ国、ポーランドのワルシャワもクラクフも規模は違うだろうが、よく似ているのではないかと地図を見ていて想像してしまう。

 ゆっくり朝食を済ますと、何回も来たことのある街の様な感覚で、火薬塔からテイーン教会の対の尖塔を目標に歩き始める。
すぐに旧市街広場に至る。ここはプラハの心臓部ともいえる広場で、テイーン教会・ヤン・フス像・旧市庁舎・天文時計・聖ミクラージュ教会・ゴルツ・キンスキー宮殿・石の鐘の家・テイーン学校等々、観光客の集まるところ。

 天文時計は修理中ではあったが、ぼくはその向かい2階のカフェ・ミレナの窓際の特等席でハム・ソーセージをつまみにビールを傾け、仕上げにエスプレツソを注文して、集まっては散って行く観光客をぼんやり眺めていた。

 「この天文時計が修理中なのなら、募集の時、少なくとも出発の時点で、教えてくれるべきだね。プラハではこれを見ようと期待してきたんだから、がっかりだよ」。
 カフェ・ミレナを出て、歩き始めようとしたとき、大きな声に振り向いてみると、ウイーンの空港で自己紹介をしていた団体の一団。そうだよね、ぼくのように出たとこ勝負で旅に出たわけではないんだろうから、それなりの目的を持って参加したのだろうから。
 声を振り切って、カレル橋へ向かう。火薬塔から旧市街広場を経て、カレル橋・プラハ城に至る道は王の道として知られ、観光客が列をなして歩き、土産物屋やカフェが沢山ある。

 カレル橋はブダペストのくさり橋とよく似ている。橋の欄干には30体の彫像が並んでいる。
ヨハネやヨゼフ、ザヴィエルなどは聞き覚えはあるが、キリスト教に無知なぼくには、そのほかの像はほとんど解らない。
 プラハ城では衛兵の正午の交代式を見る。城内の郵便局で絵はがきを出す。聖ヴィート大聖堂では見事なステンドグラスを見、旧王宮ではヴラデイスラフホールから美しいプラハの街を満喫し、聖イジー教会では「プラハの春」の音楽祭を想像する。
 帰路、遅い昼食を取る。旧登城道を下って、もとのカレル橋通りに出る手前の食堂、観光客相手の店でないことは確か。
またまたビールとハムとソーセージ、ウサギ肉のロースト・クネドリーキ・ザウアークラウト。

美味しい。腹ぺこのせいかしら?


ルーマニア紀行[X]

【ヴィーノ,プロスイーム(ワインが飲みたい)・オロモウツ】
オロモウツの駅は街から離れている。
駅前はほとんど何もない。小さな公園と大きな近代的なホテルがあるのみ。市電に乗って街の中心、ホルニー広場へ出る。
 広場の中心に三位一体の碑があり、ヘラクレスとカエサルの噴水があり、市庁舎にはチャペルが併設され、仕掛けの大時計がある。
ヨーロッパの街の広場の典型的スタイルである。特に仕掛け大時計は街毎に特徴はあるが、ある時代(16〜18世紀)の流行だったに違いない。

 この広場とこの広場に続く聖モジツ教会周辺、ドルニー広場にかけての2〜300m四方が繁華街である。
2時間も歩き回れば、ほとんど見て回れる。
しかし、博物館と美術館を見るだけでも、1〜2日間の時間が欲しい。
 9月に入ったせいなのか、観光客の姿はほとんどなく、しっとり落ち着いた街を創り出している。
ゆったりと落ち着いて街歩きを楽しむ。
レンガの色合いや石畳の具合、入り口にかけられた看板や紋章、屋根と瓦、窓、カーテン、窓脇に椅子を引き寄せている人、路地で遊ぶ子供ら。

 知らない街の街歩きにはそれなりのこつがいる。
地図を片手にというのはさもさも観光客である。大きなリックやカバンは手荷物預かり所やホテルへ置いて、身軽に。地図はできるだけインフォメイションで調達して、ポケットにはいるものを。
そして、街のどこからでも目標になる建物かメーンになる道路を目印にして歩き出す。

 歩き疲れて、市庁舎脇の大時計の前、モラヴィア劇場横のレストラン・モラヴスカーへ。注文するのは少々緊張する。
 言葉が通じない上にメニューの文字は花文字様なチェコ語。まず手製の会話集と単語帳(もちろんすべてカタカナの振り仮名付きです)を取り出し、「ドブリー・デンこんにちは」「リーステック・プロスイーム。メニューをお願いします」ここまではいい。案外素直に言葉が出てくる。
 「シュンカ・ス・クシュネム、ホウボヴァ・ポレーフカ、ぺシェナ・カチェーナ・ナ・ザヴォール・クネドロ・ゼロ、ミハニー・サラート、ヴィーノ、プロスイーム。(ハムの前菜、きのこのスープ、たぶんロースト・ダックと付け合わせ、サラダ、とワインをお願いします。」(もちろん、メニューを指さしながらです)。
 さあて、何が出てくるか?緊張の時間です。
まあ、最初にワインとハムが出てきます。本当に頼んだものが出てくるのでしょうか?。
レストランですから、食べられるには違いないのですが。
 ワインを飲みながら、緊張を解きほぐします。

