『赦しと受容』
詩篇 139篇1〜18節

声のメッセージ

 

  先週はルカの福音書にありますイエス様のたとえ話、「放蕩息子」から、いろいろと教えられましたね。

父親は帰ってきた息子を赦したばかりか、再び自分の愛する息子として心から受け入れ、歓びの大宴会を催しました。

父親にかくも大きな罪を赦され、わが子として受け入れられた息子は、その後、有頂天になることなく、また、いじけた心をもつこともなく、家族の一員として、父親とともに新しい人生を生き始めたと信じます。

真の赦しとはなんでしょうか。それは自分で大きな犠牲を払いながらも、なお、心から悔い改めた相手を赦し、その人の内にある最悪のものさえも一切承知の上で、家族、仲間として心の底から受け入れ続けることです。

それこそ、父なる神が独り子イエス様を世に送られ、私、そしてあなたの罪をイエス様の十字架の上の死で贖われたこと、そして死に打ち勝ち、よみがえられたことにより、私、あなたに新しい生命をくださったことです。

私たちは天地創造の神を、「アバ、ホ パテール」=へブル語とギリシャ語で、お父ちゃん、父上の意=と呼ばせていただく身分に与らせていただけたのです。

他人の弱みをにぎり、ことあるごとに脅迫するのが罪を持った人間のならわしですが、神は全く違うお方です。「わたしは、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。」イザヤ 43:25。ここに本当の赦しと受容があります。

 そのように赦され、受容された人はなんと幸いでありましょう。あの帰ってきた放蕩息子がそうでした。そして、私たちもイエスを救い主=キリストと信じることにより、その恵みに与れるのです。その結果、私たちも隣人の罪を許し、その人を愛する=受容するように変えられていくのです。うれしいことですね! 有難いですね!

 
2005.05.08(日)


>> 最新のメッセージ
© はるなキリストの教会