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ワレモコウ(吾亦紅、吾木香)/バラ科、ワレモコウ属
台風一過、床につく教会員を訪ね、その足でぐるっと榛名湖を回ってきた。大勢の観光客が「ゆうすげの道」を散策していた。ワレモコウ、マツムシソウ、オミナエシ、コウリンカ、ノハラアザミ、ヒヨドリバナ、キセワタ、カセンソウ、マルバハギなどが咲きそろい、ススキも銀色の穂を風になびかせていた。 出会った親子連れが、「名前が分かれば、もっと楽しいでしょうにね。」というので、道々、いくつかの名前を教えてあげた。それでも母親はワレモコウの名はご存知であった。秋風に揺れる姿は一遍、見たら忘れられない風情がある。 生育環境にもよろうが、この写真を撮った榛名湖では背だけ60cmくらい、教会の庭のそれは1mを越している。 まっすぐ伸びた花茎は上のほうで枝を分け、その枝の先に臙脂色の楕円形の花穂をつける。ルーペで観察すると花穂は小さな花がたくさん集まっていることが分かる。花といっても花弁ではなく、花弁のように見える4枚は萼である。黄色のおしべが4本、めしべは奥にある。葉は羽状、複葉。葉を摘んで、手でもむとキュウリの匂いがする。だから子どものころは、これをキュウリグサと勝手に呼んでいた。 私は1943年(昭和18年)までは東京の大森区桐里に住んでいた。我が家の西側には、とうかん森といった小高い丘があり、頂上には小さな祠があって、そこからは軍需工場のカモフラージュをした屋根がよく見渡せた。よく弟と遊びに行き、セミをとったり、椎の実を拾ったりしたものである。 その秋、初めてその草原でぽつんと咲くワレモコウを見つけた。なにか無性にさびしさを感じ、その丸い玉をちぎって、もって帰ったことを覚えている。 戦争は激しさを増して、「疎開は勝つため、国のため」という歌とともに学童疎開が始まった。長姉は学徒動員、私とすぐ上の姉の二人は翌年、縁故疎開で両親の故郷、群馬に行き、弟と妹の年代は東京に残された。 やがて、弟は栄養失調から体調を崩し、寝たきりになった。東京の空襲も激しくなる気配で、その秋、一家は群馬に引き揚げた。そして、弟はその年の11月に茶の花のように透き通った顔になって亡くなった。 なに一つ、栄養になるものをあげられなかった母は、それから何十年も自分を苦しめていた。犠牲となった者は戦場で死んだものだけではなかった。
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