「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです」と教えられますが、残念ながら信仰があるといいながら、なかなかそうはいかないのも現実です。このピリポもそうでしたし、主が復活されてからのトマスもそうでした。
多くの宗教はこの人間の弱さを利用して拝観料で儲けています。キリスト教といわれるところでも、荘厳な大聖堂、オルガン、きらびやかなガウンなどの舞台装置で信者を満足させています。
私の家系は古くから神道でしたが、真冬の山の滝で水垢離や断食などで自己満足し、人々も目を見張ったのでしょう。コロサイ4:23を見てください。確かに旧約時代はさまざまな目に見えるもの、儀式がありましたが、それらは後に来るすばらしいものの影ではあっても実体ではなく、やがて消えて行くものでした。
神は霊のお方でありますが、だからこそサタンは私たちがそのお方を拝することを好まず、目に見えるもので満足するように、あの手この手で今も誘惑して来ます。Uコリント 4:18。
イエスをキリストと信じる信仰は実験室からでは決してなく、キリストのみことばに聞くことからのみ始まるのです。
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