姿を見せるとみんなが隠れる人がいます。一方、遠くからでも、見かけると走り寄ってきて、声を掛けられる人がいます。
私たちはもともと、後者のような人に創られました。73節。それは単に人気があるということではありません。パウロはいいます「私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべではありません。」ガラ 1:10、同じくTテサロニケ 2:4〜5もご覧ください。
初代教会のエルサレム(使徒 2:47)、異邦人からキリストのような人とあだなをつけられたアンテオケ(同 11:26)の信者たちは、みな、主のことばを待ち望んでいる人々でしたから、その結果として主を恐れる人々に喜ばれたのです。
サマリヤの魔術師シモンのように一時的に人々を驚かせることは出来ましょう。使徒 8:9、聖書に耳を貸さず、自分に都合のよいことを聞いて楽しんだりすることも出来ましょう。U テモテ 4:1〜4。しかし、その道は滅びにいたる道です。
みことばを待ち望みましょう。谷川の流れの水をあえぎながら求め、見つけた鹿は、ああよかったというだけですか? いえ、心ゆくまでその水を飲みます。その場所を覚え、日々来て、のどを潤すでしょう。いこいの水際を仲間に告げ知らせるでしょう。
私たちは、みな、人々から喜ばれる人になりたい。しかし、それはいつもキリストにあってという前提を忘れてはなりません。
Tペテロ 4:7〜11、ローマ 12章もぜひ、お読み下さい。
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