わが国は「容器の文化」を大切にしています。たとえば、お茶の世界。これはだれだれの・・・といった具合です。有名な料理人は容器にもこだわり、スチロールのトレイなど論外です。
さて、人の知恵や力を誇り、主イエスではなく、見栄えのよい教師をことさらにあがめるコリントの教会に対して、パウロは人間がいかに欠けたものであるかをくりかえし思い起こさせます。
主なる神に生かされながら、反逆と逃走を繰り返していた人々を主なる神は御子イエスの十字架を通し、その罪を赦されました。 そればかりか、そのような私たちにキリストの福音を世に広めるわざをお託しくださいました。これはとんでもないことです。例えれば、誘拐犯人をわが子の子守係りにするようなものです。
パウロの言う、「この宝を土の器の中に入れている。」とはそれ以上のことを語っています。その測り知ることの出来ないほどの宝を、神はみっともない、欠ければ捨てられるような素焼きのいれもの−私に入れてくださっているとパウロは言うのです。
キリスト者は主イエスのしもべです。私たちの力を誇示するのではなく、このような私をも、お用いくださる主なる神を讃え、そのお方を誇りましょう。
「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる。」とおっしゃった主のおことばを、パウロのように、私たちもいつも心にとめておきましょう。ですから、私が弱い時こそ、私は強いのです。
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