『偏り見られない神』 声のメッセージ
新約聖書 ヤコブ 2章1-9節

 ヤコブは「私の兄弟姉妹たち」という温かいよびかけでもって、次のテーマに移っていきます。これも人を愛するという同じテーマから出ています。
 「イエス・キリストを信じる信仰」とは、自分はすでに神の家族の一員になっている、すなわち神から愛されていることを自覚しつつ生きる生き方です。そして、その神は、「偏ったことをなさらない」使徒の働き 10:34、「神にはえこひいきなどはない」ローマ 2:11、「主は人を差別されることがない」エペソ 6:9、お方でありまして、キリストを信じる者は、その神のご性質をも相続しているのだとペテロはいいます。ペテロ T 1:4。
 これは重要です。私たち人間はだれでも同じように神と人とに愛されて、この世に生を受けました。そして、同じように歩みはじめます。その成長の間にさまざまな情報を受けて大きくなっていくのですが、時にはその情報が間違っていることもあります。よく私たちは良心に従って物事を判断しているといいますが、その良心とは必ずしも、古今東西普遍のものではありません。その人の受けてきた教育、また文化に多分に影響されていまして、絶対的なものではなく、むしろ変わりやすいものです。第二次世界大戦中に教育を受けた私たちはそのような誤りを身をもって体験してきた世代です。
 物事を判断するに揺るがぬ基礎とはなにでありましょうか。私は十代の最後に聖書に触れる機会を与えられ、その基礎を知らされました。
 児童心理の発達の過程を見ていきますと、小さなとき両親などから、たっぷりと愛されて育たなかった子は、他の条件が同じであるならば、長じて自己中心、攻撃的な性格になりやすい傾向があるといわれます。それも教育の結果といえます。もし、その人がそのような環境の中に育ち続け、そのまま次代のものを育てていくならば、その負の鎖は限りなく続いていきます。
 そのマイナスに働く鎖を断ち切るものこそ、イエス・キリストの愛です。その愛に覆われたとき、私たちは、聖霊の神がパウロをして言わしめた、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とのみことばに生きるようになっていくのです。
 あなたは主なる神がイエス様をあなたにくださるほどに愛されている存在です。それをぜひ、知ってください。そのときあなたには健康な自信が付いてきて、それがあなたを偏り見ない人に確かに変えるのです。いえ、すでに変えられていることを知ってください。

2005.02.06(日)


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