少し酔いが回ったところで食事が出てきますので、あとは美味しくいただきます!。

 


ルーマニア紀行[Y]

【鈍行列車の旅人】
チェコの地方のホテルはほとんど朝食はつかない。
別料金である。3〜4あるパターンから選ぶ。
簡単な食事に、果物とサラダを別注してゆっくり済ませて駅へ。ブルノ方面行きの鈍行に乗り、ブジェロフという駅で乗り換える。
予定はブルノ経由ブダペストだったのだが、オロモウツの駅で、モラヴァ川の支流沿いのズリーンの町の近くに、ペンションを経営する牧場があると聞いて、行ってみることにした。

3両編成の列車の乗客はほんの12〜3名、朝、都市から田舎へだから当然だが、それでも車掌は検札する。みんな顔見知りのようだ。車掌はチェコ語でプルヴォドチェーという。女車掌である。
これは多い。鈍行や支線はほとんど女性の車掌である。
女性名詞は解らないが、ともかく乗換駅を教えてもらうことにする。
「プロスイーム、プルヴォドチェー。グデ・マーム・プシェストウピツト。すみませんが、車掌さん、どこで乗り換えればいいんでしょう?」
 30〜40歳?くらいのまだ若い?女車掌は切符と地図を受け取るとまず検札してから、隣の席に腰を下ろして、「ヤポネッツ?日本人?」「アノ、イエセム・ヤポネッツ。はい、日本人です。」
チェコ語はほとんど解らない。指さし会話集の出番。3つ目の駅で「タデイ、ここよ。シチャストノウ・ツエストウ!楽しい旅行を!」と指す。「ヴァーム・ジェクイ。ナ・スフレダノウ。ありがとう。さようなら」

 支線の又支線の電車は1両のみで単線を走る。
これも女車掌。終点までなので聞かなくていい。
 その国の、しかもその土地の人々と話をするのは楽しい。議論をするわけではない。
ただその土地のことや風物、泊めてくれるところ、バスのこと、食べ物のこと、果物や羊や馬のことを聞くだけなのだが、これが結構体力と精神力がいる。
なにしろ外国語は英語が少し話せるだけで、そのほかドイツ語、チェコ、ソロヴァキア、ハンガリー語などは出発前に我流の練習をして挨拶程度で、ほかはほとんどできない。
そこで指さし会話集と自分編集の簡単な辞書(荷物を少なくするため)を片手に話をするのである。

 終点ズリーンヘ向かいつつある1両の電車のなかで、ぼくと話してくれそうなおじいさん・おばあさんをさがす。
 目当ての人を見つけたら、まず[こんにちは、]の挨拶、つぎに[隣に(または前に)座っていいか]を聞き、自分は[日本人の旅行者です]と自己紹介し、[写真を撮ってもいいか]聞いて、写真を撮る。
撮った写真を見せてから、終点の近くの村に泊まりたいが知っていないかを聞く。

 だいたいこいう順序である。もちろん、その間にいろいろ日本のことなども聞かれる。
そうなると狭い電車のなか、わざわざ集まってきて話したり教えたりしてくれる。
 こんな会話は決心するまでが大変なのだ。「こんにちは」が出てしまえば、相手が答えてくれるので案外スムーズにいくものだ。
こちらが答えに詰まってしまうのは日本のことを聞かれたときである。
会話集にも辞書にも日本のことは用意されてない。

そして、日本のことを日本人は案外知らない。

ルーマニア紀行[Z]

【ペンションとプライベート・ルーム】

旅人にとって宿は重要である。
選びはひとそれぞれで、旅の味わいも異なってくる。
ただその土地の生活に触れたいと思ったら、ペンションかプライベート・ルームがおすすめである。
ペンションはその宿の主人と語り合うチャンスが用意されているし、農村のプライベート・ルームはその家でその家族と食事をともにしなければならない。

 ペンションの食事は多少注文が付けられるが、農家のプライベート・ルームならば食事の選り好みはできない。出されたものをありがたくいただくのである。
それでもお酒が欲しい程度のことは言える。どちらも風呂はない。シャワーが一般的である。
農家ならトイレはボットン便所だと思った方がよい。

 それでも田舎の人情は捨てがたい。昭和20年代の日本の田舎に通じるものがある。基本が自給自足経済の生活(農業にも貧乏にも)に自信をもっている。もちろん、いずれ近いうちに金融経済の波に飲み込まれてゆくだろうが、現在のところ東欧の田舎は健在である。

