聖書のお話「十字架のイエス・キリストのみ」−Tコリント(5)」
コリントT 2章 1〜2節

  アテネを去ってコリントに行き、1年半も腰を据えて、彼らの間で神の言葉を語った労苦の実であったコリントにある神の教会が、人の教会へと堕してしまったのをパウロは聞いた。そこで訪問する前にこの手紙を書き、彼らに悔い改めを鋭く迫っている。2節を見よ。「私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、即ち、十字架につけられた方のほかは、なにも知るまいと決心した。」と言い放つ。→ピリピ 3:4〜14。

  よく海外から来られた方に、日本ではイエスは語られても、十字架のイエスが語られていないと指摘されることがある。文芸作品どころか、教会でも山上の垂訓に涙するが、十字架上の御子の贖いをないがしろにし、アガペの抜けた愛のイエスをみてよしとしている。そこには認罪も無く、自分の十字架も負わず、おだやかな紳士がぞろぞろいるだけだ。それだけではなく、キリストのことばだけでは物足りなさを感じてか、復活節や降誕節など様々な混ぜ物をした宗教を作り売っているのだ。

  今、私たちは改めて、あの山の上で響いた、「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聴きなさい。」とのみ声を私たちにも語られた神のみ声として、聴き続ける必要がある。

 
2013.04.07(日)


>> 最新のメッセージ
© はるなキリストの教会