聖書のお話 「愛は与え、喜びが付き添う」−13−
サムエルU 24章18〜24節

  「人はうわべを見るが、主は心を見られます」。主がアベルとその捧げ物とに目を留められたのもそのためでした。ダビデは主を試みる罪を冒し、主の下された災いの後、主のために祭壇を築き、いけにえを捧げることになったが、そのすべてを用立てしましょうとのアラウナの申し出を固く断った。ダビデにとって主はイスラエルの神であったが、それ以上に「私の神」であった。愛の持つ個人性は、その愛する対象への贈り物にも極めて個人的な思いが強く含まれる。ダビデの思いは費用もかけずに、安易に私の神、私の主に全焼のいけにえを捧げたくない。否、断じてできないと主張する。あなたは神とこのような個人的関係ができているか深く自分に問うて欲しい。あなたが大切な人に贈り物をするとき百均に行くか? 絶対にありえない。最大の犠牲を払ってでも、その人に贈るだろう。しかも、その犠牲には喜びがついているのである。真に愛する対象には、「もったいない」という気持ちは存在し得ないのだ。 

  今、私たちも主への本物の愛、その特質を掴み、主に対して安易、ご都合主義をきめていないか? 自分をよく吟味し、ダビデのように、私たちもまた、私の神への愛に自分自身を捧げ、喜ぶ者となりたい。

 
2013.12.01(日)


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