『律法とキリストの福音』 声のメッセージ
新約聖書 ヤコブ 2章1-13節

 主なる神は人々が真の神を知り(申命記 6:5)、神のみ手になる人々を愛するように(レビ記 10:27)とモーセを通して律法をくださいましたが、私たち、人間の罪性は時がたつにつれ、次第に律法の文字のみを守ることに人を汲々とさせ、大切な神のみ心を忘れ去らせていきました。

 イエス様が地上においでになられたころは、宗教指導者は数え切れぬほどの細かな規則を加え、それこそ人々は朝から晩まで、罪を犯したと責め続けられるありさまでした。人々は、「行いによって神に近づく」という重荷を負わされ、疲れきっていました。一方、律法を守っていると自負する指導者は傲慢にも自分を神の高みに置き、ただ、人々を裁いていました。彼らは人々に重い荷物を負わせながら、自分は指一本さわろうともせずにいたのです。責められた人々はその文字が脅迫観念となって、自己嫌悪に陥り、ますます落ち込んでいくという悪循環の日々を送っていたということです。 そのような背景をふまえて、ヤコブは、あなたは今、恵みにより神の家族の一員とされたのですから、不完全であった文字から抜け出て、これからは十字架による愛という完全な道に生きるのですと勧めます。

 イエス様は罪に満ちた人間社会に降りてこられ、ご自身、何の罪も犯しませんでしたが、私たちに代わって、私たちの一切の罪を負われ、十字架にかかり、死なれ、そして葬られました。しかし、死に勝ち、三日目によみがえりなさいました。これは歴史上の事実です。
 私たちの行いによっては、どうしても得ることができなかった救いへの道を、イエス・キリストが十字架の上において私の罪を一切、清算してくださったこと、それを信じ、受け入れることにより、得られることになりました。それはありえないこと、すなわち驚くべき恵みへの一大転換です。
 いままで、私たちも書かれた文字面にのみとらわれ、そこに啓示されている神のみ心を見失っていました。人を責め、裁き、また、人を責めることばが自分自身に返ってきて、自身を傷つけ、ますます心はすさんでいきました。
 私たちはキリストの十字架によって傲慢から謙遜、裁く者から赦す者へ変えられたのです。この喜びとともに一週を歩みましょう。

2005.02.13(日)


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