パウロは今まで御霊の賜物につき教えてきましたが、突如、主キリストの復活に移ります。コリントの信者の問題は単に賜物の争いではなく、キリストの福音の根源にかかっていることが分かったからです。
彼らはキリストの福音を聞いたからこそ、今があるのですが、改めて「あなたがたに福音を知らせましょう」といわれたのは皮肉ではなく、彼らはいつのまにか、周りの人間の知恵に取り込まれ、旧約聖書の預言と、その成就であるイエス・キリストの事々を、自分たちの知恵で理解できる象徴的な出来事と変えてしまったのであろう。これは現在のキリスト教界にも見られる。キリストの福音をせいぜい山上の説教止まりにして、道徳的、社会的に差しさわりのない人間の集団と化している。
パウロは福音の神髄、十字架、埋葬、復活を強調し、神の厳しさと神の慈しみはここにこそあり、この事実無くしての宗教ごっこは救いも新生もなく、地の塩でも世の光でもない、単なるお人よしの集団であり、なんと哀れなことかと一撃する。主は十字架上で人間の罪の贖いが全うされたので「完了した」と宣言され、葬りは死の確証。何百という証人もいた主の復活があったからこそ新生がある。この根源に留まり続け!
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