書き手は話題を変え、教会に立てられた指導者たちとの関係に触れていく。この人たちはあなたのために神に弁明する人たちであり、また、あなたの魂の見張りをしている人たちです。→エゼキエル 33:1~9。具体的にはこの人々は群れの模範となる長老=監督=牧者たちでペテロⅠ 5:1~11などをご参照ください。
「従う」には、彼らの語る「みことば」に納得し、また、いきり立っていたのが静められる意味があります。神のみことばにより、お互いに語り、互いに聴き、互いに成熟していく過程を示します。
あの偉大なモーセがどうして約束の地に入れなかったのか、申命記 32:48~52、34:1~4に自らを顧みる要があります。
教会の指導者は決して、唯一のお山の大将ではありません。むしろ、その働きを通して、次の指導者を育てていく人たちです。それが嫌な人はヤコブ 3章をよく心に刻み込んでください。
偉大と言われる牧師が一人いても、その方が亡くなれば、その教会が衰えることもあるのです。指導者たちは次代の指導者たちを育て、今、指導されている者たちは次代の指導者を目指してください。
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