聖書のお話し「心遣い、二つの意味」
マタイ 6:25、コリントⅡ 11:28

  私たちの心のどこかには、「明日の事は心配しなくともいい」と能天気に構えているところがあるかもしれません。非常識、自分勝手、これらはみな、その延長線上にあるような気がしてなりません。
  マタイ 6:25に代表される、「思い煩い」という言葉は、上記にある、コリントへの手紙で、パウロに使わせると、日々、私の重荷となっている、全ての教会への「心遣いがある」なってくるのです。テモテのように、私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを「心配している者は、だれもいません」ともパウロはピリピ 2:20で語ってもいます。
  それどころか、イエス様は「わたしにはまた、この囲いに属さない、他の羊たちがいます。それも、わたしは導かなければなりません」とヨハネ 10:16でおっしゃいます。結局、自分で思い煩ったりするのは、他に目を向けず、隣人を視野の外の置いてしまっているからでしょう。神が私にしてくださったことを思う時、私たちは自然と目が隣人に向くようになります。ピリピ 2:1~11を心してお読みください。

2018.03.04(日)


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