何もかもうまくいかないと思えるとき、人は自暴自棄になるしかないのでしょうか。それとも、「人はパンのみにて生きるのではない。」との聖書のみことばを信じて、危機のときにこそ、「パンではない何か。」を追い求めるべきなのでしょうか。
マラキの時代、ユダは国力が衰え、天候不順も続いて、長期低迷のなかにありました。だからでしょうか、人々は神への礼拝を疎んじ、目に見えるものにいっときの慰めを求めていたようです。信じていた神に見放されたと考えていたのかもしれません。
マラキ書の冒頭では、神の愛に変わりがないことを再確認させます。「見よ。その日が来る。」との宣言で始まる終章では、不遇の時にこそ聖書に立ち返り、義の太陽という希望と癒しの翼を追い求めることの大切さが示されます。
暗闇でもがいているとき、神の時が来れば義の太陽がのぼるという信仰を持てるでしょうか。私たちと共にいてくださる愛に神は、
マラキ書でそんな問いかけをしているようです。
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