 終点の駅から馬車に乗った。そのペンションまで行くという。
相客はすでに4〜5人乗っている。別に椅子があるわけではない、なかに荷物を置いて縁に腰掛けてゆく。ぼくはお客だというので御者席の隣の椅子へ座る。
 駅から5〜6qの行程は約1時間、両側並木のほかは、トウモロコシ畑とひまわり、牧草地、名前も解らない菜っ葉の畑がつづく。丘の所々に林がある。
砂利道と言うよりは土の道をみんなおしゃべりしながら行く。「こんな田舎に何しにゆくのか?」御者は多分そう聞いたのだと思う。「馬と羊を見て、ワインを飲みたい」。
よほどおかしかったのか「馬と羊とワイン!」といって御者は笑った。

 道路から200mほど牧草地の中へ入った丘の中腹にそのペンションはあった。
南面して向かいの丘まで牧草地で、東側には葡萄の畑、裏側50mくらいから林がはじまる。
道路側に少し離れて母屋の農家と納屋、ガレージがある。2階は6部屋、シャワー・トイレ付きのツイン、テレビもある。1階はキッチンと小食堂、大きな浴室、大食堂。多分日帰り客や食事客もいるのだろう。

 羊も馬もいる。まず馬にあいさつ、万国共通の肩首から触って、胴体・尻といってから鼻面をなでる。
OKである。羊は耳うしろ・あごの下といく。ここには羊40頭ほどと馬10頭ほどいる。別に番人はいないようだと思っていたら、さっきの御者が来て羊を集めだした。
これから下の番小屋で乳を搾ってチーズを作るという。よく見ればすべて雌である。

 「チーズつくりを手伝ったそうだね」というのが、小食堂での亭主の第一声だった。
出来立ての丸いふわふわチーズ(これと似たものをイタリアで食べたことがある)を肴にワインを飲む
。奥方手作りの料理にワインを傾け、片言の英語とチェコ語で、指さし会話集と手作り辞書片手にたどたどしく話す。馬のこと、羊のこと、ワインのこと、日本のこと、チェコのこと、亭主のリードで話はすすむ。

「明日はぜひ馬車を走らせたい」とお願いする。
そしてたった一人の泊まり客は酔っぱらう。


ルーマニア紀行[[]

【馬と羊とワイン】
亭主は約束を違えず、馬車を用意してくれた。
ただし、御者付きである。ぼくひとりでは心許なかったのだろう。
しかし、今日はぼくが御者で御者が隣である。鞍を付け、馬車を繋ぐのを見て御者は安心したようである。
馬は昨日駅まで迎えに来ていた馬である。  
一旦道路へ出て、2q先の放牧地まで行き、羊の搾乳とチーズ造りを見て、お弁当を食べてのお帰り予定。
 
 馬は人を見る。人はあくまで主人でなければならない。
主人の地位は決して譲ってはならないが、愛情を持って接しなければならない。
主人が我が儘ならば馬はふてくされる。ご機嫌を取りすぎれば、のぼせあがる。人馬一体というように人の心が馬に通じ、馬の思いをくみ取ってやるというように手綱を捌く。
まあ、講釈だけは一人前である。
 最初は真剣に、次第にリラックスして並足で走らせることができた。
御者はOKというようにぼくの肩をたたいてくれる。景色を見る余裕が出て、風が心地よい。

 200頭ほどの羊を4人の牧童が次々に搾乳して、チーズ造りの大鍋に入れる。
次にそこから汲み取って、豆腐造りのように水分を分離する桶に入れ、ある程度水分がなくなると形を整えてチーズにするために小屋の棚に並べる。
直径40cmくらいの鏡餅を3個重ねたくらいの大きさで乾燥する。3〜4日乾燥したところで、村のチーズ保管庫で熟成するという。昔からそうやってチーズを造っているという。

 搾乳が終わって10分もしないうちに、次の羊を2人の牧童がまた連れてくる。
御者もぼくも手伝って搾乳に取りかかる。休んでいる者はいない。1日中、昼休みを除いて続く。
 羊は4〜5月に毛を刈られ、6月から牧草地に連れてこられて、チーズ造りの主役を担う。1000頭からの羊が1日に1〜2回、休む閑なく搾乳される。牧童は重労働である。

 シチューとハムとパンと搾りたての乳で昼食。忍ばせてきたワインを取り出すと皆「ヌ・ヌ いらない・いらない」という。昼間は飲まない。飲めば仕事にならない。夜「スリヴォヴィツア酒(プラムの蒸留酒)」を飲むという。プラムから造る酒は東欧では一般的で自家製も多い。ハンガリーではパリンカ酒、ルーマニアではツイカ酒、呼び名は違ってもほとんど同じものである。30°〜45°くらいまでいろいろである。

 ワイン用のブドウは葡萄棚ではない。1mくらいの支柱に葡萄の木があって、9月初旬は早生ものがつみ取られる直前である。
南東向きの傾斜地が良いらしく、たいていそういう地形のところに葡萄畑はある。
亭主は今夜もぼくと二人で食卓について、スリヴォヴィツア酒の食前酒をすすめて、「今年の葡萄はよくない」という。春からの雨が品質も量もうまくないらしい。
しかし、食事がはじまって出されたワインはなかなかいける。
そういえばチェコはビールの国なのにワインばかり飲んでいる。

ワイン万歳!!

