礼拝の豊かさ
詩篇100篇

 詩篇 100篇は単刀直入にヤハウエこそ、私たちの神、私たちはその民であると、私たちにせまってきます。

そのお方は昔も、今も私たちによくしてくださいました。そのお方は、たとい私たちが不真実であったとしても、真実であり続けるお方です。

 ですから、私たちは第一に喜びをもって御前に出ます。第二に知識をもって、第三には感謝をもって御前に、ひれ伏します。

私は子どもの頃から里山を歩いていましたが、大学に入っては級友の山屋に案内され、奥多摩から奥秩父へと嬉々として足を伸ばしていきました。卒業、就職すると、専務が日本山岳会員で、いろいろと教えられました。山の生い立ち、登山の歴史、気候、植物、星座などを知るにつれ、いままでの山を征服するという驕りから、山に教えられ、感謝するように変わっていきました。そして、この喜びを誰かに伝えたくなり、友を北アにも誘ったり、それは70を過ぎた今も変わらずに続いているのと似ています。

 イザヤ書 6章もご覧ください。礼拝を捧げる時の素晴らしい絵が順序よく描かれています。王座にまします主。神の御前における罪の告白と、その罪を赦された神への讃美と世界への宣言。

 礼拝とはなんでしょう。至高の神の御前にあって、見失われた者の絶望的な叫び。それにもかかわらず、神によって再び見出され、罪を赦され、ふたたび生きるものとされた者の魂からの歓喜の叫び、再献身を誓う魂の告白が複合化されたものです。それは全人格的なものであり、霊とまこととをもって捧げるものです。

 
2007.06.03(日)


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