イザヤの時代も人々は真の神を忘れ、自分の好きな神をそれぞれが作り、
自分の好きな道に歩んでいました。人は自分勝手になるとき、他を顧みるこ
とが出来なくなりますので、「義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人
が取り去られても、心を向ける者もいない。」とイザヤは指摘しています。
そのような世にあっても、なお、信仰に生きる者がいまして、主なる神は、
「彼らの道に歩まないように。」と彼らを戒め、励ましてくださいます。
主なる神は遠くから、「頑張れ!」と声だけで、励ますお方ではありません。
いと高きところにいますお方でありますのに、私たちのところにまで、下って
こられるお方です。これは後に御子イエスによって実現されたことでした。
イザヤは、「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだる人とと
もに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためであ
る。」と神のおことばを伝えます。主イエスの、「心の貧しい人は幸いです。」と
のみことばを思い起こします(マタイ 5:3)。
神の前における自分の罪を知り、認めるとき、私たちは神の前にへりくだら
ざるを得なくなります。なにものをも寄せ付けなかった自我が崩れ落ちるとき
私たちは、初めていのちの道へと導き入れられ、そして、その結果として与え
られるものが、心の平和、それも最高の平安となって現れてきます。
この世は依然として憎悪、嫉妬、不義と罪の実のなかにうごめいています
が、主はそのような人々をもお見捨てになることなく、なお、私たちのそばで
救いの御手を伸ばされております。あなたはその証人として、主の再臨の日
まで立たされていることを覚えてください。何と有難いことでありましょうか!
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