聖書のお話「主を恐れる者よ。主をほめたたえよ」
聖書のお話「コリント教会へのパウロの教え」−主の食卓(4)

  いつごろからか、「開かれた教会」ということばが使われるようになりました。これ自体は大切なことですが、人間の知恵が聖書に優先する意味だと困ります。主の食卓に与る人とは、キリストと一つとなる、即ち、信じてみ名に入るバプテスマされた人です。いつ、頂くかについては総論では異論はありません。初代の弟子たちは、「パンを裂くために週の初めの日に集まっていました」。ただ、毎週だと惰性に陥るから年に一回にとかいう理屈は矛盾していることは明らかです。昔、一つの杯から飲むべきだという論争がありましたが、文法上、単数になっているにすぎず、これは数字を表しているのではなく、一体を意味することに注意。

  事実、「与る」とは、共有する、密接に交わるというコイノニアです。 特に主イエスとの交わり、また、イエスを中心にかかわり合っている状態を強く表している。主がお招きくださる食卓に与るとは、罪の奴隷であった私が、主の十字架のゆえに今や義の奴隷となったことを確認し、感謝すること。ふたまたはあり得ない。「わたしを覚えて」とは、単なる記念ではなく、あの十字架が、今も目の前にあることを信仰の目を持って見つめ、主の託された務めに再献身せよと告白を迫るおことばです。

 
2013.03.03(日)


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