ルーマニア紀行(\)

【再訪ブダペスト】

ズリーンを朝一番のバスでブルノへ出て、そこから列車でソロヴァキアのブラチスラヴァを経由して ブダペストに着いたのは午後3時を回っていた。
 ブダペストは去年と変わらず、美しいたたずまいを見せていた。
 イビス・ヴォルガにチイックイン、ただし、カードでという。カウンターで現金を扱わせないシステムらしい。
56ユーロ(8,000円くらいか)のビジネスホテルである。
ここに決めたのは今回の列車の始発駅がニュガテイ(西駅)だからである。
経由地は昨年と同じオラデアなのだが、今年はそのまま列車でトウルグ・ムレシュまで行くつもりである。

 東欧を旅するとき、航空機利用ならウイーン経由が便利であるが、列車利用ならブダペストの方が利用価値が高いようである。
特にルーマニアの場合はロシア・ウクライナ経由の場合はビザがいる。その面倒をしても時間節約にはほとんどならない。いきおいブダペストへ戻るようになる。

 中継地として利用するので、シャワーを浴びると街へ、国立博物館を午後7時の閉館まで見て、食事をする。博物館のはす向かいのホテル・コロナの脇から100mくらいのところにあるレストラン・アルフェデイ・ベンデイグルーで、注意していないと通り過ぎそうな食堂。

ハンガリーのレストラン・食堂はいくつかの種類がある。微妙なランク付け旅人にはよく解らないが、エーツテレムという高級レストラン、ヴェンデーグルーというワンランクしたといった感じのレストラン、チャールダという食堂兼居酒屋といった感じのレストラン、シュルズーという一杯飲み屋兼ビヤホール(もちろん食事は出す)、ホロゾーはワインバー、カーヴェーハーズ又はカーヴェーゾーはカフェ兼食堂兼ケーキ屋(ケーキの専門店はツクラースダ)、ビュフェーはセルフサービスの安食堂(昼食を摂るにはまことによい)等だ。

 いずれも食事を摂ることができる。ヴェンデーグルーだから食事中心のレストランである。
 まず、パーリンカ酒(ハンガリーでは飲み物から注文するという)、生ハムをつまみに、100ミリグラム。
グヤーシュ(スープ状の牛肉煮込み)、フォアグラのグリル、サラダでワインとパン。
パーリンカはスモモで造った酒。
チェコ・ソロバキア・ハンガリア・ルーマニア・ブルガリアで名前は違うが中身はほぼ同じ種類のお酒である。
度数は38度位から45度位までさまざま。
 またワインは一応のレストランならハウス(グラス)ワインで充分うまい。

もちろん上には上があって、ワインの王様トカイ・ワインもハンガリー産であ
る。
ワインの歴史は日本人の想像を絶するものがあるようだ。

 


ルーマニア紀行[]]

【レールに乗って】

西駅発10:05、クルージ・ナポカ経由トグル・ムレッシュ行エクスプレス「ライオン号」は6番乗り場に停車していた。
 1等車は最後尾の車両である。荷物を置いて、先頭車両まで行って、写真を撮る。

 帰ってみると、ぼくのコンパートに車掌がいて文句を言う、荷物を置いていってはいけない、持ち逃げされても、だれも解らないんだという。
恐縮。親切な車掌である。

 向かいの席は退役兵士、早速話しかけられる。
ぼくの幼稚なハンガリー語を総動員して理解したのは、「この列車はライオン号という名前であるが、日本にはライオンはいるか」「動物園にはいるが、日本にはいない」「それではライオンにあたる言葉はあるか」「ある」「それはどんな文字を書くのか」「獅子という」「その文字を書いてくれないか」「なんで」左の二の腕をまくって龍(日本語)という文字の入れ墨を見せ、右腕に「獅子」という文字を入れ墨するという。
ぼくはそれなら日本ではライオンではなくてタイガーで、「虎」をいうので、「龍虎」で対になるというのだが、どうしてもライオンだという、最強百獣の王だから、「獅子」という文字を書いてくれという。

 それでライオン「獅子」・タイガー「虎」と別々の紙に書いて渡す。

 これだけのやり取りをするのに、1時間以上かかっていた。

 


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