![]() |
||||||||||
![]() |
||||||||||
|
![]() |
『神ご自身の血で贖われた神の教会』 新約聖書 使徒の働き 20章17-28節
ここは聖書の不思議なところです。私たちの罪を贖われるために十字架におかかりになられましたのはイエスさまでありますことを私たちは知っています。聖書も繰り返しそう書いています。しかし、ここでは神ご自身の血でもってと証しされています。どういうことなのでしょうか。いくつかの聖書は、それは何かの間違いであると、血を流されたのは御子イエスであると書き換えてしまう大きな誤りを犯してしまっています。 もともとのギリシャ語聖書はここで、「イエスさまは神である」との重要な宣言をしているところでして、決して間違いではありません。 聖書を読む、それはいろいろな読み方がありましょう。小説として読めばそれなりのものを得るでしょう。自分の知恵や知識で読めば、さまざまな解釈が出てきましょう。聖書はすべて神の霊感によって書かれたものですから、私たちが聖書を読むときは、聖霊の神のお助けを仰ぎながら読むのです。 イエス様はおっしゃいました。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ 14:26) ですから聖書を読むとは人間の知恵で何かを引きだすのではなく聖霊の神に助けられ聴くのです。私たちが新改訳聖書を使っているのは、その翻訳が聖霊の神の真意をよりよくあらわしていると信ずるからです。 イエスさまは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれももっていません。」(ヨハネ 15:13)とおっしゃいました。 天地万物を創造なされた神が、こんな小さな私一人をお忘れにならずに、いえ、それどころか愛し通されているがゆえに、十字架上で、私の代わりにご自身大きな犠牲を払われましたことを知るとき、私たちは息を呑みます。 私たちはすばらしい存在として創造されましたが、すぐに創造の主に反逆し、逃げ出してしまいました。それが今に続いています。神は私たちが一人として滅びることを望まれません。どうにかして死より生に立ち返り、永遠のいのちに与るようにとお望みになっていらっしゃいます。 聖書は滅び行く私たちを神が慈しまれ、わたしのところに帰ってきなさいと救いのみ手を繰り返して何度も差し伸べられことが書かれています。それでも私たちは応えませんでした。 傲慢になってしまっていた人間にはできなかったのです。 人間は自分自身で救いを得ようとさまざまな宗教を作ってきました。救いを得ることはできましたか? 汚れ果てたままでは、聖なる神の前には出ることができません。それは人間のどんな修行も行いも役に立ちません。汚い手で顔を拭ってもきれいにならないのと同じです。ここにこそ救いがあると教えられ、どれほどの人が宗教に利用され、涙をのんできたことでしょうか。子を利用する親ではなく、わが子のために命を捨てる、まことの親、そのお方がイエス・キリストの神です。 時至り、愛と義である神はご自身で私たちが負うべき緋のごとく真っ赤な罪を、ご自身の血でもって、雪のように白くしてくださいました。イエス様は神です。そのお方があなたを愛されています。わたしのところに帰っていらっしゃいとお招きになっていらっしゃいます。そのお声を聴く、よい耳を持ってください。 2004.11.14(日)
|
||||||||
© はるなキリストの教会 |