聖書のお話「わたしのためにはいのちをも捨てるというのか」−Jn23−
平和・剣を鋤に、槍を鎌に打ち直して

イザヤ書2:4 小幡史朗牧師 

今から七十一年前、暑い夏の日、伯母に連れられすぐ上の姉と私は桑畑の間の道を歩いていました。やがて、久留馬村立久留馬国民学校に着きました。木造の校舎があり、職員室で担任となる目は鋭くも笑うと金歯の見える飯野武雄先生とお会いし、お話いただく内に、この先生と新しい歩みを始めようと子ども心にも思いを固めていたことを覚えています。当時、日本は世界中と戦争をしていて、日々戦いは厳しくなってきていました。私は国民学校四年生(当時は小学校をそういいました)学童疎開と称し叔父、伯母のいる久留馬村に姉と二人で疎開児童としてやってきたのです。当時、国民学校の四年生以上の学童全員は東京にいると空襲で死ぬので遠くに縁者がある学童は縁故疎開と称し、そこへ。ない学童は集団疎開といって、各学校の学年別に親を離れ東京を出ました。私たちの学校ですと富山県などに疎開し、そこで鍛錬して待ち、大きくなって戦争に行けと教えられて、そのように心に誓っていました。私の父は税務署勤務で関東の各地に転勤しました。私は一九四一年(昭和十六年)茨城県水戸市立五軒国民学校の第一年生、三年で東京の大森区立入新井第四国民学校に転校、そして四年で久留馬国民学校に疎開児童として来ました。転校はこれで三回目、不安はありませんでした。伯母の家には同学年の實くんと二学年上の従姉、二学年下の従弟がいたからかもしれません。夏休みが終わり最初の日の朝礼で壇上に上がり、飯野先生から疎開学童第一号の史朗ちゃんをよろしくと紹介されて、挨拶をしました。当時は戦争に行ける男性はみな戦地に行っていましたから農作業は年寄り、女性と子どもがしていて小学生も勉強よりは農家の応援に、よく行きました。今まで農作業など、一度もやったことがない私は、早速、困りました。鍬や鎌はさわるどころか、見たこともありませんでした。その私を先生は根気よく教えてくださいました。力もなかった私が鍬を使う時、「一度で出来なかったら、二度やれ」と教えてくださいました。飯野先生の教えは他にも沢山あり、生涯の宝となって、私を今に支えて来ています。やがて校舎には青葉隊という小隊が駐屯して来て、校庭の西には対空機関銃が据え付けられました。児童は着る服もなく、履き物はわら草履でした。一番困ったのは食糧でした。農家でさえ、作った米は殆ど国家に取られました。烏川の河原を開墾してさつま芋を植えて楽しみにしていたら台風の豪雨で一夜で流された時の悔しさを今でも覚えています。戦況はますます不利になり、村の忠霊塔には日々、戦死した兵士の遺骨が納められていきました。息子が死んでも泣いたら非国民だと叱られる時勢でしたから、親はお国のために命を捧げて名誉なことでしたと歯を食いしばって言い、村民も軍国の父だ母だと称えながら、蔭では、みんな泣いていました。 五年の先生はすさまじい先生で、軍国教育をするといって、クラスで一人が失敗すると全体責任だと並ばされて平手で殴られました。口惜しかった事は向かい合って並ばされ、互いに殴り合わせ、手加減したりすると、その二人を先生が徹底的に殴り倒した事でした。戦争は心の中の欲望や憎しみが起こすものです。一旦、始まると人を鬼とし、悪魔にさせそこには勝者はいません。ただ全ての人々が長らく苦しむようになるだけです。戦争で平和をもたらすことはないことを知ってください。お互いが相手を自分のように大切にするとき憎みと争いはなくなり、その果実が剣を鋤に、槍を鎌に打ち直しという聖書のことばを実現させ、愛と平和が地をあまねく潤すことになることを、今こそ、考えてください。

                                    
2015.06.15(日)


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