「宣教のことばの愚かさを通して」
コリント T 1章18〜25節

 アレオパゴスでパウロの説教を聞いた人たちは、「死者の復活のことを聞くと、あざ笑い、あるいは、また、いつか後で聞こう。」と取り合わなかった。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を要求する。」とパウロは断じているが、ユダヤ人にとっては、地上の王として来るべきメシアが十字架刑にかかることなどありえないことであった。ギリシャ人の高尚という論議においては、十字架はふさわしいものではなかった。

 日本人はどうであろうか、ユダヤ的だという人もいるが、私はむしろ、両者の混合であると思う。確かにあるしるしは人々をひきつけてはいるが、同時に壇上から語られる美辞麗句、雄弁が人々をひきつける。

 パウロは、宣べ伝えるべきもっとも大切なこととして聖書の示す通り、「イエスの十字架と復活」をあげている。仄聞するところ、ある説教者は会員の中に多い学者に迎合しようと、創造、主の復活を象徴的なことと説いているという。この世にあって、キリストに単なる希望を置いているだけの者は、もっとも哀れな者であるとパウロが喝破しているのに。

神の愚かさは人間の最高の知よりも賢く、神の弱さは人の最強の力よりも強いことを知り、福音を恥とせず、証人として今週も生きよう。

 
2006.09.24(日)


>> 最新のメッセージ
© はるなキリストの教会